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記英国工党與社会党之関係 (楊守仁)      

(英国労働党と社会党との関係について)

 

Q

無政府党はその思想を広めるために、演説会を極めて重視している。しかし聴衆は時世に染まり我見に執着し、固く迷妄に覆われている。成人にあっては、残念だがこうした人が多い。

しかし青年は、まだ社会から刷り込まれた思い込みや謬見が浅く、新しく良い理想を非常に良く吸収することができる。

それゆえに無政府党では、各地に学校を設立し、青年教育に従事するのである。

英国では、その成果が最も優れているのは、リバプールの無政府党学校である。この学校は、一切の規則をスペインの無政府党指導者、フランシスコ・フェレール氏が定めたものに依拠している。

フェレール氏は以前パリで国際無政府同盟会や各学校を建設した。また、スペインでも自由学校を多数設立し、ある種の団体の基礎を築き、一定の組織を制定して学生およびその父兄や友人までもが無政府主義に傾くのを勢いづけた。

五年後には、フェレール氏の学校はスペイン全国各地に五十余校にまで広がり、無政府主義を広めた。

フェレール氏は言う。青年への教育というものは、最初に彼らを縛っている三つの軛を外す以外に、さしてするべきことはない。三つとは、誤った宗教への盲従的信仰・お為ごかしのインチキ愛国心・そして我利私欲に囚われた、不公平な「私的財産権」への執着である。

フェレール氏の仲間は、同氏のことを「無政府教義の理論を打ち立てた偉人」だと讃えている。またこうも言う。「無政府主義の思想の上においても、実際上の行動においても、最良の友人である」と。彼の見識は今もこのように重んじられている。

フェレール氏が学校の青年諸君に期待したのは、ただ「絶対自由」をひたすらに求め、一切の(堕落した)宗教や社会的偏見から自由になることだけであった。

学生をこうして励まし「道」に従わせるのは、思想を根本から改め生まれ変わらせるためである。

リバプールの学校は皆、フェレール氏の影響を受けている。

昨年(1909年)、フェレール氏はスペインのバルセロナにおいて、革命を煽動したとして処刑された(注1)。リバプールの学生たちは彼のことを「無政府主義の殉教者」として祭り上げた。

そしてモース氏(?)は、その著書でこれらの学校の学風を讃えている。「(人類が最終的には必ず到達せざるを得ない)無政府の理想を青年たちの魂に種まき育てるには、フェレール氏の『道』を用いる他はない。青年の心は澄みわたり、感受性は高い。多くの少年少女を集めて、政府やキリスト教道徳が崇拝し信頼するに価しないことを教えれば、成人に比べその理解の早くて大きいことは絶大である云々」と。

英国無政府党が着手した青年教育は、まさに芽を吹き始めたところである。しかるにその開幕の規模は広大であり、人々の魂に深くしっかりと根付いている。

 

こうしたことは、東アジアのエセ立憲国の、軽薄で下劣な輩どもでは絶対にあり得ないことである。こいつらはみだりに「欽定憲法」なる非合理なものを押し戴きたがり、正しき未来を想起する真理の徒を脅して支配しようとする。

こうした「腐肉で飢えを満たし毒酒で渇きを癒す」ような真似をする乞食立憲について、もしリバプールの英国無政府学校の青年に話したとしたら、我々は(その反応を見て)恥ずかしさに居たたまれず、大地に身を投げ出して身もだえするしかなくなるだろう。

しかるに恥知らずの輩どもは、進軍の太鼓を叩いてこの「欽定憲法」(注2)を求め、バカ者どもは裾をからげて馳せ参じようとしている。

こんなことが行われれば、民族としての自尊心は失われ、人間としての尊厳は地に墜ちてしまうだろう。何という恥知らずか!

もしこんなことがまかり通ったなら、天子が神の末裔だと思い込まされることによって、奴隷としての民の屈辱は、非常に長い期間に及ぶだろう。

こんなことで、どうして欧米世界の水準に追いつくことができるだろうか。

 

 

ゆり子註

 

★1 フランシスコ・フェレールの殉難

フランシスコ・フェレール・グアルディラ(1859〜1909)は、自由主義的な学校であるエスコーラ・ムデルナ(近代学校)を創設した教育家。自由主義者、アナキスト。

 

 1898年の米西戦争で植民地を失ったスペインは、国威回復のためにモロッコで侵略戦争を続けていた。1909年7月、この戦争に反対するスペインの労働者たちが、各地でゼネストを敢行。

そこへ出身兵が多数戦死したとの報せが届き、バルセロナで暴動が起きる。はじめは反戦が主だったが、やがてアナキズムや労働運動に敵対的だった教会が攻撃対象となり、内乱状態になった。

軍投入の結果、暴動は鎮圧されるが、一連の過程で多数の犠牲者が出た(「悲劇の一週間」と呼ばれる)。

 その後の厳しい弾圧の中で、フェレールを含む5人が首謀者・煽動者として死刑判決を受け、同年10月13日に処刑されたが、フェレールが事件に関わったという確たる証拠はなかった。

 篤生は「去歳(=去年)」と書いているが、1909年の事件である。

 

 参考:関哲行 他『世界歴史大系 スペイン史2』2008年、山川出版社。

    碇順治『現代スペインの歴史』彩流社、2005年。他

 

 

★2 欽定憲法

 「欽定憲法」なる言葉を『諸橋大漢和』に則って解すると、「天子の自由意志によって制定する憲法」となる。「神聖にして侵すべからず」と規定された天子が、その自由意志によって決めるというのであれば、天子がそれを破っても止められる者のいるはずがない。ルソー流に言うのであれば、こんな代物はそもそも「憲法」の名にすら価しない。

 それは、「王権神授説」を換骨奪胎したものに過ぎない。

 1908年に清朝は、「欽定憲法大綱」なる延命策を公布している。しかしそれが、悪名高き「大日本帝国憲法」を敷き写しにしたものであることは、周知の事実である。そしてその「大日本帝国憲法」が、ドイツ帝国憲法(いわゆるビスマルク憲法)を手本にしたものであることは言うまでもない。

 

 伊藤博文が心酔していたドイツの国家学者シュタインは、国家を構成する三権を、通常の「司法・行政・立法」ではなく、「君主・立法・行政」と捉えている。すなわち彼は、古典的な「社会有機体説」の信奉者に過ぎず、君主が頭脳であり、立法は内臓、行政が手足といった程度の認識しか持ち合わせていなかったのではないか。

 それゆえシュタインは、立法(議会=国民)が君主から独立して比肩しうる存在となることを、「下等社会」が衆を恃んで行う「多数専制」と断罪し、国家の土台を崩す「悪」として警鐘を鳴らしている。

 民主政治を「衆愚政」としか捉えられぬような輩には、「御用学者」の鑑札が相応しい。

 

  ともあれこうした「欽定憲法」が、「国民主権・権力分立・人権保障」を謳った「近代立憲主義」に敵対する、お為ごかしで悪辣な「外見的立憲」に過ぎないことは、まともな知性・品性の持ち主ならば、論ずるまでもないことである。

 

 参考までに、大日本帝国憲法の一、二条と、欽定憲法大綱の一〜三条を掲げる。

 

 「大日本帝国憲法」

第一條 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス

第二條 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス

第三條 天皇ハ~聖ニシテ侵スヘカラス

 

 「欽定憲法大綱」(清朝)

一、大清皇帝統治大清帝國,萬世一系,永永尊戴。

二、君上神聖尊嚴,不可侵犯。

 

 しかし「満洲皇帝の万世一系」って、一体何だろうか。あんたたち、2500年前の春秋初期に、どこで何してた? まあ、皇紀二千六百年とか言うこの国も縄文晩期だったはずで、文字も歴史もなく、環濠集落程度も無かったであろうはずのムラ社会のくせに、何をのたまっているんだろうか。

 

 いささか筆がすべったが、こと欽定憲法となると感情的なまでに痛罵する篤生に感応したものと、容赦されたい。

 

参考:

塩津徹『比較憲法学 第二版』2011年、成文堂。

 瀧井一博『ドイツ国家学と明治国制〜シュタイン国家学の軌跡』1999年、ミネルヴァ書房。

 

ただし、つまみ食い的に参照しただけで、著者の見解には必ずしも同意していません。

 

 

 

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2016/3/17

 

 

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