楊毓麟年譜へ

楊毓麟小論へ

 

楊毓麟は何で食べていたか?

 

 これは謎なので、試みに年譜にそって考えてみる。

 

 彼の家は大地主ではないものの、割合と余裕のある中程度の地主だったと思われる。

 98年に戊戌の変法運動がつぶされた後、彼はいったん郷里に逃れてから、江蘇省の学政(教育長官)の幕下に入る。これは私設秘書と考えてよいだろう。

 そこを辞した後、大郷紳の龍氏の食客になる。龍家の子息の家庭教師をしていたようだ。官途に就かない読書人にとっては、教師というのが最も普通のだった。

 

 留学は1年目は私費だが、これは自費ではなく龍氏が費用を出していたらしい。龍氏の子息と一緒に留学したのだろう。翌年には官費を受けたが、これは国費ではなく省費。陳天華や楊昌済も、湖南省派遣の留学生として、省の金を受けている。

 

 問題はその後、帰国して本格的に革命活動を始めてからは、どうだったのか。

 黄興は長沙起義のために田んぼを売ったという。宋教仁も、多額の借金を作ったために土地を売ろうとして、本家の従兄に反対されている。

そして楊毓麟もこのとき、私財をかなり提供している。やはり田んぼを売ったのだろう。伝記に拠れば、彼の家はもとは「小康」、つまり、食うに困らぬ、ほどほど余裕のあるくらいだったのが、「国事に奔走した結果、落ちぶれて、田40畝(ムー)」になったとある。

40畝というのは、地主としてはかなり少ないと思われる。

 

参考までに、手許の資料から拾った数字をいくつか挙げておく。

・四川省の小作だった朱徳の家が借りていたのは3エーカーで、換算すると20畝。その地主の丁家は、小作が60家族あったから、単純計算で1200畝を所有。

・湖南の宋教仁の家は、父の代で減らして100畝。

・湖南の自作農は5〜10畝(松本英紀氏による)。

・長沙の小作は平均7.8畝(中村義氏による)。

・湖南でも、大地主となると万単位で所有している者もあったらしい。

 

ちなみに兄のコ麟(コ鄰)は、この当時は長沙の明徳学堂の教員をしているが、同僚だった黄興らが亡命したときに、彼も辞して日本に渡っている。その後、コ麟は立憲派として活動しているから、あるいは毓麟だけでなくコ麟も、資金として家から持ち出しているかもしれない。

 

 さて、長沙起義の失敗後は、守仁と改名して北京へ行き、長沙出身の高官である張百熙の幕下に入る。当時、張は管学大臣(学務大臣=文部大臣と、京師大学堂の総長とを兼ねたようなもの)の要職にあった。ついで、張の世話で京師大学堂の機関である訳学館の教員になる。京師大学堂は中国最初の近代的な国立大学で、今の北京大学の前身。戊戌の変法期に創立されたものの、義和団の時に八カ国連合軍に破壊されて廃校状態だったのを、復興させる任を担ったのが、張百熙で、訳学館を設けたのも張。国立だから、教員である楊毓麟の給料は、当然、清朝から出ている。

 

余談だが、京師大学堂を近代的な大学として立ち上げるために、張百熙に請われて尽力した、呉汝綸という人物がいる。曽国藩の高弟で大学者だが、この人は「楊篤生の信徒」といわれるテロリストの呉樾と同族だった。呉樾が故郷の安徽省桐城を出て北京に行ったのは、呉汝綸を頼ってのことらしい。楊毓麟と呉樾との出会いは04年ごろに別の革命家(趙声)の紹介によるもので、呉汝綸は03年に既に没しているから、関係はないのだが、ちょっとおもしろい因縁だ。

 

その後、楊毓麟は載澤の幕下に入り、憲政視察の際の随行員になる。つまり、皇族でもある満人高官から給料をもらっていたわけで、この辺はしたたかだ。あるいは自分で載澤を討つこともできたのではないかと思われるが、彼は呉樾という壮士を得たから、ということで穿鑿はやめておく。

 

 随員を辞した後は、上海で新聞を発行。新聞だけで食べられるだけの上がりがあったのか、あるいはまた誰かパトロンがついていたか、家から持ち出していたか、その辺りのことは不明。

 

 渡英は欧州留学生監督(かい)光典の秘書としてのことだが、この話がどこから持ち込まれたのかは不明。張百熙の線からきた話かとも思ったが、張は既に没している。では蒯光典が湘人なのかと思ったが安徽省の人だった。は袁世凱の親友ともいいを監督辞職に追いやった留学生が、帰国後に袁の手の者に暗殺された)、楊毓麟はやはり袁世凱と関係の深い徐世昌からも招かれたことがあるから、その辺りとの関係も考えられるが、なぜ袁世凱なのかは不明。

 

ロンドンの監督署に勤めていたときの給料は、から出ていたのではないかと思われるが、元を質せばもちろん清朝。なお、この留学生監督というのは、留学生たちに反対運動で迎えられたくらい、反動的な性格のもので、その秘書長を務めるというのがどういうことなのか。「監督職を骨抜きにするためだった」とする説もあるが、ちょっとうがちすぎだろう。単に、西洋の政治や文化を直に学べる好機くらいに考えたのではないだろうか。この辺りをとらえて、「戦線離脱」とか「プチブル的知識人」などとくさす研究者もある。

 

は留学生とのトラブルで辞職するときに、後任に楊を推す。ここで受けておけばまぎれもない清朝の役人だったのだが、これは固辞してスコットランドに移る。その先の留学費用は、あるいは官費を受けていたのではないかと思われる。子女の学資を英国から送金するなど、当時の楊家の経済事情は決して芳しいものではなかったようだから。

だから、彼が老母と黄興とに遺した金は、かなり切りつめた生活から出たものではないかと思われる。それでも夏休みには楊昌済と旅行したりしてはいるが。

 

こうして見てみると、清朝の粟を食んでいた時期も多く、よくこれで誰からも裏切り者視されなかったと思う(逆に、官側から、革命党ではないかという嫌疑を受けたことはある)

それどころか、彼は黄興の信任も厚かった。そしてその死は、陳天華や姚宏業と違って個人的なものだったにもかかわらず、烈士として多くの人に悼まれた。民国になってから、大総統孫文によって顕彰されてもいる。端正な風丰そのままの、黄興も思想はもとより人品風采までも賞賛して期待していた、その人徳によるのだろうか。

 

 

 

 

なお、陳天華は寓に「東新訳社」の看板を掲げ、友人6名と同居していた。東新訳社では出版事業をしていたことが確認されている。彼の場合は家から仕送りのあるはずもなく(郷里の兄がどうやって食っていたかは不明)、社の事業での収入があったのか、あるいは後述の宋教仁のように官費を受けていたか、その辺りのことも不明。大勢で住めば何とかなるところもあるのかもしれない。当時の留学生たちは、よく集まって住んでいたらしい。内田百閨u山高帽子」に、この家は「もと支那(ママ)人の合宿所だったとか云う借家なので、間取りの工合が変だった」というくだりがある。

 

また、宋教仁は亡命留学中、偽名を使って官費(省費)を受けている。それを密告されたこともあるが、友人と口裏をあわせて、ごまかしている。日記には、神経衰弱で入院中に湖南の大水害の報に接し、湖南の人たちの苦しい生活の中から出た金を受けながら、こんなていたらくでは……と、歯がみする場面がある。

 

 

 

(2012・7・1)

 

 

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