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ミシュレ『革命の女たち』

 

 

9 シャルロット・コルデの死(93年7月19日)

 

 

 女が入ってくる、警官が、……シャルロットは石のようになって、窓の傍に立っている。……頭に椅子を投げつけた者がある。逃げ出さぬ様に戸に閂がかけられる。しかし、彼女はじっと動かなかった。呼ぶ声に近所の者が駈けつけた。町の者も、通行人もみんな。外科医を呼んだが、もう事切れたと診てとった。その間、国民兵達はシャルロットがずたずたに引裂かれてしまわぬように防いでいた。彼女は両手を捕えられている。もう手を使おうなどとは考えてもいなかったのである。じっとして、どんよりした冷たい眼で見つめていた。短刀を拾いあげたこの町の鬘屋が、振り廻して叫ぶ。彼女は見むきもしなかった。彼女の心を驚かせ、苦しめた(そう自身で言っているのだが)ただ一つのものはカトリーヌ・マラの泣き叫ぶ声であった。この女がコルデに「なにはともあれ、やはりマラは男であった」という苦しい思いを始めて起させた。彼女は独りごつように言った。「何ということだ! あの人は愛されていたのだ!」

 

 やがて、七時四十五分に警部がやってきた、次に警察行政官のルヴェとマリノが来、最後に代議士のモール、シャボ、ドルゥエ、ルジャンドルが「怪物」を見に公会から駈けつけた。彼等は、手を捕えている兵士たちの間に、綺麗な少女を見出してすっかり驚いてしまった。彼女は非常に平静で、言葉少なにすべてのことに対してしっかりと答えている。いささかも臆するところなく、又誇張するところもない。出来ることなら逃げ出したかったと告白までした。こういった態度は自然さと凡そ矛盾することである。あらかじめ書き記して、身につけて持っていたフランス人に宛てた言葉の中で、彼女は、自分の首がパリに持ち込まれて、法を愛する人達に対する合言葉となるように殺されたいものだと言っている。

 

 いま一つの矛盾、彼女は、誰にも知られないで死ぬことを望んでいると、言ったし書いてもいる。しかしながら、自分が誰であるか分るような洗礼証明書と旅行許可証を身につけていた。

 

 彼女の一分の隙もない心の平静さを教えるものも他にまだあるが、それは几帳面な習慣の注意深い女性が持っているようなものであった。鍵と時計とお金の他に、彼女は指貫きと針とを持っていた。多分、乱暴な逮捕で、自分の着物が切れたりほつれたりするであろうが、それを牢獄の中で繕おうというのであった。

 

 アベイ(牢獄)までの道程はごく近く、僅かに二三分でいけるのであった。だが途中は危険だった。道には怒り猛ったマラの友人達やコルドリエ派の人々が満ちており、暗殺者を渡せと哀願したり怒号したりしていた。シャルロットは予めあらゆる種類の死を考え、覚悟を決めていたが、八つ裂きにされることだけは考えていなかった。一瞬彼女は力萎え、気分が悪くなったといわれる。どうやらアベイに着いた。

 

 夜に入って再び、保安委員会(一七九二年十月に組織されたもので警察の掌にもの)の委員やその他の代議士から訊問されたが、彼女は断固とした様子のみならず快な態度までとった。ルジャンドル、この男は自分が重要な地位にあるのが得意で耐らず、自らも無邪気に殉国の英雄気取りをしていたが、彼女に言った。

「昨日尼僧の服装で私のところを尋ねてきたのはあんたじゃなかったかね。」――「市民(あなた:革命期には「ムッシュ」に代わって「シトワイヤン」という呼称が用いられたため、訳者は「市民」に「あなた」とルビを振ったのだと思われる=ゆり子)は思い違いをしていらっしゃる。」と彼女は微笑を浮かべて言った。「市民(あなた)などは生きようが死のうが、共和制の救いにとって大したものとも思いません。」

 シャボは始終時計を握っていて離さなかった……「カプシン僧(フランス派の托鉢僧団で、シャボは大革命前までこれにぞくしていた)は貧修の誓いをなしたと存じていますが。」と彼女は言う。

 

 シャボや彼女に訊問した人々の大変残念に思ったのは、彼女の身体を調べてみても、その答弁の中にも、彼女がカンのジロンド党員たちによって指し向けられたのであると信ずるに足る何ものも見出さなかったことだ。夜間の訊問に際してあの恥しらずのシャボは、彼女が一枚の紙をなお胸の中に隠してもっていると主張して、彼女が手を縛られているのを卑怯にも利用して、彼女の上に手をかけた。彼女は縛られていたとはいえ、激しく抵抗した。あまり急激に後向けに倒れたので紐が切れて、あの純潔で雄々しい胸が露わとなった。皆は可哀そうに思って、衣紋をつくろうことが出来るように縛めを解いてやった。又、袖を下ろし、鎖の下に手袋をはめることを許してやった。

 

 十六日の朝、アベイからコンシェルジュリに移されて、彼女はその日の夕方バルバルーに宛てて長い手紙を書いたが、この手紙は彼女の快闊さ(実はかえって人を悲しませ心を痛ましめるものだが)が心の完全なる平静を表わすような明らかな意図で書かれた手紙であった。この手紙は翌日パリに拡まって読まれずにはいなかったが、その親しみに満ちた形式にも拘らず一箇の宣言書に等しい影響力を及ぼし、カンの同志達は熱烈で数多いということを信じさせている。彼女はまだヴェルノン(ブルターニュ・ノルマンディーの叛乱軍は七月十五日、この地で革命軍のため敗北した)の敗北を知らなかったのである。

 

 平静を装っているとはいえ彼女の心はそれ程落ち着いていなかったという証拠となりそうなのは、平和、平和の希望という言葉を四度も繰返して自らの行為の理由にし、弁解となしていることだ。手紙の日付には、「平和準備の第二日」とある。その半ば頃でこう言っている。「私が望むや否やすぐに平和が建設されることが出来ればと切に祈ります! ……私はこの二日間平和を享受しています。わが国の幸福が私の幸福を作ってくれるのです。」

 

 父には自分の生命を勝手に処分したことについて許しを乞うて手紙を書き、次の詩句を引用している。

    罪は恥辱なれど断頭台は恥ならず

 彼女は又カンの女子大修院長の甥にあたる若い代議士ドゥセ・ド・ボンテクランに手紙を書いた。彼は用心深いジロンド党員であるが、山岳党に席をしめているとシャルロット・コルデは言っている。彼女は彼を弁護人に選んだが、ドゥセは自分の家で寝起きしていなかったので、手紙は届かなかった(コルデの手紙は刑執行後四日目に届き、しかも開封されていたと、彼は報告している)

 

 牢獄に彼女を描いた画家の家につたわっている貴重な覚書を信ずるならば、彼女は裁判の為にわざわざボンネットを一つ作らせたのであった。これで彼女があんな短い期間獄にいた間に、三十六フランも使っている訳が分る。

 

 告訴の形式は如何なるものとなるだろうか。パリの当局者達は声明を発し、罪を聯盟主義者に帰し、同時に次のように言っている。「この凶暴なる行為はドルセ前伯爵の家より生じたるものなり。」フゥキエ・タンヴィルは保安委員会に書簡を送り、「最近入手した情報によれば、彼女はベルガンスの友人で、ベルガンスとその親戚でマラに最近告発されたビロン(革命戦争に勇戦した将軍であるが、辞職を願って裏切りと目され、告発された)との復讐を企てたのであり、バルバルーは彼女の後おしをしていた。」等と言っている。実に荒唐無稽な作り話で、彼自身も論告の場合敢えて口に出すことは出来なかった。

 

 一般の人はそんな事にだまされなかった。誰もが、彼女は独りであり、自分の勇気、犠牲的な行為、狂信のみをたよりとしていることを悟った。アベイやコンシェルジュリの囚人たちも、街の人々も(その最初の頃の叫声を除けば)、皆黙々と一種尊敬の念を交えた讃歎の眼を以て彼女を瞠めていた。「彼女が法廷に現れた時」と彼女の官選弁護人のショヴォ・ラガルドは言う。「皆が、判事も陪審員も傍聴人もすべてのものが、最高の裁判所に自分達を呼び集めた判事だと彼女のことを考えているかのようであった……」。「彼女の顔を描くことは出来る」と更に彼は言う。「又彼女の言葉を再現することも出来る、だが彼女の容姿全体に息づいている偉大な魂を描写する如何なる術もなかったであろう。……弁論の精神に及ぼす効果は、感得し得ても発表し能わざるものである。」彼は『モニトゥール』紙上に掲載された巧みに変容され、ひどく手を加えられ、色をうすめられた彼女の答弁を次に修正している。コルネーユのひきしまった対話の中に読まれるような問答は、そのすみずみまで人を感動させぬところとてない。

 

 「誰がお前にあのような憎しみをおこさせたのか。」

――「他人の誰の憎しみも必要ではありませんでした。私の憎しみで充分でした。」

 「この行為は暗示を与えられたに違いあるまい。」

――「真に自分の心に抱いたことでなければうまくやりとげられるものではありません。」

 「彼の中の何を憎んでいたか。」

――「あの人の罪を。」

 「それはどういう意味か。」

――「フランスを荒廃に帰せしめたことです。」

 「彼を殺して何を望んだのか。」

――「祖国に平和を取り戻すことです。」

 「マラの如き他の者達をもすべて殺し得たと思うのか。」

――「彼が死ねば、他の者たちは多分恐れると思います。」

 「この計画を目論んだのは何時からか。」

――「五月三十一日、人民の代表者たちがここに逮捕された日以来です。」

 裁判長が、彼女を弾劾する供述の後に、

 「これに対して、答えることがあるか。」

――「私は成功したのだという以外には何もございません。」

 彼女の述べた真相の中にただ一点だけ嘘があった。カンの閲兵の時会するもの三万と主張したが、これはパリに恐怖をまきちらそうとしたからだった。

 

 数多くの答弁を見ると、この決断に富む心は、やはり人間の性情と悖るものではなかったことがわかる。マラ夫人が嗚咽にくれてなす供述を終りまで聞くに耐えず、急いで言った。「そうです、私が殺したのです。」

 

 又、彼女に短刀が示された時やはりみじろいで眼をそらし、手でそれを斥け、途切れ途切れの声で言った。「はい、見覚えがあります。知っております。……」

 

 フゥキエ・タンヴィルは彼女が切り損じせぬために上から切り込んだことを認めさせた。そうしなければ、肋骨につきあたって殺せなかったであろう。「明らかに、犯人は予め修練するところあったのだな……」――彼女は叫んだ。「ああ! なんということをいう人だ! 私を暗殺者と考えている。」

 ショヴォ・ラガルドの説によれば、この言葉は正に雷の一撃の如くであった。凡てで三十分間、弁論は閉じられた。

 

 裁判長のモンタネは出来れば命を助けてやりたかった。陪審員に提示すべき質問を変えて、次のようなことを問うので満足している。

 「彼女は予め熟慮して犯行を行ったのか。」これは「犯罪的及び反革命的計画を以て」というきまり文句の全版が省略されたものである。このお蔭で彼自身も数日後には逮捕ということになった。

 

 彼女を救おうとした裁判長も、辱しめてやろうと思った陪審員達も、弁護士が彼女は気狂いであるとすればいいがと思っていた。弁護士は彼女を見つめ、彼女の目の中に心を読みとった。彼は彼女がそうありたいと思っている通りにしてやった。この犯行は予め長い間熟考されたものであり、彼女は一切の弁護に対して弁護されるのを望んでいなかったことを証明してみせた。若かったのでこの大いなる勇気にみちた姿を見て感激してしまった弁護士は、敢えて次の言葉(それが断頭台をよびよせることになったのだが)を吐いた。「ある点から見れば崇高とも申すべきこの平静さ、この無私が……。」

 

 刑の宣告の後、彼女はこの若い弁護士のところに行かせてもらい、深い感謝の気持で、自分はこの行き届いた寛大な弁護に対して心からお礼を申し上げ、且つ尊敬の気持を表わしたいのですがと言って、「あの方々は私の財産が没収されたと先程教えて下さいましたが、私は獄で少しばかりの借金をいたしております、私の借金を支払って頂くようお委せいたします。」

 

 部屋から出され、下の方の地下牢に通ずる暗い螺旋階段を下りて、獄の仲間たちの見おくるのに微笑みかけた。前に一緒に食事をする約束をしていた牢番のリシャール夫婦には詫びを言った。お勤めをしに僧が訪れて来た、彼女は態よく断って、言った。「私に代って貴方をおつかわしになった人達に感謝の意を述べて下さいまし。」

 

 彼女は審問最中に一人の画家が一心に自分の姿をとらえようとし、激しい興味を以て自分をみつめていたのを知っていて、彼の方を向いてやったのだ。裁判後画家を呼んで貰って、刑の執行前に残された短い時間を彼に提供したのである。この画家はオエールという名でコルドルエ大隊の副隊長であった。多分この肩書のおかげで、憲兵一人をつけただけで、彼女の傍にいることが出来たのである。彼女は大変穏やかに彼とさし障りのない事について、その日の出来事や彼女の心の中に感じている精神的平和などについて語り合った。彼女はオエール氏にその肖像を縮めて写し、家族に送ってくれるようにたのんだ。

 

 一時間半たって、彼女の背を向けている小さい戸口が静かに叩された。戸が開くと獄吏が入って来た。ふり向くと、彼の携えている鋏と赤いシャツが目に入った。彼女は一寸心がゆらめくのを押えきれず、思わず、「おや、もうなんですか。」と言った。すぐに気を持ち直して、オエール氏に向って、「貴方がして下すった御配慮にはなんとお礼を申し上げてよいやらわかりません。差上げるものとてもこれなのですが、私の記念にお収め下さい。」と同時に鋏を取りあげて、白みがかった金髪の長い美しい一房の髪の毛を切り、オエール氏に渡した。憲兵も獄吏もすっかり感動してしまった。

 

 彼女が荷車に乗った時、憤怒と嗟嘆との二つの矛盾した激しい気持にまた湧きたった群衆が、コンシェルジュリの低い入口から美しくも華やかな犠牲者が赤いマントにくるまって出てくるのを見た時、自然は人間の情熱に気脈を通じたもののように、激しい嵐が突然パリの上にふりかかった。しかし、それもすぐ止み、新橋(ポン・ヌフ)にさしかかる。更にサン・トレノ街をゆるゆる進んで行く頃には、嵐は彼女の前から逃げ去って行くように思われた。太陽は高く赫々と照り出した。まだ午後七時になっていなかった。(七月十九日である。)赤い布が照り映えて彼女の顔色や眼差しを、不思議な全く夢幻的な風にひきたたせた。

 

 ロベスピエール、ダントン、カミーユ・デムゥランはその通り路で、彼女を見たといわれる。平静であると同時に、それだけ一層恐怖を起させるような反抗的な復讐の女神ネメシスの姿にさも似た彼女は、人々の心をおののかせ、驚の気持に溢れさせた。

 

 最後の瞬間まで彼女の後を追った兵士や医者連の真面目な観察者は、珍しい一事に心を打たれた。処刑される者はいくらしっかりした者でも、激しく興奮したり愛国の歌を歌ったり、或は彼等の敵に恐ろしい怒号を投げつけたりして気を紛らしているものなのだが、彼女は群衆の叫び声の只中に完全な平静さを示していた。重々しいが巧まざる落着き方であった。この稀にみる威厳のある態度で広場に到着する。斜陽の光を受けて後光につつまれて神の如くであった。

 彼女の一挙手一投足を見落さなかった一人の医者の語るところによれば、彼女はギョティヌの刃を見て一瞬顔面蒼白となった様であった。しかしすぐ顔色はもと通りになり、しっかりした足取りで登っていった。刑吏が襟布を取り去ったとき、再び乙女の羞らいが苦しくもあらわれた。自ら死に向って進み、生命を縮めたのであった。

 刑吏の手伝いをしていたマラびいきの大工が、首が落ちた時それを荒々しく捉え、公衆に向って示し乍ら頬を打つという卑劣極まる残酷な事をした。恐怖の戦慄と呻き声が広場を走った。死人の顔がさっと紅くなったかとみえた。多分これは単なる錯覚のしからしめるところでもあったろう。群衆はこの時不安にみちていたし、シャン・ゼリゼー通りの樹木の間を抜けて来る赤い太陽の光りが眼に映ったのだ。

 パリのコミューヌ及び裁判所は、この男を獄に投じて民衆の感情を満足させたのである。

 

 非常に数の少いマラびいきの人々の叫び声の間に、一般の人の印象は激しい嘆賞と苦悩で荒れ狂っていた。これは『パリ時報』誌が当時の出版が抑圧されていたにも拘らず、殆ど無制限にシャルロット・コルデ礼讃を大胆にも印刷に附したことからも判断される。

 

 多くの人は心を痛め、いつまでも忘れなかった。彼女を救おうとした裁判長の感動と努力も、小心翼々たる一青年弁護士がこの度は自分に打ち勝ったあの感動も既に見た通りである。又画家の感激も劣らぬものがあった。この年に画家はマラの肖像を発表した、(尤も之はシャルロット・コルデを描いた弁解の為でもあったろうが)彼の名はそれ以来どの展覧会にも見られなかった。あの宿命的な作品の後、もはや画筆を取らなかったと考えられる。

 

 この死のもたらした影響は恐ろしいものであった。死を愛させるようになったのである。

 彼女が身を以て行った手本、愛くるしい一少女のあの大胆な平静さが人の心を惹くことになった。彼女を垣間見た人は一人ならず彼女の後追いたい、彼女を未知の国にまでも探し求めてゆきたいという暗い欲望に誘われたのであった。フランスにマヤンス(マインツ)の連合を要求する為にパリにやって来たドイツの青年アダム・ルックスは小冊子を刊行して、死んでシャルロット・コルデと一緒になりたいといっている。心に激情を溢らせてパリに来てフランス大革命に人間性の純粋な理想をまのあたりに見るのだと信じこんでいたこの不幸な男は、その理想が瞬く間に暗澹として来たことに耐えられなかったし、この生みの苦しみがもたらす幾多の余りにも残酷な試煉を理解することが出来なかったのである。自由は失われてしまったと考え、鬱々とした思いにあった時、彼の見たのはこのシャルロット・コルデなのである。裁判所で彼の心を打ち、感動させる大胆な彼女の姿を見たし、又断頭台上の感激に満ちた女王のような彼女の姿を見た。……彼女の姿は二度彼の前に現れたのだった。……これだけで充分、死の味をまざまざと味わった。「私は本当に彼女の勇気を信じていたが」と彼は言う、「野蛮な怒号の只中に全く優しさに満ちている彼女を見たとき、人の心を射るようなあの眼差し、優しくもあり同時に断乎とした魂が話しかけている彼女の美しい両眼から迸り出る生気に満ち、うるおいに満ちたひらめきを見た時、私は一体どうなったか。ああ、消えざる思い出! 嘗て知らなかった懐しくも亦苦しい感動! ……それらは私の心の中にこの祖国愛の気持を支えてくれた。祖国の為に彼女は死ぬことを望んだ。迎えられて私も亦祖国の子なのである。彼等がギョティヌの栄を私に与えるというなら与えるがいい、ギョティヌは神の祭壇にほかならぬのだ。」

 汚れ知らぬ聖なる魂、神秘的な心の持主たる彼はシャルロット・コルデを崇めたのであって殺戮を崇めたのでは全くなかった。

 「人は勿論」と彼は言う、「簒奪者や暴君を殺す権利を持っているが、マラは簒奪者でも暴君でもなかった。」

 

 魂のすぐれた優しさ、これは殺人を愛するようになった大衆の狂暴さとは明らかに対照をなしている。この大衆とはジロンド派の人民であり又王党派の人民のことである。彼等の狂った怒りには、一人の聖者、一個の伝説を必要とした。シャルロットは、凡庸な犠牲者で自分の不幸ばかりが気になっていたルイ十六世の思い出とは全く別ものであり、全く異った一篇の詩であった。

 シャルロット・コルデの血から一つの宗教が出来上った。それは短刀の崇拝である。

 アンドレ・シェニエ(革命時代の最大の詩人)は新しき神に讃歌を捧げている。

 

おお徳よ! 短剣は地上の唯一つの希望

汝の聖き武器!

 

 こういった讃歌はいかなる時にも、到る所で、絶えることなく作られ、ヨーロッパの一角ではプーシキン(ロシアの詩人)の『短剣讃歌』となってあらわれた。

 英雄的な殺人に親しき守り神ブルトゥス(シーザー暗殺の主謀者)、遙かな古代の色褪せた思い出と成り果てていたブルトゥスが、爾来更に強力なさらに魅力ある新しき神に転じた。アリボーという名であろうと、サンドという名前であろうと、素晴らしい剣の一撃を夢みている若者は果して一体誰のことを夢みているのか。彼の抱く夢の中に見るものは誰か? ブルトゥスの亡霊であろうか。否、あの佳人シャルロット・コルデなのだ。真紅のマントに身を包んだ、傷ましくも荘厳な彼女の姿、黄昏の紅と燃えたつ七月の太陽の、血のしたたる如き光を背に佇立した彼女の姿なのであった。

 

 

    

 

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