トップへ

人物紹介へ

 

 

補足

楊毓麟小論へ

楊毓麟 (1872〜1911)  年譜

 

 楊毓麟、改名して守仁。字は篤生。湖南省長沙の人。生年については71年とするものも多いが、曹亜伯『武昌革命真史』に弟殿麟の言として「同治壬申十月」とあるので、72年とする。

 家は「小康」というから、大家ではないがそこそこ余裕のある中小地主だろうか。兄弟三人とも教育を受け、兄コ麟(コ鄰)は寄付金で吏員になっている。コ鄰は科挙のための学問を嫌ったといい、要するに次男の毓麟が最もできがよかったのだろう。その分、彼は集中して厳しく仕込まれたと思われる。

 また『新湖南』からは、彼が郷里の父老から、太平天国軍が攻めてきたときの話、とくに太平軍の残虐行為について、細かく具体的に聞かされて育ったさまがわかる。貧農の朱徳が旅回りの職人から、英雄としての太平軍について聞いて育ったのとは好対照をなしている。大官の孫だった魯迅も幼時に太平軍の残虐行為の話を聞かされたと記している。土地の違いもあろうが、それよりもその属する階層の違いがうかがわれる。

 

 十二、三までにひととおり修め、十五歳で生員。長沙の岳麓、城南、校経の三書院に学ぶ。この頃から同族で一歳年長の楊昌済と親交を結ぶ。日清戦争に際して「江防海防策」を書き、当時在学していた校経書院の院長に激賞される。昌済とともに、康有為の著書や西洋の政治や科学についての冊子をとりよせ、「改革」について研究する。

1897年、学政(中央から派遣される省の教育長官)江標により抜貢(12年に一度、とくに優秀な生員を抜擢すること)、挙人となる。翌戊戌の一試に春官(意味不明。ご教示を乞う。進士になったという説もあるが、わたしの見た限りでは、進士題名録にも『湘報』の速報にも、それらしき名はなかった)。県知事の発令を受けるが任官にいたらず。湖南変法運動の中では唐才常らとともに『湘学報』の編撰にあたり湖南時務学堂教習となる。98年9月に変法運動が破れた後は一時故郷に逃れ、翌年、同郷の江蘇の学政の招きでその幕下に入るが、淀んだ官界を嫌って間もなく辞職。湖南の大郷紳、龍湛霖のもとに身を寄せる。

 

 1902年、龍氏の子息の留学に伴って渡日し、早稲田大学等で学ぶ。はじめは私費だが、翌年には官費を受ける。同郷の留学生たちと『游学譯編』を発行。03年はじめに主著『新湖南』を出版。これは後の華興会の理論的な支柱となっただけでなく、辛亥革命の基調となったともいえよう。

 03年、ロシアによる侵略に反対する留学生運動、いわゆる拒俄義勇隊に参加。ついでその後身たる軍国民教育会にも加わる。横浜で爆弾製造の研究をし、この年11月頃、暴発事故を起こして隻眼を失明したともいう。

 04年夏頃に帰国。天津で光緒帝と西太后の暗殺を企図するが果たせず、上海で爆弾製造に従事。華興会員としては章士サとともに上海で工作にあたる。ここで蔡元培、陶成章ら、光復会を結成する人々と連絡をとる。華興会は04年11月を期して長沙での起義の計画を立てていて、楊はそれに浙江で呼応することになっていたようだ。章士サによると、楊は暗殺も必要だとしたが、黄興はあまり賛成しなかったという。

 04年10月に長沙起義の企てが破れた後、なおも暗殺を重視する楊は黄興らと別れ、守仁と改名して北京へ行く。管学大臣の張百熙(長沙出身。進士。湖南の大郷紳である張祖同の弟)の幕下に入り、その世話で京師大学堂(北京大学の前身)の訳学館の教員となる。その一方、北方暗殺団を組織。趙声の紹介で呉樾と識る。

05年9月、清朝の考察憲政五大臣洋行に際して、楊はその随員(載澤の幕下)となり、また、五大臣を爆殺すべく呉樾に手製の爆弾を与える。呉樾は北京駅頭で実行しようとしたが、爆弾が呉の懐中で暴発したため、大臣は載澤ら3名が軽傷を負うにとどまる(随員3名死亡10余名負傷)。一行は大臣2名を入れ替えて、日を改めて出発した。

 

 06年、大臣一行の随員として渡日。東京で同盟会に加わる。このとき、随員として各国政治制度等の翻訳をする仕事を、宋教仁に下請けに出している。翻訳料もよく、宋としては清朝の金で政治制度の勉強をさせてもらったことになる。楊は日本までで随員を辞して帰国する。同年夏、姉の死で帰郷し、数日滞在して上海へ帰る。以後、湖南の地を踏むことはなかった。 

 07年、上海で于右任らと『神州日報』を発行。このころ徐世昌(軍機大臣。袁世凱と関係が深い。考察憲政五大臣の一人だったが、呉樾の事件で負傷し交替)の招きを受けるが辞退している。上海時代は、捕らえられた同志の救出活動や、鉱山利権保護運動などでも奔走していた。妻と母、弟を上海に呼び、しばしともに暮らす。

08年はじめ、欧州留学生監督カイ光典の秘書として招かれ、革命の機が未だ熟せずと見て渡英。このとき相談された于右任は、我が国の学問の向上のためにと強く勧めたという。

09年、カイが留学生とのトラブルで辞職する際に代理に推されるが固辞。スコットランドのアバディーン大学に学ぶ。于右任の『民立報』の通信員を務める。同学の楊昌済、章士サと親交を深める。呉稚暉らのアナキストグループとも接触。自らはアナキズムに与することはしないが、「門外漢」として強い関心を寄せる。

10年、夏休みに楊昌済と旅行。スコットランドの貧富の差、農民の貧しさに目を留める。

11年、かねてから頭痛と不眠とに悩んでいたが、黄花崗起義失敗の報を受けて悲観。趙声の病死の報に、さらに憂傷を深める。

8月5日、リヴァプールにて踏海。四十歳。

 

 

伝記としては

曹亜伯『武昌革命真史』を中心に、楊昌済「踏海烈士楊君守仁事略」、蔡元培「楊篤生先生踏海記」、于右任「弔楊篤生文」等を参照。

ほかに次の研究論文を参考にした。

武藤明子「陳天華と楊毓麟」、板垣望「排満思想の意味〜楊篤生の場合」、大塚博久「楊毓麟とその『新湖南』」、同「自尽の思想(二)楊毓麟の場合」、中村哲夫「華興会と光復会の成立過程」、篠崎守利「『義勇隊』そして暗殺団」、陳珠培「楊毓麟与『新湖南』」 他

 

 

 

 

補足:楊毓麟なんで食べていたか

小論:楊毓麟の革命思想再考

 

トップへ