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小論

 

 

 

目次

はじめに

日本における思想形成

革命観と「革命教育」

同時代の思潮

湖南変法運動

「中等社会」と「下等社会」

「民族帝国主義」

おわりに

 

 

楊毓麟論補足へ

楊毓麟の革命思想再考

〜「前列」と「中堅」

 

 

● はじめに 

 

  「下等社会は革命事業の中堅であり、中等社会は革命事業の前列である。」これは、華興会の理論的指導者といえる楊毓麟が書いたとされる「民族主義之教育」[] の一節であり、彼の革命理論の核心を端的に表したことばである。

 

 先行研究[] では、これは「中等社会」(=中小地主、読書人層)が主導して「下等社会」(=民衆)と提携あるいは利用し、革命を成功させようとするものだと解釈されている。啓蒙によって「下等社会」を主体に転化させようとするものではあるが、結局のところ「中等社会」が主体であると。

 

 ところで、「前列」とは『左伝』に「前列多死」、『公羊伝』『穀梁伝』に「寡人請為(之)前列」、『墨子』に「其士偃前列」とあるように、いずれも軍列の先頭、最も死者の出る危険なところという意味である。

一方「中堅」は『後漢書』「光武帝本紀」にある語で、その注に「凡軍事、中軍将最尊、居中以堅鋭自輔、故曰中堅也」とあるとおり、大将のいる主力部隊、軍の中心にして最も堅固なところということである。いうまでもなく、中国の伝統的な考え方では、最も重要なものは「中」に存するのである。

 

 これを前の文章に素直にあてはめると、革命事業の本体は「下等社会」であり、「中等社会」はその先に立って、一番に命を投げ出すものということになる。

 

 楊自身も、その呼びかけの対象である「中等社会」の人々も、その教養の質からいって、「前列」、「中堅」といった語から惹起されるイメージが古典に拠るものであることは間違いないだろう。

 

 現に「民族主義之教育」では、各国の革命事業には必ず「中堅」があり、フランスでは「平民党」が、英国では「圓顱党」(ラウンドヘッズ)が「中堅」となったとしている。

 

 つまり楊毓麟は革命の主体が「下等社会」であるべきだと考えていたのではないだろうか。それを検証するためには、この時期(1902〜03年)の彼の革命思想全体を、改めて洗い直してみることが必要であろう。

 

 

 

 日本における思想形成

 

 楊毓麟は1902年に日本へ渡り、早稲田大学で学んでいる。彼は戊戌のときには変法派として活動しており、革命家としての思想形成は、主に日本に留学してからなされた。

 まず、楊が影響を受けたことが明らかである浮田和民を見てみよう。

 

 浮田和民は早稲田大学の教授で、楊毓麟は浮田の『史学原論』を翻訳している。[] また、筆者は不明だが、『游学訳編』第五期の「『列強在支那之鉄道政策』訳後」[] では、浮田の言がとりあげられている。早稲田に学んでいた楊毓麟は、浮田の講義を受けていたと思われ、少なからぬ影響があったと考えられる。

 浮田は中国人留学生に対する演説で、中国は君主政体を改めるべきではないと主張している。[] また、その諸著作からうかがえるのは、国家中心、国家あってこその個人という考え方で、天賦人権にも社会契約説にも否定的である。さらに「倫理的帝国主義」を唱えて、生存競争あってこそ人類は進歩するのだから強者は弱者を犠牲にすべきだとする。

 

 浮田自身の思想は以上のようなものであったが、しかし彼は学者として、自分と意見を異にするルソーや社会主義についても、その著書の中でひととおり紹介している。

 楊毓麟も訳している『史学原論』の、第七章「歴史上の大勢」において浮田は、自由競争は社会の進歩を生むが、勝者の存在は当然ながら敗者を生むわけで、それによる貧富の差は社会を破裂させかねないとし、その点で「社会主義の泰斗」ラサールの説は大いに参考すべきだとして、以下のように紹介する。[]

 

 封建時代は農業が主要な産業だったので、「田奴、騎士、およひ君主」という階級が生じたが、商業や製造業が進歩して「大資本」が起こると封建制度が転覆し、「封建的君臣の関係に代ふるに中等社会の雇主及び自由労働人の関係」になるのであり、この事実上の革命に法律上の効力を与えたのがフランス大革命だとする。すなわち、ここで「中等社会」の語でブルジョアジーを指している。

 浮田はラサールの説をさらに言い換え、農業が主の時代は土地所有者が政権を握り、商工業が主ならば政権は資本家に帰すが、生産には労力の要素が最も大なので、社会や経済が進めば労働者の権利が自覚されてくるのは必然であるとする。そうなったときに社会を破壊させないためには社会道徳の進化が必要であると説き、結局は社会主義には与しない。

 

 楊毓麟が浮田の考え方を鵜呑みにしたとは思われない。張継も記しているように、[] 留学生たちは図書館などで自分で勉強したところが大きい。楊の主著『新湖南』[] は反帝国主義の立場に立つものであるし、彼はルソーをよく理解して自分のものにしている。[]

 

 浮田と同じく楊毓麟が接したことが確かなものとして、煙山専太郎『近世無政府主義』がある。[10] 中村哲夫氏によると、[11] これも楊毓麟は翻訳しているという。全訳か抄訳か不明だが、いずれにせよ、『新湖南』にも「民族主義之教育」にも、この本で使われた用語が数多く出てくることから、彼がかなり熱心に読んだことがわかる。煙山の執筆意図はアナキズムの宣伝にはなく、むしろこれを「一種社会の疾病」として、その淵源や発達を学術的に紹介することを旨としている。しかし読者がどう読むかは、また別の話であろう。

 

 ここには「ヴ・ナロード」という語は出てこないが、その思想は紹介されている。そして「チヤイコウツエ団」(チャイコフスキー団)について、「秘密活版所を設けて無数の小冊子、布告文を印刷し」たりマルクス等の著作を密輸入したりして、これらを廉価に販売し、「大に民間に入りて遊説」した、さらに彼らは労働者や小商人、役場書記、小学教師になるなど、あらゆる手段で親しく「下民」と交わり、「無智無学の彼等」にその境遇の悲惨さを自覚させ政府への憎悪を煽動しようとしたと述べ、工場や学校を建てたりという活動を具体例を列挙して紹介している。[12] 

 

 このほか、楊毓麟は「紀十八世紀末法国之乱」[13] (『游学訳編』四〜七期)として、河津祐之『法蘭西革命史』など三冊をあわせて訳している。これは翻訳とはいいながら訳者自身の考えがかなり入っている。河津祐之が訳したミニエの『仏国革命史』[14] (明治9年初版)は、明治初期の啓蒙期に出されて秩父事件などの自由民権運動に大きな影響を与えた。楊の訳したものがこれを指すのかどうか不明だが、内容において大差ないとみてよいだろう。

 

 ミニエ(河津)は第三身分を「平民」と称し、革命勢力の内訳を「財本家」、「学士」、「中等人民」、「賤民」としている。[15] 大革命を肯定的にとらえるミニエは、革命のさまを感動的な筆致で描いている。例えば以下はヴェルサイユ行進の件である。[16]

 「爰ニ一少女アリ突然哨兵房ニ馳入テ大鼓ヲ奪ヒ之ヲ鼓チテ麭ヨ麭ヨト叫ヒツヽ街巷ヲ経過セシニ諸家ノ女子之ヲ見テ其前後左右ニ集マリテ恰モ一隊ノ女軍ヲ構成シ行々人数ヲ増テ(中略)府庁ノ門ヲ守レル騎兵ヲ押シノケ館内ニ乱入シテ麭ト兵器ヲ得ンコトヲ乞ヒテ諸門戸ヲ打破テ兵器ヲ奪ヒ号鍾ヲ鳴シ夫レヨリ直ニヴェルサイユヘゾ進発シケル」(傍線は原文による)

 

 楊毓麟は「紀十八世紀末法国之乱」で彼女たちを「决死之婦女」と表現し、パリの「激徒」がこれに従ったとする。

 

  なお、楊は同じ文章で第三身分のことを「平民」と記し、平民は即ち国民であり国の要素であり国の基礎を成し国家の主権のもとであり、僧や貴族は国民の附属物に過ぎないという。[17] 

また、「平民」をふたつに分け、「中流」は富商、法律家、工業者、「下流」は貧農や都市窮民であるとする。そして前者は知識があり秩序を好むので立憲だけでよしとし、往々にして下層民を抑える側にまわったので、革命の原動力となったのは「中流」ではなく「下流」であるという。[18]

 

 「下等社会」こそが国民の核であり、主人であり、革命の原動力、「中堅」であるという考え方は、このようなところからもうかがえる。

 

 

 

 革命観と「革命教育」

 

 楊毓麟は前述の「紀十八世紀末法国之乱」の中で、「イギリスの革命は新政治の始まりでありフランスのそれは新社会の始まりである」というミニエ『仏国革命史』冒頭のことばを引き、中国の「革命」はそれ以前と以後とで社会の状態が何ら変わらず民族の進化に無関係なので、西洋の「革命」とは違うと述べている。[19]

 また、犬や豚はたとえ飢えても革命をしない、悪状況があったとき革命に到らしめるのは革命思想の普及であるとして、啓蒙思想がフランス大革命の重要な要因であるとする。[20]

 

 同じく三冊をあわせて翻訳と論述とが交じっている「自由生産国生産日略述」[21] (『游学訳編』一〜三期)は、アメリカ独立革命を紹介するものだが、ここでも新聞や雑誌による革命思想の普及を重視している。

 

 そして彼の作とされる「民族主義之教育」では、中国の歴史には民衆反乱が枚挙にいとまがないが、それらは政治思想のない「野蛮破壊」にすぎず、破壊の方針や目的を持った「有意識之破壊」であってはじめて価値のある破壊となり、それでこそ「有積極之破壊」となり「有積極之建設」となるのだという。[22]

 

 彼は「紀十八世紀末法国之乱」で、バスティーユ襲撃やその後の王党派に対する虐殺などを「激徒」によるものとしている。それは明らかにこれらの動きを「野蛮破壊」と見なすものである。しかし同時に彼は民衆を「激徒」にさせた原因(第一、第二身分の横暴等)の記述に多くを割いている。おそらく革命に伴う暴乱に対する危惧は革命を志す彼にもあって、それ故にこそ、「野蛮破壊」を防ぐべき革命教育が必要だと考えたのだろう。

 

 そして当然のことながら、楊の革命の目的は、破壊自体ではなく建設にある。王朝がかわるだけの「革命」ではなく、ミニエのいう新政治や新社会を建設すること。そしてそのためにも、革命思想の普及、革命教育が必要だとするのである。

 

  『新湖南』でも「下等社会と提携して、上等社会を矯正すること」と並んで、「上等社会を破壊し下等社会を守り育てる(卵翼)こと」が「中等社会」の責任だとする。[23]

 

 そして「民族主義之教育」は、革命の「前列」である「中等社会」と、「中堅」たるべき「下等社会」とへの教育について述べる。[24]

 すなわち「中等社会」に対しては、「特別の団体を結集し、秘密の書報を流通し、公共の機関を組織し、進取の気風を鼓舞する」ものとする。

 また「下等社会」に対しては、「通俗講演の会場に結集し、通俗講演の文字を流通する」こと。これは陳天華の著作、禹之謨の活動などで実現されているが、こういった活動によって「下等社会」の人々の旧い知識や思想を新知識、新思想に入れ替えさせ、旧い習慣や手段を新しいものに改めさせるのである。[25]

 

 そしてさらに、『新湖南』同様ロシアの「虚無党」の例を引き、彼の地では「説煽動」によって思想が学生・農民から下役人や軍人にまで到ったと述べている。譚彼岸氏が指摘するとおり、「ヴ・ナロード」という考え方の影響を受けているのである。

 

 また、筆者は不明だが『游学訳編』の「与同志書」では、[26] 夜間の識字会や義塾(学費をとらない私塾)を各地に多数設けることを説く。この識字会こそが民衆自身の可能性を開くものであろう。これはそれこそ「卵翼」で、自ら学ぶ力、上昇する力をつけさせるものであり、演説などで一方的に注入するのとは違う。はじめの発想は国の自強でも、識字会にはそれを越える可能性があり、よりナロードニキに近いといえよう。

 

 『論語』「子路篇」に「以不教民戦、是謂棄之(教えざる民を以て戦う、是之を棄つという)」とあるとおり、「下等社会」を教化も啓蒙もせずに、その伝統的な反清復明思想や組織力、戦闘能力を利用だけすることは、「民を棄てる」ことにほかならないのである。

 

 

 

 同時代の思潮

 

 ここで、同時代の思想について少々ふれておく。

 

 20世紀を競争の世界と把え、その中での「学戦」の重要性とそれを負う学生の責任について訴えるものは、当時の多くの論説に見られる。[27]

 

 また、「下等社会」への啓蒙の重要性も頻繁に説かれている。例えば林は『中国白話報』の「発刊詞」で、[28] 空談空論のみの読書人には期待ができないとして、むしろ農民、手工業者、商人、兵士に呼びかけたいとする。これらの人々が国難の時期に何もしないでいるのは、新聞雑誌が読めないために現在の事情を知らないからであり、こういった人々や子どもや女性の知識が開けて学問が進めば、それが中国の自強につながるのだという。

 

 20世紀初頭には各地でいくつもの白話報が創刊され、「下」、「中」両社会の歓迎を受けたものもあったが、小野信爾氏はむしろ逆説的に「中等社会」の自覚を促したのではないかとする。[29]

 このように、「下等社会」への啓蒙の重要性を説くのは時代の思潮ともいえる。しかしそれは、民智の底上げによって国力を高めようというものが主である。例えば願雲「儒教国之変法」[30] などは「中等社会」が中心だと強調するものであり、梁啓超も「下等社会」を政治的に無能力だと見なしている。[31]

 

 一方、「下等社会」こそが主体たるべきだと主張するものに、李書城が『湖北学生界』に書いた「学生之競争」がある。[32] 彼はそこで、「下等社会」を一国の主人たらしめるのは学生=「中等社会」の役目だとして、「中等社会」の役割を訴える。李は黄興と関係の深い人物なので、楊毓麟ともつながりがあるかもしれない。

 

 

 

 湖南変法運動

 

 「下等社会」を重視する楊毓麟の思想の淵源を、湖南変法運動期に溯って検証してみる。

 

 彼は学政江標によって唐才常らとともに抜貢となり、『湘学報』の編集や時務学堂の教習を務めた。さらに湖南不纏足会では発足時から理事となるなど、[33] 湖南変法運動には積極的に関わっていた。

 湖南変法運動については多くの論考があるので、[34] ここでは本稿の目的に沿って、留意すべき点を挙げてみる。

 

 維新派の「教育救国」思想のテーマとしては、「開智育才」ということがいわれる。『湘学報』は「開民智、而育人材」を旨としていた。[35]

 これは梁啓超が『変法通議』で「以政学為主義、以藝学以附庸」というように、政学を主とするものである。政治改革の振興が最優先課題であり、そのためにはまず政治の人材を育成し思想の啓蒙を進めなければ、科学技術の習得も含め一切の改革ができないという。[36]

 つまり議院は民智を開いてから。まず民智を開いてのち民権をということで、民衆への啓蒙教育が必要であるとする。

 

 梁啓超はさらに民智、紳智、官智を開くべきだとし、民智・民権には時務学堂、紳智・紳権には南学会、官智には課吏館をそれぞれ設ける。

 

 このうち南学会の演説には千数百人が集まったといい、深澤秀男氏によると[37] その参加者は官僚、郷紳層である。「南学会総会章程」[38] に「民隠(民の隠れた苦しみ)に通じ、民業を興し、民生を衛る」とある。これは楊昌済の質問に対する譚嗣同のことば、[39] 「眼光を民の身上にしっかり注ぎ、いかにして民を救えるか」と合わせて、「民」が念頭にあったことを示すものといえよう。

 

 紳智に対応する南学会はそれでよいとして、では民智に対応すべき時務学堂はというと、やはり深澤氏によればこの参加者は郷紳とその子弟であるという。「湖南開弁時務学堂大概章程」[40] によれば、受験するには紳董(土地の有力者)の推薦が必要であった。であれば「民」とは何を指していたのだろうか。

 

 また南学会の機関紙といえる『湘報』は、その「湘報館章程」[41] によると、貧富貴賤士農工商の別なく読めるように廉価にしたとあるが、実際には郷紳層以外ではどういった人が読んだり参加したりしたのだろうか。後述する禹之謨のような人なのだろうが、そういう人がどのくらいいたのだろうか。いくら廉価であっても、字が読めなければ始まらない。

 そう考えてくると、この「民」というのは多分に観念上のものではないかと思われる。

 

 民の教化というのは、中国の政治哲学の伝統的な考え方だが、それは「教化された民」により、よく治まっている状態をよしとするものだ。上下の秩序はそのままに、上は上、下は下のまま「仁政」によってよく治まっていればそれでよいのである。

 したがって、「下等社会」こそ一国の主人であり主体であるというものとは、決定的に異なる。中国古来の教化は従順な被支配者としての良民を目指すが、楊毓麟等の啓蒙は主体としての民衆をつくろうとするものだからである。

 

 さてここで、楊昌済、禹之謨というふたりの人物について触れておきたい。

 

 『湘報』(百五十三号)に楊昌済[42] の論文が掲載されている。これは光緒帝の上諭を受けての南学会の出題、「論湖南遵旨設立商務局宜先振興農工之学」に答えて第三席をとったものである。ここで昌済は、列強に対抗するには商の振興が重要だが、そのためには物を生む農、物を成す工が重要であり、そうでないと外国の精美で新奇な産品に勝てないとする。そこで昌済は農民、工人に対する教育が必要だとする。教育にあたるのは村の塾教師で、三、四年でひととおり読めて本や新聞が解る程度にはすべきだという。

 農工の振興策として農民、工人自身の啓蒙教育を考えるというのは、彼の農村における教育の経験からくるものだとされ、高く評価されるが、一方で昌済は、農工の振興は士人の責任だともいう。農工の人は「鈍」なので、「読書明理の人」が振興策を考えるべきだというのである。これは「中等社会」を中心に考える愚民観でもあるが、農村で近しく民衆を見てきた人間としての、リアルな民衆観ともいえるかもしれない。

 

 このような楊昌済の民衆に対する教育の重要性への認識や、譚嗣同の「眼光を民の上に注ぎ」という考え方は、ロシアのナロードニキを知る以前の自前のナロード観として、留意すべきだと思われる。

 

 楊昌済は家の経済事情のため郷里で私塾の教師をしていた時期が長いが、98年には長沙に出て岳麓書院に入っている。当時の岳麓書院は保守派の王先謙が山長だったが、楊昌済は南学会の通信会友となり、譚嗣同の演説を聞いて質問し譚に非常に賞賛されたり、不纏足会にも入会するなど、変法運動に積極的な関心を示した。

 彼は楊毓麟と同族で歳も近く、十代の頃から親密に交際していた。日清戦争に際しては、ふたりで改革について論じあい、康有為の諸著や西洋の政治制度や自然科学についての書を取り寄せて研究している。また、昌済の日本、英国への留学は、いずれも先に渡っていた毓麟の勧めによるものであり、その交わりは毓麟の死まで続いた。昌済は毓麟の死後の始末をし、のちのちも折りにふれて毓麟の思い出を語っている。

 彼らは学問の傾向も文学の好みも異なり、毓麟が政治の真ん中にとびこんでいったのに対し、昌済は「教育救国」を旨として政治からは一貫して距離をおくなどの違いはあるが、お互いにその違いを認めて尊重していたらしい。相互に影響を与えあい、討論の中から思想を紡いでいったものと思われる。

 

 また禹之謨[43] も注目すべき人物である。彼は商家の出で、教育と実業による救国を志した民族資本家であり、湖南の教育界と実業界とで一時期大きな影響力をもった。

 

 彼は変法期には積極的に運動に関わったらしい。譚嗣同、唐才常のほか楊毓麟とも頻繁にも接触し、時務学堂や南学会にも関わったという。特に唐才常と親しく、自立軍に参加して危うく難を逃れている。そして日本に留学して技術を修め、1903年春に湘潭に織機工場を設立。これが成功したため、同年夏には長沙に移転している。また、工場内に工芸教習所を設けて青少年に応用化学や技術を習得させている。

 

 また教育界においては、科挙制度廃止による学校創設の動きの中で、多数の学校の創設に直接間接に尽力している。

 

 彼は陳天華を敬愛し、その著書をはじめとする革命宣伝書を工場におくなど革命宣伝に努めていた。また、同盟会が結成されると黄興によって湖南分会を任され、『民報』の販売にもあたっていた。学生界における禹之謨の影響は大きく、学生たちは彼の工場に集まっては、労働し、革命書を読んで、談じあっていた。焦達峯なども彼の影響下にあった学生だった。

 

 中村義氏は『新湖南』で語られた「下等社会」との提携の具体的な姿として禹之謨を挙げている。楊毓麟が『新湖南』を書いたのは1902年だから、禹のこういった活動はまだ本格化していない。しかし禹之謨が『新湖南』の影響を受けたというだけでなく、『新湖南』を書いた楊の念頭に禹のような商人の存在があったともいえるのではないか。

 

 楊毓麟の出身は中規模の地主と考えられる。[44] そのナロード観は、実際に長く農村で教えた楊昌済や、市井の人々に交じって働いていた陳天華などに比せば、その他の多くの読書人同様、観念的であったかもしれない。しかしさほど隔絶したものでもなかっただろうと思われる。詳しくは次節で述べる。

 

 

 

「中等社会」と「下等社会」

 

 「民族主義之教育」で「下等社会」として考えられていたのは、「秘密社会」、「労働社会」、「軍人社会」の三つである。このうち「秘密社会」は要するに会党のことであり、「軍人社会」は主に新軍兵士をさす。そして「労働社会」は鉱山や工場の労働者や手工業者であろう。

 

 この三つの社会は、「民族主義之教育」の筆者のいうとおり、互いに密接に結びあっていた。会党の構成員には破産農民や失業した手工業者が多かったし、哥老会が湘軍内に浸透蔓延していたのはよく知られるところである。また、朱徳が哥老会員であったように、新軍内にも浸透していた。

 

 問題は「中等社会」が会党をどう見ていたかである。游民、最下層民、賊として、賤視していた向きも多いのではないか。華興会が哥老会と組んで長沙起義を企てたときに同仇会という別組織をつくったのは、華興会のメンバーに会党を嫌う者がいたためだとされる。[45] であれば、清水稔氏[46] の指摘するとおり、会党と提携し、あるいは利用しようと考えたときに念頭にあったのは、せいぜいが馬福益などの頭目であって、個々の構成員、「下等社会」に属する細民などは、視野になかったのかもしれない。焦達峯は会党に深く入り込んで「兄貴」とまで慕われたが、清水氏によればこういう人物は革命家としては異色のようである。

 

 では「中等社会」と「下等社会」とは全く隔絶したものであったのかというと、私にはそうは思われない。

 

 楊毓麟は『新湖南』で、湖南には巨大地主や巨大商人、巨大工場主はいないという。そして「中等社会」は士人を主とし、商と士との間を出入りする者、医術や武術と士人との間を出入りする者がそれに付随するといっている。[47]

 

 この「商」というのが前述の禹之謨のような人を指すのだろう。また、禹之謨の祖父が読書人から商人に転じた人物であったように、あるいは逆に商人の子弟が科挙を受けるように、士から商へ、商から士へと移ることは、珍しいことではない。

 

 清末には紳士層が増大したが、劉泱泱氏はその原因の内に、湘軍での軍功による者と捐納による者とを挙げている。[48] 前者には目に一丁字もないような人も含まれていた。また後者は財政難により奨励されたもので、商工業の発達によって、従来の地主層ばかりでなく商工業者の捐納が増えたという。

 

 黄興は農作業をしたこともあるといい、陳天華に至っては牛を牽いたり行商をしたりして暮らしをたてていた。[49] 「上等社会」に属する少数の巨大地主を別にすれば、中小地主、とくに小規模な地主層は、「下等社会」と紙一重のところがあったのではないだろうか。

 少なくとも禹之謨、陳天華、焦達峯などは両社会の中間的存在ともいえ、彼らの活動は革命運動に大きな役割を果たした。

 

 

 

 「民族建国主義」

 

 楊毓麟の主著『新湖南』を一読した際に最もきわだって印象づけられるのは、その強烈な湖南ナショナリズムである。中国よりも、漢民族よりも、まず湖南。湖南は湖南人の湖南であるといい、白禍に抗して湖南を守るための策を考える。

 

 楊は「第六篇独立」において、湖南一省の独立を説く。それは主権も憲法も議会も軍隊も持った独立国のようである。そして各省が独立することで満政府が地に墜ちるという。これは現実の辛亥革命のたどった道ともなった。

 

 彼はまた、英国が強いのは個々の国民が独立性を持っているからだとする。そして散沙のような烏合の衆ではなく、個人の権利と公益とに対する自覚を持って結集する個々人による建国を唱える。これが「個人権利主義」に基づいた「民族建国主義」である。

 

 つまり、「下等」「中等」両社会を啓蒙して自覚ある独立性を持った湖南人を作り、その新しい湖南人による独立性のある新しい湖南を作る。そして同様に独立性を持った十八省から、独立性のある中国をと。

 

 さらに楊はいう。「湖南の公益の奴隷になってはならず、必ず中国のために謀らねばならない。更に進んでいえば、すなわち中国の公益の奴隷になってもならず、アジアやアジア人のために謀らねばならない」と。[50]

 従ってこれは湖南さえよければいいという偏狭で独善的な湖南セクショナリズムではなく、湖南から中国、さらにはアジア全体まで視野に入れたものである。

 

 楊が唱えるのは民族自決主義といってよいだろう。彼は「漢民族が自ら結集できて後、満、蒙、衛、蔵と手を携えて自ら結集させることができる。漢民族が自ら結集できて、且つ満、蒙、衛、蔵と手を携えて自ら結集させることができて後、亜洲中央政府に権力を集めて白禍に抗することができる」という。[51]

これはまさに楊毓麟の卓見といえ、彼が偏狭で華夷思想の強い排満復仇主義者でなかったことの証左ともなる。

 ここでは満洲人も一少数民族として把えられているが、この時期、清朝として以外の満洲民族や、その他の少数民族が視野にあった漢人は少ない。孫文が「五族共和」を唱えるのは1912年になってからであり、既にモンゴルが独立を宣した後のことで、モンゴルとそれにつれて動揺する内蒙とを中国につなぎとめるためのものであった。辛亥革命以前に少数民族に言及されるのは、漢族との「融和」や「同化」という文脈でのことであるのが普通である。そこでは少数民族の主体性は軽視または無視される。例外として、1907年に何震、劉師培夫妻がアナキストとしての立場から漢民族中心主義に異を唱えているが、楊毓麟が02年の時点でここまでラディカルなことをいっているのは、注目に値するのではないだろうか。[52]

 

 こうして楊毓麟の思想は、「個人権利主義」に基づいた民族自決主義から、さらにそれに基づいた「民族建国主義」へと展開する。そのすべての基礎となるのが、湖南人たる彼の場合は、まず湖南なのである。

 

 では彼が「湖南を救う」といった際に思い浮かべているのは、実際のところは湖南の何であろうか。

 『新湖南』の最終章「第六篇独立」は、「湖南独立之歌」でおわっている。ここで亡国を嘆くのは衡山であり湘水である。湖南の山河が嘆き悲しむのである。『詩経』の伝統からいっても、これは間違いなく民意を仮託したもの、つまり山河の嘆きはすなわち民の嘆きであると解釈してよいだろう。それは湖南の人民である。第二、三篇で楊が分析し解説するごとく、列強や清朝政府によって湖南の人民は困難な状況に追いやられている。その現状を「衝决する」[53] 方策を考えるのが、彼のテーマだった。

 

 よって彼はこう主張する。「今日われわれが研究するのは、中国を存続させることにあり、湖南を存続させて中国を存続させることにある。もしも排満しなくても湖南を存続させられるのなら、我々は排満しなくてもよいのである。もしも排満せねば湖南が保てぬのならば、われわれは隠忍し一時しのぎしながらその滅びるのを座視することはできようか。もしも直情径行、攘夷することで湖南を保てるならば、われわれは直情径行、攘夷を行う。もしも迂遠な手段で攘夷することで湖南が保てるならば、われわれは湖南六十三州県の人々の生命を軽々しく賭けることができようか」と。[54]

 

 つまり彼は、「湖南が保たれるのなら必ずしも排満しなくてもよい」とまでいう。実際には排満せねば不可能[55] だから排満すべきだということになるのだが、排満自体が目的ではないのである。

これはのちの陳天華の「要求救亡意見書」[56] にもつながる考え方といえよう。目的はまず祖国の保全であり、そのためなら手段は問わないのである。『游学訳編』の時期の楊毓麟は改良派から革命派に転じる途上にあったという謬見は、[57] このあたりから生じるのだろう。

 

 こうして楊毓麟の「民族建国主義」を読み直してみると、その思想は非常にラディカルであり、根底においてむしろアナキズムに共通する発想を内包しているように思われる。

 

  もちろん、本稿でとりあげている『新湖南』や『游学訳編』の時期には、アナキズムは彼にとって論外のものであっただろう。しかし渡英後、楊はヨーロッパでアナキズムが盛んなさまを見て訝しく思い、「門外漢」としての関心を寄せる。[58] そしてその結果、最晩年にはアナキズムへの著しい傾斜をみせる。

 また、死の前年の夏休みに楊昌済と旅行した際に賦した詩に、楊毓麟は自注している。英人は財産が不均で富者が数十里もの土地を占め、財権が独占されているうえに地味が痩せているため、村民は泥炭を掘って冬をしのいでいるありさまで、生活程度が推し量れると。[59] 土地問題への目も、彼は持ちつつあったのかもしれない。

 

 結局のところ彼は、アナキストにはならなかった。しかしそれは帝国主義が席巻する現状での実現性を考えて、「愚也」と結論したものであり、彼はアナキズムの描く理想自体には理解と共感とを示していた。[60]

 

 

 

● おわりに

 

 楊毓麟の革命論を彼自身に沿って読み直したところ、それは「下等社会革命論」とでも呼べるようなものであることが浮かび上がってきた。「中等社会」がその先駆けをなすものではあるが、「下等社会」こそが革命運動の「中堅」であり、来るべき社会の主役であると考えていたのは、間違いのないところだろう。

 しかし楊毓麟はこれを自身の属する「中等社会」の人間に呼びかけたのであり、実際に「下等社会」へ働きかけるのは、陳天華や禹之謨、焦達峯などによってなされたわけである。

 なお、楊毓麟の思想形成において、日本の明治期の思想が与えた影響の大きさを、改めて再認識させられた。

 

 

2002年12月7日

 

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[1] 『游学訳編』第十期、1903年9月。『辛亥革命前十年間時論選集』(三聯書店、1962年、以下『時論選集』と記す)第一巻上、409頁。無署名だが、譚彼岸「俄国民粋主義対同盟会的影響」(『歴史研究』1959年第1期)以来これは楊毓麟の作とされていて、本稿でもそれを踏襲する。

なお、『游学訳編』は湖南省出身の留日学生の雑誌で、楊が中心的な人物だった。

 

[2] 例えば、譚彼岸前掲、中村哲夫「華興会と光復会の成立」(同『同盟の時代』人文書院、1992年所収)、清水稔「楊毓麟の政治思想について」(『鷹陵史学』8、1982年)、大塚博久「楊毓麟とその『新湖南』」(『山口大学教育学部研究論叢』第22巻第1部、1973年)、武藤明子「陳天華と楊毓麟」(『寧楽史苑』14、1966年)。

なお、これに対して板垣望「排満思想の意味〜楊篤生の場合」(『一橋論叢』第58巻第4号、1967年)では、楊は「下等社会」の力を認識していなかったのではなく、「中等社会革命論」は自身その一員としての「中等社会」の責任感の表明だとする。

 

[3] さねとうけいしゅう『中国人日本留学史』(くろしお出版、1970年)266頁。同書によれば?学会の劉崇傑もこれを訳しており、留学生たちに対する影響の大きさがうかがわれる(272頁)浮田『史学原論』は東京専門学校刊、出版年不明。

 

[4] 1903年3月。『時論選集』第1巻上、379頁。

[5] 林啓彦、「清末における民権思想の研究」(『史学研究』131、1976年)。

[6] 浮田『史学原論』110頁。

[7] 林啓彦、前掲。

[8] 1902年に書かれ、1903年の早い時期に出版された。テキストは『楊毓麟集』(岳麓書社、2001年)を使用し、近藤邦康氏の抄訳(西順三編『原典中国近代思想史第三冊辛亥革命』岩波書店、1977年)を参考にした。

 

[9] 例えば『新湖南』第四編、『楊毓麟集』51頁。

[10] 煙山専太郎『近世無政府主義』(東京専門学校出版部、1902年)。

[11] 中村哲夫、前掲書、108頁。

[12] 『近世無政府主義』101頁。

[13] 1903年2月。『楊毓麟集』。

[14] テキストは1878年版を使用した。出版者は金屋清吉。

[15] 『仏国革命史』巻一、29頁。

[16] 『仏国革命史』巻二、30頁。

[17] 『楊毓麟集』465頁。

[18] 『楊毓麟集』454頁。

[19] 『楊毓麟集』448頁。

[20] 『楊毓麟集』450頁。

[21] 1902年11月、『楊毓麟集』423頁。

[22] 『時論選集』第一巻上、407頁。

[23] 『楊毓麟集』33頁。

[24] 『時論選集』第一巻上、409頁。

[25] 胡縄武氏は、これは革命家が下層民衆の中に深く分け入って、通俗的な宣伝によって新思想、新知識を輸入し、下層の民衆を「革命事業の中堅」にしようとするもので、この方針の下に多くの革命家が実際に新軍や会党と交わり、それが辛亥革命を最も準備したものだと評価する(『辛亥革命時期期刊介紹』第一巻、人民出版社、1980年、235頁)。

 

[26] 七期、1903年5月。『時論選集』第一巻上、396頁。

 

[27] 「与同志書」(『游学訳編』)はこれを力説する。ほかに雲窩「教育通論」(『江蘇』第三期、1903年6月、『時論選集』第一巻下)など。呉雁南他編『清末社会思潮』(福建人民出版社、1990年)329頁参照。

[28] 1903年12月。『時論選集』第一巻下、603頁。

 

[29] 李孝悌『清末的下層社会啓蒙運動1901〜1911』(河北教育出版社、2001年)。小野信爾「辛亥革命と革命宣伝」(小野川秀美、島田虔次編『辛亥革命の研究』筑摩書房、1978年所収)。

李氏によれば、『中国白話報』の購読者は大半が学生で、郷里の人に読ませるために求める者が多かったという(25頁)。

 

[30] 『浙江潮』第十期、1903年。

[31] 梁啓超については、例えば有田和夫『清末意識構造の研究』(汲古書院、1984年)。

 

[32] 『湖北学生界』第二期、1903年2月(『時論選集』第一巻上、453頁)。

李書城は湖北省派遣留学生として黄興と同船。のちに黄の渡米にも秘書として付き添っている(李書城「辛亥革命前後黄克強先生的革命活動」『辛亥革命回憶録』第一集)。

 

[33] 『湘報』二十八号、1898年4月7日。

 

[34] 佐々木保子「湖南変法運動について」(『史艸』五、1964年)、深澤秀男『戊戌変法運動史の研究』(国書刊行会、2000年)、李玉『長沙的近代化啓動』(湖南教育出版社、2000年)など。

 

[35] 李玉、前掲書、52頁。

[36] 前掲『清末社会思潮』318頁。

[37] 深澤秀男、前掲書、82頁。

[38] 『湘報』三十五号、1898年4月15日。

[39] 『湘報』二十八号。

[40] 湯志鈞他編『中国近代教育史資料編・戊戌時期教育』(上海教育出版社、1993年)245頁。

[41] 『湘報』二十七号、1898年4月6日。

 

[42] 毛沢東の恩師として知られる楊昌済(1871〜1920)に関しては、王興国『楊昌済的生平及思想』(湖南人民出版社、1981年)、近藤邦康「楊昌済の『下からの変法』の思想」(『伊藤漱平教授退官記念中国学論集』汲古書院、1986年所収)。

 

[43] 禹之謨(1866〜1907)については中村義『辛亥革命史研究』(未来社、1979年)、原美恵子「禹之謨と湖南学生運動」(『北大史学』26、1986年)、成暁軍『禹之謨』(上海人民出版社、1984年)、『禹之謨史料』(湖南人民出版社、1981年)。

 

[44] 曹亜伯『武昌革命真史』には「国事に奔走したため落ちぶれて田四十畝」とあるが、四十畝では地主としてはかなり少ない。楊は子女の学資を心配して英国から送金してもいる(夫人への手紙、『楊毓麟集』363頁)。しかしもともとは曹も「小康(そこそこ余裕がある程度)」といい、兄の徳鄰は納していることから、毓麟の代でかなり減らしたということらしい。

 

[45] 中村哲夫、前掲書、122頁。

[46] 清水稔「湖南における辛亥革命の一断面について〜会党と立憲派を中心として」『東方学』47、1974年。

[47] 『楊毓麟集』47頁。

 

[48] 劉泱泱『近代湖南社会変遷』(湖南人民出版社、1998年)255頁。近藤秀樹「清代の捐納と官僚社会の終末」(『史林』46巻2〜4、1963年)も参考にした。

 

[49] 黄興については『憶黄興』(岳麓書社、1996年)1頁。陳天華については羅元鯤「陳天華的少青年時期」(『湖南歴史資料』1959年第1期)など。

 

[50] 『楊毓麟集』50頁。

[51] 『楊毓麟集』31頁。

 

[52] モンゴルの独立宣言は11年12月1日。かねてからの独立運動の結果であり、ロシアの支持もモンゴル側からの要請による(田中克彦『草原の革命家たち』中公新書、1973年など)。

孫文の五族共和への言及は12年1月1日の「臨時大総統宣言書」。

また劉揆一は11年3月に五族の「融和」を主張する(小島淑男『留日学生の辛亥革命』青木書店、1989年、49頁)が、「融和」は梁啓超や楊度もつとに主張するところである。

五族共和論や梁啓超の少数民族論については片岡一忠「辛亥革命時期の五族共和論をめぐって」(『中国近現代史の諸問題』国書刊行会、1984年)に詳しい。

楊度は「金鉄主義説」(『楊度集』湖南人民出版社、1986年、213頁)など。何震・劉師培は「種族革命と無政府革命の得失を論ず」(『清末民国初政治評論集』平凡社、1971年)。

 

[53] 譚嗣同『仁学』にある語だが、楊はこの語を多用している。

[54] 『楊毓麟集』49頁。

 

[55] 「洋人の朝廷」というのは楊毓麟の思想を継承発展させた陳天華のことばだが、この考え方は『新湖南』で既に論じられている。(『楊毓麟集』44頁)

 

[56] 永井算巳「陳天華の生涯」(『史学雑誌』第65編11号、1956年)、里井彦七郎「陳天華の政治思想」(『東洋史研究』17巻3号、1958年)など。

 

[57] 『辛亥革命時期期刊介紹』第一集238頁。

[58] 于右任「弔楊篤生文」(『于右任辛亥文集』復旦大学出版社、1986年)198頁。

[59] 『楊毓麟集』402頁。

[60] 「記英国工党与社会党之関係」1911年6月、『楊毓麟集』。