トップへ

はじめに へ @ABCDEFGHIJKLMNOPQS㉑㉒ 

 

記英国工党與社会党之関係 (楊守仁)      

(英国労働党と社会党との関係について)

 

R

耐可は言う。無政府主義の思想はヨーロッパにおいては、いわゆる「平易近人」、人々が驚き怪しむ余地がないほど、普及し理解されている(『史記』「魯世家」では「平易近民」)

しかるにこれ(無政府の思想)を東洋人に語れば、公孫丑に倣う者も、また少なからずいることであろう。すなわち「道は高く完全で、まるで天に昇ろうとするかのようです。とても我々凡俗の及ぶところではございません」と(『孟子』岩波文庫下374〜375)

 

  そして耐可も、またこれ(無政府主義の思想)を非常に疑問に思う者の一人である。そうは言っても、我々はここでもう一度、この思想について考えてみることとしよう。

 

無政府主義の根本は、いずくにありや。すなわちそれは、「完全な真理」だ。この「完全な真理」を思惟するがゆえに、自由に到達できるのである。「自由」と「完全な真理」とは切り離すことができない。このゆえに、自由はまた完全となり、完全でなければ自由には到らない。人が最後に目指すべきは、まさに真理に拠って落ち着きを得ることであろう。この落ち着きがまずなくては、我らの知識も感情も意志も、人間にとって大切な三つの事柄は全て、十分に発達することができない。

 

我らはすでに真理を拠り所としたのであるから、完全な自由をも拠り所としないわけにはいかなくなる。完全な自由を拠り所としないのであれば、我らの知識・感情・意志の三つは十分には発達できない。

我らは既に完全な自由を拠り所としたのであるから、我らが発達させようと思う知識・感情・意志の三つ、そして完全な自由に到達したいという切なるこの願いは、たとえほんのわずかであっても、他者からの干渉を許してはならない。わずかでも他者からの干渉を許せば、もうそれは完全な自由ではない。それゆえ、無政府主義思想は自ずとこう言うのだ。

 

「私たちの理論は首尾一貫したものであり、前提条件を変えてしまっては成立しない。私たちが真理を希求するのは人間の自然な本能であるが、その具体的な現れとしては、二つの道がある」

その一つは(間違った方法ではあるが)、絶対的な真理を、物質や生物=つまり我々の現実世界を超越したところに提示する方法である(観念論)。たとえば仏教で言う浄土のように。あるいは、キリスト教の天国のように。この二者はどちらも厭世観に起因している。

しかし、果たして天国・浄土とは、現実に証明可能であろうか? (もちろんできはしない。なぜなら、「観念」であるから)現実に立証することができないのは、つまり絶対真理と現実とが、本来隔絶して相容れないものだからである。

 

その結果として、彼らは運命論に陥らざるを得ない(現実がどれほどひどいものであっても甘受し、死後の救いを祈ればよいのだから)。仏教の大乗論などでは、しかし「清濁併せ呑んで」しまっているように思われる。当然の結果として、彼らの「自由」では、腐りきった悪習を一掃することができない(なぜならその「自由」は、「完全」ではないから)

しかるに彼らは、いたずらに「心の光」を頼りにして、悪習を滅ぼそうとする。そんなことで、どうして本当に「清濁併せ呑んでいる」と言えようか(そしてどうして、本当に「自由」になることができるだろうか)

 

こうしたわけでもう一つの方法は、まさに物質・生物から成るこの現実世界の中に、一つの完全な真理世界を具現しようと努めることとなる。

無政府主義思想が目指す地平は、全てここに到るわけだ。

そしてその地平は、完全な真理世界としてすでに(イデアの上では)存在している。

 

試しに問うてみよう。

今日のいわゆる国家・法律・権利などは、果たして本当に奉戴し、「真理の具現」として信ずるに足るほどの代物であろうか?  

いつの時代でも、いわゆる真理の害虫・人倫の仇敵は存在する。お為ごかしを「真理」と言い張り、人民を惑わす悪行を為す輩どもは。

 

我らはすでに真相を見破った。それなのに、まだこの間違いに耽溺・執着し、過ちを繰り返して謬見を増大させ、自ら真理を破壊しようとするようでは、迷妄も救いがたいと言わねばなるまい。

無政府党が否定する、一切の国家・法律・権利・宗教・倫理などは、もちろん我々(革命家?)も非難するものである。

 

純粋に哲学上の研究によってこれら(国家・法律・権利・宗教・倫理)を評価するのであれば、今、目前にある現実の、政治・法律・宗教から導き出された学説を根拠とすることはできない(社会的に成立している現在の「それ」ではなく、あくまで自然本来の、国家・法律・権利・宗教・倫理とは、という考察をしるべとするべきである)

 

しかしつまらぬ輩どもは、歪められた偽の愛国心と、歴史的に不平等な所有に基づく様々な習慣とを頼みにして、無政府思想を非難するのだ。まるで羽蟻が大木を揺り動かそうとするかのような、身の程知らずの愚行である。

しかしそんなことでは、無政府思想を髪の毛一本揺るがすことはできなかった。

偏見と無知とを用いて無政府思想を攻撃しようとするのは、愚かである。

 

 

とは言うものの、無政府主義思想が目指す完全な真理、無政府党員が共に手を携えて向かうべき完全な真理とは、その真理自体を哲学的に探求することではない。この物質・生物から成る現実世界に生きる衆生(人民・大衆)こそが、彼らの求むる地平なのである。

 

現実世界の衆生と完全な真理とは、いずれ一致すると予想される。しかし性急にこの二者を同一視することはできない。

つまり、さらに数世紀を経て、初めて一致できるのかもしれない。あるいは結局、地球の終わる日になって、ようやく望める始末となるか。それは誰にも分からないことだ。

 

釈尊は言う。「非常に多くの時を経て、やっと覚者になることができる」と。無政府主義思想もまた当然、いくらかの長い時間を掛けた後、やっと全ての国に「政府」という強権的な装置が失くなり、(ひいては全ての「国」という隔ても失くなって、)黄金の理想世界を達成することが叶うようになるものであろう。

 

また釈尊は言う。「衆生をことごとく救済しない間は、誓って彼岸に渡ることはしない」と。

無政府党もまた、まさに宣言する。「物質・生物から成るこの現実世界と完全な真理とを一致させることができなければ、誓って無政府党を立ち上げることはしない」と。

 

また釈尊は言う。「衆生はそのことごとくを救済し得る」と。その一方で、こうも言う。「衆生は度し難い」と。

無政府党もまた言う。「物質・生物から成るこの現実世界と完全な真理とは、完全に一致し得る」と。しかしこうも言う。「両者が一致することは不可能である」と。

 

従って以下のように論じられよう。

 

宗教に帰依する者は、娑婆世界の「苦」を言い訳にして、天国や功徳を語っている。

物質から成るこの現実世界に完全な真理を具現しようと決心した者は、目前の不一致を言い訳にして一致への道を諦めたりはしない。

 

しかしながら、衆生の機根は様々であり、遺伝や環境もそれぞれである。社会的事情もまた然り。

私は、無政府党が何の神通力も持ち合わせていないのを知っている。彼らは決して、この地球上の現実世界に、一瞬にして真理を具現した高殿(社会)を現出せしめることなどできはしない。

 

しかしながら(現実の世界は、激しい)生存競争にあふれている。(本来ならば)同胞であるべき国々は仲違いして交わりを断ち、大波小波にあっぷあっぷ。(変革の途上で)まさに日暮れて道遠し。

わが民族、わが国民の政治・法律・権利の中で暮らすのでなければ、(われわれは)ついには、他民族、他国民の政治・法律・権利の中で、七転八倒の苦しみを味わうこととなるだろう。

 

(しかしながら)わが民族、わが国民の政治・法律・権利の中で暮らすのならば、永久に完全な真理のことを耳にすることもあるまい。完全な自由の黄金世界が、どこへ向かおうとしているのかも。ああ、悲しき哉。

そして言うまでもなくわが民族、わが国民の政治・法律・権利は、(現在)見る影もなく蹂躙され、他民族、他国民に転売されてしまっている。

なんと悲しむべきこと。ああ、どうしたらよいだろうか。

 

もし(わが国民が)完全な真理に与ろう、完全な自由の黄金世界の仲間入りしようと願っても、しかしあまりにかけ離れてしまっている(現実との)この差異を、どのようにして埋めたらよいだろうか。

 

結局のところ、「全ての国が政府を必要としない黄金の理想世界」という、虚しい理想にすがるよりは、わが民族、わが国民の現状に寄り添って、大なたを振るい改革・建設を始めた方がマシではないだろうか。

それに、もし無政府党の言う黄金世界が、にわか造りで大量生産できる代物であるならば、すなわちそれは、(本当の)無政府主義思想とは言えないのではないか?

 

 

こういう訳で、目の前の現実から目を逸らし、天下の人々の手に変革の果実をもたらす使命を忘れ、みだりに無政府主義の高邁な議論にうつつを抜かすのは、愚かなことである。

  

 

 

Sへ

 

 2016/8/5

 

トップへ