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卒論です。

 

1987年12月、よみうりホールで催された高石ともや年忘れコンサートに行った翌日、清書を始めた。原稿用紙に万年筆だった。翌88年1月13日の締切日に提出。

読み返してみると、足りないところや強引なこじつけが多く、今なら決してこんな書き方はしないだろうと思う。もともと無いものねだりの難癖に近く、星台先生が読まれたら、きっと苦笑されるだろうし。

けれども、手を加えることなく、このまま掲載することにした。一つには、問題は多々あるにせよ、ここに書いたことは基本的に間違ってはいないと、今でも思うから。そして何より、ひどい非礼をはたらいたにもかかわらず過分に評価してくださった亡き恩師に対し、これ以上礼を欠く振る舞いはできないから。

ということで、恥を承知でさらすこととする。ただ、便宜上、註はすべて省略した(技術的な問題もあるが、未熟ゆえにやたら煩瑣で膨大な註をつけていたから)。酔狂にも興味や疑問をお持ちくださった方は、お問い合わせください

 

なお、このテーマに興味をお持ちの方には、横山宏章『中国の異民族支配』(集英社新書、

2009年)をお勧めします。1987年当時にこの本が出ていたら、わたしはもっと簡単な感想文めいた作文を書いていたか、全く別のテーマを選んでいたか、或いは非力を承知で無謀にも本丸(モンゴル)に正面から突入して自滅するか、していたと思う。

 

 

清末漢人革命家の民族観

〜陳天華の思想から      

 

    はじめに

  第一章  陳天華の生涯

     第一節 生涯

第二節 影響

 第二章 帝国主義観

第一節 把握のしかた

第二節 弱点

 第三章 清朝観

第一節 「洋人の朝廷」

第二節 満漢矛盾

 第四章 民族観

第一節 民族の自覚

第二節 異民族観

第三節 「中国人」

おわりに

 

 

 

    はじめに

 

  一九一一年十二月一日、モンゴルは独立を宣言した。これは辛亥革命に乗じたものだが、長く続けられていた独立運動の末になされたものである。その背景には、殊に清末になって強まってきた清朝政府や漢人農民・商人によるモンゴル圧迫があった。モンゴルは十七世紀以来、漢族に対する清朝の同盟者として漢族とは一線を画しており、モンゴル側としては中国との関係は清朝との間のものであって漢族とは無関係だと考えていた。だから清朝が力を失った以上、モンゴル独立は当然で正当なものだと考えられた。何も唐突なことではなかったのである。

 唐突なのはむしろ中華民国側の対応である。中華民国は「五族共和」を掲げて、モンゴル独立を認めなかった。ではこの「五族共和」はどこから出てきたのだろうか。この問題に関する研究は少なく、まとまった論考としては片岡一忠の論文があるくらいである。それによると、「五族共和」は革命勃発直後に張がもち出したもので、その目的は列強の干渉、瓜分の危機から中国を守ることであった。そしてこれが正式に宣されたのは一九一二年一月一日の孫文の臨時大総統就任宣言においてであった。つまり孫文は革命勃発以前には「五族共和」をいっていない。一月以降は何回もこれを主張するが、それは主に独立への動きに揺れる内蒙古を中国につなぎとめるためであった。こうしてみると、「五族共和」は中国の領土保全のために後から出されたものと思われる。革命準備期間には「五族共和」的なことは漢人との同化を前提にわずかにいわれていただけである。

 では、漢人革命家たちは国内の民族問題をどう考えていたのだろうか。中国同盟会は綱領で「駆除虜、恢復中華、創設民国、平均地権」を掲げたが、その一、二番めの項目が民族主義を指すなら、その「民族」とは何であろうか。それは漢民族ではないのだろうか。彼らは国内の異民族をも含めた国家建設を考えていたのだろうか。そもそも彼ら漢人革命家の意識の内に、国内の異民族はどの程度存していたのだろうか。

 つまり私の疑問はモンゴル独立を阻止するために発せられた「五族共和」の唐突さに端を発する。その唐突さを確かめるために、辛亥以前の漢人革命家の民族意識をみてみる。従来、少数民族地域の革命についての研究はあっても、少数民族の扱いという観点から革命思想をみたものは、あまりないのではないかと思う。反満問題という観点からの章開沅、劉大年の二論文と、五族共和からの日本の二論文しか見ることはできなかった。

 具体的には陳天華の思想をみる。辛亥革命を準備した革命思想の宣伝パンフレットとして、鄒容『革命軍』陳天華『猛回頭』『警世鐘』章炳麟「康有為を駁して革命を論ずる書」の四篇をあげるのは革命史の常識とされるが、これらの宣伝書をみることで当時の革命家たちの意識、思想の一端をうかがうことができる。なぜなら、これらの書が流布したということは、その思想が多くの人々に注入されたということであり、またその思想が多くの人たちに受けいれられる性質のものだったといえるからである。

 さて、この三者の民族思想を比較すると、鄒容と章炳麟は排満、陳天華は反帝国主義が強いとされる。確かに章は伝統的な経学からくる華夷思想が強烈であり、排満復仇を強く主張している。また鄒容は専制政体としての清朝の打倒を旨とするが、『革命軍』冒頭で「被毛戴角も同然の満州民族」といっているように華夷思想が強く、その進んだ自由平等の思想とどうして抵触しないのか不思議なほどである。これでは来るべき「中華共和国」には他民族を含めそうにない。それに対し陳天華は、主要な敵を帝国主義列強とその走狗たる清朝とし、華夷思想的な云い方は比較的少ない。そこでここでは三人のうち民族観で最も穏当と思われる陳天華をとりあげ、彼の民族思想から当時の漢人革命家の民族意識を考えてみる。

 陳天華に関する研究は、日本では永井算巳、里井彦七郎、中村哲夫などがある。また中国では孫志芳、陳旭麓などの研究のほか、伝記類が多数出版されている。そのいずれもが、彼の民族思想の中心を反帝国主義もしくは拝外におき、例えば中村は天華の思想の特徴として排満復仇の否定をあげている。ただ、里井が天華の統一戦線の主張が無原則なものではなかったという根拠としてその反満思想をあげ、中国の研究が当時の資産階級革命家の共通の欠点としての大漢族主義に異口同音に言及している。

 本稿では、陳天華の民族主義の中心である反帝国主義を検討し、更に反帝以外の部分を探ってみる。そこから、当時の漢人革命家たちの意識にまで及んでみたい。

 

 

 

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