トップへ

 

論道徳

論道徳   楊守仁

 

 天然の道徳があり、人為の道徳がある。天然の道徳は、心理に根ざしたものであり、自由平等博愛がこれである。一方人為の道徳は、習慣に基づくものであり、綱常名教がそれである。そして、天然の道徳は真の道徳であり、人為の道徳は偽道徳である。

 私は昨今の世の中を嘆かわしく思っている。士は競争を習いとし、人は楽利を誇りとす。道徳などはわらの犬に等しい。権謀術数を借りて護符となし、不正は至るところに横流する。憐れみや恥の心はともにすっかり尽きてしまい、人類の災いは日に日に酷烈になっている。保守的で頑迷な人々は、輝かしい自由平等博愛の真の道徳を知らずに、かえって儒教という死んだ灰を懸命に吹き起こそうとしている。そんなことができないことは言うまでもない。もしそんなことをすれば、偽道徳はますますはびこり、真の道徳は隠される。まさに社会を進化させるせっかくの機会と仕組みとを窒息させてしまう。全ての階層の人々はついに苦海を出ることなく、人間の尊厳に目覚めることもない。その間、まことに深く長く、どうすればよいのかと考えなければならなくなる。

 中国数千年相伝の道徳は全て人為の道徳であり、天然の道徳ではなく、みな習慣に基づくものである。綱常名教はごてごてとした飾りが多く不自然な道徳で、心理に根ざしたものではない。一方自由平等博愛は、真実無妄の道徳で、偽道徳ではなく、みな真の道徳である。(中国古代の理想は、みな道徳を唯一無二の絶対的なものとしてきた。このため董仲は、天は不変で道も不変であることは明々白々だと言った。欧州の文化が入ってきてから、初めて道徳革命を説く者が現れ、ついに旧道徳と新道徳との区別が生じた。私はむしろ新道徳を真道徳、旧道徳を偽道徳と称したほうがよいと考える。なぜなら、新旧というと一時的な好みの問題に過ぎないが、真偽は百世の後も是非の評価が変わらないからである

 この小論で、この二つの道徳をはっきりと区別させようと思う。

 

 

 

*心理 サイコロジーの訳語として西周が造った近代和製漢語だが、文意から推すとこの場合はむしろ、サイコロジーを念頭におきながらも、人間の本性という意味合いが強いように思われる。すなわち、人間は天によって地上に生じたが故に、生まれながらにして天与の善性を有しているという、儒教が前提とする性善説である。

 

*綱常名教 三綱=君臣、父子、夫婦の三道と、五常=仁義礼智信とを根幹とする儒教。

 

*わらの犬 原文は「芻狗すうく」。わらで作った犬。『老子』に出てくる。祭祀に使うもので、終われば捨てられる。つまり、困った時の神頼みで、都合のいい時だけ利用するもの。

 

*董仲舒 とうちゅうじょ。前漢の儒者。武帝に進言して儒教を国教化させた。

 

*百世 百世代、つまり一世代三十年として三千年だが、もちろん数字の問題ではなく、末永く未来にわたってというほどの意味だろう。けれども中国の場合、三千年くらいは簡単に経ってしまうところがすごいと思う

 

論道徳一.へ