はじめに 

 

 

    第一章 陳天華の生涯

 

  陳天華の生涯と、彼がもたらした影響とを概観する。

 

      第一節 生涯

 

  陳天華は、一八七五年湖南省新化県に生まれた。父親は落第秀才で貧しく、天華は幼少時から物を売り歩くなどして生計をたすけ、そのかたわら父親から文字を習っていた。この頃『水滸伝』『西遊記』などの通俗小説や俗謡などに親しみ、自分でもまねして作ってみたこともあったという。こういったことが後の著作に役立っている。

 苦学したのち、土地の郷紳の援助をうける。当時の湖南は変法運動が盛んであり、天華も変法派の学堂に移るなど、変法思想の影響下にあったらしい。そして一九〇三年三月、湖南省派遣の留学生として渡日する。ここまでの陳天華は、変法思想に染まり、戊戌の政変での譚嗣同の処刑や義和団、自立軍などの事件に少なからずショックをうけたと思われるが、特に活動はしていない。

 渡日して間もなく、留学生界に拒俄運動が起きると、陳天華はこれに身を投ずる。そして清の要請をうけた日本の官憲によって運動がつぶされると、義勇隊の後身である軍国民教育会に加わり、その運動のために帰国する。この間、『猛回頭』『警世鐘』の二書を日本で出版。これは、この運動の必要から書かれた宣伝書であった。なお『警世鐘』は翌一九〇四年に増補して再版された。

 一九〇四年、長沙で華興会の結成に参加。「駆除韃虜、復興中華」を掲げる革命的秘密結社である。そして同年十一月を期した長沙起義に参画するが、事前に露見して挫折。身辺に危険が及んだので、年末に日本へ亡命する。

 陳天華は『警世鐘』で、留学生や知識人を「口ばかりで実際には何もしない」と批判した。長沙起義は、その天華が初めて実際に起こそうとした行動だった。しかしこれは失敗におわった。また一方では、日露戦争でロシアによる中国瓜分が喧伝されていた。こういったことで天華は悩んだらしい。

 一九〇五年一月末、陳天華は「要求救亡意見書」を書き、これを清朝につきつけることを主張した。これは清朝に容れられるようなものではなく、天華自身もそれは承知していたようである。「もとより無益と知りながら、一身を以て試し、世人の扶満の望みを絶つ」つまり身を挺しての訴えも容れぬ清朝によっては救国は成し得ぬことを世に示そうとした――というのが宋教仁の解釈である。もっとも、これは天華の遺書を発表する時に附された文であるから、故人をかばう意もあろうし、それ以上にそれの及ぼす影響が考慮されているだろう。ともかく、天華の意図がどうであれ、これは清朝との妥協を図ることであり、改良派に近づくものであることに変りはない。だから革命派の人々は、華興会系、興中会系を問わず、躍起になって反対し、一方では改良派の人々が天華のこの後退を利用しようと懸命であった。これは、天華の動向がもつ影響力の大きさをものがたっている。結局、陳天華は、宋教仁らの反対と説得とによって、これを断念した。

  同年七月、孫文が来日し、中国同盟会結成のはなしが起きる。この時、華興会内部の意見は一つではなかったが、陳天華は積極推進派だった。彼が孫文に大いに感化されたらしいことは、留学生孫文歓迎会についての熱烈な文章からもうかがえる。そして天華は同盟会総章(綱領)の起草員の一人となり、同盟会書記となり、『民報』撰述員として多くの文章を書いた。『民報』創刊号は、掲載された文章十七篇のうち、七篇までが天華の文章だった。

  千九百五年十一月二日、日本文部省がいわゆる「清国留学生取締規則」を発布。これは清朝の要請で、留学生の革命運動をおさえることを目的としたと思われる。二十六日にこの規則の存在が表面化すると、留学界は憤慨し、反対運動が起こされ、十二月に入るとストライキが始められた。この一連の動きに対して、陳天華は沈黙を守っていた。宋教仁が何か書くよう頼んでも、応じなかったという。宋としては、天華の学生たちへの影響力に期待したのだろうか。

 ところが陳天華は、十二月七日に『朝日新聞』がこの件を報じた記事の「清国人の特有性なる放縦卑劣の意志より出で団結も亦頗る薄弱のもの」の一節に憤慨し、翌八日、留学生の自覚を促す「絶命書」を遺して大森海岸に投身。

 この「放縦卑劣」の語に反応したのは陳天華だけではない。例えば程家檉は、やはりこの語に憤り、この記事に真向から反論する文章をその日のうちに認め、『朝日新聞』に投書している。この期に憤っただけなら、天華も同様にすればよかったのである。永井算巳は彼の死を、この語にみられる日本の中国蔑視への痛恨、そのような屈辱に甘んじねばならぬ中国の現状に対する慟哭、そのような中国を何とかしてほしいという留学生への悲願の三つによるものとするが、「絶命書」の主張からみて妥当な解釈といえる。ただしその比重は、中国と留学生に対するほうに、より多くおかれるだろう。

 ところで、『猛回頭』『警世鐘』と、同盟会結成以後とでは、その主張に若干の異同がある。前二書においてはその主眼は反帝国主義におかれるが、同盟会以降は主要な闘争目標を清朝政権として民主主義の主張が強くなる。これは孫文の影響であり、長沙起義失敗後の混迷から脱する途を孫文に見出したものと思われる。しかし、根底にある反帝思想はかわってはいない。例えば「国民必読」では明確に列強による侵略に触れている。また、前述の孫文歓迎会の記事では、民権よりも民族を第一とする自分の考え方を述べている。反清、民主主義も、前からあったものが強化されたものである。私は、彼の民族思想は基本的に一貫していると考える。

 

 

      第二節 影響

 

  陳天華の著書はどのくらい流布し、彼の影響力はどのようなものだったのか、簡単にみてみよう。

 辛亥革命を準備した革命宣伝のあり方は、小野信爾の研究に詳しい。それによると『猛回頭』『警世鐘』が『革命軍』と並んで多く流布したことは、多くの証言がある。因みに『革命軍』は、『揚州十日記』との合刊版だけでも百万部以上出たといわれ1る。回し読1みされたことを考えると、官憲等に没収、焼却された分を差し引いても、相当多くの人の手に渡ったものと考えられる。天華の二書は、長江流域を中心に流布していった。また『民報』創刊号は初版六千部、のち少なくとも七版まで出て、他の号とともに盛んに国内に持ち込まれた。

 陳天華の二書の特徴は。その文体にある。鄒容、章炳麟のものは文語体だが、『警世鐘』は口語体、『猛回頭』は弾詞(唄と科白とから成り、琵琶などを弾じながら語る語り物。民衆に人気があった)の形をとっている。これは、天華の意図が、学生・軍人層のみならず、もっと広い層を対象に含んでいたことを示している。『警世鐘』で「十のお勧め」として、役人、兵隊、世家貴族、知識階級、金持ち、貧乏人、新旧両党、渡世仲間(原文は〈江湖朋友〉、キリスト教徒〈教民〉婦人に、それぞれ救国への参加を呼びかけているのはそのあらわれである。彼は、下層社会を啓蒙し組織化して味方につけることを考えていた。そして実際に『猛回頭』が公開の場で講釈されたり、会党の首領が酒楼や茶館で天華の二書を宣読したりといった例がある。また、民族資本家の禹之謨は、工場や学校を通じて天華の二書を配布し、下層の啓蒙という天華の理論を実践していた。このほか、『猛回頭』の冒頭の詩は、秋瑾の遺句と同じく、多くの人に愛唱された。

  このように、字の読めないような民衆にも、いくらかは伝えられていたらしい。しかし、民衆闘争は辛亥革命に貢献してはいるが、民衆への革命思想の浸透となると、どの程度のものだったか、魯迅の諸作品からみても疑わしい。やはり思想普及の中心は学生であり、その他、知識人や新軍兵士が主だった。

 ともかく、陳天華の二書は多く流布したが、彼の自殺という事件の影響も大きなものだった。留学生取締反対運動は結局帰国派と残留派との分裂をみたが、留学生八千人中二千人が即刻帰国したというのは、この事件によるところが大きい。このことは、黄尊三の日記や景梅九の回想からもうかがわれる。

 更に、彼の死が湖南に伝えられると「学界は大いに憤慨し、追悼会を開くと二千人が集まり」長沙で行われた姚宏業(湖南人。この事件で帰国し、上海に中国公学をつくるが、資金面で行き詰まったのを憤り、黄浦江に投身)との合同葬儀では、官府の圧力にもかかわらず、長沙全市の学生・教員一万余名が参列した。この公葬自体が革命宣伝であり、一大示威行動であった。これだけの動員ができたのは、中心となって動いた禹之謨の力によるところが大だが、勿論陳天華の名によるところも大きいだろう。当時の湖南の実業教育両界に禹之謨は大きな力をもっていた。彼は陳天華を敬愛し、『猛回頭』『警世鐘』を学校内外に配布し、同盟会湖南分会として『民報』を販売していた。このため、天華も禹とともに湖南の学生・兵士の間で奉じられていたのである。また逆に、この公葬が陳天華の名をより高めることにもなっただろう。また、この頃、新化県出身の天華と、学生の政治活動を抑えにかかった誥慶(字は敕華、善化県人)とを善悪の対比とする対聯がはやったというが、ここまでくると天華の名のみが独り歩きしているという感がないではない。

 陳天華の思想がどういったレベルで広まったのかはわからない。革命宣伝が「排満」の一点に収1斂されていく過程で、あるいは彼の思想も排満の部分のみが強調されていったかもしれない。『猛回頭』の詩がひろくうたわれたというのも、単なる排満のうたとしてではなかったとはいいきれない。この辺りの宣伝の問題――もとの考えと宣伝(どう伝えたか)と浸透(どう伝わったか)との関係は、本来ならおさえるべき点だが、ここではそこまで及ぶことはできない。陳天華の思想を通じて、もとの考えの一端をうかがうのみである。

 なお、『猛回頭』は一九〇三年、『警世鐘』は一九〇四年、天華の死は一九〇五年で、辛亥の年まではまだ間がある。しかし小野信爾によると、宣伝の質としては『革命軍』も出されたこの頃が最高潮で、以後の宣伝は「排満」一本に単純化されていき、鄒容・陳天華らを超える宣伝物はあらわれず、一九一一年までずっと鄒・陳や『民報』バックナンバーが主要な宣伝物であり続けた。そしてそれらが革命運動の中心たる学生・知識人層、新軍兵士らに多く流布したことは間違いない。辛亥革命に対する陳天華の貢献は、後に孫文が、呉樾、熊成基らとともに祀ることを提案しているところからもうかがえる。となれば、陳天華の思想をもって、辛亥革命期の革命家の思想の典型の一つと考えても、そう大きな見当違いではないだろう。

 

 

 

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