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    第二章 帝国主義観

 

 陳天華の民族主義の中心は反帝国主義にある。では彼は帝国主義をどのように認識していたのだろうか。その把握のしかたの特徴と弱点をみる。

 

      第一節 把握のしかた

     

  噯呀! 噯呀! 来了! 来了! 甚麼来了? 洋人来了! 洋人来了!不好了! 不好了! 大家都不好了! 老的、少的、男的、女的、貴的、賎的、富的、貧的、做官的、読書的、做買売的、做手芸的、各項人等、従今以後、都是那洋人畜圏里的牛羊、鍋子里的魚肉、由他要殺就殺、要煮就煮、不能走動半分。唉! 這是我們大家的死日到了!

 

 これが『警世鐘』の冒頭である。陳天華はこのように調子のよい文体で、老若男女、貴賤、官民、職業等の別なく、全ての人が西洋人の好きなようにされてしまうと述べたてる。そして、ここから始めて、中国の当面している瓜分の危機を訴えていく。陳天華の反帝国主義は、列強による中国分割に対する強い危機感に基づくものである。

 陳天華は『猛回頭』の唄の部分でも訴える。「怕只怕、做印度、広土不保/怕只怕、做安南、中興無望(おそろしい、おそろしい。インドになれば広い国土も保てない/おそろしい、おそろしい。ベトナムになれば中興の望みがない)と。天華は同様に、ポーランド、ユダヤ、アフリカ、南洋諸島、オーストラリア「土人」、苗族、瑤族を例にあげ、「中国」が同様の事態に陥る危険性を訴える。(この苗族・瑤族と「中国」との関係は重要だが、それは後述する。)しかもそれはさしせまったことだというのである。

 陳天華は更に、列強による亡国と以前の亡国とをはっきり区別する。『猛回頭』は、前の唄に続く科白の部分でいう。

 

 皆さん、今のような滅国と従前のと、同じだといえるでしょうか。従前の滅国はその国の帝王がかわるだけで、民間には損失はありません。しかし今のは全然違います。その滅国の名を「民族帝国主義」といいます。

 

この「民族帝国主義」については後述する。では、以前のと今のとどう違うのか。『警世鐘』はいう。「この瓜分の禍は、たんに国を亡すだけでなしに、かならずまた民族を滅さずにはおかない」ものである。中国史上の王朝の変遷は、中国人どうしの戦いなので、亡国とはいわない。ただ元と清のみは異民族なので亡国といえるが、「蒙古、満州の人数はとても少なく、ただ武力が漢人にすぐれているのみで、それ以外はいっさい漢人には」かなわなかった。そのため、彼らは間もなく漢人に同化されていった。「だから中国は国は亡びても、中国人種の膨張力は、前どおりたいへん大きかった」のである。しかし列強は、人数も多く、文明国である。「各国が七、八億の文明民族で手わけして中国を占領するとき、どうしてよく回復でき」るだろうかと。つまり、従前のは単なる亡国で、民族自体にはひびかず、かえって侵略者をのみこんでしまえた。しかし今度のは、種そのものが滅ぼされてしまう。だから今の列強による侵略は過去の亡国よりはるかに恐ろしいものだというのである。

 このような強い危機意識で、『警世鐘』は叫ぶ。「殺呀! 殺呀! 殺呀!」もしも洋兵が来たら「勉強しているものは筆をすて、耕しているものはスキ、クワをすて、商売人は仕事をすて、職人は道具をすて、いっせいに刀をとぎすまし、弾薬をたっぷり用意し」「洋鬼子」と、それに投降した「二毛子」と、満人が洋人を助けるなら真先に満人を、殺せ。「向前去、殺!向前去、殺! 向前去、殺! 殺殺!」と。もっとも、陳天華は同書で義和団を否定し、「野蛮排外」ではなく「文明排外」――武力によらない排外――を呼びかけているから、この「殺せ」もむしろそうした気概をもてという呼びかけだろう。しかし宣伝物として力をもつのは、理屈よりはこうした熱っぽい文章のほうだったであろう。

 こうした強い反帝意識は、陳天華の思想の特徴となっている。鄒容をみても章炳麟をみても、或いは孫文をみても、列強による侵略はこれほど重視されていない。彼らの目はむしろ夷狄としての満洲王朝や、専制政体としての清朝に向けられている。

 しかし、対外的な危機感は、拒俄運動に参加した人々には共有されていたものだろう。この拒俄運動は、単なる反露運動ではなく、各国がロシアに続いて中国を分割しようとしているという認識によるものだと、中村哲夫は指摘している。拒俄運動以前は改良主義の思潮が強く、比較的革命傾向のあるものでも、改良主義とはっきり訣別していたわけではなかった。それらは中国分割への危機感から出発し、次第に矛先を清朝へも向けていった。

改良主義者が革命派に転ずる契機はいくつかあったが、拒俄運動もその一つだった。この中国分割の危機を訴えた雑誌、出版物には、『開智録』『国民報』『湖北学生会』『浙江潮』『游学訳編』それに楊毓麟の『新湖南』などがある。これらの掲げる主張と、陳天華のものとは、多くの共通点がある。天華はこういった思潮を吸収しながら拒俄運動に身を投じ、その反帝思想を練りあげていったのである。

 また、陳天華の死の契機となった留学生取締反対運動の背景にも、留学生たちが抱いていた中国侵略への強い危機感があったと考えられる。ちょうど同じ時期に、日本は韓国に乙巳条約をおしつけた。留学生たちはこれを朝鮮の事実上の亡国と把え、中国がその二の舞になることを恐れた。そこで留学生取締規則を、中国の未来を担うべき留学生を管理し取締ることで、中国の未来をも管理し取締ろうとするものだと、そう考えたのだろう。留学生たちの怒りの対象は、日本の中国蔑視や、規則の背後にある清朝だったが、底にはこうした日本への警戒感があった。このことは、運動のなかで出された文書や呉玉章の回想からも、うかがえる。そして陳天華も、「絶命書」で「日本に親しむべしとするひとに対しては、朝鮮を御覧ねがうとしよう」と、日本に対する危機感を口にする。同盟会結成以降の陳天華は、反帝を以前ほどには表面に出さないが、危機感がなくなったわけではなかった。

 さて、陳天華のこうした強い危機感は、何に基づいていたのだろうか。以下、彼が列強による侵略をどう把えていたのかを、みてみよう。

 『警世鐘』で陳天華は、アヘン戦争以来の歴史を説いていう。中国は南京条約によって、通商を許し、香港を割譲し、賠償金を負い、キリスト教布教を許し、関税自主権を失った。これを機に各国がおしよせ、イギリスと同様の不平等条約を結んでいった。「これ以後、中国の外交関係は日一日とむつかしく、いっさいの利権はみな洋人の奪うがままとなりました。国家滅亡、民族滅亡の禍根はつとに此の条約のうちにひそんでいたのであります」」と。南京条約の意義に対するこの把握のしかたは、的確なものだといえる。

 南京条約以来、清が不平等条約下におかれていたのは周知のとおりである。領事裁判権、租界設定、関税自主権喪失のほか、沿岸貿易権、内河航行権を認めたため、大量の外国資本と外国商品が中国内地にまで入り込んだ。これは、当時芽生えていた民族工業をつぶすものであり、農民、小手工業者の生産と生活に大きな打撃となった。民衆の列強に対する怒りが、キリスト教に向けられたのが、仇教闘争(教案)である。仇教闘争は、陳天華の故郷の湖南でも、度々起こされた。そして清朝は、こうした闘争の弾圧を列強に約束していた。また、日清戦争の敗北によって日本から負わされた三億両の賠償金は、欧米からの高利の借款によってまかなわれた。加えた辛丑条約による賠款が、元利合計九億八千万両。その際に担保として、国家の重要財源である海関税がおさえられた。その他、鉄道建設借款など、清朝が列強から負った借金は、莫大なものとなっていた。これは、例えば辛丑条約の賠款のうち湖南省には毎年七十万が割りあてられるというように、税として人々の生活にのしかかった。また、鉄道建設への外資導入は、鉄道利権を列強に渡すことにそのままつながり、同様にして鉱山利権も失われていった。

 以上のような現状を、陳天華ははっきりと把えていた。『猛回頭』はうたう。「痛只痛、割去地、万古不返」と。以下、それぞれ「痛只痛」に続けて、「賠款は永世かけても払いきれず/通商で民は窮し財は尽き/鉱権失い粗末な食事すら保てず/教案おこせば人の命は草のよう/鉄道つくられ我も人もたまらず/租界ではしいたげ踏みつけられ」と。また科白の部分でも、侵略の方法を説明する。通商に名をかりて海関などの国の財源を握り、とても返せぬ高利の借款でいいなりにさせ、鉄道を敷いて死命を制し、鉱産を奪ってその国の人には分けないと。

 似たような指摘は、先行する多くの著作にみられる。例えば一九〇一年に『国民報』に掲載された「中国滅亡論」は、中国はその権」

権」「法権(裁判する権利)「江海権(領海、国内河川の航行権」「財政権(鉱山利権と関税収入)「交通権(鉄道利権」を外国に奪われたため、中国は既に亡国しているとする。また、『游学訳編』『湖北学生界』などにも、鉄道・鉱山をおさえることによる侵略を指摘する文章がある。しかし、陳天華が最も影響をうけたのは、一九〇三年に楊毓麟が出版した『新湖南』だろう。

 『新湖南』には、帝国主義の実行として、「植民政略を中枢とし、租界政略、鉄道政略、鉱山政略、布教政略、工商政略をその次第とし、これらによって植民政略を組織して精密完全の域に達せしめる」とある。これは『猛回頭』にあげられているものと大体対応している。『新湖南』と陳天華とには、このほかにもいくつか共通点がある。楊毓麟は長沙の人で、楊や黄興を中心に湖南出身留日学生たちが出していた雑誌『游学訳編』に陳天華も加わっており、拒俄運動、軍国民教育会と行動をともにしているから、当然天華は『新湖南』を読んでいただろう。天華は楊から汲み取ったものを彼なりに組み立て直し、それをより平易で明確な形であらわしたのである。

  また、陳天華は武力によらない侵略について、次のようにも述べている。「通商を始めて以来、我々中国人は日一日と貧しくなってきてはいないだろうか。」通商によって銀が流出し、アヘンが入ってくる。莫大な賠款は負わされる。船舶、鉄道、機械織布などの国を富ませる産業は、みな洋人に握られている。「これでどうして生活できようか」と。また、「うわべは平和で、内実はこっそり殺す、人を知らず知らずのうちによろこんでその順民にならせる、この場合は民族の滅亡はどうしても不可避です。誰をも殺す必要はありません、各人の生きる路を絶ちさえすればよろしい。」教育を奪い、主要産業を奪い、中国人には簡単な手工業がやっとというようにする。そうやって中国人を貧窮に追い込み、滅亡させるのだと。

 陳天華はこのように列強の中国侵略のやり方を認識し、更に「暗行瓜分」について以下のように述べる。

    〈義和団鎮圧後に八国連合軍は撤兵したが〉実は各国は中国を瓜分しないのではなく、国の数が多いものだから、急には均分しにくかったのであります。そのうえ、中国は土地が実にひろく、各国の勢力もとどかぬところがあるのですから、この満州政府をのこしておいて代りに支配させ、その満州政府を今度は彼らが支配することにすれば、瓜分よりももっと好都合ではありますまいか。瓜分を一年おくらせれば、各国の勢力もそれだけ安定します。いよいよ瓜分実行の時がきたら、ただ満州政府を取り去ればよいわけで、手数がちっともかかりません(〈〉は引用者)

これが「暗行瓜分」=「こっそり行われる瓜分」である。天華は続けて、各国が連絡をとりあうさま、ひそかに兵を動かすさまを描く。そして、こういった暗行瓜分には抵抗しにくいため、はっきりとした瓜分よりも恐ろしいという。これは、列強による中国の「保全」の実質を明らかにするものである。この点は、『新湖南』では語られていない。

 以上のように、陳天華は、列強による経済侵略のあり方と「保全」の実質とを、明確に描き出す。これによってわかるのは、帝国主義列強による侵略は、過去の元や清による侵略――むやみに殺し、政権を奪い、税を取立てる――とは異質のものだと、彼が認識していたということである。そして陳天華は、今の侵略のほうがはるかに恐ろしく、しかもそれが今まさに行われているのだと、訴えるのである。

 

 

      第二節 弱点

 

 孫志芳は、陳天華の思想の弱点として、帝国主義に対する認識の欠乏と、農民大衆の力を認識していなかったことの二点をあげている。後者はともかくとして、前者はどういうことだろうか。以下、孫の意見とは別に、陳天華の帝国主義観のもつ問題点をみてみよう。 陳天華に「敬告湖南人」という文章がある。題名の示すとおり、湖南の人々に対する宣伝の文章で、主に学校にまかれたという。書かれたのは、『陳天華集』編註によると、一九〇三年五月。渡日後に発表した最初の文章と思われる。内容は、全篇にわたって列強による中国侵略の危機を訴えるもので、『猛回頭』『警世鐘』の基礎となっているといえる。この文章に、「民族帝国主義」の語がある。ここでは、今日の亡国は「民族帝国主義」ゆえに元・清によるものより恐ろしいと述べるだけで、語の意味は明確には説明していない。『猛回頭』では説明しているが、それをみる前に、楊毓麟『新湖南』をみてみよう。ここにも「民族帝国主義」の語があり、天華はここからこの語をひいてきたと思われるからである。なお、楊に先行するものとして、梁啓超の「新民説」があるが、梁の「民族帝国主義」よりも楊のもののほうが、はるかに詳しく明瞭である。「新民説」から楊が発展させたものを、陳天華が継承したととるのが適当だろう。

 楊毓麟は、列強の中国侵略の歴史上の遠因をなすのは「民族建国主義」で、近因をなすのが「民族主義から一変して帝国主義になったこと」だという。そして、「民族主義の前にすでに帝国主義といわれるものはあったが」と、古代の帝国主義と近代の帝国主義とを区別する。すなわち、前者は君主一人の野心や一、二人の武将の権謀から出るものであって、全国の人とは無関係である。それに対して後者は、その原動力は「国民の繁殖力の膨張」であり、「国民の商工業の発達、資本の充実による膨張であり、発生の基本は全国民の思想であり、運動の機関は全国民の耳目であ」り、これを称して「民族帝国主義」という。

 楊は、この「民族帝国主義」の根底には民族主義があると考える。そして、クロムウェル、ビスマルク、カヴール、コシューシコ等の名をあげて、ヨーロッパ近代民族国家の成立を説く。古代の帝国は、民族に関係なく一つの版図におさめるものだった。しかし民族の自覚が生じると、異民族から自民族をまもろうとするようになり、民族国家が建てられる。これが「民族建国主義」である。この民族主義は、天賦人権の「個人権利主義」に支えられて、全国民を根拠とする。だから、とても強固なものである。こうしてできた民族国家が、「国民の繁殖力の膨張」「国民の商工業の発達、資本の充実による膨張」を原動力として、力を外に向けたのが、「民族帝国主義」である。この「民族帝国主義」は、民族主義を根底におくため、古代の帝国主義のように、拡散したまま弱体化するということはない。この強固な「民族帝国主義」による侵略に抵抗するには、やはり強固な民族主義によるほかない。そこで、「民族建国主義」と「個人権利主義」が必要だというのである。以上が、楊毓麟の「民族帝国主義」である。このように、楊は古代の帝国主義と近代のものとを、はっきり分けて認識していた。

 楊の弱点は、民族主義の発生の原因を、民族そのものに求めた点にある。彼は、民族が異なるということは性質・思想を異にするということであり、「異なる者は離れざるをえず、同じ者は近づかざるをえな」いと考える。そして、そうやって同じ者が集合していって他と対するのが民族主義であるという。こういう理解であるため、民族主義がなぜ「民族帝国主義」になるのか、明確に説明することができない。殊に、「商工業の発達、資本の充実」との関係が、不明瞭である。ややはっきりしているのは「繁殖力の膨張」のほうで、これは植民政略につながっている。しかし、前節で述べたような諸政略との関連が、いまひとつわからないし、そもそも、民族主義とそういった「膨張」とのつながりが、はっきりしない。その民族主義の把えかたから推すと、楊自身もその辺りはあいまいだったのではないだろうか。

 なお、帝国主義に言及した先行例としては、一九〇一年に『開智録』に書かれた「論帝国主義之発達及二十世紀世界之前21途」がある。ここでは、帝国主義のおこった原因を、@科学の発達による生産力の増大――市場拡大の必要A生産力増大による人種の膨張B各国間の力の不均衡――侵略されるべき弱小国の存在C革命(ブルジョワ民主主義革命)の後の国内の安定の四つで説明している。ここではまだ「民族」の語は使用されていない。また、この論や『新湖南』と似たような論は、『浙江潮』『国民報』『湖北学生界』などの諸雑誌にもみられ、当時の思潮の一つだったといえる。

 では、陳天華の帝国主義観はどういうものだったか。彼は『新湖南』と同じく「民族帝国主義」の語を使うが、楊毓麟よりも若干後退しているようにみえる。楊と同じく、ビスマルク等を引き、民主主義を説き、民族国家の建設を主張するのだが、肝腎の帝国主義の把えかたが少々違ってくる。『猛回頭』に曰く、「滅国の名を『民族帝国主義』という。この民族帝国主義とは何か。ある国の人数が多すぎてその地に住みきれないとき、他の国の人々が抵抗しきれなければ、それに乗じてその国を占領する」と。

 つまり、楊毓麟のいう帝国主義侵略の原因のうち、「国民の繁殖力の膨張」のみをいって「商工業の発達、資本の充実による膨張」には触れていない。人口問題のみに帰してしまっているのである。そういう理解のため、侵略の目的は次のようなものになる。すなわち、前述したような通商・借款・鉄道・鉱産などの方法で経済的に困窮させ、結婚して子を生すことはおろか、自分一人を養うこともできなくさせる。そして「中国の人は日一日と少くなり、各国の人間は日一日と多くなります。各国の人が日一日と多くなれば、中国の人口はまったく滅びてしまい、中国のあらゆるところは彼らが完全に手に入れ」「やがては世界中に中国人種の影さえなくなってしまう」と。陳天華は『警世鐘』の別の箇処で、世界の人種を黄白紅(アメリカの「土人)黒粽(南洋諸島)の五種に分け、白人以外は近年人口が減少し、白人だけが増加しているが、「それは、世界万国、みな白種の人に滅ぼされるから」だといっている。だからこの辺のことを根拠としているのかもしれない。

 つまり陳天華の理解では、帝国主義侵略の原因は人口膨張にあり、その目的は殖民にある。そして、通商・鉄道などの経済侵略は殖民するための手段、土地をあけさせるための手段なのである。さきにあいまいだと記した『新湖南』は、天華が理解したような読み方をすることが可能である。二人の関係を考えると、あるいは楊毓麟の考えもこのようだったのかもしれない。こうした天華の理解のしかたには、社会進化論の影響がみてとれる。中村哲夫の指摘するとおり、陳天華は楊毓麟が社会進化論から汲み取ったものを継承していると、考えることができるだろう。しかし天華は、「商工業の発達、資本の充実による膨張」に触れない分、やや後退といえるだろう。

 以上は、陳天華の帝国主義観の弱点のうち、侵略する原因に関するものである。彼の弱点はもう一点、侵略される原因に対する認識にもある。

 彼は、『猛回頭』では先に引いたように、「抵抗しきれないため」とし、『警世鐘』では変法しなかった「満洲政府」を糾弾し、「絶命書」では次のようにいう。

  我に亡びる道理があるとき、ひとが我を亡ぼすのをどうして怨むことができよう。我に亡びる道理がないとき、彼はよく我を亡ぼし得るだろうか。朝鮮が亡びたのも、朝鮮が自分で亡びたに他ならない。日本が亡し得たのではないのである。

このように、陳天華は侵略される原因を自国の内部に帰している。ここにも、「優勝劣敗」の進化論の影響がみてとれる。これは中国を自強に向かわせるべき宣伝文であり、そういう点では意義がないではない。しかしこれでは、「満洲政府」がだめだから中国が滅びてしまうということになりやすく、帝国主義の侵略を正当化してしまう危険性がある。「どうして怨むことができよう」の一節が、それを示している。そしてこうした点は、彼の帝国主義に対する認識の甘さからくるものと思われる。「絶命書」は、さきの文に続けていう。「もし我もまた彼のやるとおりの政治をやっていたら、彼の方でもどんどん我に親しんでくるであろう」と。孫文がこれに似たことをいっているのは、よく指摘されるところである。因みに鄒容は、早いうちに満洲人の支配下から脱していたら、今の列強は中国の威権をおそれ、中国のほうが他国を滅ぼす側にあっただろうといっている。天華はここまで無邪気ではないが、やはりその甘さは否定できない。

 以上みてきたように、陳天華の帝国主義観は、侵略の生じる原因の把えかたに問題がある。しかし、一九〇三―一九〇五年という時点であることを考えれば、無理もないともいえる。当時は日本でも「帝国主義」の語は熟してはいず、日本経由で新知識を入れていた天華としては、これが精一杯のところだっただろう。そして一方、帝国主義の侵略の方法と現状とに対する彼の認識は、鋭く確かなものである。これが、「感性的」「非科学的」といわれ、同時に「当時の最先端」「最高水準」といわれるゆえんだろう。

 だからここでは彼の弱点を彼の特徴としてみておきたい。すると、彼は「種族」を重視しているということがいえる。楊毓麟は民族そのものから民族主義の発生を説いた。それと同様に、陳天華は帝国主義を、種族中心に考える。すなわち、一種族の人口膨張が他の種族を滅ぼすというように、種族対種族で把えているのである。これは、楊の「民族帝国主義」から、人口の点だけとり出して、経済の発達の面をすっぽり落としてしまっている点に、端的にあらわれている。陳天華の帝国主義理解が社会進化論の影響下にあるとすれば、彼の理解のしかたが種族中心、種族対種族というようになることも、より納得がいくだろう。

 

 

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