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ミシュレ『革命の女たち』

 

 

8 シャルロット・コルデ

 

 一七九三年七月七日、日曜日、警鐘が打乱されて、青い毛氈を敷きつめたようなカンの野原に義勇兵が集められ、マラとの戦い(ジャコバン党のマラはジロンド派追放の主謀者と考えられていた)の為にパリに出発したのであった。(六月に追放されたジロンド党員の大多数は地方に逃れ、反革命運動を指導してパリに進撃しようとする者もあった)集り参じた者僅かに三十。代議士たちに立ち交って、そこには美しい婦人達が見られたが、婦人達は人数のこんなに少いのに驚き腑に落ちない顔をしていた。わけても大変悲しそうな様子をした一人の娘がいた。これが年若くみめ美わしいマリ=シャルロット・コルデ・ダルモン嬢であった。共和主義を信じ、貴族の出であるが、家貧しく、その伯母とカンに暮していたのである。彼女に度々会ったことのあるペション(追放されたジロンド党員の一人)は、彼女には誰か恋人があって、その恋人が出発するので悲しんでいるのだろうと想像した。彼は不器用に冗談めかして言った。「みんなが出発しなけりゃなあと思って悲しんでいるんですね、そうでしょう?」

 

 度重なる事件の後なのでいささか感の鈍くなったこのジロンド党員には、このうら若い女性の心を占めている新鮮で汚れない感情、烈しく燃えさかる炎が分らなかった。彼の演説やその友人達の演説は、将来性のない人々の口から出る演説以上の何ものでもなく、このコルデ嬢の心の中には運命が、生が、死が存在していたということをペションは知らなかった。十万の人をも容しうるにも拘らず僅か三十人しかいないこのカンの大平原に立って、彼女の眼には誰の目にも見えぬものが映った。見捨てられた祖国を見たのである。

 

 男たるものが殆ど為すところがない以上、女の手をもって行わなければならぬのだという考えに彼女はたち到っていた。

 コルデ嬢の姿には何か非常に大きな崇高さがっていた。彼女はコルネーユ(フランスの古典悲劇作家)の悲劇の女主人公達、シメーヌやポリーヌまたオラースの妹(いずれも意志が情熱とたたかい理性にまさる女性たちである)の非常に近い親類であるともいえよう。事実彼女は『シンナ』の作者コルネーユの姪の孫娘に当っていた。彼女の中にある崇高なものは天来の性質であったのだ。

 彼女は死に際しての最後の手紙の中で、心の中にある一切のものを響かせているが、彼女が繰返し繰返ししている只一語、それは「平和平和」という言葉であった。

 

 ノルマンディに生れ、叔父のように気高く議論好きな彼女はこんな推論をした――法律平和そのものである。六月二日(一七九三年のこの日、ジャコバン党のクー・デタによりジロンド党が追放された)法律を誰が殺戮したのか? マラを筆頭とする。法律の殺戮者たるマラを屠れば、平和は再び甦えるであろう。只一人の死がかくて万人の生となるだろう――と(ジロンド残党にそそのかされてコルデはマラを刺したとも言われている)

 

 これが彼女の考えのすべてだった。自ら捧げた生命の故に、自分の生命のことはいささかも懸念しなかった。

 崇高ではあるが狭隘な志操だ。彼女は一人の人間の中にすべてを見てしまった。一人の生命を断つことにより、われわれの不運の糸を断ちきれるのだと、はっきりしかも簡潔に考えていた。丁度糸繰る娘が糸巻の糸を切るように簡単に。

 

 コルデ嬢の中に、血をもものともせぬ男まさりの荒々しさがあるとは考えないで頂きたい。全く反対で、血を惜しめばこそ彼女はこの一撃を決意するに到ったのである。殺戮を逞しくする者の息の根を止めることによって世界全体が救われると信じたのだ。彼女の心は優しいおだやかな女性のそれであった。どうしても果たさなければならなかった行為とはいえ憫みの行為なのだ。

 

 彼女を描いて現存する唯一つの肖像画の中にわれわれはこの上ない柔和なものを感ずる。彼女の名が思い出させる血醒い思い出とは何等関係がない。これはノルマンディの若い令嬢の顔であり、正に処女そのものの顔だ。花盛りのリンゴの木のやわらかな輝きをたたえている。二十五歳という年よりも若く見える。やや子供っぽい声がまるで聞えてくるよう。父にあてて書いた言葉、ノルマンディ特有の単調な発音がその綴字の中に窺われる言葉――「お父さま、どうかお許し下さい……」がそのまま聞こえてくるかと思われる。

 

 この悲劇的な肖像の中の彼女は、限りなく思慮に富み分別があって真面目なように見える。丁度彼女の国の女達のように、だが彼女は自分の運命を軽々しく取扱ったのだろうか? 全くそうじゃないのだ。彼女には見せかけの英雄気取りなどは毛頭ない。この彼女はあと半時間たてば、身の毛もよだつような試煉がやってくるのだということを考えてみなければならない。この像の中の彼女には何かすねた子供のようなところがありはしないかしらん、どうも私にはそのように思われるのだが――よく見つめていると、唇の上がかすかに動くのがわかる、ほんの一寸口を尖らして。嗚呼! 死を眼前に控えて、こんなにも心が焦立ちを見せないということは、何としたことだろう! このかくも美わしい生命を、かくも愛情にみち、愛の物語りをはらみうるこの生命を、ずたずたに引き裂かんとする野蛮な敵を前にして……。こんなにも穏やかな姿をみて、われわれの心は乱れるばかり、気も遠くなり、目も昏む。よそへ眼を転じないではいられない。

 

 画家は人間の為に、一つの絶望を、一つの永遠に癒されない悔恨を創造したのだ。彼女の像を見る人は心の中でこう言わざるを得ないのだ。「ああ! 生れ方が遅すぎたというものだ!……僕だったら彼女をどんなに愛したことだろう!」

 

 彼女の髪の毛は白みがかってまことに妙なる輝きをもっている。白いボネットに白い着物、これは目に訴える証拠としての彼女の無垢の象徴なのか? 私にはわからない。眼の中には疑いと悲しみが宿っている。自分の運命に対する悲しみか? おそらくそうなのだろう……あのような一撃を下す如きこの上なく意志強固の人であろうと、その人の信念がどんなものであろうとも、屡々そのいまわの時には不思議にも疑いの気持が高まってくるのを感ずるものである。

 この憂いに満ちた、静かな両の眼をじっと見つめていると、われわれにはもう一つのものが感じられる。それは彼女の宿命の一切を解き明かしてくれるような気がする。彼女は常に孤独であったのだ。

 

 そうだ、彼女の中にある何か人の心を安んじないものがあるという唯一の事はそこなのだ。この愛らしい善良な人物の中には、あの孤独の魔ともいうべき不吉な力が存在していた。

 第一に彼女には母親がなかった。早く死に分れて、母の愛撫というものを全く知らず、何ものもかわることの出来ない母親の甘い乳というものも、嬰児の頃既に無かった。

 ほんとうをいえば、父親らしい父親も無かった。父は田舎の貧乏貴族で、貴族がよりどころとして生きていた偏見に反抗してものを書いている。空想的なロマネスクな頭の持主であり、多くの本に夢中になっていて子供のことなどはあまり念頭になかったのである。

 兄弟もなかったといってよい位であった。二人いたけれど、少くも九二年にはその姉の意見とは全くかけ離れてコンデ太公(亡命貴族として反革命運動を行う)の軍隊に加わってしまった。

 十三の時、貧しい貴族の娘達を入れてくれるカンのアベ・オ・ダーム修道院に入ったが、依然彼女は孤独でなかったろうか。キリスト教的な平等の聖なる宮居でなければならぬと思われるこれら宗教的な避難所の中で、如何に富める者が貧しき者を軽蔑するかを知れば、彼女はやはり孤独であったと考えられる。アベ・オ・ダームの僧院程に、高い気位を伝統的に伝えるのに適しいような場所はない。ギョーム征服王(ノルマンディー公、一〇六六年イギリスを征服)の妃マティルドの創立にかかるこの僧院は町を見下ろし、高められ更に高められたこのロマーヌ建築の円屋根を支えて来た力の中に、今なお封建時代の傲岸さをとどめている。

 

 年端のゆかぬシャルロットの魂は、その初めての拠り所を強い信仰の中に、僧院のやさしい友愛の情の中に求めた。彼女は、貴族だが自分のように貧しい二人の少女がとりわけ好きだった。だが彼女も亦俗世をかいま見た。貴族の青年たちの非常に当世風な社交が、この修道院の応接間や女子大修院長の客間で許されたが、みなの軽薄さは却ってこの少女の男まさりの心を、世の中から離れて孤独を好む気持の中に強めることになってしまった。

 真の友といえば、彼女の書物であった。当世流の哲学は諸所の僧院を席巻していた。余り選ぶこともせず手当り次第に読みふけった。レーナル(歴史家、啓蒙思想家と交渉があった)も読めば、ルソーも読むという具合であった。あるジャーナリストは言っている。「彼女の頭はあらゆる種類の読書に夢中になっていた。」

 彼女は、書物とか色々な意見の為に自分達の純潔さがいささかも害われないで、それらを平気で通過することの出来る女性達に属していた。善悪の知識の中に、子供のような汚れをしらぬ精神を、不思議にも転から授って持っていた。それはことに殆ど子供っぽいともいえる声、銀のように澄んだ音色の声の抑揚の中にあらわれていて、その声を聞くと、まだ何ものにも圧しひしがれたことのない、全き姿の人間を完全に感得することが出来た。コルデ嬢の顔は恐らく忘れることがあっても、その声は決して忘れられるものではなかった。ふとしたことでカンで彼女の声音を一度耳にした人は、十年後になっても、この独特の声が耳の中になお残っていて、書き留めることも出来る程であった。

 

 こういった幼年時代が長く後をひいているのは、いつまでも少女であって決して大人にはならなかったあもジャンヌ・ダルクの特異な性質でもあった。

 

 なにものにもまして、コルデ嬢を非常に印象的にし、忘れ難くしたもの、それはその子供じみた声が真剣な美しさ、繊細な特色はもっているものの、表現の仕方には何か男らしい美しさのあることだった。この対照は、ある時は人を恍惚とさせ、又ある時は人を威圧するという二重の効果をもっている。その姿を遠くから見つめ、次に近づいて見る、この移ろいやすい花の姿の中に、かりそめに咲きいでやがて凋み消え去ってしまうこともなく、いつまでも朽ち果てることのないものが何かしら厳として宿っている。彼女はこの不死に向って歩み、それを望んでいた。自らの生命を捧げて永世に生き永らえんとした人々の間に伍して、彼女は既にプルタルコスの浄さに住まう英雄たちと共に生きていたのである。

 

 ジロンド党の人達は彼女になんの影響も与えなかったし、その大多数は、われわれが先に見たとおり、ジロンド党本来の姿を失ってしまっていた。彼女はプロヴァンス州から出た代議士のバルバルー(原註)に会っている。彼から手紙を貰って、プロヴァンスの出の彼の女友達の一人のやっている仕事に加わってはどうかと誘われていたのであった。

 彼女は又カルヴァドスの司祭フォーシェにも会った。坊主なので又破戒僧然としているのであまり好きではなかったし、尊敬もしていなかった。言わずもがなのことだが、コルデ嬢は他に僧侶を誰も知らなかったし、懺悔などは嘗てしたことがなかった。

 

(原註)空想にはやる歴史家たちは、彼女に恋人があったに違いないという証明を試みないで、彼等の女英雄を許してやろうとは決してしない。彼等は、多分バルバルーと恋仲であったろうという、又別の史家は、老女中の一言をとりあげて若い多感で立派な風貌の青年フランクランとかいう者を想像している。彼はコルデ嬢に愛され、彼女に涙を流させたという顕著なる栄誉を得ていたらしいという。これなどは人間性を余りよく理解しておらぬ者の言である。このような行為は却って、きびしい純潔な心を示すものだ。タリウスの巫女が小刀を突きさすことを心得ていたとはいえ、いかなる人間的な愛情も彼女の心を弱めはしなかったのだ。何よりも一番ばからしいのはヴァンプファンで、彼女を先ず王党派にしてしまい、その上王党派のベルザンスの情人であったとしている。英国人を呼ぼうという協議が斥けられてヴァンプファンのジロンド党嫌いが彼の頭をおかしくしてしまったのかもしれない。彼は、実際には棺桶に半分足を突っ込んで、子供のことばかり考えているあわれな男ペションがカンを焼き払おう(考えてもみていただきたい!)とした……しかもこの罪を山岳党に被せようとしていた――とまで想像を逞しくしている。爾余すべてこの伝なのである。

 

 修道院が廃止されると、父が再婚していたので、カンにいる年老いた伯母ブルトヴィル夫人のもとに身を寄せた。彼女が決心を固めたのはここであった。

 彼女は何の躊躇することなくこの決心をとるに至ったのだろうか。そうではなかった。伯母のこと、この善良な老婆のことを考えて、しばらくためらった――自分を迎えいれてくれたのに、その報として残酷にも伯母を巻添えにすることになる……。ある日、眼に一粒の涙をためているのを見て伯母はびっくりした。すると彼女はこういうのだった。「フランスのため、両親のため、そして伯母さまのため涙を流すのです。……マラの生きている限り、誰が安心して生きていけましょうか?」

 

 プルタルコス(ギリシアの歴史家。その『英雄伝』は大革命時代に愛読された)の一書を残して他の蔵書はみなにやってしまった。プルタルコスは肌身離さずもって歩いた。同じ家に住んでいる職人の子に中庭で出会うと、スケッチ帳を与え、その子に唇づけをした、一粒の涙がまた頬をつたって流れ落ちた。二粒の涙! 彼女の天性からしてみればそれだけで申し分ないのだ。

 シャルロット・コルデは何よりも先ず父に今一度挨拶をしないで、この世を去るわけにはいかないと考え、アルジャンタンで父に会い、その祝福をうけた。そこからパリに向けて駅馬車に乗って行った。マラの大の崇拝者である数人の山岳党と一緒に乗り合わせたが、彼等は最初から彼女に色目を使い、お手をどうぞなどと言ったりしだした。彼女は眠ったふりをしたり、微笑んでみせたり、子供と遊んだりしていた。

 

 パリに着いたのは十一日木曜日午近くで、ヴィユ・ゾ・ギュスタン街十七番地のプロヴィダンス旅館に旅装を解いた。夕方の五時に横になったが、疲れていたので、若さと平静な気持ちとのもたらす睡りに、翌朝までぐっすり休んだ。もう身は捧げてしまっているのであるし、行為も頭の中で完成していた、もはや心に乱れも疑いもなかった。

 

 自分の計画に確信を抱いていたので別段実行を急ぐ必要を感じなかった。彼女は友達としての義務を予め果しておくことに落着いてとりかかった。これはパリへの旅の口実でもあったのだ。バルバルーがその同僚のデュペルレに宛てた手紙をカンであずかっていた。彼女の言に従えば、この手紙にはデュペルレの仲介で、彼の友人である亡命貴族のフォルバン嬢に何か利益となる書類を、内務大臣から引き出すようにして貰いたい由が記されてあった。

 

 その朝、デュペルレは公会にいっていて不在であった。彼女は家に戻ってきて終日、強者の聖書たるプルタルコスの英雄伝を静かに読んで過した。夕方もう一度その代議士の家を訪れると、彼は家族やおどおどしている娘達と一緒に食事をしていた。デュペルレは翌日彼女をつれていってやると懇ろに約束した。その家族達を見ていて巻添えをくわせるかもしれぬと思うと心が痛み、デュペルレに殆ど訴えるような声で、「どうか私のいうことを信じてカンに出発して下さい。明日の夜にならぬうちにお逃れ下さい。」と言った。その晩、シャルロットがしゃべっている間に、デュペルレはもう追放の身にあったか、そうでなくとも少くともそれにやがてなるべき身であった。それでも彼は約束を守って、翌朝大臣のところへ連れていってくれた。大臣は、この疑わしい二人が亡命貴族の令嬢に、救いの手をさしのべることなどは出来ぬことだということを理解させた。

 彼女は、くっついてきたデュペルレを追い払うために、家に戻って直ぐに外出し、パレ・ロワイヤルに足を向けた。太陽が一杯にあたり、笑いさざめく群集で浮きたっているこの庭園で、子どもたちの遊んでいる間を刃物屋を探してあるいた。四十スゥで黒檀の柄のついた、研ぎすました匕首を見つけて、一ふり買い、それを肩掛の下にかくした。

 武器は既に彼女の手中にあった。どういう風にこれを使うかが問題となる。マラに対して考え年ていた判決の実行に際しては、一種の偉大な荘厳さを加えたかったのかも知れない。カンで思いつき、秘かに抱いてパリにまで持って来た最初の考えは、人の胸を打ち劇的な光景を展開させることであった。即ち、シャン・ド・マルスで、人民の眼前で、天を前にして、七月十四日の儀式の時にマラを襲い、王制敗北の記念日にこの無政府主義者を誅罰することである。彼女はコルネーユの真の姪として『シンナ』の有名な詩句(シンナがローマ皇帝オギュストを殺そうとして語る言葉)を文字通りにやってのけようとしていたのである。

 

かのカピトールの丘に犠牲を祀るは明日。

彼自らが牲たるべし。ここに我等

衆目の下、神々の御前に正義を行わん。

 

 祭典が延期されたので、いま一つの考えを取り上げた。それは、マラが罪を犯した場所、即ち全国の代表者を打破って、公会の議決を迫り、この者たちには生を、かの者たちには死をと指示命令したその場所でマラを誅罰するという考えであった。彼女はマラを山岳党の絶頂で襲いたかったのである。だがマラは病を得て、議会にはもう出なかった。

 

 それ故に、彼の家に行かねばならず、憩うている所にまで彼を求めねばならない。又そこへ行くには彼をとりまく人々の休みなく眼を配る護衛を突き破らなければならなかったし、難かしいことなのだが、彼と関係をつけ、そして彼を欺かなければならなかった。このことだけが彼女を苦しめ、疑念と良心の呵責とを与えるのだった。

 彼が最初にマラ宛てに書いた手紙には返事がなかった。そこでもう一度書いたが、そこには何かしらじっとしていられぬ、情熱のはげしくなった心があらわれている。木石に等しき男として、人類の敵として罰せんとする者を欺く為には、彼女はひたすら憐みを乞うことを恐れず、自分はあなたに秘密を暴露してさしあげよう、自分は追われている身であって、みじめである、とまで言おうとしていた。

 さあれ、こんな嘘をつく必要はなかった。彼女はこの手紙を出さなかった。

 

 七月十三日の晩七時に、彼女は家を出て、ヴィクトワル広場で乗合馬車に乗り、新橋を渡ってコルドリエ街二〇番地(今日のエコール・ド・メドシヌ街十八番地)のマラの家の門前で降りた。街の片隅にある小さな塔のついた家に面している大きい悲しげな家であった。

 マラはこの薄暗い家の一番暗い階である二階に居を構えていたとはいえ、新聞記者や民権擁護の論客たちの活動するには都合のよい家であった。伝達係や広め屋が流れ込み、校正が往来する、往き来する人達にとって、外の通りのように、この家はあけっぱなしなところであった。家の中に入ってみると、部屋の内部や家具のたたずまいはマラと彼の運命とを特徴づける奇妙な対照、不調和な姿を忠実に描いていた。部屋は中庭に面していて暗く、古い家具や汚れた机(この机の上で人は新聞を折るのだ)が備えつけてあり、まるで何か職工の住む暗い家といった感を与えていた。更に少し入ると通りに面する青と白との綾模様で飾り立てた部屋がある、この色は美しい絹のカーテンや、いつも花の活けてある陶器の花瓶と共に、気が利いていてなかなか凝った色合である。これは明らかに女の部屋だ。あの生命を奪うような仕事に身を捧げている男に、念を入れて憩いの場所を整えてやった、善良でよく気のつく優しい女性(マラは一七九二年の始めから、シモンヌ・エヴァールと夫妻の関係を結んでいた)の住む部屋である。これは後になってマラの姉があばいたマラの生活の秘密であった。彼は自分の家にいたのではなかった。もともと彼には自分の家などというものはこの世にはなかったのである。「マラは自分で金を払ったことはなかった。(これは彼の姉アルベルティーヌの言葉である。)彼が地下室から地下室へと逃れ歩いている時の状態にいたく心を動かした神のような女性が、この『人民の友』を自分の家に連れていって匿まい、自分の財産を捧げ、自分の憩いを犠牲にしたのである。」

 マラの書いた手紙の中にカトリーヌ・エヴァール(カトリーヌではなくシモンヌ。しかしシモンヌの姉カトリーヌもマラと同棲していた)と結婚の約束を記しているものがある。既にして、白日の下、自然を前にして、彼女と夫婦の契りを結んでいたのであった。

 この不運な、歳より先に老いこんだ女性は不安の余りやつれていた。マラの周囲には死が感じられたので戸口に立って見張り、胡散臭い顔をした者を閾のところでひき止めていた。

 

 コルデ嬢の顔付には疑われるような影もなかったし、その田舎の身分のよい令嬢の端正な身なりは、人に好意を先ず持たせるのだった。すべての事が極端で、女の人の服装も全く等閑にされているかと思えば厚顔無恥な装いをするといった時代に、この若き少女はノルマンの美しい年を経た石さながら、美しさを度を過してまで誇示せずに、美しい髪の毛を緑のリボンで結び、その上にカルヴァドスの女の人のよくかぶるボネットをかぶっていた。(これは質素な帽子でコーの女の人たちの帽子程大げさなものではない。)時代のならわしにそむいて、七月の暑さにもめげず、胸を絹の肩掛けでしっかりと覆って、体の後の方でぎゅっと結び合せていた。着物は白、装飾品といえば、女のひとを気高くするようなもの以外は何も身につけず、ボネットにつけたレースを頬のまわりにひらひらさせていた。その上、頬はバラ色で些も色を失っていない、顔もしっかりして全く心の動揺している気配を見せていなかった。

 

 彼女は、門番のところで立ち止りもせずに、しっかりした足どりで第一の関門を突破した、門番が彼女を呼んでも無駄であった。次に、物音がすれば戸をうすくあけて人を入れまいとするカトリーヌの不躾な尋問にぶつかった。このやり取りがマラの耳に入った。彼女のよく響く銀を打ち鳴らしたような声はマラのところまで届いたのであった。彼は女達を些も怖れなかった。湯に浸っているのもかまわず、彼女をこっちへ通すようにと威猛高に命じた。

 

 その部屋は小さく暗かった。風呂に入っているマラは汚れた布に身体をくるんで、板を渡しその上で書きものをしていたが、(マラは当時皮膚病に犯され浴槽の中で仕事をしていた)頭と肩と右腕を一寸動かしただけであった。脂ぎった髪の毛を手巾か手拭で巻いていて、肌は黄色く、手足はひょろっとしており、蛙のように大きな口をもっている、これが人間であるとはどうしても思えない位だった。ともかく、若い女がまともに見られるものではなかったということは考えられる。彼女はノルマンディの情報を知らせると前に約していたので、マラはそれについて、特にカンに逃れた代議士達の名前を尋ねた。彼女がその名前を言うと、それを次々に書いていった。それから、終りにこう言った。「こいつは好い! 一週間の中にこいつ等はギヨティヌ行きとなるんだ。」

 シャルロットはこの言葉の中に力が盛り上って来て、攻撃すべき理由を見出し、胸からナイフを取り出して、柄も通れとばかり、マラの心臓めがけてぐっさり差し込んだ。このように上から落ちるように来た一撃は、並外れた落着きをもって切り込まれたので、鎖骨の近くを通って肺臓を貫き、頸動脈幹を切って、血は河となって流れた。

 「助けてくれ(ア・モワ)! おい、お前(マ・シエーラミ)!」これが彼の言いうるすべてだった、そして息絶えた。

 

 

 

 

    

 

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