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「論道徳」について

 

楊守仁(原名・毓麟)が1911年8月発表した評論で、『克復学報』第二期、第三期に連載された。

彼は同年8月5日に踏海しているので、これが発表されたときには既にこの世になかったかもしれない。おそらく絶命書を除いては最後の文章であり、彼の思想の到達点の一つを示すものともいえるだろう。

楊は既に『新湖南』や『游学訳編』の各文章で、民族自決、被抑圧民族の連帯、社会進化論批判など、当時の革命家としては群を抜いた独特の鋭い視点を見せていた。その後曲折を経て英国に渡り、そこで生を閉じたわけだが、その間の彼の思想的な歩みはまだ十分に跡づけられていない。

しかし最終的に彼が立った地点は、アナキズムに非常に近接しているかに見える。彼はアナキズムを「愚也」と切り捨てたが、それは実現性を考えてのことであって、アナキズムの世界観や理想自体には、共鳴するところがあったようである。

彼は二十世紀の帝国主義の時代を生き延びるには富国強兵が肝要だと考え、そのために渡った英国で科学力の彼我の差を見せつけられ、ほぼ絶望的に打ちのめされたことが死につながった……とされている。

畢竟、個人の死の原因など解らぬし、そんなところにわたしの興味はない。見たいのはただ、彼が最終的に立った地点で何を見たのか、それだけである。

 

「論道徳」はその名のとおり、政治評論ではなく道徳論である。注目すべきは、ここで彼が「偽道徳」として小気味よく攻撃している中国の旧い社会のあり方よりも、むしろその背後にある、彼が「真道徳」として希求している新しい人間、新しい社会のあり方である。それを読み取りたい。

第二章の後半で家庭専制を、第三章で女性問題を扱っているが、彼自身が地主の子弟であり、湖南の大家族制度の中にある男性であり、妻の夫であり、娘の父である。そういう存在として、彼が何を考えていたのか、どういうあり方をあるべき姿として思い描いていたのか。そういうところに留意して読みたい。

1964年生まれのわたし自身の立場で考えてみても、家庭内専制こそが全ての専制と奴性との根源であり、女性であるわたしにとっては本当の意味でのフェミニズムという問題にも関わる、避けて通ることのできぬ枷鎖なのだ。

90年前にわたしとほぼ同い年であった楊守仁がどこの地点まで到達したのか、翻訳という作業を通して検証したい。

 

署名は「憤民」。これは「三戸の憤民」のことで、『史記』「項羽本紀」の「楚は三戸となっても、秦を滅ぼすのは必ず楚であろう」に由来し、「三戸」、「三戸憤民」とともに、楊が若いころから好んで使用している筆名である。

 テキストは『楊毓麟集』饒懐民編、岳麓書社、2001年を使用した章分けは訳者による。

 

 

論道徳 

    一、人民対君主之偽道徳

    二、卑者対于尊者之偽道徳

    三、女子対于男子之偽道徳

    まとめ

    

 

 

「論道徳」を同時代の文脈で評価する際に参考にしたい主な文献

 

変法期

譚嗣同『仁学』1897年頃(岩波文庫 他)

厳復「韓愈を駁す」1895年(『原典中国近代思想史 第二冊』岩波書店に訳あり)

湖南不纏足総会簡明章程 他『湘報』1898年(楊は同会の理事の一人だった。この会については深澤秀男『戊戌変法運動史の研究』国書刊行会を参照)

 

アナキズム

李石曽「三綱革命」1907年(スカラピーノ『中国のアナーキズム』紀伊國屋書店に訳あり)

 

 

●アナキズムの影響が濃厚ではあるが、楊は結局はアナキズムに与していない。

●清末のアナキストには東京、パリの二グループがあったが、楊とつながりがあるのは後者。呉稚暉は絶命書の宛先にもなっている。なお、楊はクロポトキンの「青年に訴う」を読んだことがわかっている。これには李石曽の漢訳があるが、題名の訳が違う(李訳は「告少年」、楊は「青年訓」と称している)ので、楊は原文(英語)で読んだと思われる。

●女性問題の素朴さに苦笑される向きもあるかもしれない。女性解放については、変法期(ただし変法期においては、女性解放、女性の権利恢復というより、富国強兵の礎としての意味〜日本における「良妻賢母」としての女子教育のような〜が強いかもしれない。要検討)以降も、秋瑾をはじめとして女性の解放や参政権は主張されていた。また、これはアナキストたちの主要な主張の一つでもあった。しかし、革命派の主流では、まだまださほど重視されていなかった。また、日本で青鞜社が文芸結社として発足したのが、1911年9月であったことは、考慮されたい。

●私人としての楊守仁は、娘の婚礼に際して結婚後も学業を続けるように指示するなど、女子教育にも熱心だった。