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ミシュレ『革命の女たち』

 

 

1 十月六日の女性たち(八九年)

 

 

 

 男たちが七月十四日をつくり、女たちは十月六日をつくった。男たちが王国のバスティーユを占拠し、女たちはフランス王国そのものを占領し、それをパリの手に、すなわち大革命の手に渡した。

 

 食糧の欠乏が原因であった。目前に迫った戦争、王妃及び諸公とドイツ諸侯との聯盟、パリに見る外国兵の緑や赤の制服、二日に一度しか来なくなったコルベイユの小麦、一層激化する食糧不足、迫り来る厳冬などについて恐ろしい噂が流布していた……。人々は口々に言いかわす、一刻も猶予はならない、戦争と飢餓を防ぐためには、国王をパリに連れ戻すべきだ、さもなければ、あいつらに国王を取られてしまうぞ、と。

 

 これらすべてのことを、もっとも鋭敏に感づいていのは女性であった。苦痛は絶頂を極め、残酷に家庭や炉辺を襲っていた。三日、土曜日の夕刻、一婦人によって急が報ぜられた。その言が人々に聴き入れられないのを見た彼女は、カフェ・ド・フォワに駆けつけ、そこで反国家的な軍人たちを告発し、国家の危機を報じた。月曜には、一人の乙女が市場に立って軍鼓をとり、非常呼集の太鼓を打ち鳴らし、市区の女を悉くかり集めた。

 

 これはフランスにおいてのみ見られる現象である。わがフランスの女性たちは勇敢に行動した事実が、それを示している。ジャンヌ・ダルクやジャンヌ・ド・モンフォール(十四世紀の女傑、夫が捕らわれた後も敵国と戦いつづけた)やジャンヌ・アシェット(十五世紀、ブルゴーニュ公シャルルがボォヴェの町を攻めた時、女たちをひきいて勇戦した)の国では女傑の名をいくらでも挙げることができる。バスティーユにも一人の女丈夫がいた。後日、彼女は戦場に出かけ、砲兵大尉となる。彼女の夫は兵卒だった。七月十八日、国王がパリに来た時、多くの女性は武装していた。女性たちこそわが大革命の前衛に立ったのである。それはなんら不思議なことではない、女性の方が男たちよりもはるかに苦しみを味っていたからである。

 この残忍な不幸は弱い者を傷つけ、男たちよりも子供や女たちを苦しめる。男たちは走り廻り、大胆に求め、少なくともその日の糧だけはかろうじて手に入れる。しかるに女性たちは、殊に貧しい女性の多くは、家の中に閉じこめられ、糸をつむぎ、縫物をして生きてゆく。なにもなくなっても、彼女らは自分たちの食糧を探すことがほとんどできない。考えるだに哀れなことだが、女は男と一緒になって始めて生きうる相対的な存在であるから、多くの場合男よりも孤独である。男はいたるところで仲間を見つけ、新しい関係を自らつくり出す。女、それは家庭なくしてはなにものでもない。しかも家庭が女性を押しつぶす。すべての負担が彼女の上にのしかかってくる。女は、泣き叫ぶ子供、病気の子供、瀕死の子供、もはや泣くこともかなわぬ子供たちを抱え、家具もなく、冷えきって、がらんとした部屋に一人とり残される。……あまり目立たないが、おそらく母親にとってもっとも悲しいことは子供のわがままであろう。子供は母親をなんでもかなえてくれる万能力だと、つねづね考えているから、なにかにつけて不満があると、狂ったように容赦なく母親にくってかかり、わめきたて、暴れて、一層母親を苦しめる。

 これが母の姿である。ところが、それに劣らず孤独な、家庭もなく保護者もいない、悲惨な娘たちが沢山いるのだ。あまりに醜いのか、或は貞淑なのか、彼女たちは友達もなく、恋人もなく、人生の喜びとて何一つ知らない。自分たちのささやかな仕事で食べて行けなくなっても、それを補う術を知らない。そこで彼女たちは屋根裏部屋に上って空しく待つ。……やがて屍体となって発見されることも稀ではない。偶然隣りの女がそれに気付く。

 これらの恵まれぬ女性たちは、不平を訴え、自分たちの立場を説明し、運命に対抗する力さえ持たない。悲惨な境遇のどん底において行動に訴え、活躍する女性たちは、頑健な女であり、不幸によって虐げられることの少ない女であり、貧に窮したといわんより、暮しの貧しい程度の女たちである。多くの場合、進んで身を投げ出す勇敢な女性は自己のためよりも、他人のために苦しもうとする寛大な心の持主だ。他人の不幸に対して、割合に冷淡な男性においては同情も無気力で受動的だが、女性にあってはきわめて積極的な、強烈な感情であり、時には英雄的になり、彼女たちを否応なくもっとも大胆な行動にまでかりたてる。

 

 十月五日、三十時間この方、なにも食べていない不幸な人々の群があった。この痛ましい光景は人々の心を強く打ったが、行動をおこすものは一人もいなかった。時勢のきびしさを嘆きつつも、皆閉じこもっていたのである。四日、日曜日の夕刻、この有様を見かねた勇敢な一婦人が、サン・ドニ街からパレ・ロワイヤルへ走り、へらず口をたたいていた騒々しい群衆の中に現れ、注目の的となる。それは三十六歳の女で、身だしなみ良く、物腰は上品だが、気性は毅く大胆であった。彼女は皆にヴェルサーユに向け出発することを望み、自分が先頭に立とうとのべる。からかう者が出る、彼女はその一人に平手打を喰わす。翌日彼女は女たちの先頭に立ち、剣を持ち、市庁の大砲を奪い、馬にまたがり、火縄に点火し、その大砲をヴェルサーユに向け引いて行った。

 

 旧制度と共に衰えゆく見すてられた職業の中に木彫師があった。この種の職人は教会や住宅のために大いに働いていた。この木彫には多くの女性たちがたずさわっていた。彼女たちの一人マドレーヌ・シャブリは仕事がないので、ルイゾンという名でパレ・ロワイヤル街で花売りになっていた。才気のある可愛らしい十七の娘であった。この娘がヴェルサーユに出かけたのは、空腹のためでないことは確かである。一般の雰囲気に誘われ、自分の良心と勇気に従ったのだ。女たちは彼女を先頭に立てて、自分らの代弁者とした。

 他の女たちの多くも、空腹のために出かけて行ったのではなかった。女の商人あり、門番の女あり、娼婦もいた、娼婦は往々にして情にあつく仏心を持っているものである。市場には夥しい数の女たちがはたらいていたが、これら熱烈な王様びいきの女たちは、それだけに一層つよく国王をパリに迎えることを望んでいた。以前にも彼女らは、どういう機会であったか知らぬが、国王に面会に行き、愛情をこめて国王に話しかけたことがあった。その馴々しさは一寸滑稽だが、しかし心を打つものがあり、その場の事態の意味を完全に示している。「お気の毒な方!」と彼女たちは国王を見つめて言った。「懐かしい方! 良いお父様!」王妃に対してははるかに真剣な態度で言った。「奥様、奥様、貴女の心を打明けて下さい。……妾たちも率直に申上げましょう」なにも隠し立てすまい、言うべきことを率直に述べよう。

 これらの市場の女たちは、貧困のどん底にあったわけではない。彼女らは暮しになくてはならぬ品々を商っていたから、特別に打撃は受けなかった。しかし彼女らは誰よりも不幸を見ぬき、それを感ずる。常に広場で生活している彼女たちは、われわれのように苦しみを見て逃げ出したりはしない。人の苦しみに一番同情を寄せ、不幸な人々に一番やさしくしてやったのは彼女たちであった。粗末な身なりをして、言葉こそ荒々しいが、彼女たちは限りない善意に満ちた王様のような心を持っていた。前にものべたように、わがピカルディの女たちや、アミヤンの市場の女たちや、貧しい野菜売りの女たちが、ギロティヌにかけられようとした四人の子を持った父を助けたことがある。それはシャルル十世(在位一八二四―三〇年)の戴冠式の時であった。女たちは自分らの商売や家庭を棄てて、ランスに出かけ、国王を感動させ、赦免をえて帰るや、自分らの間で多額の義捐金を募り、その父親や母親や子供たちを助け、金を与えて送り返したのだ。

 

 十月五日、七時、太鼓の音を聞きつけるや、女たちは躊躇しなかった。一少女が騎兵の軍鼓を奪い、非常呼集の太鼓を打ったのだ。月曜日だったが、みな市場を空けて行ってしまった。「妾たちは、」と彼女たちは言った、「パン屋パン屋の女房(国王ルイ十六世と王妃マリ・アントワネットをさす、民衆は王一家がパリにくれば、パンもついてくると考えた)を連れて来るのよ。……そして妾たちのミラボーおばさん(国民議会の議員、革命初期の中心人物に対する愛称)の言うことを聴きに行くのよ。」

 

 市場の女たちが行進を起すや、サン・タントワーヌ郊外からも女たちが行進してくるといった有様だ。来ない者は髪を切ってしまうぞと脅かしながら、女たちは途中で出会う女をみな連れて行く。彼女たちはまず市庁に向う。そこには二リーブルのパンを七オンス少く売ったパン屋が拘引されてきていた。すでに街灯は下され、用意が出来ていた。(絞首の用意。当時は街頭につるして死刑に処するという簡単な方法を用いた)その男が犯人であることは自供によって明らかであったのに、国民軍は彼を逃がし、逆に、すでに集まっていた四、五百人の女たちの方に銃剣を向けた。更に広場の奥には国民軍の騎兵隊が屯していた。しかし女たちは驚かない。彼女たちは石つぶてで騎兵や歩兵を攻撃した。さすがに彼らも女たちめがけて発砲する気にはなれなかった。彼女たちは市庁に押入り、どの室へも入りこんだ。女たちの多くはきちんと身なりをととのえ、その偉大な日のために白衣をつけていた。彼女たちは、それらの各々の部屋が何の役に立っているのかと珍しそうに尋ねたり、無理に引連れてきた女たちをもてなすように各地区の代表者に要請した。引張ってこられた女たちの中には妊娠しているものもあれば、おそらく恐怖のためであろうか、気分を悪くしているものもいた。空腹で気負いたった他の女たちは、「パンと武器をよこせ。」と叫んでいた。男たちが臆病だったから、彼女たちは勇気とはいかなるものかを彼らに示そうと思ったのだ。……市庁の連中はみな絞首刑に処してもよかった! 書類や紙片は焼いてしまうべきだった。……彼女たちもまたそうしようとしていたし、おそらく、建物も焼こうとしていたのであろうが……。一人の男が制止した。図抜けて背の高い男で、黒い服を着、その衣服にもまして悲哀のこもった誠実な顔立ちであった。彼を市庁の一味と早合点した女たちは、はじめ口々に裏切者と叫んで彼を殺そうとした……。彼は、自分が裏切者ではなく、守衛を職とし、バスティーユ征服者の一人であると答えた。それがスタニスラス・マイヤールだったのである。

 

 朝から彼はサン・タントワーヌ郊外で立派な働きをしてきているのだ。すなわち、ユランの指揮の下に武装したバスティーユの義勇兵たちが広場にきた時、バスティーユの城砦を破壊していた労働者たちは、それら義勇兵たちを自分らに対抗するために派遣されたものと信じこんだ。その時マイヤールが間に入って、彼らの衝突を回避させたのである。彼は市庁でもうまく火災を防ぐことができた。女たちは男たちを入らせないように申し合せ、正門の所に女の武装衛兵を置いて武装し、小門を破り、武器庫を略奪する。彼らのうちに正規軍の兵士が一人まじっていたが、彼は、朝方、早鐘を打とうとしたところを現場で逮捕され、奇蹟的に逃げおうせた、と言っていた。他の者に劣らず穏健な連中までが憤慨し、もし女たちが来合せなかったなら彼は危く絞首されるところだったのだ。彼は女たちにネクタイもつけない首筋を差し出して見せた、その首から彼女たちが綱をはずしてやったのだ。……皆は腹癒せに、市庁の男を一人、絞り首にしようと引っ捕らえた。この男こそ七月十四日に弾薬を配ったルフェーブルであった。女たちや女に変装した男たちが彼を小さな釣鐘にくくりつけ、一人の女か男かが綱を切ったから、彼は二十五呎も下のホールに落ちて行った。しかし気を失っただけである。

 

 バイィ(当時のパリ市長)やラファイエット(当時の国民軍総司令官)もまだ到着しなかった。マイヤールは軍医総監に会見し、この場の始末をつける手段は一つしかないこと、それはマイヤール自身が女たちをヴェルサーユに連れて行くことである、と告げた。この行進の間に軍勢を集める余裕もできよう。マイヤールは降り、軍鼓を鳴らし、下知を飛ばす。この沈鬱な英雄の冷静な悲劇的容貌は、グレーヴ広場に集った人々に良い効果を与えた。彼は事態をうまくすすめるに適しい慎重な人間に見えたのである。すでに市庁の大砲を持ち出していた女たちは、マイヤールを隊長として宣誓する。彼は七、八個の軍鼓を打たせつつ先頭を行く。七、八千の女たちが従い、つぎに武装した数百の男たちと、最後に後衛としてバスティーユ義勇兵の一隊がつづいた。

 

 テュイルリ宮に達し、マイヤールが河岸沿いに進もうとすると、女たちは堂々と大時計の下を過ぎ、宮殿と庭園の内を通って行くことを主張した。しかし格式を重んずるマイヤールは、それは国王の住居であり、庭園であり、そこを許可なく通過することは王を侮蔑することである、と説いた。彼は慇懃に衛兵の所へ近寄り、この婦人たちは少しも迷惑をかけないから此処を通過させて貰いたいと望んでいる旨を告げた。すると衛兵は矢庭に剣を抜き、マイヤールに躍りかかってきた。マイヤールも剣を抜いた……さいわい或る門番の女が棍棒で衛兵を撲り倒し、一人の男がその胸元に銃剣をつきつける。マイヤールはそれを制し、静かに二人の武器を捨てさせ、銃剣と剣を奪う。

 

 日は高まり、空腹は増してきた。シャイヨやオートゥイユやセーヴルでは、貧しい飢えた人々が食糧を略奪するのを阻止することは実に困難だった。マイヤールも飢えには我慢できなかった。一行はセーヴルではもうどうすることもできなくなった。そこにはなにもなく、買うものさえなかった。戸はみな閉され、ただ一軒とりのこされた病人の家が開いているきりであった。マイヤールは自分で金を払って葡萄酒を幾杯か貰った。更に七人の男を名指して、セーヴルのパン屋にある限りのパンを持って来させるように命じた。全部でパンが八個、八千人に対して三十二斤であった……。人々はそれを分け合い、また足を引きずりながら出発した。大部分の女は疲れ切って武器を投げすてた。一方、マイヤールも、国王や国民議会を訪れて彼らを感動させるためには、こんな挑戦的な態度で行くべきではない、と説いた。大砲を後尾に廻し、辛うじて隠蔽した。この賢明な守衛は、法廷流の言い廻しをすれば、平穏裡に引立てることを望んでいたのである。ヴェルサーユに入る時、マイヤールはおだやかな意図をはっきり示すために、アンリ四世(在位一五八九―一六一〇年ブルボン王朝の開祖)頌歌を歌うよう女たちに合図した。

 

 ヴェルサーユの人々は有頂天になり、「わがパリの女性、万才!」を連呼していた。しかし事態に無関係な観衆は、国王の下へ救いを求めに押し寄せたこの群衆の中に、無邪気なものしか見出さなかった。その一人、大革命に好意を寄せていなかったジュネーヴ人のデュモンは、プティト・ゼキュリ宮で食事をしていたが、窓から様子を眺めながら言った、「この連中はパンを求めにきただけさ」と。

 

 この日、国民議会(一七八九年六月以来、国民議会はヴェルサーユで開かれていた)は大荒れであった。人権宣言や八月四日の布告(解説参照)を裁可しようとしない国王は、根本的な諸々の法律は全体としてのみ判決しうるものである、と言い、しかし険悪な情勢を考慮した揚句、国王は、行政権がその全権を取戻すという特別の条件付きならば承諾しよう、という回答を送った。

 「諸君が国王の書簡を受け入れるならば、もはや憲法はなくなり、憲法を有すべき権利すらまったく失うであろう」とロベスピエールが発言した。デュポールやグレゴワール等の議員も同様の意味の言葉をのべる。ペションは近衛兵の大宴会(十月一日、近衛兵はフランドル聯隊を迎えて国王、王妃臨席の下に反革命的な宴会を開いた)を人々に想起させ、弾劾する。その近衛の軍隊に奉職していた一人の議員は、彼らの名誉のために告発状を作り、犯人の調査を要求する。「私も告発しよう」とミラボーは言った、「国王の人格だけは不可侵であることを議会が宣言するならば、私もその告発状に署名しよう。」この言葉の裏には王妃のことが暗示されていた。しかし全議員はたじろぎ、動議は撤回された。かかる日にこのような動議を可決するならば、流血の惨事を起こしかねなかったであろう。

 ミラボー自身も自分の行為に不安でないわけではなかった。彼は議長に近寄り、小声でささやいた。「ムゥニエ、パリがわれわれの方に行進してくるぞ……私を信じてくれ、いや、そんなことはどうでもよい、四万の人間がわれわれの方に行進してくるのだ……事態は危い、宮廷に伺候し、注進してくれ、一刻も猶予はならぬ。」「……パリが行進してくるんだって、」とムゥニエは無愛想に言った、(彼はミラボーをこの運動の煽動者の一人と考えていた)「そりゃ結構、おかげでもっと早くわれわれは共和国になれるよ。」

 

 議会は、人権宣言の無条件承認を要求するために、国王の許へ使者を送ることを決定する。三時には、パリへ通ずる道路に面した門に一群の人々が現れていることをタルジェが報告する。

 世間の人はみなこの事件を知っていた。知らないのは国王だけである。その日の朝も、いつもの通り国王は狩に出かけ、ムゥドンの森を走り廻っていた。その国王を迎えに行っている間に、非常招集の太鼓は打ち鳴らされ、近衛兵は広場へ馬で馳せつけ、柵を背にして整列した。彼らの右下方、ソーへ通ずる道路の傍にフランドルの聯隊、更に下って竜騎兵が並び、柵の後にはスイス兵が陣取った。

 そうこうするうちにマイヤールは国民議会に着いた。女たちはみんな中へ入ろうとする。辛うじてマイヤールは、十五人の代表だけを入れることに同意させた。中に入った十五人の者は、前述の正規兵と、棒の先にタンバリンを持った女を先頭に立て、破れた黒服を着、手には剣を持つ、あの巨大な守衛を真中に擁して傍聴席に陣取った。かの兵士が口早に語り始めた、朝方、誰もパン屋からパンを買えなかったので、自分は早鐘を打とうとしたところが、捕えられて危く絞首されそうになり、ここに来られた婦人方のおかげで救けられたのである、と。「われわれはパンを要求し、帽章を侮蔑した近衛兵の処刑を要求するために来たのである……」と彼は言った。「われわれは善良なる愛国者であり、途中で黒色の帽章を抜き取ってしまった。……私は議会の面前において、進んで自らそれを引き裂こうとするものである。」

 他の者がその言葉に重々しく附け加えた、「よろしくすべての者が愛国の徽章をつけるべきである。」若干のざわめきが起った。

 

 「しかし、われわれはみな血を分けた兄弟である!」と、かの沈鬱な人物が言った。

 マイヤールは、昨夜パリの市庁が宣言したこと、すなわち、三色の徽章が友愛の印として採用されたからには、それこそ市民のつけるべき唯一の徽章であることを暗示していたのである。

 女たちはみな我慢しきれず、一緒になって「パンをよこせ! パンを!」と叫んでいた。そこでマイヤールは、パリの恐るべき状態と、食糧の輸送が他の町や貴族たちによって遮断されている事情について述べ始めた。「彼らはわれわれを飢え死にさせようとしているのだ。ある粉屋のごときは二百リーヴル受けとり、毎週同じ量だけの粉をわたす約束を結びながら、粉をひこうとしない。」――議員たちは、「其奴の名前を挙げろ! 名前を!」と叫んだ。議会においても、すでにグレゴワールがこのことについて発言していた。来る途中で、マイヤールはそれを知っていた。

 「名前を挙げろ!」という声に、女たちは期せずして叫んだ、「パリ大司教」と。

 

 ロベスピエールが重大な発言を行った。彼のみがマイヤールに味方して述べた、グレゴワールがこの事実について発言したのであるから、彼がおそらく情報を与えてくれるであらう、と。

 

 他の議員たちは一行を慰撫し、或は脅迫しようとかかった。僧侶身分の代表たる修道院長、或は司教が自分の手を一人の女に接吻させようとした。女は憤慨して言った、「妾は犬の足なんかに接吻するために生まれてきたんじゃないよ。」サン・ルイ十字章をつけた軍人出のある議員は、僧侶は憲法にとって大きな障害であるというマイヤールの言を聞きつけ、憤激し、即刻見せしめのために、お前は処刑されるべきだ、とマイヤールに向って言った。マイヤールは恐れず返答した、自分は議員の方々の誰一人をも疑っているわけではないし、僧侶の方もこんなことは全然御存知ないところであろうが、自分としてはこうした忠告を与えることを有益だと信ずる、と。二度目もロベスピエールはマイヤールを支持し、女たちを慰めた。議会の外で待っている女たちは焦り始め、代表のことが心配になってきた。マイヤールが殺されたという噂も飛ぶほどになった。そこで彼は一旦外に出て、暫く一同に顔を見せた。

 

 マイヤールは、再び言葉を続け、帽章に対する償いを近衛兵にさせるよう議会に要請した。――議員たちは否認した……マイヤールは烈しい言葉でなおも主張した。――議長のムゥニエは議会の尊厳をマイヤールに想起させ、市民たらんと欲する者は自由に市民たりうるという言葉を不手際にも附け加えた……それはマイヤールに乗ずる隙を与えたようなものだった。彼はそのきっかけを掴み、返答した、「何人も市民という名に誇りをもたないでいいものはない。もしこの神聖なる議会において、市民の名によって自らを汚すものありとすれば、その人間こそ追放さるべきであろう」と。議会は戦慄し、拍手を送った。

 「然り、われらはすべて市民である」と。

 その時、近衛兵の方から三色の帽章が返却されてきた。女たちは叫んだ、「国王万才! 近衛兵万才!」と。しかしそれほど簡単に満足できないマイヤールは、フランドルの聯隊(民衆は彼らを宮廷の反革命運動の手先と考えた)を送り返す必要を主張する。

 これらの人々を解散させることが出来るであろうと考えたムゥニエは、議会は食糧の方面を決して閑却したわけではなく、国王もまた然り、これからも新しい手段を見つけよう、だから諸君はおとなしく退出するように、と述べた。――「いや、それでは不充分です」と言いつつ、マイヤールは身動きしようともしなかった。

 

 その時、ある議員がパリの不幸な状況を国王に進言することを提案した。議会はそれを可決した。これをきいた女たちはうれしさのあまり、議員たちの首に飛びつき、どうしても議長を抱擁せずにはおかなかった。

 「しかし、一体ミラボーは何処にいるのでしょう?」と彼女らはまだ言っていた。「妾たちはミラボー伯爵にお会いしたい!」

 接吻を浴せられ、取り巻かれ、ほとんど息の根もとまりそうになったムゥニエは、議員の代表と共に悄然として出かけて行った。女たちは彼らの後に執拗に従って行った。「われわれは泥濘の中を徒歩で出かけた、」とムゥニエはのべている。「どしゃぶりの雨だった。粗末な服を着こみ、奇妙な武装をした騒々しい人々の群を、われわれは横切って行った。」近衛兵は偵察隊を先発させ、急遽馳せつけてきた。ムゥニエ及び他の議員たちが、彼らに敬意を表してつくられた奇妙な行列を従えてやってくるのを見た近衛兵たちは、ムゥニエをてっきり一揆の首領と信じこみ、この一団を蹴散らさんものと、一行の真只中を馬で馳せ抜けた。神聖不可侵の議員諸公は命からがら泥土の中に飛びこんで命拾いをした。しかし、議員と一緒ならば丁重に扱われるものとばかり期待していた民衆の憤激を想像されたい。

 二人の女が負傷した。しかも何人かの目撃者によれば、サーベルで突かれたらしい(原註)。しかし人々は少しも反抗しなかった。三時から夜の八時まで民衆は憎らしい近衛の制服姿が通っても、叫び声や罵声をあげる以外は辛棒づよく動かなかった。子供が一人石を投げつけた。

  (原註)人々が確証するごとく、国王が近衛兵の行動を禁じたのはずっと後になってからである。もう手おくれだった。

 

 国王は見つかっていた。彼はムゥドンの森から悠々帰還して来たのである。結局、顔見知りのムゥニエが、十二人の女たちと一緒に謁見を許された。ムゥニエはパリの窮状を国王に語り、人権宣言と他の基本的条項の無条件承認を待ち望む議会の要求を、大臣たちに告げた。しかし国王はにこやかに、女たちの言葉に耳をかたむけていた。若い娘のルイゾン・シャブリは発言の任を負っていたが、王の前に出ると、感動のあまり、辛うじて「パン」と言いきるや卒倒してしまった。国王はひどく心を打たれ、彼女を介抱させ、退出の際に彼女が手に接吻しようとすると、国王は父親のように抱きしめた。

 国王陛下万才と叫びつつ、彼女は王さまびいきになって退出した。広場で待っていた女たちは憤慨し、買収されたのだと言いはじめた。彼女が自分のポケットを裏返して、金のないことを示しても無駄だった。女たちは彼女の首に靴下どめをまわし、絞め殺そうとした。彼女は辛うじて助けられたが、その代り、再び宮殿に上り、麦の輸送及びパリの食糧補給に対する一切の障害を取除くための命令書を、国王からいただいてこなければならないことになった。

 

 議長の要求に対して国王は静かに言った、「九時頃また来給え」と。しかしムゥニエは宮中の評議室の扉の前に残り、返答を要求して夜の十時までぶっつづけにその扉を叩きつづけた。しかしなんら決定は下されなかった。

 

 パリの大臣ド・サンプリースト氏がこの報道に接したのは、はるかに後のことである。(これから考えてもヴェルサーユへの出発がいかに予想外な、突然なことであったかは明らかであろう。)彼は、王妃はランブゥイエへ向け出発し、国王は留って頑張り、必要とあらば一戦を辞すべきではないと進言した。王妃の出立のみが民衆を鎮めることもできたろうし、衝突も避けられそうだったからである。ネッケル氏(当時の首相)は、国王がパリに赴き、民衆に信頼すること、すなわち、率直に、真面目に、革命を受け入れることを望んでいた。一方、ルイ十六世はなんらの決意もせず、王妃に諮るために評議会を延期した。

 

 王妃は出発を希望したが、国王と同道を望んでいた。頼りない男を一人残して行く気にはなれなかったのだ。国王という肩書は、彼女にとって内乱を始めるための武器であったのだ。サン・プリーストは、七時頃、国民軍を引率したラファイエット氏がヴェルサーユに向け進軍していることを知った。「直ちに出発しなければならない、」と彼は言った。「軍隊の先頭に立てば、国王は容易に通過できるであろう。」しかし国王にいささかでも決意をさせることは不可能であった。彼は、自分が出かければ、議会はオルレアン公(ルイ十六世のいとこ)を国王に推すであろうと考えていたからである。これはまさしく誤解だった。国王はまた逃亡を嫌い、大股に歩き廻りながら、時々繰り返していた、「国王が逃げ出すなんて、国王が逃げ出すなんて」と。しかし王妃は出発を主張し、馬車に対する命令は下された。すでに余裕はなかった。

 

 女たちの一隊から心ならずも隊長に祭りあげられていたパリの一兵士は、ヴェルサーユに着いたときには他の誰よりも昂奮していた。彼は大胆にも近衛兵の背後に廻り、そこで柵が閉ざされているのを見るや、内側に立っていた歩哨に挑みかかり、銃剣で脅しつけた。一人の近衛士官と他に二人がサーベルを抜いて駆けつけ、彼を追跡しはじめる。この男は全速力で逃げ出し、廠舎に逃げ込もうとし、樽につまずき、倒れてなおも救いを呼び続ける。騎馬兵が彼に追いつくと、ヴェルサーユの国民兵たちはもはや辛棒できなくなった。彼らのうちの一人、葡萄酒商は隊列から飛び出し、騎馬兵を狙って打ち、たちどころに彼を逮捕し、サーベルをふりあげていた腕をへし折ってしまった。

 

 この国民軍の指揮者であるデスタンは、国王と共に出発するつもりで、宮城にいた。陸軍中佐ルコワントルは広場に残り、市庁に命令を要求したが、市庁の方では命令を与えてくれなかった。この飢えた民衆が市内を横行しはじめ、自分たちで食糧を調達しはしないかと、ルコワントルが危惧したのは当然だった。彼は民衆の動静を窺い、必要な食糧を要求し、市庁に申請したが、僅かの米しか貰えず、これではかくも多くの人々にはなんの役にも立たなかった。そこで彼はいたるところを探索せしめ、すぐれた才覚により幾分なりとも民衆を鎮めることができた。

 

 同時に、彼はフランドルの聯隊に向って、その士官や兵士たちに発砲するかどうか問いただした。しかしすでにこれらの兵士たちは別の力で強く左右されていた。女たちが彼らの中に飛びこみ、民衆に危害を加えないように頼んでいたのである。そのとき一人の女性が現れたが、この女をわれわれはこれから幾度も見るであろう。彼女は泥濘の中を他の女たちと一緒に歩いてきた様子ではなく、おそらくずっと後れてやってきて、しかも、一番先に兵士たちの中に割りこんで行ったのであろう。それはテロワーニュ・ド・メリクールというリエージュの美しい娘で、十五世紀の諸々の革命を起し、シャルル大胆王(最後のブルゴーニュ公、フランス王たらんとして中途で戦死)に対して勇敢に戦った多くのリエージュの女たちのごとく、活潑で気短かであった。きびきびして、真似のできない独特な変った女で、乗馬用の帽子を被り、赤い色の長い上衣をつけ、サーベルを腰にさげ、フランス語とリエージュ語とを一緒に取り交ぜ、しかも雄弁に語る……人々は笑い出したが、結局参ってしまった……剽悍で、魅力のある、恐るべき女で、いささかも障害を障害とは感じなかった。

 テロワーニュはこの哀れなフランドルの聯隊の中にふみ込み、方向を転換させ、これを掌握し、巧みに武装を解いたので、彼らは弾薬を和気藹々のうちにベルサーユの国民兵に分け与えた。

 

 そのときデスタンは国民兵に引き上げるよう命じた。一部の者は出立するが、他の者は近衛兵が先に出かけなければ出発しないと答える。そこで近衛兵に行進命令が下る。午後八時、非常に暗い晩であった。民衆は後につづき、近衛兵に悪罵を浴せる。彼らは手にサーベルを持ち、道を拓いて行く。他の兵士よりも一層進軍を阻まれた後尾の兵士たちがピストルを数発放ち、それが三名の国民兵に命中し、一人は頬に、他の二人は衣服に弾丸を受ける。彼らの同僚もこれに答えて、発砲する。近衛兵は騎銃で応酬する。

 

 他の国民兵は宮廷に入り、デスタンを囲んで弾薬を要求していた。デスタン自身も彼らの突進振りと、諸軍隊の真只中で示した孤軍奮闘の勇気とには驚いてしまった。「これこそ真に情熱の殉教者たちだ」と、後日、彼は王妃に洩らしている。

 

 ヴェルサーユの一中尉は砲兵隊の衛兵に、もし砲弾をよこさなければ、頭に弾を打ちこむぞと言い放った。衛兵が砲弾の入った樽をわたすと、その場で底を抜いて大砲に装填し、まだ宮殿をとりかこんでいる軍隊や、広場に引返してきた近衛兵の側面から狙えるように、斜面に対して砲口を向けた。

 ヴェルサーユの人々は宮殿の他の側でも、同じように勇敢に振舞っていた。五台の馬車が柵の所に現れて走り去ろうとした。それはトリヤノンに向う王妃だったと言う。門衛たちは道を開き、近衛兵たちは閉ざす。「宮殿を去ることは陛下のために危険でございましょう」と、指揮官が言った。馬車は護衛されたまま引き返した。もはや通路はなかった。国王は捕虜になってしまったのである。

 同じ指揮官は、一人の近衛兵が、民衆に向って発砲したために、一群の人々から八裂きにされようとしているのを救った。彼がうまく取計らったので、その男は放免され、人々はその男の乗馬で満足し、馬は直ちに殺され、広場で焼かれはじめた。だがあまり空腹だったので、おそらくその馬は生のうちに食べられてしまったであろう。

 

 雨が降り出した。群衆は場所さえあれば逃げこんで雨宿りをした。一部の者はフランドル聯隊が屯していたグランド・ゼキュリ宮の柵を破り、兵士たちと雑り合った。他にほぼ四千にのぼる人々が議会のなかに残っていた。男たちは静かであったが、女たちはこうした無為な状態に我慢できず、しゃべり、叫び、騒いだ。これを鎮めることができたのはマイヤールのみであり、議会に対して演説することによってその目的を達した。

 しかるに、近衛兵が議会の諸門に陣取っていた竜騎兵を捜し出し、宮殿を脅している連中を逮捕するために手助けを要求したというので、群衆はだまっていなかった。彼らは近衛兵に襲いかかろうとした。すると竜騎兵たちは近衛兵を逃がしてしまった。

 

 八時に、国王の方から別の誘いの手がのびた。すなわち、国王の書簡がもたらされ、その書簡の中で国王は人権宣言には触れず、小麦の自由販売を漠然と約束してきた。おそらくその頃、宮廷では逃亡の気分が支配的になっていたのであろう。評議室の扉の所にひきつづきとどまっていたムゥニエへはなんら返答もなしに、待っている群衆を惹きつけるために、この手紙が送られたのである。

 

 ある意外な男の出現によって宮廷の恐怖は増大した。きたならしい姿をした、瘠せぎすの青年が民衆の中から出てくる……一同はみな驚く……それはリシュリュウ公爵で、こうした服装をして群衆の中に、すなわちパリを出発してきたこの新しい民衆の波にまぎれこんできたのである。彼は途中まで来ると、王家に注進するために、この群衆を離れた。彼は恐ろしい話や狂暴な脅迫を耳にしてきたのである……そうしたことを物語る公爵は顔面蒼白だった、そこで居並ぶ人々もみな色を失った……。

 

 国王の心はぐらつきはじめ、王妃の身の危険を感ずる。哲学者の空論から法律に仕立て上げられたものを承認することは心苦しかったが、夜の十時、国王は終に人権宣言に署名した。

 そこでムゥニエはやっと退出することができた。彼はパリの大軍が到着する前に急いで議長席に戻ろうとしたが、このパリの大軍の目的については誰も知らなかった。ムゥニエが帰ってみると、もう議会には誰もいなかった。議会はうちきられていた。群衆はますます騒がしく、猛り立ち、パンと肉の値下げを要求する。ムゥニエは自分の席、すなわち議長席に一人の上品な女丈夫を見出した。彼女は呼鈴をもっていたが、しぶしぶ席を降りた。ムゥニエは議員を集合させるように命令した。その間に彼は国王が基本的条項を認めたことを民衆に告げる。女たちは彼の周囲にひしめき合い、その写しをせがんだ。他の人々は言った、「しかし議長閣下、これでうまく行くでしょうか? パリの哀れな人々にパンを与えることが出来るでしょうか?」と。――また他の人々は言った、「俺たちはひどく空腹だ、今日はなにも食べていないのだ」と。ムゥニエはパン屋へパンを探しに行くように言った。四方から食糧が到着する。彼らは大騒ぎをしながら、議事堂の中で食べはじめた。

 

 女たちは、パンを囓りながら、ムゥニエと話し合った。「けれど議長さん、なぜ、一体あのけがらわしい拒否権(国王の拒否権をいかにするかは当時の議会の大問題であった)を擁護なさったの? ……街灯に気をつけた方がいいわよ。」ムゥニエは毅然として答えた、貴女方はなにも知らない、騙されているのだ、自分としては良心を裏切るよりも命を投げ出した方がいい、と。この返答は彼女たちにひどく気に入った。その時以来彼女たちはムゥニエに対して多大の尊敬と友情を示すようになった。

 人々の了解を得、騒擾を鎮めうる者はおそらくミラボー一人であった。彼はこの騒ぎを気にかけなかったが、たしかに不安ではあった。多くの目撃者の語るところによれば、夕刻、彼は大きなサーベルを佩して民衆の間を廻り、会う人毎に言った、「ねえ、あんた方、われわれはお前さん方の味方ですよ」と。それから彼は寝に行くのだった。ジュネーヴ人のデュモンが面会に行き、議会に連れ戻した。議会に着くや、ミラボーは雷のごとき声で述べた、「どうして人は会議を混乱させに来る振りをするのか、それを私は知りたい、……議長、議長を尊敬させるようにし給え!」。女たちは歓呼した。これで少し平穏を取りもどし、暇つぶしにまた刑法が論じられ始めた。

 

 「わたしは廊下にいたが、(とデュモンは述べている。)そこでは一人の賤しい女が最高の権威を以て行動し、約百人ばかりの女たちを、特に若い娘たちを指揮していた。一同はその女の合図で叫んだり、黙ったりしていた。女はなれなれしく議員たちを名指して呼びつけ、或はこんな要求をした。『あそこで喋っているのは誰? あんなお喋りは黙らして! あんなこと問題じゃないわ。問題はパンよ! わたしたちのミラボーおばさんに話して貰いましょう』すると他の女たちはみな『わたしたちのミラボーおばさん!』と叫ぶ。しかしミラボーは口を開こうとはしなかった。」

 

 パリを五時か六時頃に出発したラファイエット氏は真夜中すぎてやっと到着した。われわれは再び過去にさかのぼり、正午から真夜中までのラファイエット氏の足跡を辿らなければなるまい。

 十一時頃、市庁侵入の報を受けたラファイエットはそこへ赴き、流れゆく群衆を見て、急を国王に報じた。国民軍は、無給のものも有給のものも、みなグレーヴ広場に集合し、隊列を組んだ。ヴェルサーユに行けと彼らは口々に叫んでいた。ラファイエットがなにをしても、なにを言っても効き目はなかった。彼は引きずり込まれてしまったのである。

 

 宮廷の方では今か今かと待っていた。ラファイエットは止むをえず引きずりこまれた形を装っているが、その実、彼はそうした状況を利用しようとしているのだ、と人は考えた。群衆が散ってしまえば、馬車が龍門の柵から通過できるかも知れない、と考えた宮廷の人は十一時になってもまだ様子を窺っていた。通路はヴェルサーユの国民兵によって監視され、固められていた。

 一方、王妃も一人で出発する気にはなれなかった。王から離れて安全な場所は何処にもないことを、彼女は賢明にも承知していたのだ。二百人ばかりの貴族たちが、中には議員も幾人か混っていたが、王妃の保護を申し出で、それぞれ王妃の厩舎の馬を引き出す命令を与えていただきたいと願った。国王が万一危険の場合にはお願いしましょう、と王妃は答えた。

 

 ヴェルサーユに入る前に、ラファイエットは国法と国王への忠誠を誓った。到着の旨を国王に上奏すると、国王は、喜んで会見しよう、たった今貴下の人権宣言(人権宣言はラファイエットの起草になった)を認可したところである、と返答した。

 近衛兵や人々が唖然としている中を、ラファイエットは単身宮殿に伺候した。ウィーユ・ド・ブーフ宮から眺めていた一廷臣は狂わし気に言った、「あそこへクロムウェル(十七世紀のイギリス革命に於いて国王を死刑に処し、独裁政治を行った)がやってくる」と。それに対してラファイエットの言った言葉がふるっている、「クロムウェルならば一人で乗りこんでは来ますまい。」

 

 国王は国民軍に宮殿の外側を守らせ、宮殿の内側は依然近衛兵に守護させた。外側ですら完全にラファイエットに任せられたわけではなかった。彼の麾下の一巡邏兵が内庭を通りすぎようとすると、柵を越すことを拒絶された。その内庭は近衛兵と他の若干の軍隊とによって占有されていた。朝の二時まで、それらの軍隊は国王が逃亡を決意する時を待っていた。二時にようやくラファイエットによって事態が一段落したので、軍隊はランブゥイエに出かけてよいと言渡された。

 

 三時に議会は終った。民衆は四散し、勝手に教会、その他の場所に入りこんで眠った。マイヤールと大勢の女たち、特にルイゾン・シャブリは、穀物に関する諸々の勅令や人権宣言をえて、ラファイエットの到着直後パリに向け出発した。

 ラファイエットは随分と苦労した末、麾下の国民軍に宿所を与えることが出来た。ずぶ濡れで疲れ切った国民軍の兵たちは身体を乾かし、食事をとることを求めていた。最後に、すべてが無事に納ったのを見届けるや、ラファイエット自身もノアイユの館に赴き、一日中はたらき疲れた人のようにぐっすりと眠りに落ちた。

 

 眠らない人も多かった。特に、パリを夕方出発し、前日疲労してない人々だ。女たちが主導権を握っていた最初の行進、きわめて自然に生じ、きわめて素樸な、いわば諸々の欲求から生れた最初の行進は、流血には至らなかった。光栄にもマイヤールは無秩序の中にも、秩序を保つことができたのである。こうした動乱中に常に見うけられる事態の自然な高まりから考えれば、第二回目の行進が同様に行われるとはほとんど信じられなかった。しかるに、第二回目の行進が国民軍の眼前で、しかも国民軍とあたかも協力するかのごとく、行われたことは事実である。しかし国民軍から離れて行動しようと決心した人々もいた。猛り立ち熱狂した数人の徒は、王妃の殺害に思い至った。事実、朝の六時頃、こうしたパリやヴェルサーユの人々(これが最も激烈だった)は、近衛兵の抵抗を排して王宮に侵入し、そのため民衆のうちの五人の男が殺され、一方、七人の近衛兵が虐殺された。

 

 王妃の身はきわめて危険であったが、国王の部屋に逃げこみ、辛うじて難を避けた。折よく正規兵と共に駆けつけたラファイエットによって、王妃は事なきを得た。

 国王がバルコニーに姿を現わすや、群衆は一斉に叫んだ、「国王をパリへ!」

 王妃もバルコニーに現われざるを得なかった。ラファイエットが進み出で、身を以て王妃の危険をかばい、彼女の手に接吻する。不意をつかれ、感動した民衆は、ただ妻や母としての王妃をそこに見出し、喝采を送った。

 妙なことであるが、政略家や、策士たち、特にオルレアン公を国王代理にしようと思っていた人々は、国王のパリ移転を極度に恐れた。ルイ十六世にとって、再び民衆の人気を博する機会になると信じたからである。もし王妃が(殺害されるか、或は逃亡して)国王に従って行かなかったならば、パリの人たちは必ず再び、国王に対する愛にとらえられたであろう。いささかの悪気もなく、肥満した体、見るからに信心深そうな、温情に溢れた人物、善良そうな、群衆の言うなり次第のこの太っちょな男に、パリっ子たちはたえず好意をいだいていた。前にものべたように、市場の女たちは彼を善良なパパと呼んでいた。それが民衆の考えのすべてだったのである。

 

 国王は国民議会の議員を王宮に招いた。(国王は議員達の請願によってパリ行を中止するという形に運ぼうとした)この招きに応じて出かけた議員は四十人といない。議員の大半は決心がつかず、議事堂に残っていた。彼らは傍聴席を埋めていた民衆のために躊躇していたのである。宮廷に伺候しようという言葉を耳にするや否や、民衆は叫び声をあげた。その時、ミラボーが起ち上り、自分は民衆の意に柔順だとばかり、例の尊大な調子で述べた、「議会が宮中で開かれるならば、議会の自由は危くなるであろう、議会を離れることは議会の尊厳にかかわることだ、代表を派遣するだけで十分である」と。若いバルナーブが支持した。議長のムゥニエは反対したが無駄であった。

 

 終に、国王がパリに向け出発することに同意の旨が報ぜられ、ミラボーの提案に従って、現在招集中の議会は国王と行を共にすることが可決された。

 日は進む。もはや一時も近い。ヴェルサーユを去り、出発しなければならない。……さらば、古い君主政治よ!

 百人の議員たちが国王をとりまき、すべての軍隊、すべての民衆がそれにつづく。国王は十四世の宮殿(ヴェルサーユはルイ十四世によって建てられた)を後にして、再び立ち帰ることはないのだ。

 

 群衆も悉く動き出し、国王の後になり先になりしてパリに向う。男も女も思い思い歩き、或は馬にまたがり、馬車に乗り、見つけ次第に荷車を利用し或は砲架に乗って行進する。途中で人々は、飢えたる町への良き贈物、小麦粉の大輸送団に遭遇して喜び勇んだ。女たちは大きな焼パンを槍の先に突っかけ、他の連中は十月の時候ですでに黄ばんだポプラの枝をかざしていた。王妃にあてつけた駄洒落を飛ばす以外、女たちはひどく上機嫌で、みなそれぞれ楽しそうであった。「妾たちは、」と彼女らは叫んでいた。「パン屋とパン屋の女房と小僧を連れて行くのよ。」女たちはみな国王と一緒ならば、餓死することは決してあるまいと考えていた。まだ王様びいきで、この良いパパをしっかりと摑んでいることを非常な喜びとしていたのである。国王は思慮に乏しく、それを言い表すことも下手であった。それは王妃が悪かったためであった。しかし一旦パリに戻れば、立派な婦人たちが沢山いるから、彼女たちが彼の一番よい相談相手となってくれるかもしれない。

 

 すべては華やかにしてもの悲しく、激烈にして喜びに溢れ、しかも陰鬱であった。人々は希望に満ちていたが、天は彼らに組しなかった。この祭典は不幸にして天候に恵まれなかった。車軸を流すような豪雨となり、泥まみれの中をゆっくりと行進はつづけられた。時々、或はたわむれに、或は荷を軽くするために発砲する者もあった。

 護衛のついた国王の馬車は、ラファイエットが扉の傍に随い、柩のように進んで行った。王妃は不安であった。無事に行き着くことができるであろうか。彼女がラファイエットに意見を求めると、これもモロー・ド・サン・メリに尋ねた。かの有名なバスティーユ攻撃の日の市長であったサン・メリは、事態をよくわきまえていたのだ。彼は意味深長にも次のように答えた、「王妃御一人でテュイルリに到着遊ばされうるかどうかは疑わしい。しかし、一度市庁に参られるならば、王宮へお帰りになれるでございましょう」と。(国王がテュイルリに行く前に市庁に立ち寄ることとなっていた)

 

 かくして国王はパリへ、彼が存在すべき唯一の場所に、フランスの心臓そのものに帰る。願わくは彼がそこに適わしからんことを。

 

 必然的にして且つ自然な、しかも合法的な十月六日の革命は、まったく自然発生的な予期せざるものではあったが、真に民衆的なものであり、七月十四日の革命が男たちの手でつくられたように、それは女たちの手になるものであった。男たちがバスティーユを占領し、女たちが国王を捕虜にしたのである。

 

 十月一日、すべてがヴェルサーユの貴婦人たちによって害われ、十月六日、すべてはパリの女性たちによって償われたのである。

 

 

 

 

ゆり子 蛇足

1789年10月5日のいわゆる「ヴェルサイユ行進」。女性たちを中心とするパリの民衆が、「自然発生的に」(実際には革命家による煽動があったようだが)集まってパリへ行進し、国王一家をパリへ連行したもの。

読んでいて痛感したのは、民衆の力だ。こんなふうに「自然発生的」に「名もないただの民衆」が行動を起こすなどということは、辛亥革命ではなかったことだ。

もちろん、辛亥人士にそういう目が全くなかったわけではない。楊篤生は中等社会は前列にすぎず下等社会こそが中堅=中軍=大将のいる本隊だと考え、それを受けて陳星台や禹之謨等は実際に民衆へ訴えかけようとはした。しかし実際に動いたのは、やはり中等・上等社会、つまり読書人階級で、民衆は阿Qの世界だったと言わざるを得まい。

してみると辛亥革命は、真に底からひっくり返す革命=レボリューションだったのか、単なる政変ではなかったのか、などという問いも発したくなる。

もっとも、18世紀末のフランスと20世紀初頭の中国とでは、社会構造その他諸々の違いがあるから、こんな乱暴な比較をすると、各方面からお叱りを受けるだろう。

また、フランスとて革命で実際に政権をとったのは飢えた民衆ではないし(その意味で、楊篤生式に言えば彼ら民衆は結果的に「前列」であった)、その後の歩みが共和政・帝政・王政の間を往き来する難儀なものであったのは、周知のことだ。

それでも、と思う。辛亥革命にはヴェルサイユ行進はなかったし、下等社会は中堅どころか前列ですらなかった。

 

 

参考までに、以下に拙文「前列と中堅〜楊毓麟の革命思想」からヴェルサイユ行進に関係する箇所を掲げる。

 

楊毓麟は「紀十八世紀末法国之乱」(『游学訳編』四〜七期)として、河津祐之『法蘭西革命史』など三冊をあわせて訳している。これは翻訳とはいいながら訳者自身の考えがかなり入っている。

河津祐之が訳したミニエの『仏国革命史』(明治9年初版)は、明治初期の啓蒙期に出されて秩父事件などの自由民権運動に大きな影響を与えた。楊の訳したものがこれを指すのかどうか不明だが、内容において大差ないとみてよいだろう。

 ミニエ(河津)は第三身分を「平民」と称し、革命勢力の内訳を「財本家」、「学士」、「中等人民」、「賤民」としている。大革命を肯定的にとらえるミニエは、革命のさまを感動的な筆致で描いている。例えば以下はヴェルサイユ行進の件である。

 「爰ニ一少女アリ突然哨兵房ニ馳入テ大鼓ヲ奪ヒ之ヲ鼓チテ麭ヨ麭ヨト叫ヒツヽ街巷ヲ経過セシニ諸家ノ女子之ヲ見テ其前後左右ニ集マリテ恰モ一隊ノ女軍ヲ構成シ行々人数ヲ増テ(中略)府庁ノ門ヲ守レル騎兵ヲ押シノケ館内ニ乱入シテ麭ト兵器ヲ得ンコトヲ乞ヒテ諸門戸ヲ打破テ兵器ヲ奪ヒ号鍾ヲ鳴シ夫レヨリ直ニヴェルサイユヘゾ進発シケル」(傍線は原文による)

 

 楊毓麟は「紀十八世紀末法国之乱」で彼女たちを「决死之婦女」と表現し、パリの「激徒」がこれに従ったとする。

  なお、楊は同じ文章で第三身分のことを「平民」と記し、平民は即ち国民であり国の要素であり国の基礎を成し国家の主権のもとであり、僧や貴族は国民の附属物に過ぎないという。

また、「平民」をふたつに分け、「中流」は富商、法律家、工業者、「下流」は貧農や都市窮民であるとする。そして前者は知識があり秩序を好むので立憲だけでよしとし、往々にして下層民を抑える側にまわったので、革命の原動力となったのは「中流」ではなく「下流」であるという。

 「下等社会」こそが国民の核であり、主人であり、革命の原動力、「中堅」であるという考え方は、このようなところからもうかがえる。

 

 

 

    

 

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