記英国工党與社会党之関係 (楊守仁)
(英国労働党と社会党との関係について)
K
そして英国社会民主政治党機関紙『公道(Justice=正義)』は言う。
「我々の言う正義とは、保守を尊び破壊を非難することではない。道理にかなってさえいれば、たとえ暗殺という行為であっても正義とみなすであろう」と。〈英文:然るべき事情があれば暗殺さえも神が赦す=正当化できる〉
また、こうも言っている。「人間の中には、他者の自由を暴力や権力によってほしいままに踏みにじる、凶悪で危険な者たちがいる。この種の悪人どもは人類の共通の敵であり、どこで出会っても、言うまでもなく即座にうちのめし、少しもためらわず滅ぼさねばならない」と。
そしてこうまで言っている。「おつむの弱いロシア皇帝などは、強烈な破壊手段で葬り去るばかりだ」(『公道』一九一一年五月二〇日)と。
もろもろの言説によれば、クロポトキンは無政府党員の中にあって最も穏健派だと言ってよいであろう。(その彼にして言う)正義の「良知」(☆)にかなっていれば、一人の専制の悪魔を暗殺することは、一つの功徳を積むことである。暗殺と功徳とは切り離すことはできないと。
このような危険思想を抱くということは、英国社会民主政治党が無政府党の影響を強く受けていると言ってよいだろう。
★この節は短いが極めて難解で意味が取りにくく、殊に後半は自信がない。
☆「良知」:孟子にある語で、「思慮せずに物事を知り得る、天賦の知力」(諸橋大漢和辞典)であるのだが、それは単に、人類ならば誰でも成長とともに備え得る、いわゆる「判断力」を意味しているわけではない。「判断力」は、しばしば社会が規定した「善悪」や実定法に照らし合わせて行使されているからである。
つまり孟子が言うところの「良知」とは、こうした社会的判断力を意味しているものでは勿論ない。むしろ生物が自ずともっているはずの、本能的な善悪の感覚に近いものであろう。
例えば狼であれば、敗北した個体は降参の証として、己の腹を相手にさらけ出すという。すると勝利者は、敗北者の喉を噛み切ることができなくなる。それは本能が許さないのだ。捕食行動以外、「殺す」ということが、動物にとって悪だからである。
こうした本能的な善悪の判断の拠り所を、戦国期の孟子は「良知」として認識したのではあるまいか。
本能=「天」が授けたものである以上、「良知」の下す善悪の弁別は、決して誤ることがない。このような論理は、確かに構築されてよい。
陽明学は、別名を良知学というように、この「良知」を根本に据えている。「良知」こそが心の本体であり、その「良知」を実現することこそが、聖人になる道であると。
わたしは思うのだが、仏教哲学やルソーの中にも、似たような倫理が見られるような気がする。浅学菲才ゆえに、それを今、証明することはできないけれども。
世界中の宗教や哲学に、実はこの倫理(良知)は、普遍的に見られる考えだと思われる。わたしはそれをルソーに倣って「人の自然」として理解する。人の自然状態は、善なるものである。それが、わたしが『エミール』を読んで得た結論だ。
楊篤生は、王陽明の名である守仁を名乗っているほど、陽明学を重んじていた。その彼が、アナキストの言説を理解するとき、この「良知」という概念を使うのは当然であろう。アナキズムに同様の倫理があることは、彼のここまで記した内容からも理解される。
不思議なことは、その倫理的なはずのアナキズムの一部が、過激なテロリズムを志向することである。わたし個人は、あらゆるテロルを肯定しない。捕食以外は「殺生」を認めがたい。
しかし、害虫は別である。ある種の昆虫を見た瞬間に、有無を言わさず存在を消したくなる。これは多くの人が共有する、本能的な感覚であろう。おそらくアナキストにとって、「人間の尊厳を傷つける悪しき輩」とは、これらの昆虫にも匹敵するのであろうと理解される。
その是非の判断はしかし、まだしばらくは保留させていただきたい。
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