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記英国工党與社会党之関係 (楊守仁)      

(英国労働党と社会党との関係について)

 

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 耐可は言う。

 私のこの文章、イギリス労働党・社会党と無政府党との関係についてのレポートは、我が国民に未来の黄金世界を願わせるためのものではない。

 私はただ君たちに、黄金世界へと至る五つの真理の階梯を踏んで行ってもらいたいのだ。

 

 

 第一の真理。

 自由を得んと望む者は、自力救済以外、一切当てにしてはならないということだ。

 もし自由が政府によって与えられるものであるならば、政府はいくらでも、この「自由」を奪うことができる理屈になってしまう。

 孟子が言うように、「趙孟によって貴くなった者は、趙孟によって賤しくなる(権力者に引き立てられた者は、権力者の一存で失脚する)」。

 しかし自由とは、ゆめゆめそのようであってはならないものなのだ。

 (彼のフランス大革命がそうであったように、自由とは、民衆の)血をもって獲得し、武器を用いて奪い取り、破壊によって確立せねばならぬ。決して「要求や請願」などで得るものではない。

 そもそも、この地球上の誰が、他者に「自由を与える」権利など有しているだろうか。同時に誰が、「自由を奪う」ことを許されるだろうか(誰にもそんなことはできはしない。なぜなら「自由」とは、本来われわれ一人ひとりが、生まれながらに有しているはずの、基本的な権利であるから)

 まして下種で卑しい、強欲な「政府」などに、「自由」をどうこうする権利などあるはずもない。

 貪欲な小役人どもは紀律を失い恥知らずと成り果てて、法を盗み私腹を肥やし、高位高官に収まりかえって、我ら国民を踏みつけているのだ。

 

 

 

 第二の真理。

 武器を執り血を流して、自らの力で自由を獲得したならば、今度はその自由に基づいて、国民の一人一人が生まれながらに授かっているはずの良知(一般意志)を引き出し尊重して育て上げ、それに基づいて政治、法律、権利等を、新しく作り直さなければならない、ということだ。

 もしそうでないならば、どのような政治も法律も権利も、どれだけ手続きなるものを踏んだところで、本物として成立することはない。

 欽定憲法、国民代表、某々議定……。

 このようなインチキは、額を地に擦りつけ、地団駄ふみ泣き叫んでやっとありついた「嗟来の食」に過ぎないのだ。こんなものに、ありがたがる価値のあろうはずがない。

 

 

(註)「嗟来の食(さらいのし)」ほうれと言って与えられた食。屈辱の中に与えられる恩恵。『礼記』による。

 

 

 


 第三の真理。

 我らはまさに知るべきである。道徳は、ただ自由のみを是とする。だから自由を妨げ損なうあらゆる悪人や悪法と、我らはいつでもどこでも身を挺して戦う義務があるのだ。この悪人どもに指を断って忠誠を誓ったり、ひじを割いて契約を交わしたり、意見書を差し出して嗟来の食を求めたり、跪いて恩恵を乞うたり、「立憲万歳」と高らかに叫んで追従するような卑劣な行いをする者どもは、みな人としての責任を放棄し、道徳を損なっているのである。

 世をはかなむ連中が刀を抜いて自らの首をはねるのも、川に身を投げ沈んでいくのも、また同じ責任放棄であり、道徳を傷つけていると言えよう。

 道徳的であるためには、我らはまさに公平と正義とに則って、(全ての人が)完全な自由を享受できるようにしなければならない。もしそうでないのであれば、まさに悪戦苦闘して完全な自由を回復せねばならぬ。この二つ以外に、道徳的に正当な行為というものはない。

 我らはまさに知らしむるべきだ。民を害する連中や行いなどを駆逐し殲滅することは、国民の尽くすべき義務であると。地位や名誉の高低尊卑、権力の強弱大小は、その人物がまさに甘受すべき刑戮の罪状である。位が高ければ高いほど、権力が大きければ大きいほど、罪状はいよいよ明らかになり、罪に服する日は早まることであろう。

 「請願・要求」などは賤しき行いだ。自殺はただ卑怯なだけだ。この二つの行為は、ヨーロッパのまことの立憲国民ならば、選択肢にも入らないであろう。ましてや、はるかに優れた今の世界の思想家たち(アナキストたちのことか?)が、否定するのは当然のことだ。

 

 

 

  第四の真理。

 我らはまさに知るべきである。もし我らが自由を回復したとしても、それで完全な「自由」が(永久に)得られるわけではない。

 国民の自由に基づき、一般意志で政治・法律・権利を構成したとしても、いくらも経たないうちに、それは全然違ったものへと変質してしまうに違いない。

 我が民族・国民の自由を回復すべき責務を、我らは負っている。しかしその一方で我らは、未来の黄金世界の地ならしをする責務をも忘れてはならない。

 我らが「国家」を改造一新するのは、完全な真理の世界への架け橋となすためである。

 あらゆる政治・法律・権利などは皆、最新の学問的成果をもって更新していかなければならない。

 不完全な立憲国に過ぎない日本の、中途半端ででたらめな学説は、重んずるには当たらない。

 このように更新し続けることで必ずや、世界の進歩に即応し進化し続けられることであろう。そうして初めて、我々は世界と対峙し、自由を享受する資格を、一歩ずつ獲得していかれるだろう。

 

 

 

 第五の真理。

 我らはまさに知るべきである。自由を回復するということは、常に過去の思想やその結果を更新していくということにほかならない。

 このようであれば、過去はどんどん過ぎ去ってゆき、更新は次々とやって来る。

 我らは肝に銘じなければならない。事が成った後に、決してその成功の上に安住してはならない。次々と現れる困難に怖じ気づくことなく、進み続けなければならないのだ。

 志をもたない政治屋どもは、ただいつでも勝ち馬に乗っていたいだけなのだ。だからはじめは「保皇党」なる醜悪な看板を掲げ、保皇がだめだとなると今度は「立憲」に転じ、ひとたび革命が論じられるようになると、すぐにフランス大革命の恐怖政治時代を思い出して恐れおののき、清朝による立憲君主こそ成功に安住させてくれるものと雪崩を打つ。

 いま、資政院が開院し、新内閣も成立した。これによってわが国の政治は最悪の事態となった。こいつらは、労せずに成功をおさめるという甘い夢から、いつまでも醒めることがない。

 そして我が国民をすぐにワナに陥れて、ありがたくも奴隷としての身分を一世紀も賜ろうとする。成功の座にしがみつくことを求めるが故に、破壊を恐れるのだ。

 我々が自由を回復せんと欲するならば、必ずやこのカラクリを見破るべきだ。そうして初めて、我々は絶大な力を発揮して、本当の「革新」を成すことができるのである。

 

 

 

 

 

(註)資政院(第O節より転載)

 一九一〇年十月に正式に開院した、預備立憲期の中央諮議機関。メンバーは百名で、清廷の指名と各省諮議局の推選とによる。総裁二名は王公と大臣。予算・決算・税法公債・法規の制定・大臣の弾劾について話し合うが、議決事項は皇帝に奏上して、その可否を仰ぐことになっていた。ブルジョア民主主義の議会に似せているが、実際は政府の御用機関である。(『辞海』による)

 

(註)新内閣

 一九一一年五月に成立した。閣僚十三名のうち、八名が満人貴族(うち五名が皇族)、モンゴル人貴族一名で、漢族は四名だけの、いわゆる「皇族内閣」である。

 

 

 

 

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2016/10/17

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