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    第三章 清朝観

 

  国内異民族の問題は端的には清朝との関係においてあらわれる。反帝を第一とする陳天華がなぜ倒清を唱えるのか。彼は清朝をどのように考えていたのか。

 

第一節 「洋人の朝廷」

 

皆さん、現在の朝廷はまだ満洲のものだといえるでしょうか。とっくに洋人のものになっています。皆さん、もしまだ信じぬのなら、最近の朝廷のしたことを考えてください。あの一件は洋人の号令のためのものではありませんか。私たちは明らかに洋人を拒んだのに、彼は我々が洋人にではなく朝廷に反対したのだといって、私たちを謀反叛逆者とみなして殺そうとしました。皆さん、私たちがなおこの道理をはっきりと考えずに何事も朝廷に従っていたら、いやでも私たちは洋人のものにされてしまう。それがまだわかりませんか。朝廷にはもともと洋人に抵抗することなどできはしません。まさかこの洋人の朝廷に抵抗すべきでないということがあるでしょうか。

これが有名な「洋人の朝廷」である。 

 『猛回頭』のこの文章は、これが書かれた一九〇三年の拒俄運動のことを指すと思われる。辛丑条約後、ロシアは再三の約束にもかかわらず、撤兵せずに東三省にいすわっていたが、この年の四月、東三省の支配を強化する要求を清朝につきつけてきた。これに反対して上海と東京で起こされたのが拒俄運動である。この運動は、軍事面で袁世凱に頼ろうとするなど、革命ではなく排外運動であった。しかし清朝は、「名は拒俄でもその実は革命」とみなし、日本と連絡をとって解散させた。これが「最近の朝廷のしたこと」である。この拒俄運動の一件は、愛国青年の清朝に対する期待を断ちきり、彼らを反清革命へと向かわせる契機の一つとなっている。そして、学生軍の後身である軍国民教育会は、華興会、光復会等の革命団体の母胎となった。陳天華も、学生軍―軍国民教育会―華興会というコースをたどったのである。

 渡日前の天華は特に活動をしてはいず、変法思想の影響下にあった。だから、この拒俄運動が彼にとっての最初の活動であり、その顛末が彼の革命派としての出発点となっているといえる。そして、その出発点が、彼の特徴である「洋人の朝廷」の認識に、真直につながっているのである。

 「洋人の朝廷」を『警世鐘』では次のように説明する。

みなさん、今日の中国が依然、満洲政府のものだとお考えですか。とっくに各国のものです。財政権、鉄道権、人事権など、いっさいもみ手で洋人にお贈り申しました。洋人はいっさい手間いらずです。こうこうしたいと思えば命令を下しさえすればよろしい。満洲政府は即刻に執行つかまつります。中国は瓜分されていないとはいいますが、実際はすでに数十年らい瓜分されているのです。……われわれがちょっとでも動こうとすると、各国政府はすぐさま満州政府に命令を下して……たちどころに各国に代わってきれいさっぱり討伐いたします。

  これは、義和団以来媚外に転じた清朝政府のありかたを描き出したものである。陳天華の反清朝は、清朝に対するこの認識に基づいている。義和団の時、劉坤一・張之洞など洋務派官僚は、列強との間に東南互保章程を結び、民衆運動鎮圧の体制をつくった。更に清朝は辛丑条約で、排外運動鎮圧の義務を負った。陳天華は、こういった清朝の姿勢を、拒俄運動で実感したのだろう。

 当時の清朝が不平等条約等で列強に縛られていたこと、そういう現状を陳天華がはっきりと認識していたことは、前章で述べたとおりである。天華は、その認識と拒俄運動の経験とから、清朝を反帝運動の敵と知る。清朝は既に中国の側にはなく、列強の側にいる。そして、反帝運動を起こそうとする時に直接弾圧に出てくるのは、列強よりもまず清朝なのである。だからこそ、清朝を倒さねばならないと、陳天華はいう。

 陳天華は、中国の主要矛盾を、帝国主義による侵略と考えていた。そして、帝国主義に反対しようとすれば、必ず「洋人の朝廷」たる清朝とぶつかる。従って、天華にとっては反清はそのまま反帝を意味する。章炳麟のように夷狄の朝廷だから、鄒容のように専制政体だからというよりも、まず第一に「洋人の朝廷」だから、清朝は倒されなければならないのである。これが、陳天華の反清朝の特徴である。

 なお、楊毓麟『新湖南』にも、清朝が列強の手先となって排外運動を弾圧するという指摘がある。しかしこれはむしろ暗行瓜分をいうものであって、天華ほど明確には反清につながっていない。その他の書も同様で、例えば「中国滅亡論」は「今日他国を滅ぼす者は、その地を自分では守らず、その地の君臣を使って守らせる」という。しかしこれは中国は既に亡国していると説くもので、主眼は『新湖南』と同じく反列強にある。清朝の媚外的姿勢と反清とを直結させ、清朝を「洋人の朝廷」と端的に表現したことで、陳天華は高く評価されるべきだろう。

 

 

      第二節 満漢矛盾

 

 陳天華は清朝を、帝国主義と結託して中国を滅亡に至らせるものだと考えていた。しかし清朝のもつ問題点は、この「洋人の朝廷」のみにあるのではない。清朝が一少数民族である満洲人の王朝だということも、無視できない点である。天華も、この点を軽視してはいない。では、満漢矛盾という形であらわれるこの側面を、陳天華はどのようにみていたのだろうか。

  『警世鐘』はいう。「憎い、憎い、憎い。憎いのは早く変法しなかった満州政府」と。列強は最近の二百年間でここまで強くなったが、日本は三十年で列強に追いつき、中国を瓜分しようとするまでになった。これは日本が変法=政治改革を行ったからであると。

 日本の明治維新に範をとり、変法の必要性を重視する点は、康有為、梁啓超等の改良派と同じである。しかし陳天華はその先が違ってくる。改良派は清朝下での変法を説くが、天華はそれは不可能だとする。『警世鐘』はさきの文章に続けていう。「憎いのは満州政府、『漢人つよければ満人ほろびん』の主義をだきしめて、ぜったいに変法を肯んじませんでした」と。この「漢人強満人亡」は島田虔次の訳註によると満洲人の大臣栄禄のことばである。この言は『新湖南』『革命軍』など多くの書に引かれ、当時よく知られていたらしい。天華は『猛回頭』でもこの言を引き、更に続けて、戊戌の政変で譚嗣同が処刑されたことを憤る。譚は湖南人で、彼が湖南にもたらした変法思想に、天華は影響をうけていたらしい。その譚嗣同を殺し、中国の自強の途を断ったのが、「漢人強満人亡」という考えかたである。これは、帝国主義による侵略の危機に臨んで、それを顧みずに満漢の対立のみを気にかける、清朝の狭い了見をあらわしている。

 ここで「だから漢族は一致して帝国主義にあたるべきだ」とするのが、梁啓超らの改良派である。しかし陳天華はそうはしない。天華は『警世鐘』の別の箇処で、やはり満洲人の高官による次の言を引く。「むしろ天下を以て友人〈ヨーロッパ列強〉に贈るとも、奴隷〈漢民族〉には贈らじ(〈〉は訳註)。ここに、列強よりも漢人を主要な敵とする清朝の考えが、端的にあらわれている。この二つの言にみられる考えかたが実際の行動となってあらわれたのが、譚嗣同らの処刑であり、義和団鎮圧と辛丑条約であり、拒俄運動への圧力である。そして清朝のこの姿勢が、反帝を最重視する陳天華の主張と真向からぶつかるものであることは、いうまでもない。

  こういう考えをもつ清朝には変法などできるものではないと、陳天華は考える。そして清朝のこの姿勢は、康有為がいうように光緒帝がどう、西太后がどうという問題なのではなく、異民族の朝廷という清朝の性格自体からくるのだと、天華はいう。

 『猛回頭』はいう。義和団後に列強が清朝を温存すると、「はたして満洲政府は各国に感謝することこの上なく」国を衰えさせる辛丑条約をよろこんで結んだ。「満洲政府は、ただ自分ひとりの安全を図り、漢人が永久に立ち直ることができないのを顧みず、全て洋人に頼りきっている。これを恨まずにいられるだろうか」と。

 ここで、「洋人の朝廷」と満漢矛盾とがつながってくる。「洋人の朝廷」とは、自己の保身に汲汲として洋人のいいなりになり、他を顧みないものである。天華の理解では、このときの「自己」は皇族・政府、「他」は一般国民をそれぞれ指すのはなく、「自己」イコール満洲人、「他」イコール漢人である。だから天華は、清朝が「洋人の朝廷」と化したのは、清が満洲人の朝廷だからだと考える。中国という枠と帝国主義列強とを対置するのではなく、漢・満・洋人とおき、満は洋人とくっついて漢と対峙する。これが「洋人の朝廷」であり異民族王朝である清朝の姿なのである。

 このように、陳天華は、清朝が変法せずに「洋人の朝廷」化したことを、清が漢人の王朝ではないという点に根ざすものとみる。これは改めようのない根本的なものだから、清朝自体を退けねば、中国は救われないのである。

 清朝がこのように反帝よりも反漢を重視するものなのだとしたら、その姿勢は何に由来するのだろうか。そこには、「漢人強満人亡」にみられる、漢人に対する警戒感のようなものがある。これは漢人四億に対し満洲人五百万という少数民族王朝ゆえのことだろう。そしてそれと関連して、清朝が満と漢とを分けへだてしていたということがある。満洲人は政治的・経済的・法律的に特別に遇されていた。鄒容が『革命軍』で憤慨しているように、官の登用ひとつみても、満漢は不平等であった。そしてまた、満洲貴族・官員は突出した封建特権階級として存在していた。といっても、陳天華が「国民必読」でいっているように五百万の満洲人全てが旗人で不農不工不商不士で漢人に寄生していたというわけでは、無論ない。天華のこうしたいいかたには、誇張もあるかもしれない。しかし、「国民必読」の翌一九〇六年の萍瀏醴起義の際の龔春台による檄文に、「韃虜の十大罪悪」の三番めとして「韃虜五百余万の衆、不農不工、不商不賈、坐して我が漢人の膏血を食す」とある。龔がこれをどこからとってきたのか、或いは一般にこういういわれかたをしていたのか、私にはわからない。いずれにせよ、不平等な印象が強かったということだろう。

 もっとも陳天華としても全てを清朝のせいにするわけではない。彼は、清朝同様自己の保身に汲々とするものとして漢人官僚・留学生等をもあげている。「憎いのは曽国藩」万人のために同胞を殺し、高官になってからは「満州政府の忌諱にふれることをおそれたために、口をつぐんで自己の禄位の保全をはか」り、弊政改革をしようとしなかった。「憎いのは外国の学説を祖国に輸入しなかったこれまでの公使、随員、外国留学生ども」外国の富強の由来である進んだ思想や制度に触れたはずなのに、それを中国にもたらさない。これは「言葉を慎まないと不足の禍をまねくおそれがあるので、それですすんで良心をあざむき、阿呆になっている」からだ。「憎いのは頑固党」「ふるい政治を変えたら、自分たちの衣食や米ビツがあぶなくなる、高位高官にもなれない、彼らはそう考える」のだと。 陳天華は、「満洲政府」とこの三とおりの人とを、やがては民族滅亡をもたらすものとして糾弾する。しかし、この三とおりの人々の「保身」とは、「満洲政府」の顔色をうかがうことである。となれば、やはり根本は「満洲政府」にあるのである。

 同盟会結成後の文章「中国はよろしく民主政体に創り改めるべきことを論ず」で天華は「現政府が何ごとをもなしえないことは、ほとんどもはや鉄の如き確証がある」として、二つの理由をあげる。「その第一の理由は、歴史にもとづく。中国では、一代の王朝の間で、自ら積弊を除去できたものは、未だかつて存在しない」のだから革命を起こして現王朝をつぶさねばならないのだと。これは種族には関係ない。漢人の王朝でも同じことである。しかし天華は続けていう。「第二の理由は、種族にもとづく。今の政府は、漢民族の政府ではなくて、異族の政府である。利害はすでに相反しているから、その採用する方針は互いに異ならざるをえない」と。専制政治の非と革命の必要とを説くなら、第一の理由だけでも足りそうなものである。しかし陳天華はそこに種族をも持ちだす。このように天華が種族を重んじ、問題を満漢矛盾に帰していたことは、単なる一王朝をあらわす「清朝」ではなく「満洲政府」という語を使っていることからもわかる。

 このほか、陳天華は満洲人による中国支配を不合理だとして、次のようにいう。漢人官僚に対する呼びかけとして、「皆さんの食べる糧は、満洲にもらったものだといいますが、実際はみな漢人のものです」と。これは、圧倒的多数である漢人人民の生産したものを、少数の満人の清朝が吸いあげ、そのおこぼれをちょうだいする漢人官僚という構図を、描き出している。これは一面的確である。しかしここでも、彼の把えかたは種族中心である。大多数の人民対少数の封建支配層ではなく、大多数の漢人対少数の満洲人なのである。封建制の不合理ではなく満洲人による支配の不合理に、階級間の問題ではなく種族間の問題にしてしまっている。これは、彼が民生主義を解していなかった、或いは少なくとも重視していなかったと思われることと、無縁ではないだろう。

 陳天華は、帝国主義侵略の事実がわかって原因がわからなかったときに、それを種族の問題に帰した。それと同様に、ここでも階級矛盾の存在がわかっていて原因がわからないと、種族のことにしてしまっている。

 このように、陳天華は種族対種族という把えかた、種族中心の考えかたをしているのである。

 

 

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