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記英国工党與社会党之関係 (楊守仁)
(英国労働党と社会党との関係について)
はじめに
これは『民立報』に1911年6月14日から7月8日まで連載された、英国のアナキズム運動についての文章である。
署名は「耐可」。楊篤生が同紙の英国通信員として使用した筆名で、意味としては「いっそのこと」「むしろひと思いに」といったところか。ひと思いに何をするつもりだったのか。「厭世派の抜刀自刎、投江自殺は、責任放棄で、人道を損なうものだ」という篤生の文章と、数カ月後にリヴァプールの海に踏海した彼自身の行動との葛藤を、この筆名に読み取るのはあまりに穿ち過ぎだろうか。
『民立報』を主宰する于右任は、楊篤生の追悼文の中でこの文章について、「彼の最近の学識」として触れている。
つまりこれは篤生の最晩年の文章の一つであり、「論道徳」と並んで思想的な到達点と言ってよいかもしれない。
イギリスで会った呉稚暉がアナキズムに強く傾倒していたことも、篤生が研究する大きな動機であったかもしれない。彼は英国で、アナキズムが欧洲に想像以上に浸透している現実に驚いたのだろう。
若い李石曽ならともかく、呉稚暉のような古くからの志士までがかぶれているとあっては、不審に思い興味を抱くのも無理はない。
(呉稚暉は、リヴァプールでの篤生の葬儀の模様を、ドイツの蔡元培に詳細に書き送っていて、蔡はその書簡を落手した翌日、篤生の伝記を書き上げている)
今まさに列強によって瓜分されようとしていた中国が、帝国主義の世界で生き延びるための方策を考えていたまさにその時、帝国主義の震源地ともいうべきイギリスで、国家を無くしてしまおうとする思想に出会ったことは、篤生にとっても大変な衝撃だったのだろう。
この文章は、英国労働党に多大な影響を与えているアナキズムへの関心から書かれている。
「自由」を重んずることが、いかにその国の政治や国力を強くするかという着眼点から始まって、仏教哲学まで動員して、篤生は「無政府主義」という思想と格闘している。
ただし、彼は于右任宛の書簡で、自分自身は無政府党ではなく、その革新論に興味を持っているだけの「門外漢」だと述べている。
篤生の結論としては、アナキズムの思想を、現時点では時期尚早として「愚也」と断じている。しかしその一方、該博な儒教的教養から、「四海兄弟之黄金世界」と肯定的な評価を与えている。
彼はこの文章の前に「英国工党小史」を書いている(11年2月発表)。ここでは、主に産業革命以降の、英国の労働運動の苦闘の歩みとその成果とについて述べている。
また、10年の夏休みにスコットランドの景勝地を旅行した際には、貴族の館と貧しい農民というような貧富の差に目を留めている。
彼のそういう関心の在り方にも留意したい。
多くの革命家が描いていた中国の未来像が、「富国強兵」と「民族主義」とに留まっていたのに対して、楊篤生は常に高い民主主義の実現と「貴我(現代風に言えば個人の尊厳≒人権)」とを重んじるのを忘れなかった。
孫文の三民主義と並んで、今も希求すべき大切な思想が含まれていると言ってよいのではないか。
中国の学問の伝統として、現実を批判するときに、経書の註釈やそれにたいする反駁に仮託する手法があると聞く。
できればこの拙訳も、そのように読んでもらえると幸いです。
2013年10月14日
★テキストは、饒懐民編『楊毓麟集』岳麓書社、2001年 を使用。
★編者の饒氏が便宜的に分けた段落に従い、その段落毎にページを区切ります。
★人名、地名等の固有名詞は、分かる限りでカタカナで記しましたが、不明なものは原文のままで下線を附します。
★(青字)は、ゆり子による註です。
★長文なので、ページ毎に随時発表していきます。
★全体に難解で、当方の力量不足のため、誤りや意味の取りにくいところ等が、多々あると思います。御教示いただければ幸いです。
★当方は、現代中国語も漢文も中途半端にしか学んでいません。そういう人間が、漢文と現代中国語とのあわいの文章を訳そうというのだから、無謀なことです。
おまけに相手はバリバリの科挙エリート。本人は平易な口語文のつもりでしょうが、如何せん教養がありすぎます。難しい表現ばかりで、これでは現代の御国の若い人にも読めはしないでしょうと、悪態もつきたくなります。
したがって作業は難航を極め、分からない箇所だらけで、「思い切った訳」をせねばならない所が多く、当然ながら妥当性を欠くような部分が多々あります。
ということで、盗用すると恥をかくことになることを、警告しておきます。
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