トップへ

はじめにへ @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS㉑㉒

記英国工党與社会党之関係 (楊守仁)      

(英国労働党と社会党との関係について)

 

おわりに

 

 「記英国工党與社会党之関係」の翻訳に取り組み始めたのは、2013年秋のことである。

 最初は『中日大辞典』を頼りにざっと下訳を最後までしてみたものの、字面から意味を推定するばかりで、全く日本語にならず、内容の正確さに確信が持てなかった。

 そのため今度は『字通』を持ち出し、漢文直読の「後藤訓」方式に読み下してみた。すると、現代中国語式では歯が立たなかった部分がきれいにほどけ、今まで思っていたものとは異なる解釈が生まれてきた。

 どちらを採用するかしばし悩んだけれども、直読方式の訳に矛盾はなく、より優れているように思われたので、こちらを採ることとなった。

 結果、作業は膨大なものになってしまった。

 『諸橋大漢和辞典』『漢語大詞典』『字通』『中日大辞典』、主にこの四冊を駆使し、ほぼ一字一句に至るまで詳細な語釈をしながら、進めていくこととなった。

 四六駢儷体の名手だったという篤生の文章は、回りくどくて分かりにくく、「達意明快」とは縁遠かった。これを言語構造の異なる日本の、しかも現代文にしようとなると、逐語そのままでは文章にならない。泥臭く意味不明な「逐語訳」は可能であったが、それでは篤生がこの文章を起こそうとした企図に反する。何よりも彼は、この文章をもって、同胞の蒙を啓き奮起を促そうとしていたのであるから。

 イギリスからの「リポート」である以上に、檄文であり伝単・すなわちフライヤーであったのだ。

 そういうわけで、いささか陳星台的な叙情をもって、訳することとなった。原文と照らし合わせて疑問をもたれた方には、以上のような事情を斟酌されたい。

 

 では改めて、この訳文の内容を振り返ってみたい。

 なにより驚かされたのは、この文章を書いた1910年末から11年初頭にかけて、楊篤生は既に、テロリズムよりもビラや演説会などの手段の方を優れたものと位置づけていることである。自由や真理を害する輩どもを殲滅しようとする気概はそのままに、公然たるデモクラシー的な方法に舵を切っているように思われる。

 また、アナキズムを通して、共産主義を高く評価するようになっている。第11節では、ある無政府主義者が共産主義を説明したものとして、このように書かれている。「いわゆる共産主義なるものは、人類が発見したものの中で最も価値ある戦利品である。それはすなわち、各個人の絶対な自由である」と。

 ここで讃えられている共産主義と、今の中国の共産主義とは、似て非なるものだとわたしは考える。絶対的な自由が保証されて、人道主義に支えられた世界などというものは、百年や二百年でたやすく達成できるものではない。いかにもアナキストらしい「おめでたい」理想に見えることであろうが、その前提がなければ、共産主義などすぐに専制の別名になってしまうのは、歴史の証明するところだ。

 

 わけても注目すべきは、篤生が個人の自由というものを、過剰なまでに重んじているところにあるだろう。これは無政府主義思想家たちがみな立つ前提であり、「貴我」を唱えてきた篤生としては、まさに我が意を得たりというところだったのではないか。つまり篤生は、ネイティブ・アナキストだったのだ。

 

 わたしも30年前の学生時代には、すぐに「中国のルソー」とか言い出す彼らの愚かしさを嗤っていた。いわゆる「中華病」として、何でも経学や老荘思想に結びつけたがるのは、西洋哲学や啓蒙思想への理解が足りないからで、「大儒ルソー」などとはその最たるものだと。

 縁あって、中国の経学とルソーとに通暁した人物の協力を仰ぐことができた。特に、論語を金言集ではなく春秋左氏伝の中の一挿話として位置づけてみると、奴隷道徳の軛としてしか理解していなかった礼楽というものが、古代の社会契約に思えてならなくなる。かつて「礼運注を読む」でも触れたことがあるが、礼記の中には「無為の国君」という立憲君主制の前身のような思想が明記されている。

 ここに至ってわたしもようやく、清末の革命家(保皇派や立憲派も含めた知識人全体に通じることであるが)が何を見ていたのか、おぼろげながらに分かってきた。

 当時さかんに導入されていた西洋の啓蒙思想は、日本伝来のものもまた多かったであろう。その中でも燦然と輝くルソーの理解は、彼らにとってまさに必須のものであったに違いない。その深さは、受験勉強的な知識の網羅に留まる我々とは、比較にならない水準である。

 ルソーの思想は、原始儒教と確かに親和性の高いものであり、有機的に連繋しうる内容を含んでいる。「大儒ルソー」をあながち笑うことはできない。

 軽佻浮薄に次々と思想を乗り換えるどこぞの民族よりは、自前の文化としっかり繋ぎ合わせようとした彼らの営みのほうが、はるかに正しいようにわたしには思われる。

 

 いささか脱線してしまうかもしれないが、島田虔次先生クラスだと、経学と啓蒙思想との両方に通暁されていたのだと、今さらながら思い知らされる。

 清末の革命家を理解批評しようとするのであれば、当然かれらが備えていたものと、せめて同次元の知識をもたねばなるまい。科挙エリートであった彼らに太刀打ちするのは不可能であるにしても、左伝も礼記もどこに何が書いてあるか分からず、マチエもルフェーブルもめくったことがないというようであれば、何をもって清末の革命家を「評価」しようというのであろうか。自分の勉強不足も痛感させられ、歯がゆいばかりである。

 

 翻訳という作業は、実に大変なものだった。労多くして益少なく、在野でこんなものをこんな所で発表していても、何になることもない。

 しかし、全訳しなければ分からないことがたくさんあった。楊篤生という人物の思想的な高さを、思い込みや判官贔屓ではなく確信することができたのは幸いである。

 彼の民主主義思想家としての高みは、現代の我々よりもなお高く、孔子やルソーと同等の地平にいると言っても過言ではない。

 わたしもすっかり、原始儒教信者になってしまったようだ。

 

 辛亥革命は1911年10月10日の武昌起義を以て始まる。孫文はアメリカで金策し、宋遯初は上海にいて画策していた。湖北省の武昌で始まったのは暴発のようなものであり、寝台の下に隠れて命乞いする黎元洪を引っ張り出して都督にするという冗談みたいな逸話があるほど、混乱したものであった。不勉強なわたしは、辛亥革命の勃発が何に起因するのか詳しくないが、新軍兵士が篤生の「英国工党」を読んでいたとは、とても考えられない。『民立報』の発行部数がいかほどだったか、わたしには知るよしもないが。

 篤生が死の予感にせかされて詠んだ「醒獅之歌」を、果たして何人の人が口ずさんでくれたことだろうか。

 上海から武昌へと駆け付けた宋遯初は、数少ないその一人といってよいだろう。

 

 楊篤生は1911年8月5日、リヴァプールの海へと身を投げた。武昌起義勃発の二カ月前のことだ

 ――あと二カ月。あと二カ月少し生きていてくれれば、歴史の中に死に場所を得られたのに。

 彼を思って何度そうつぶやいたことだろうか。

 けれども、もしかするとそれは逆なのかもしれない。彼がその身を踏海したことが、彼の文章を改めて印象づけ、それが武昌起義の一つの導火線となった……。

 もちろん学術的には、わたしもこれを否定する。宋遯初の中にはあったかもしれないが、武昌起義の原動力が「醒獅之歌」であったことなど、ありえない。むしろ陳星台が「警世鐘」「猛回頭」で播いた種が、今頃になって時期外れの実を結んだと考える方が妥当だろう。それにしても、「醒獅之歌」が妙に「獅子吼」を思わせる気がするのは、わたしだけだろうか。

 

 「文字に遺す」ということは、時を越えることである。百年も二百年も経って遠い見知らぬ国でそれを読んだ人間が、爆弾よりも強力な思想を紡ぎ上げて社会に放つことを期待する行為なのだ。

 この「記英国工党與社会党之関係」がそのようにして現代に受容され、遠い遠い何かの導火線になることができれば、「寒灰」と号した篤生への、せめてもの供養となるのではないだろうか。

 

 「諸君は諸君自身の社会上および政治上の改革者にならなければならない。さもなければ諸君は決して自由を享受することはないであろう。なぜなら真の自由は、議会の法令や勅令によって授けられるものではなく、われわれ国民の知識、道徳および公徳によって生れなければならないからである。」

 これは十八世紀のイギリスを席巻した労働者運動であるチャーティスト運動の指導者の一人・ラヴェットの、自伝の一節である(ベア『イギリス社会主義史』岩波文庫より)。

 篤生は、これと同じような考え方を、随所で述べている。「国民の知識、道徳および公徳」を「良知」とすれば、篤生の主張そのものだ。

 しかしこれは、篤生がイギリスに来てから吸収したというのではなく、激しく共鳴したと考えるほうが妥当であろう。

 この跋文では論証することはしないが、楊篤生はアナキズムを「大同」になぞらえ、社会共産主義を「小康」ととらえ、今まさに共産主義革命家へと変容しつつあるように思われる。歴史に「たら」「れば」はないが、もしも彼が生き延びていたならば、その後の革命はどうなったことであろうか。

 ……やはり宋遯初と一緒に死んだろうな。お兄さん(楊徳麟)も死んでいるし。

 

 現在わたしは、イギリスの労働運動史について読んでいる。最初はこの跋文を書くために読んでいるつもりだったが、次第に次の「英国工党小史」の準備をしていることが分かってきた。

 年齢的にも体力的にも、全訳ではなく「〜を読む」という形をとらざるを得ないかもしれないが、本を読んで新しい知識を吸収することくらいしか、自分のような愚者には楽しみがないので、力の尽きる日まで続けていきたいと思っている。

 末筆ながら、協力者には謝辞を述べたい。

 

 2016年12月4日

 

 

追記 そう言えば、もうすぐ星台先生の命日だ。久しぶりに「獅子吼」でも読んでみようか。

 

 

 

 

 

 

トップへ