第三章へ

 

 

 

  第四章 民族観

 

  陳天華にとって、守るべき「民族」とは何であったか。それは列強に対する「中国人」か、それとも満に対する漢か。また、その他の少数民族に関しては、どのように認識していたのだろうか。

 

第一節 民族の自覚

 

  革命家陳天華は、中国の現状を提示して憂え憤るだけではなく、ではどうしたらよいかをも説く。『猛回頭』では、やるべきこと十項目学ぶべき外国の姿勢四カ国、習ってはいけない中国史上の人物四名をあげる。また『警世鐘』でも、自民族の欠点をすてて外国の長処に学ぶ必要を訴える。

 こうしたなかからここで注目したいのは、民族の自覚である。

 『猛回頭』で、学ぶべき外国として陳天華があげるのは、フランス・アメリカ・ドイツイタリアである。このうち、フランスはルソーの名をあげて暴君に対する革命と共和思想とを説くものであるが、他の三国は民族を説くものである。すなわち、ビスマルクがナポレオンの軍隊を破って報復したこと、ワシントンがイギリスから離れて独立したこと、マッツィーニ・ガリバルディ・カヴールが国を統一してオーストリアの支配から脱したことを説く。そこから、これらの国がいずれも現在は第一等の強国になっているとして、民族独立の重要性を説くのである。

 また、『警世鐘』は学ぶべき外国の長処をいくつかあげているが、そのなかに「有公徳」「知愛国」の二点があり、それぞれに天華による註が附されている。前者には「同一民族に対しては公徳がありますが、他民族に対してはぜんぜんありません」後者には「自分の国を愛するので、他人の国は決して愛しません」と。これは列強の中国に対する所業を皮肉っているようにも読める。そういう要素もないではないが、ここは素直に解せば、自国民や自民族を顧みずに異国人や異民族にもみ手で従うような人々を非難しているのである。また、同書は別の箇処で、こうもいう。「各文明国では、もし他民族がその国を占領しようとすれば、むしろ民族ぜんぶが戦死するぶんでも、決してほかの民族の奴隷にはならない」と。

  『警世鐘』のこの二つと、さきの『猛回頭』があげた学ぶべき国々の事例とを考えあわせると、彼のいいたいところがわかる。それは、『新湖南』のいう「民族建国主義」であり、その基にある異民族から自民族を守る意志である。そういう強い民族意識が必要だと、陳天華は考える。

 では、ひるがえって中国をみるとどうか。陳天華は、中国人にはそういう民族意識が欠けているという。そこで『警世鐘』は「須知種族二字、最要認得明白、分得清楚」という。自民族と他民族との区別をはっきりつけるべきだというのである。では、民族の区別をつけるとはどういうことか。

 天華はここで、世界の人種を五つに分け、更に黄色人種を四種に分ける。黄帝の子孫たる「漢種」中国の先住民族の「苗種」昔の金で今の満洲の「東胡種」昔の元で今の内外モンゴルの「蒙古種」の四つである。そして、「中国人」は「これまで民族のけじめということを知らないばかりに、蒙古、満州がきてもこれまで通り兵隊になり税を納めるし、西洋人が来ても、やはりこれまで通り兵隊になり税を納める」といい、そういう態度を改めて種族としての自覚をもつべきだと主張する。

 これと似たようなことは、鄒容『革命軍』にもある。鄒容も人種の分類を行う。ただ鄒は人種を黄白の二種とし、黄色人種内の分け方も天華とは若干異なる。しかし、漢種と満州・モンゴルとを別種としている点は同じである。

 なぜ二人はこのような分類を行ったのか。それは、自民族と他民族とを分けることで、自民族としての自覚をもたせ、民族主義を生じさせようとするからである。では「自民族」とは何か。それは、彼らの場合、漢民族にほかならない。陳天華は「民族の自覚」を「黄帝の子孫としての自覚」としてあらわす。民族の分類は、そのためのものである。彼がわざわざこうしたことをいったのは、「『黄帝の子孫』としての中華民族という観念が発生したのは、一八九五年、日清戦争で清朝の中国が日本に敗れ、近代化、西欧化に踏み切ってからのことであって、それまでは、現在漢族』と呼ばれている人びとのあいだにさえ、同一民族としての連帯感なぞ存在していなかった」とすれば、うなずける。そもそも「民族」という語自体が明治になって西洋の語から訳された日本製漢語であり、「民族主義」ともなると、中国人が使うようになったのは二十世紀になってからであるらしい。普通に生きていくには、皇帝が何人であろうが、自分が何民族であろうが、あまり関係ないのがむしろ普通だろう。漢民族という意識が、教えられねば気づかぬものであったことは、例えば次のような文章からうかがえる。

友人某君が『革命軍』という一書をくれた。三度もよみかえし手から離さなかった。ちょうどその時奉天が占領され、各新聞が警鐘を鳴らした。そこで国家の危機滅亡が近くに迫っていることを知り、これまでの卑俗汚濁の思想が一変し一新した。しかし朝廷が異民族であるかどうかは、まだ念頭になかった。

これは、出洋考察憲政五大臣を爆殺しようとして爆死した呉樾が、その半生を回想したものである。呉樾ははじめその朝廷に仕えるべく科挙の勉強をしていたのだが、そうでなくとも、民族を意識せぬ人が多かったのだろう。或いは、だからこそ、清朝が倒れた後に反満から五族共和に切りかえることができたのかもしれない。しかし「民族建国主義」を訴える立場からすれば、こういう状態は好ましいものではない。だから、こうして民族の別を説かねばならなかったのである。

 では、民族の区別をつけるとは、具体的にはどういうことであろうか。『猛回頭』はいう。

満洲は我々の百分の一の人数しかないのに、どうして漢人を制圧することができるのだろうか。それはみな、漢人が、自分たちは祖を同じくする同胞だということも、満洲が異種で仇敵だということも知らず、反対に仇敵のために同胞を殺すからである。だからこそ、満人は二百余年も天下に坐食していられるのだ。……もしも漢人が種族というものを知り、その天性の良心を発揮して、満人を助けるのをやめ、一声叫んだなら、満人は落ちついて坐ってはいられなくなる。

このとき陳天華が念頭においているのは、明末に清をひきいれた呉三桂や、太平天国を鎮圧した曽国藩のような人たちだろう。殊に曽国藩とその湘軍に対しては、湖南人として複雑なものがあったらしい。天華はこういう人たちを非難する。そして、中国の亡国の一因は「中国人」が民族のけじめをつけずに異族のために同胞どうしが殺しあうことにあるのだという。このときの「異族」は列強というよりは満人であり、「同族」は漢人を指すものであることは、今まで述べてきたところからわかるだろう。漢人はきちんと同族意識をもって異族に対さねばならず、それがすなわち「民族の自覚」なのである。

 ここで鄒容なら「嗚呼!我漢種」「漢種!漢種!」と連呼するところである。陳天華はそうはしないが、心情としては同じだろう。

 そして天華は、この漢民族としての自覚を呼びさますために、「黄帝の子孫」というのをもち出す。漢民族の祖とされる黄帝をもち出すのは、当時の革命家が好んで行ったことである。例えば、一九〇三年に緒雑誌の主要論文を集めて出版された書物で『黄帝魂』というのがある。また、『民報』創刊号は「世界第一之民族主義大偉人黄帝(中国民族開国之始祖)の肖像を巻頭に掲げている。そのほか、清朝を認めぬ立場から、皇帝による元号を用いずに黄帝紀元を用いることも、よく行われた。陳天華もその例外ではなかった。第一、彼の号である「思黄」は「黄帝を思う」という意味だろう。そして『猛回頭』『警世鐘』は巻頭に黄帝の肖像を掲げていたらしい。また『猛回頭』「獅子吼」には、黄帝が中国に入ってくる様子や、それ以来の漢族の歴史を説く件がある。こうして陳天華は、漢人はみな黄帝という共通の祖先をもつ同胞なのだと説くのである。

 つまり陳天華の説く「民族の自覚」は、列強に対する中国人というよりは、「黄帝の子孫たる漢民族」としての自覚であった。では天華は自分が漢人だから漢民族を例にとってその自覚を説いたのだろうか。それとも、もともと漢民族しか頭になかったのだろうか。

 

 

      第二節 異民族観

 

 陳天華は民族の自覚を訴えるときに、「黄帝の子孫」ということをもち出した。これは種族の区別をつけるという意味をもつだけだろうか。そこに何か優劣の意識は入ってはいないだろうか。 

 この時代の漢人革命家たちに華夷思想的なところがあったことは否定できない。それは例えば同盟会「総章」(綱領)の「駆除韃虜、恢復中華」の二項目や、同じく同盟会の「革命方略」の冒頭にある「二百六十年の膻腥を滌い」などの句にもみられる。また、章炳麟の華夷思想は有名だが、鄒容もいちいちひろいあげるのが大変なくらい差別的なことばにあふれている。

 章開沅は、この時代の「排満」は「反清政府」をあらわし、その意図するところは反封建・反帝国主義であるとして、単なる反満復仇――一般満洲人にまで及ぼすもの――ではなかったとする。しかし、たとえ「口号」にすぎなくとも、華夷的な言辞を発することは、夷とされた側としてはおもしろくないだろう。それは、清朝を倒した後の国家の構想に、異民族をも含むか否かにも関わる問題である。本心からであれ、宣伝・口号としてであれ、華夷的なことばを出すところからは、各族平等の「五族共和」はうまれない。そして実際、革命思想は「排満」という形でひろめられていた。だから「もともと同盟会が提出した『駆除韃虜』の口号は、漢人を殺したり奴隷にしたりする満族統治者を駆逐するだけ、つまり『満清政府』を倒すものであって、全ての満族人民を駆逐するものではなかった。しかし満洲貴族はわざと逐満とは漢人が満人を皆殺しにすることだと宣伝し、満人に疑念と恐怖心を生じさせた」というようなことにもなるのである。「排満」の口号が叫ばれるなかで勃発した革命によって誕生した中華民国が五族共和」を掲げたところで、木に竹を接いだような感が生じるのは、当然のことだろう。このような観点から、私は華夷的な言辞そのものをも重視したい。

 では、陳天華はどうだったか。『猛回頭』に次のようにいう。

満洲、モンゴル、チベット、新疆の人は、昔から漢人と敵対していて、一刻も彼らを防ごうとしないことはなかった。彼らはみな野蛮で虎狼のように凶暴で、礼儀を知らない。中国は彼らを犬羊と称する。

礼を知らぬことをもって夷とするのは、中華思想の主な考え方である。陳天華も、これを「野蛮」といい、「犬羊」という。もっともこの箇処では、漢人は以前「犬羊」と称してきた満人の奴隷にされてしまっているのだと、いうのがその主旨である。天華はまた、別の箇処でいう。「我々漢族は、モンゴル・満洲苗・猺に対しては言うまでもなく文明であるが、欧米各国に対しては野蛮である」と。陳天華の文明・野蛮は絶対的なものではなく相対的なものであることが、これらの文章からわかる。これは、礼の有無によって弁ずる伝統的な華夷思想とは異なるところである。天華は洋人の中国人に対する扱いのひどさ、その蔑視や軽視を、例をあげて示す。これは、列強は中国を滅ぼすのに容赦しはしないと言うことを訴えるものだが、同時にその蔑視を憤るものでもある。天華は『警世鐘』で、自民族の短処を捨てるべきだといい、野蛮人として「外国に極度にはずかしめられ」るような中国人の様子を描き出す。天華の蔑視への憤りは、蔑視される中国への悲憤につながり、それが更に彼の死へともつながっている。彼の文明・野蛮の意識は、中華帝国が栄えていた頃の華夷の弁とは違い、もっと切実なものだった。それは「優勝劣敗」の社会進化論に基づくものでもあるだろう。だからこそ、蔑視への憤りは、蔑視される側のその克服の問題へむかう。蔑視されるような劣等人種は滅びるのが必至だと、考えられるからである。これが、彼が「絶命書」にこめた切実なメッセージであった。しかしそれにしたところで、国内の異民族を「野蛮」とみなしていることにはかわりない。自民族を劣等・野蛮とみなすことと、他民族を野蛮と称することとは、別の問題だろう。それとも、そこまで社会進化論を適用して、各々の民族の自強を呼びかけるのだろうか。そのような箇処は、天華の著作からは見出すことはできない。

 とはいえ、陳天華の著作には、蔑視的なことばは比較的少ない。細かくみていけば、殊に「獅子吼」など、少なからずひろえるだろうが、それでも章炳麟や鄒容のように声高には、野蛮人だのけだものだのと、わめきたてはしない。それでも、「満洲以五百万的野蛮種族(傍点引用者)」などと、平気でいっている。私はむしろこういうことばを重視したい。

 それは「絶命書」にもあらわれる。天華はいう。「多数優等之族」が「少数之劣等族」を統治するのが順であり、「少数之劣等族」が「多数之優等族」を統治するのは逆であると。これは、自分は民族問題よりも政治問題を重視するのだという文脈であらわれた言である。だから永井算巳はこれを、「多数決原理」であり「民主主義政治のルールによる理性的排満革命」を主張するものだとする。はたしてそうだろうか。たしかに「多数」「少数」の語からはそうみえる。文脈からいっても、天華の意図はそうであったといってよいかもしれない。そうだとしても、民族の人口の多寡を多数決原理にあてはめるとは、民主主義の論理に沿うとは思えぬ乱暴な論である。このように多数意見(利害)対少数意見(利害)というよりも、即多数民族対少数民族として把えてしまう点にも、種族対種族を中心とする天華の考えかたがあらわれているといえよう。それはおくとして、私はここでは、「優等」「劣等」の語に注目したい。これは例えば遺伝学で優性遺伝・劣性遺伝というときのような、純粋に数量だけを指すことばだろうか。そこに価値観は入っていないだろうか。なぜ「多数之族」ではなく「多数之優等族」と記したのだろうか。

 実は天華は、『民報』創刊号に書いた「今日豈分省界之日耶」でも、同様のことをいっている。満人は漢人の百分の一の人数にすぎず、少数の満人が多数の漢人を支配するのは不平等であり、そこで博愛平等主義と民族主義とが一つになるのだと。天華はこの文章では、「少数之満人」「多数之漢人」というのみで、「劣等」「優等」とはいっていない。だからおそらく「絶命書」でも、「優等」「劣等」はなくてもよかったのだろう。永井がいうとおり、多数と少数との問題だと把えるのが正しいのだと思われる。しかし私はこれを問題にしたい。「優等」「劣等」は、おそらく『新湖南』にみられるように、社会進化論からの発想であろうが、これは漢・満にあてはめると、華夷の弁的な意味あいをもつ。現に権力を握っているのが満であって漢でない以上、漢が優等で満が劣等だと考えるのは、進化論よりは華夷に近いといえよう。天華がここで華夷の弁を説いているのならまだしも、なぜ民主主義を説く段でこのような語がでてくるのか。たぶん天華はさほど意識せずにこの語を用いたのだろう。それならばなおのこと、こうしたおそらくは意識されていない華夷的な言辞は重視したい。これは、彼が無意識的に、すなわち当然のこととして、華夷的な考えをもっていたことを示すからである。天華でさえ、こうであった。もっと露骨にいいたてる人は、たくさんいたのである。

 さて、このように華夷的な要素を否定できぬ天華だが、彼は異民族一般に対してどのように考えていたのだろうか。それは、相容れることのできるものだったであろうか。

 「絶命書」で彼はいう。

満と漢とは結局両立せず、我が彼を排撃するのは言葉でやるのであるが、彼が我を排撃するのは実力を以てする。我が彼を排撃するのは近年に始まるが、彼が我を排撃するのは二百年一日のごとくである。我しりぞけば彼すすみ、彼が疑念を氷釈して甘んじて我と協力するなど、到底のぞめないことだからである。

ここには、清朝に対する深い不信がある。そしてその原因は清側に帰されている。清が漢を圧迫し差別するからだと、天華はいう。ここにあげたような不信感は、清朝に対してだけなのだろうか。後述するが、天華はこの文章に続けて、清と満とを区別して復仇主義の非を説いている。それならば、「結局両立せず」協力は「到底のぞめない」というのは、清朝と漢人との間でだけのことなのだろうか。一般満人や他の国民異民族とは別なのだろうか。

 『警世鐘』の民族の自覚を説く件で、彼は次のようにいっている。

民族(原文は〈種族〉)感情は、母の胎内から携えて出たもので、自分の民族の人に対してはかならず相い親しみ相い愛するが、ほかの民族の人に対してはかならず相い残い相い害するのです。

同様に、小説「獅子吼」では、「民族の主義とは何ですか」との問いに、こう答える。

だいたい人間というものは、ふつう、同族の人に対しては親愛しあい、外族に対しては殺害しあうもので、これはきまりきった話だ。慈父が奴隷を愛するのは、子や孫を愛するのに及ばない。だから、家長というものは、どうしてもその家の人がなる必要があるのであって、よその人に来て家主にならせるわけには、断じてゆかないのである。……しかるに、国家だけは外族の人がやってきて主権を掌握するのをゆるしてよい、ということがあるだろうか。もし不幸にして異族に占領されたら、たとい百年千年の久しきにわたろうとも、やはり何とか手段をめぐらして回復しなければならない。これがすなわち民族主義というものだ。

これらはいずれも反帝=反清を訴える文章である。「同族に対して相親愛」「外族に対して相残殺」というのは、おそらく元・清の建国時の惨劇を念頭においているのだろう。陳天華はここでは異民族による侵略に対する抵抗を呼びかけただけかもしれない。また、宣伝文という性格からくる誇張もあるだろう。しかし、中国国内の漢族以外の人が読んだら、どうみえるだろうか。同族イコール中国人、外族イコール洋人ならまだよいが、必ずしもそうではあるまい。これは、同族イコール漢族でもある。なぜなら、『警世鐘』は列強による侵略の件から話をもってきているが、「獅子吼」では倒清からつなげてきている。だから、少なくとも満洲人は、同族には入らない。そして『警世鐘』でも、さきの文の後段で、次のようにいっている。「ひとは他姓のものには親しまない」「すべて漢民族と違えば黄帝の子孫ではなく、すっかりみな他姓ですから、断じて助けてはなりません」と。繰り返すが、これは反帝=反清を訴えるものである。反帝=反清のために民族の自覚を訴えるものである。そのときに、陳天華はこういういいかたをしてしまう。この考えかただと、一般満人やその他の国内異民族とも相容れないことになる。このように「他姓のものには親しま」ず、外族に対して「相残殺」するものだと考えるならば、清朝を倒した後の国内の民族関係は、どうするつもりだったのであろうか。

 

 

      第三節 「中国人」

 

  革命というからには、旧いものをこわすだけではなく、新しいものの建設も考えなければならない。では、その構想の内に、漢民族以外の民族は含まれていただろうか。

 まず、満洲人の問題から考えてみる。満洲人は特別に遇されていたとはいえ、一般満洲人と清朝とを同一視することはできない。殊に東北の満族農民は、清朝の封建統治の下で窮乏し、満漢の別をこえた民衆闘争は、清朝の弱体化に貢献した。また、吉林の保路運動を通して、反帝と反清とを結びつけるようになった満洲人もいた。腐敗した清朝は倒すべきだとしても、五百万の満洲人全てが清朝の人間だというわけではない。清朝と満洲人とは切り離して考えるべきである。陳天華は民生主義を解さず階級間の矛盾にも注意をはらわなかったが、清朝と満洲人との区別はついていただろうか。一般満洲人も同じ中国人だと考えていただろうか。

 鄒容は「中国に居住する満州人を駆逐する。あるいは殺して報復する」ことを主張する。これは、清朝も一般満人も一緒くたにした考えかたである。これはあるいは中国本部に住む満洲人と東北の満洲人とを分け、前者のみを問題にしているのかもしれない。しかし、いずれにせよ、これでは清朝を倒した後の国に満洲人を含むことは不可能である。これに対し陳天華は、清朝と満洲人とをはっきり区別していたといわれる。その根拠とされるのは、前節で触れた「絶命書」である。前節で引いた文章に続けて、天華はいう。

中国を滅びさせまいと思えば、一刀両断、満洲に代って政権をとり、それを育成する、それ以外にないのである。彼がもし天命に従順であるなら、徳川氏を以て遇すればよろしい。満洲民族が同等に国民であることを認めるのである。現代の文明において、仇殺のことなど断じてあるべきではない。故に小生の排満は復仇論者の説とはちがって、依然として政治問題なのである。

ここから仇殺の否定のみをとり出せば、たしかに漢満の共存を説くようである。そしてそのとおり、単純な排満復仇とは一線を画するものだといってよい。少なくとも、この「絶命書」の段階では、清と満との区別はできていたのである。彼は『猛回頭』『警世鐘』でも王朝交代と亡国滅種とを分けてみせているから、王朝と民とを分ける発想は前からあったのだろう。また、義和団のような「野蛮排外」は、彼が一貫して否定しているところである。私は、この復仇反対を高く評価したい。革命思想は、宣伝の過程で「排満」の一点に収斂されていったため、多くの人はもっと単純に排満復仇を考えていたと思われるからである。例えば、一九〇六年の萍瀏醴起義の際の檄文は、専制政治の打破を主張するところまでいきながら、全篇に「仇敵」たる「韃虜」に対する復仇の念があふれている。また、章炳麟の「復仇の是非を定める」は一九〇七年に『民報』に発表された文章だが、これは復仇を野蛮として否定する意見に対する反論である。

 劉大年は、「反満」がすべてをぬり込めてしまい、反帝反封建がかくれてしまったことが、辛亥革命の失敗につながっていると指摘する。清朝が倒れたところで、おわった気になってしまった人が多かったのではないかと。孫文が危惧したのは、まさにその点だろう。同盟会結成時に、会の名称を「対満同盟会」にしようという案に対して孫は、革命の宗旨は排満のみにあるのではなく、専制を排除して共和政を創造することにもあるのだとして、反対している。しかし、同盟会は実際には反満の民族聯盟であり、この一点で一致した「一種の統一戦線」であった。

 ところで李潤蒼は、この時代の革命家で少数民族に注意をはらった人は少ないといい、章炳麟をその一人としている。章は、清と満とを区別できていたというのである。その根拠とされるのは、辛亥革命勃発直後に章が満洲人留日学生に向けて発した文章である。それには、「君たちの政府が倒れても、君たち満人もまた中国人民であり、農なり商なり好きな業に就けばよく、選挙の権も一切平等である」「国内にはモンゴル・回部・チベットの諸人がいるが、既にみな等視している。どうして満人だけを薄く遇することがあろうか」とある。たしかにこれは清と満とをはっきりと区別している。正直なはなし、これが章の思想のどこから出てくるのか、私にはわからない。なるほど章は専制政体としての清にも反対し、亜州和親会設立にみられる如く反帝も訴えるなど、決して排満復仇一本槍ではなかった。しかし、あの強烈な華夷思想とはどこでつながってくるのか。これは、李潤蒼のいうように、漢との同化を前提としなければ説明はつかない。 

 同化に関する言は、つとに改良派の主張するところである。例えば梁啓超は、漢満蒙回苗蔵を合わせて一大民族とすることを唱えるが、その前提とするところは漢への同化である。梁はそこから革命派の復仇論を非難し、革命を否定する。つまり梁は同化を前提としながら、革命派とは反対に清と満とをくっつけて、倒清に反対するのである。これに反論したのは兆銘だが、それとても同化論であったことは後述する。

 はっきりとした同化論でなしに少数民族に言及した例としては、楊毓麟『新湖南』があげられる。

漢族が自ら結集できてこそ、はじめて満州、モンゴル、チベットを援助して自ら結集させることができる。漢族が自ら結集し、また満州、モンゴル、チベットを援助して自ら結集させることができるようになってこそ、はじめてアジア中央政府に権力を集中して「白禍」に抵抗することができる。

楊には、湖南一省が自覚をもって自立し、同様に各省が自立することで、清朝は倒れ中国の独立が実現するという構想がある。このつながりで、他民族にもその自立を求めるのである。このとき彼が敵対するものとして考えるのは、帝国主義列強である。彼は、「民族建国主義」による建国、「独立性」のある中国人」の製造を考える。その「中国人」に他民族がどのような形で関わるのかは判然としないが、他民族のそれぞれの自立に、漢族中心ではあるが、とにもかくにも触れている。

 また、革命家ではないがそのシンパサイザーである留学生黄尊三は、中国建国の困難さの一因に、種族の複雑さをあげ、中央集権は無理だろうといっている。この認識は、彼の出身が湘西の苗族の多い地域であることにもよるのだろうか。

 では、陳天華はどうか。満と清とを区別したところで、多民族国家の建設を考えたであろうか。実は彼は少数民族に対してほとんど言及していない。先住民族として苗・瑶族に触れるほかは、征服者としてのモンゴル・満洲をあげるだけである。

 例えば「敬告湖南人」では、オーストラリア・アメリカの先住民と苗・瑶族とを並べて、ともに新来の民族に土地を奪われた例とする。また『猛回頭』でも、苗・瑶両族はかつて中国の主人だったが漢人に逐われて今では深山幽谷に少数が住んでいるだけだという。つまり、いずれも過去のものとみなしていて、これから先どうするかということは考えていない。また、モンゴルは過去の征服王朝として、満洲は現在の征服王朝としてしか出てこない。陳天華は、中国に少数民族がいるということは勿論しっているのだが、清中国の建設を考えるときには、彼らのことは考慮の外に出てしまっているようである。

 そうなると、前にあげた「絶命書」の一節はどういうことになるのだろうか。天華はそのなかで「彼がもし天命に従順であるなら」「同等に国民であることを認める」といっている。この部分がそれを解く鍵である。この部分の意味をとるために、別の文章をみてみよう。

 同盟会の「革命方略」は陳天華の死の翌年に出された。天華がこれにどの程度関わっていたのかはわからない。しかし彼は、「方略」の前提たる「総章」の起草に加わるなど、同盟会の重要メンバーであったから、天華の考えともそう大きく異なるものではないだろう。この「革命方略」は、「駆除韃虜」を説く件で、次のようにいう。「満洲漢軍人等は、後悔して投降するならその罪を免ずるが、抵抗するならば容赦なく殺す」と。

 これと同じ路線に立つ汪兆銘は、『民報』創刊号に書いた「民族的国民」で、復仇主義を否定する。この論文は、前述した梁啓超に答えるものである。そこで汪は民族の同化を四種に分ける。@同等の民族の融化A多数の征服者が少数の被征服者を同化させるB少数の征服者が多数の被征服者を同化させるC少数の征服者が多数の被征服者に同化される。また、民族主義を異族の駆逐、「国民主義」を専制の顚覆と、それぞれ定義し、排満は前者、倒清は後者に、それぞれ基づいて同時になされるものだと説く。だからかりに自民族の王朝であったとしても、やはり革命はなされねばならないと。そこで同化論にかえり、民族主義を達して満を平らげれば蒙もこれに従って吸収できるという。彼は、民族の地位を確認したうえでの同化、つまり漢族主体のAの同化を説く。だから、偏狭な排満復仇主義とは違うのだと。そして、次の文で結んでいる。「ああ、私はわが民族が民族主義を実行し、一民族を以て一国民をなすことを願う。ああ、私はわが民族が民族同化の恒例上の位置を審らかにし、以て自処を求めることを願う」と。つまり、漢族主体の同化論である。目指すところは漢民族の国家であり、他民族は漢化によってそれに加わることができるのである。

 また胡漢民は、三民主義の解説文ともいえる「民報の六大主義」で、やはり復仇を否定する。しかしそこでは「被征服者の地位に甘んじえない」といい、「吾多数優美之民族」が「少数悪劣民族」の現政府を倒して「征服者の地位に立つ」ことを主張する。つまり漢人が支配する漢人国家の建立である。彼は無論、共和主義を強く主張するが、そこには国内異民族への配慮は見られない。

 そして孫文自身は、『民報』創刊一周年記念の大会での演説で、やはり復仇主義を否定していう。

民族主義は、決して異民族の人にあえば必ず排斥することではなく、異民族がやってきてわが民族の政権を奪うのを許さないことであります。わが漢人が政権を保有してこそ国が存在するのであり、もしも政権が異民族の人に掌握されるならば、たとえ国が存在したとしても、もはやわが漢人の国ではありません。

つまり、「漢人の国」を目指すのである。そして、満洲人を絶滅させようというのは誤りで、「われわれは決して満州人を憎むのではなく、漢人に害をなす満州人を憎む」のだから、革命の実行を邪魔しなければ仇殺することはないという。まさに「革命方略」にあったとおり、漢人の国をつくるのを邪魔しなければ許されるのである。

 こうしてみると、陳天華の「絶命書」の一節の意味もわかってこよう。天華が目指したのは、漢人の国家の建立なのである。これは『警世鐘』で「漢人が国家を建設し中国全国を回復しないかぎり、この排外の仕事はいつまでも終りにはな」らないといっていることからもわかる。彼は、「彼がもし天命に従順であるなら」「同等に国民であることを認める」というが、これは、漢人の国づくりを邪魔しなければ許してやるということではないだろうか。天華はここで「同等」といってはいる。しかし、この文章に続く文は、実は前節で引いた「多数の優等族が少数の劣等族を統治するのが順だ」というものである。となると、やはり漢族中心なのではないだろうか。

 そもそも、彼にとって「中国人」とは何をさすのだろう。

 同盟会「総章」は、国内支部の統括範囲に新疆・西蔵・蒙古・東三省も含むが、これは民族というよりは地域を指すものだろう。少数民族への働きかけとしては、山西の同盟会が内蒙古に王建屏らを派遣した例がある。その結果モンゴル人にも入会者が出たほか、少数の満族からも革命への賛同を得たという。また、疆に逃れてきた日知会員の馮一らは、そこで活動を進めた。彼らは一九一〇年には『伊犁白話報』を創刊したが、これは漢、満、モンゴル、ウイグルの四種の文字で出され、民族平等を宣伝していた。そのような例はあったが、同盟会の主流の考えはやはり漢族しか頭になかったようである。なぜなら「革命方略」は「駆除韃虜」の説明で、「今の満州はもともと塞外の東胡」で「わが中国を滅ぼし」「われわれ漢人を奴隷にした」という。また「恢復中華」の項では、「中国は中国人の中国である。中国の政治は中国人が行う。

駆除韃虜の後、わが民族国家をとりもどす」という。この「中国人」は明らかに現在の中国人とは異なる。これは、一民族による支配に反対して、そうではない「中国人」――諸族から成る多民族国家中国の成員――を西蔵して対置しようというレベルのことではない。もっと単純に、漢人を指すものである。それは、「われわれ漢人は同じく軒轅(黄帝)の子孫」だといって革命への参加の呼びかけとしていることからもわかる。視野にあるのは漢民族だけであり、その漢人を「中国人」という語であらわしてしまうのである。

  そして陳天華の「中国人」も、これと同様である。彼は「中国皆漢人」という。「中国はおちぶれて異民族の下に二百数十年」ともいい、モンゴルや満洲と「中国人」とを対置しもする。つまり、満洲等と「中国」「中国人」とは別と意識されている。また「論中国宜改創民主政体」は中国人の性質を説くが、そこでいう「吾民族」「中国国民」が漢人を指すものだということは、あげられている事例からわかる。そしてまた陳天華は「国民必読」でははっきりといっている。「清朝はもともと満洲から入ってきたもので、その人々はみな中国人ではない」と。彼も「中国人」と漢人とを等置しているのである。

 もっとも、彼は意識的に少数民族を「中国」の枠外においていたわけではないだろう。前述のように、彼は少数民族についてほとんど言及していない。だからむしろ無意識的に枠外に出していた、更にいえば最初から頭になかったのだろう。清末は各地で少数民族も反清闘争を起こしているが、それを彼は知らなかったのか、知っていて気にとめなかったのか。ともかく彼にとって国内異民族は、その存在を知ってはいるが、思想上は意識の外にあり、強いて考えようとすれば存在を「認める」「許す」的なこととなるものだったのである。だからこそ、「中国人」即漢人となり、倒清は真直に漢人国家の建立につながり、革命の呼びかけが「漢種万歳!中国万歳!」で結ばれるのである。

 これは、陳天華に限らず当時の漢人革命家の多くがもっていた限界である。孫文にしたところが前述のようなもので、五族共和とはほど遠い。ただ例外としては無政府主義者があげられる。彼らは一切の特権を排する立場から、「たんに民族を問題にするよりは、民族の特権を問題にすべきである」とする。そして例えば劉師培・何震は次のように述べる。

他族を漢族の支配下に置こうというならば、現在漢・蒙・回・蔵の諸種族が満州に支配されているのと何の違いがあろうか。……民族革命は弱小民族の強大民族に対する抵抗にほかならない。どうして中外、華夷を差別する旧説に固執する必要があろうか。

これは、「種族が異なる以上一つの国に同居することはできないとか、同居するならば漢族の政治に服従すべきである」という説に対する反論だが、その対象は復仇論者だけではない。汪兆銘や胡漢民、孫文のように「以一民族為一国民」の「我漢人的国」をつくって「我漢族四万万人最大的幸福」を謀ることをも、批判している。これは漢族中心主義への鋭い批判だといえる。彼らの主張は現実性に欠け、力をもち得なかったが、国内異民族に対するこうした認識は評価したい。主流の革命家たちは、ここまではっきりとした認識には達していない。

 なお、『民報』第二十号にモンゴル族からの投稿が掲載されている。論旨は、モンゴル族は満清の下で苦しんでおり、モンゴルにとっても満は不倶戴天の仇であるから、漢族と協力して排満し、ともに共和国家をつくりたいというもの。このなかで、満漢平等・蒙回蔵同化論に触れ、これは満人が漢族を籠絡する手段であり、同化は蒙回蔵を滅ぼすことの代名詞だとする。これは清朝が「予備立憲」の関係でうち出した満漢の畛域をなくす政策に関して述べたものである。この政策が漢族を籠絡するものだということは、革命派がつとに指摘しているところだが、同化が蒙回蔵を「滅ぼす」ものだという考えかたは、漢人の側からはされていなかったのではないかと思う。

 この文章には、『民報』記者のコメントが附されている。民族主義とは各族が他族の国の侵略に反対するもので、偏狭ではなく普遍的なものである。漢蒙は協力して満洲を覆す。モンゴルは漢族の北方の良友であり、回部・チベットもまた同じだと。

 私のみた限りでは、『民報』全二十六冊中、漢族以外からの提言はこの一篇だけであり、それへの応えも六行のコメントのみである。モンゴル側としても、このような意見をもつ人は多くはないだろうが、漢人革命家の側でも充分それに対処する用意はなかったのだろう。この文章の筆者は少なからずへり下って両族の協力を提案している。しかしこの提案や同化に対する認識をしっかりとうけとめる素地は、漢人の側にはなかった。結果したのは、手の及ばなかった漠北モンゴルの独立と、それに引っぱられる内蒙古を引きとめるための、とってつけたような「五族共和」だった。

 そもそも、民族という意識の希薄なところに民族の自覚をつくろうというときに、なぜ「黄帝の子孫たる漢族」をもち出し、「中国人」をつくろうとしなかったのだろうか。倒清は急務であり、大多数を占める漢人にとってはそれがわかりやすかったのだろうが、彼ら漢人革命家が少数民族をほとんど意識していなかったこともその一因だろう。前述のように、黄尊三は他民族を前提とする国家建設を考えたらしい。黄は革命家ではないが、彼の姿勢がその出身地によるものならば、湖南という地は華興会系をはじめ革命家を多出しているから、異民族について考えた人も全くないではなかっただろう。しかし、革命家の大半には異民族は満洲人しか見えず、その満洲人も清朝と同一視されていた。満と清とを分けて考えることのできた人も、同化論以上に積極的なことはいっていない。そうした欠点を明確に批判できたのは、一民族による他民族支配どころか国家権力まで含むすべての強権に反対する無政府主義者だけだったようだ。

 

 

おわりに へ