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記英国工党與社会党之関係 (楊守仁)      

(英国労働党と社会党との関係について)

 

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強権を憎むからには、強権の代表者を撲滅せねばならない。ゆえに官吏を憎み、君主を憎む。官吏を憎み君主を憎むからには、君主や官吏の犬である悪い輩を撲滅せねばならない。ゆえに警察を憎み、スパイを憎む。

 この四種(君主・官吏・警察・スパイ)は、みな党員が皆殺しに一掃したいと願っているものである。およそ無政府文学パンフレットは、たいていこのことに触れている。

 しかるに、官吏・君主・警察・スパイ、こうした汚れた存在にも、また己の正当性の根拠とするものがある。それは何か。即ち現在の世界で欺き偽られている「国家を愛すること」と「法律と秩序とを崇拝すること」とである。

 

 これゆえ、クロポトキンは言明する。

 

 「我々は、まさに□□と、法律に由来するものの一切とを蔑み捨て去る。我々は、まさにまさに、この卑劣なもの言い、『法律に服従せよ(法の支配)』という偽りの金言を永遠に放棄し、『法律反対!』と大声で連呼しなければならない。法律に従った結果として、我々が『進んで法に従い尊ぼう』と思うようになることは、まずない(法は人民の軛)

 

 一切の法律の生み出す結果が、暴力で民を虐げるものでしかない以上、我々は、『法律に服従すれば、いい結果になる』という迷信からは出てしまわざるを得ない。

 また、一切の近代の法律の成立は、資本家と宣教師との利益の擁護に由来するがゆえに、武人や貴族や征服者の利益の擁護からは、逸脱してしまわざるを得ない。

 

 一旦、人民の知識が発達し、思想が高尚に至れば、お為ごかしの悪い思想の手枷・足枷を外し、誤った観念の束縛から逃れようと望むであろう。そうなれば必ずや、一切の法律を破り捨て、一掃するに違いない。なぜなら一切の今ある法律とは、ある階級の人々が、自分たちの専制を維持するための武器として用い、多くの人民を縛りつけてむち打つほかには、何の役にも立たない道具だからである。

 これゆえに改革家は、まず手始めに、一切の法律をつかみ上げ、破り捨てて火にくべるべきである。どの階級にも、法律の名を借りて人民をだまくらかし、善悪を顛倒させて『権利』を盗み取るような真似をさせてはならない」と。

 

 

  (参考までに)

 われわれのヨーロッパ文明[われわれが属している過去十五世紀間の文明]にとって、国家は十六世紀にいたって発達した社会生活形態に過ぎないのであり、その発達は一連の原因の影響下に生起したのである。(略)この時期以前には、ローマ帝国の崩壊以後、国家は――ローマ的形態では――存在しなかった。それにもかかわらず、もしも国家が歴史の教科書のなかに存在するならば、それは歴史家たちの想像の所産に過ぎないのであり、(略)真の歴史の光に照らしてみると、近代国家は、中世諸都市の廃墟の上に築かれたにすぎないのである。

 他方、政治・軍事的権力としての国家、ならびに近代政府の司法教会および資本主義は、相互に引き離しえない諸制度と映じるのである。歴史上、これら四個の制度は、互いに補強し合いつつ発達してきたのだ。

 それらは、単なる偶然的な一致としてではなく、相互にかたく結ばれている。それらのあいだには、因果の絆が存在するのだ。

 国家とは、要するに、人民の支配権力と貧民の搾取を各自に保障するため、地主、軍部、裁判官、および牧師のあいだで結ばれた相互保険会社である。

 それこそが国家の起原であり、その歴史であり、かつまた、今日においてもその本質なのだ。

 

 

ピョートル・クロポトキン「近代科学とアナーキズム」1901年。訳:勝田吉太郎。

『世界の名著㊷プルードン・バクーニン・クロポトキン』中央公論社、1967年。(文中、強調は、ゆり子)

 

 

(訳者による補足)

 ピョートル・クロポトキンの引用の後に注釈を垂れるのは任が重いが、非常に危険な箇所なので、やむを得ず蛮勇を奮うこととしよう。

 

 アナキズムは、MNで見たように一切の強権を否定し、警察権力を蛇蝎の如く憎む。テロルを以てそれを排除しようとする輩も少なくはない。だが、我々は注意してこの思想を受容しなくてはならない。アナキズムとは、人間の本来的な善性に依拠している。法律の強制などなくても本能的に正義を実現しようとする、モラリストだけが持つべき思想なのである。

 

 しかしながらモラリストが実現しようと企図するこの「正義」は、現実においてしばしば、卑劣な輩たちに盗み取られ、妨げられる。クロポトキン流に言うのならば、自然法が成文法化されて実定法になるときに、慣習法的相互扶助の「礼」の上に、少数の支配者の権益を保護し崇拝させる「迷信」が加えられるのだ。

 

 儒教における礼楽もその例外ではない。古代における社会契約・人倫の涵養という目的を逸脱し、専制搾取の護持者として換骨奪胎され、使役されてきた歴史がある。

 

 さて、こうした人倫に対する罪を犯す者を、「正義」の人はいかに処すべきであろうか。

 

 孔子は、不仁の者は憎んでやるべきだと言う(里仁篇第四)。「我が徒にあらず」と断じた不仁の弟子を、鼓を鳴らして攻め立てろと弟子にけしかけてさえいる。太鼓を鳴らすのは古代における進軍の合図であり、極言すれば「殺してしまえ」と言っているにほかならない。

 

 こうした、モラリストによる過激な主張は、ルソーにも見ることができる。『社会契約論』の第二篇第五章において、社会の法を侵害する悪人は、全て殺すか追放すべきだと断じている(この章におけるルソーの思想については、私個人は異論があり、肯んずることはできないが)。

 

 また、(参考までに)の箇所で紹介したように、クロポトキンは近代法を、人倫を守る自然法の成文化としてではなく、一部の有力者たちの利益を守り、人民を搾取するために作られた、詐欺的契約として断罪している。

 

 悪法であるならば、遵守すればするほどそれは悪人を利し、誤った社会状態を長引かせることになる。おそらくこのような思考法に則って、クロポトキンは過激な言辞を敢えて吐いているのだと思われる。

 自由・平等・博愛という美しい理想の花園を喰い荒らす害虫は、ためらわずに駆除しなければならない、というわけだろう。

 

 しかし私は、ここに問いかけてみたい。意見や立場の異なる反対者は、果たして害虫だろうか。

 楊篤生がこの一文で紹介しているような、ニセの愛国心に駆られ、自由を尊ぶ人々を害し、権力者のための専制を自ら達成しようとする民衆は、二十世紀初頭のイギリスにおいても、一九三〇年代の欧州大陸にあっても、百年後のこの現代日本でも、共通に見受けられる。

 不可思議極まりない大衆の自殺行動ではあるが、私はこれを、分析心理学の手法でいう防衛機制として理解する。強大な力を持つ権力者から迫害を受けた人々は、迫害者と心理的に同一化することで、己の弱い自我を守ろうとする。横暴極まる非道な専制者に、たくさんの信奉者が出るゆえんである。

 ナチスドイツ支配下のアウシュビッツ収容所において、多くのユダヤ人が、同胞を監視し打擲する看守長に自ら志願したと伝えられる。そうすることで自らの身の安全が少しでも図られるように感じたのであろうが、現実はそうではなかった。看守長も他のユダヤ人と全く等しく、ガス室に送られて殺されたのである。

 つまりこれは、奴隷の道徳なのである。

 悪しき社会状態を変革するよりは、その中で奴隷頭として出世し、権力者に可愛がられ、下位の奴隷にふるう暴力の権利を恩賜してもらうほうがよい、という思考法だ。

 我々の行政府の長が「大臣」という名称であるのは、あまりにも正確に本質を表している。

 果たして我々「国民」は、一部の権力者に仕える奴隷の集合体なのであろうか。それとも「主権」を有する、社会の構成員たる「市民」なのであろうか。

 

 そして、その奴隷民を批判するモラリストもまた、自らに反省を加えなければならないだろう。頑是ない「奴隷」を害虫としてむげに切り捨て、暴力を以て排除しようとするならば、それはアナキストたちが否定する「強権」と、どこが変わるものなのだろうか。

 

 孔子は言う。「鳥や獣と群れを同じくする訳にもいくまい。私は、人間でなくて誰と仲間になろうというのか」

 希望がたとえ限りなく絶望に近いのだとしても、やはり言論を以て、大衆を啓蒙していく義務がモラリストたちにはあるのではないだろうか。

 

 「甘い、甘い」と、レーニンの叱責が聞こえてきそうな気がする。確かに革命などの非常時において、内なる厳しいモラルを遵守しつつ理想を実現することは、至難の技であろう。実際レーニンは非情な現実家でもあり、ために何度もゴーリキーを嘆かせている。両者の間の書簡の往復は、理想と現実との綱引きの象徴だ。

 しかしながらそのレーニンの非情な現実路線こそが、スターリンという強権の権化の台頭を許したのではないのか。甘っちょろい理想家は常に敗れ去るが、しかし歴史の中では永遠に勝利し、常に新たなモラリストを生み出していく。

 

 その比率が一定を越えたときに、世界は陳星台の言うように、一片の紙片の通達で変わるのかもしれない。

 

 

 叙情に流れすぎて、補足としてはふさわしくないかもしれない。この難解な章が本当のところ訳者にどこまで理解できているか、著者・楊篤生の試問に答えるようなつもりで、あえてここに記してみた。

 

 

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