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ミシュレ『革命の女たち』

 

 

7 ロラン夫人(続き)

 

 この時期のロラン夫人は、彼女の手紙から判断すると、後になっても見られぬ程に激しい性格をもっていた。彼女はその独特の言葉でもって「王位の失墜は帝国の運命の中に定められてあります……王は審かれねばなりません。……考えるのもむごたらしいことでありますが、私達は流血をみずしては再生することが出来ぬのでありましょう。」といっている。

 共和制を求めている人々が祭壇の上で銃火にさらされたシャン・ド・マルスの虐殺(九一年七月)(七月十七日、王政廃止、共和制請願にこの広場に集合した民衆が国民軍により虐殺された事件)を見て自由は死んでしまったと夫人は思った。夫人は、その時危機に陥っていると思われていたロベスピエールにこの上ない関心を寄せていた。夜の十一時にもなって、ロベスピエールの住まうマレ区のサン・トレノ街まで、隠れ家を提供しようと出かけていったが、ロベスピエールはサン・トレノ街の指物師のデュプレ方に身を寄せていた。それから、ロラン夫妻はビュゾのところに、ロベスピエールの弁護を議会でしてくれるように頼んだが、ビュゾはことわった。けれども、丁度そこに居あわせたグレゴワールがそれを引受けてくれた。

 

 夫妻はリヨンの町のいろいろの問題でパリにやって来たのである。望み通りのことをすませて、二人は侘び住いにもどっていった。すぐに(九一年九月二十七日)ロラン夫人は非常に美しい手紙をロベスピエールに寄せている。その手紙はスパルタ人を思わせるような厳格さを持っていると同時に、情の濃やかなもので、品位をそなえているが、いささかお世辞がふりまかれているともいえる。この幾分緊張した手紙には何かしら政治的な胸算用と意図とが感じられる。ジャコバンという機械はすばらしい柔軟さを持ち合わせていて、それで壊れるどころか、フランス全土に亙って廻転をはじめていることと、社会の中心にいる人間の政治上の大きな役割とについて彼女は明らかに感じ入っている。私はその中で次の行を指摘しておこう。

 

 「新聞やパンフレット類の中に立法団体の歩みをたどって見ましても、少数の主義に忠実な勇敢な人々を見わけることが出来、またこれらの人々の間に、その気力の絶えることのなかった人々を見わけることが出来ると思います。私はこういったすぐれた方々に愛着を感じ感謝の念を捧げたいのでございます。――(高遠なことばが続く、感謝を求めずして神の如く善をなすべきこと)少数の気高い魂の持主たちは偉大な仕事をなし得る能力を持ちながら、地上に散在し、その各々の状況に左右され決して一緒に行動するように集まることが出来ません……。――(彼女は子供や自然にやさしくとりまかれている、もっともその自然は愁いに満ちているが。彼女は石ころの多い風景、極端にひからびた風景を走り書きする。――貴族的なリヨン。――田舎ではロランは貴族だと思われており、人々は「街灯へ!」と叫んだ。等)――あなたはこれらの主義を証明し、広めるために多くのことをなさいました。多くの他の人達が、どんな生活が自分たちのためにあったのかを知らぬような時代になって、その証人となれるのは美しいことであり、又心慰むことでございます。あなたにお便りすることが出来ることを考えただけで、何をお知らせしてよいやら、筆の進みもにぶります。とは申せ、この二人が送る手紙をお受けとりになって、あなたの寄せられる御好意に私は信頼いたすものでございます。この二人の魂はあなたのことを感ずる為につくられているのです。二人が心からあなたに申し上げたいのは、殆どどんな人にも寄せたことのない程の尊敬の気持を二人が抱いておることであります。それとまた、義しくあるという栄誉と、感じやすいという幸福とを、何よりも高く考えていられる方々にのみ捧げた愛敬の気持をあなたに捧げるということであります。夫ロランは先程戻ってまいったばかりの所でございます。疲れ切って、悲しげに……。」

 

 われわれはロベスピエールがこの親交を求めて来た手紙に返事をしたかどうかはわからないが、ジロンド党とジャコバン党との間には、仮初ならぬ本質的な本来からの種の相違があって、丁度狼と犬との間にあるような本能的嫌悪の情が介在していた。ロラン夫人は特にその華やかな男まさりの性質のためにロベスピエールをいらだたせたのである。この二人はどちらも人々を近づけるようなものを持っていたが、反対にお互の間にははげしい反感の念を醸し出すものを持っていた。それは二人が同じ欠点を持っているからである。夫人の英雄主義とロベスピエールの驚くべき不屈の態度との下に共通の欠点が、いわば滑稽さがあったといえる。又二人とも年中手から筆を放さなかった、どちらも生れながらの筆耕なのであった。やがておわかりになるだろうが、色色な事件に気をとられると同様に文章に没頭し切って、この二人は何れも夜となく昼となく、元気になったりがっかりしながら書き続けた。非常に恐ろしい危機に際しても、又断頭台を前にした時でも、ペンと文章とはこの二人の頭からどうしても離れないものであった。十八世紀というすぐれて文学的な世紀の、ドイツ流にいう「文士気取り」の世紀の申し子ともいうべきこの二人は、次の時代の悲劇の中にあってもこの性格を捨て切れなかった。触出人が窓の下で歌うように「ロラン夫人、死刑!」と触れまわっている間にも、ロラン夫人は心静かに素晴らしい肖像画にペンを取り、手を加えたり愛撫したりしていた。ロベスピエールも、テルミドール九日の前夜(一七九四年七月二十七日)、暗殺と断頭台とを考えながらも、文章を練るのに心を砕いていた。生きるということよりも、よき文人として後世に残ろうということで汲々としていたからであろうか。

 

 この頃から、二人は政治家としても文筆家としてもお互に殆ど気が合わなくなってきた。それにロベスピエールは、大きな仕事をする人々は生活が一致していなければならぬということに、ひどく厳密な感覚をもち、極端といえる程の完璧な理解をもっていたために、この女性、この女王に近づくことは容易に為し得ることではなかった。ロラン夫人の傍にあっての友人としての生活とは一体何であったろうか。  服従か、さもなくば反抗の嵐である。

 

 ロラン夫妻は漸く九二年になってパリに再び来たが、諸々の事態や力や、王位の失墜のさし迫った問題がジロンド党を困難な状態に導いた時であった。ロラン夫人は内務大臣(ロランは一七九二年に二度、内務大臣となった)の金色燦然たる広間にあって、あの田舎での寂び住いの頃の気持をなお捨ててはいない。しかし彼女の中に本来ある、真面目でしっかりと男らしい緊張した態度だけで、尊大な女と見られ、多くの敵をつくることになってしまった。彼女が出しゃばって席順を定めたというのは根も葉もないことだが、請願者も尻込みするような厳しい言葉で請願書を彼女が書いてやったという事はありそうなことである。

 

 ロランの二度の大臣就任のことは伝記よりも歴史の分野に属すべきものである。あの有名な王への書簡について一言するに止めよう。この書簡について、ひとは大臣とその夫人とが王に忠誠の念を抱いているのではないかと、嫌疑を挟んだが、これは確かに誤りである。

 王の大臣で共和主義者であるロランは、テュイルリ宮にいる自分がだんだん場違いになっていくのを日々感じていた。それで、特に「専任」(アド・ホック)という肩書の秘書官として、毎日の議決書や意見書をそのまま記録するというようなはっきりした肩書でなければ、その厭な場所に足を踏み込まなかった。そうすれば証拠が残っているし、不正が行われた時にも、その場合々々に応じて問題が細かく分割され他と区別されて、その責任も各人に帰せられ、責任の所在もはっきりすることになるからであった。

 約束は守られなかった、王はその様な事を望まなかったのである。そこでロランは自分を守るような二つの方法をとることにした。出版物は「自由なる国家」の魂であると確信して、彼は日刊新聞『テルモメートル』に、委員会の決定を有利に導きうるようなことを一切公にした。今一つは、妻の筆を通じて王に宛てるべく、又もし国王がロランを軽視するようになった暁には一般大衆にあてて、率直で生気に溢れしかも力の籠った書簡の下書きを作成しておいた。

 この書簡は密書ではなかった。人が何といおうと、何等秘密なことを約束はしていない。これは王に宛てられたものであると同時に、明らかにフランス全体に宛てられたものである。ロランは自分の代りに証人になってくれるような秘書や記録がないときにはじめてこの方法で訴えたのだと、自身その書簡の中で語っている。これがロランによって通達されたのは六月十日で、丁度同じ日、宮廷は議会に対抗する新しい手段として、八千の自称市民軍の名に於て、諸州の二万の聯盟軍召集はパリ市民軍に対する侮辱なりと、不実にも称する如き脅迫的な請願を行わせたのである。

 国王はロランの書簡について口をとざしているので、ロランは十一日か十二日の委員会席上で、これを高く読み上げる決心をした。この文章は真の雄弁ともいうべく、共和主義的な忠誠心のもつ最上の抗議であり、国王に救いの最後の道をなお示しているものであった。その言葉は厳格なうちに高貴な響きを湛え、愛情の籠った文字である、特に次の如きには崇高なものがある「否、祖国とは単なる言葉ではありません。一個の存在であります。それに対して人は犠牲を捧げてきました。不安の念を抱かせるが故に、各人はそれに対して日々愛着を感ずるのであります。吾人は孜々たる努力によって創造してきたのです、祖国は不安動揺の中にあって巍然と身を保持しています。そして又祖国こそは犠牲を要求するが故に、又期待を持たせるが故に吾人の愛して已まぬところのものなのであります。」この言葉に荘重な忠告が続く。抵抗があって、共和国は流血の中に完成せざるを得なくなるかもしれぬという恐るべき機会についての真に迫った予言が続いているのである。

 この書簡は、それを記した者の望みうる最上の成果を収めることになった。この書簡の故にロランは罷免させられたのであった。

 ロランの二度目の大臣の時のいくつかの失敗、即ち敵軍侵寇の際パリに止まろうか、パリを去ろうかと躊躇ったこと、ルゥヴェの如き小人にロベスピエールを攻撃させた失策、ダントンの進出を拒否したような政治的にまずい厳格さ、等については別のところで指摘したとおりである。国有財産の売却を促進しなかったとか、このような危機にあたって、フランスを金のないままに放っておいたとかいう非難に対しては、ロランはそんな非難を受けないように大いに努力をした。ところが諸県のジロンド党の行政機関は、どんなにさし迫った命令や勧告にも耳をかさなかった。

 

 九二年の九月以来、ロラン夫妻はその生命の上でも、栄誉の上でも、最も大きな危機に遭遇した。人は敢て剣を用いずに、中傷という更に残酷な武器を使った。九二年十二月、ヴィヤールと名のる策士がシャボとマラに会いにやって来た。彼は自信満々ジロンド党の企らむ一大陰謀の糸口を二人につかまえさせてやるというのである。ロランがそれであり、夫人がそれなのであった。マラは残酷な鱶のように、えさに飛びかかった。鱶という貪欲な魚は木であろうと、石であろうと、又鉄であろうと、投げつければ何であろうと構わずに呑み込んでしまう代物である。シャボの方も大変軽薄な、人の言うことは何でも簡単に信じ込む男で、実際少しばかりの才能があるとはいえ、勘がにぶく、それに加えて繊細さなどとは凡そ縁の遠い男であった。シャボは忽ちに信じ込んでしまい、よく調べてみることもしなかった。国民公会はまる一日をつぶして、自ら調査に乗り出し、議論を戦わし、罵りあった。ヴィヤールは出頭の栄誉を与えられたが、シャボとマラが連れ出してきたこの尊敬すべき証人は、恐らく凡ゆる党派の為に働いていると思われる間諜であることは見えすいて分ることだった。ロラン夫人が召喚されて、その陳述が聞かれたが、彼女はその優雅さと理論とで議会全体を感動させた。その言葉は感情に満ち満ちており、控え目で才智の横溢したものだった。シャボは意気銷沈してしまった。マラは憤慨して、その夜自分の新聞に、ロランびいきの奴等が、愛国者たちを誑し、嗤いものにしようとあらかじめ一切合財仕組んであったのだと書きたてた。

 六月二日(九三年)ジロンド党員の大部分が逃れたり身を隠したりした時に、比類のない程すぐれて勇敢であったのはロラン夫妻で、寝る所を変えたり、住いを移したりするのは夫妻のよくなし得るところではなかった。ロラン夫人は牢屋も死も恐れはしなかった。彼女は個人的な凌辱を除けば何ものも怖れなかった。常に自己の運命を左右し得るように、眠りにつくときに、枕の下にピストルを忍ばせておくことを忘れなかった。コミューヌが夫ロランに対して逮捕命令を発したということを聞いて夫人は、(理性的というよりは寧ろ)英雄的な考えから、テュイルリ(当時国民公会はテュイルリ宮内にあった)に駈けつけ、告発者を粉砕し、雄弁と勇猛心を以て山岳党を圧倒し、夫の自由を会議から奪いかえそうとした。夫人もその夜逮捕された。あの彼女の素晴しい「覚え書」(メモワール)の中の全光景を読んでみるがよい。女性の筆で書かれたというよりは、カトー(ローマの政治家で、人心風俗の矯正に努めた伝統主義者)の短剣で綴られたのではないのかと屡々考えさせられる。とはいえ、母親としての肺腑からほとばしり出た言葉、非のうちどころのない愛情をしのばせる涙ぐましい比喩など、この偉人もやはり一女性であり、あんなに強いとはいえ、その魂は依然優しさに満ち満ちていたのだということを時にはっきりと感じさせるものがある。

 

 夫人は逮捕を免れるようなことはなにもしなかった。自分の方から女王の牢獄に近いコンシェルジュリ(恐怖時代、死刑囚が断頭台に上る前に入れられた牢獄)に入りに出かけていった。この丸屋根はヴェルニヨやブリソ(共にジロンド党の首脳部)を失ったばかりでその亡霊に満ち満ちていた。彼女はいままで持っていた毒薬をヴェルニヨのように捨てて、正々堂々とここにやって来た。白日の下で死にたいと望んだのである、法廷で示す勇気と、断乎たる死とによって共和国に敬意を捧げようと考えていた。コンシェルジュリで夫人を目撃した人々は、夫人が変ることなく美しく、魅力にみち、三十九にしてなお若々しく、潑剌たる青春を失わず、その貯えられていた生命の宝がそのきれいな両の眼から光りを放っていたと語っている。その理性的な優しさと人となりと語る言葉との完璧なハーモニーの中に、彼女の力強さが読みとれるのであった。夫人は獄中で楽しみにロベスピエールに手紙を書いた。それも彼に何か依頼するというものではない。彼に教訓を与えるといった調子であった。彼女は裁判所で教訓めいたことをいった時、口をきくのを禁じられてしまった。彼女の死んだ十一月八日は寒い日であった。木の葉も散り果てた、陰惨な自然のたたずまいは人々の心そのままの姿であった。革命も冬枯れて幻滅の中に沈みきっていた。夜のとばりが降りてくる(夕方の五時半)、一枚の葉も残っていない二つの庭の間をぬけて、現在ではオベリスクのある広場(コンコルド広場のこと、当時は「革命広場」)にしつらえてある断頭台の傍、「自由」の像の足もとに着いた。静かに断頭台の段階を登っていった。像の方に向いて言った。それは咎めるような口調ではない、厳かな優しさをこめた声音であった。「ああ自由よ! お前の名の下になんと多くの罪が犯されたことだろう!」

 

 夫人は彼女の党や夫の栄誉をつくりあげたのであったが、それらを失うことに罪がなかったとは云えない。未来に於けるロランの姿を心ならずも暗くしてしまったのも彼女である。しかし、彼女は夫の善いところをはっきり認めていたし、とくにその古代的にして、熱に燃えたぎる、堂々たる魂に対しては一種の信仰を持っていた。一度毒を仰いで自殺しようと思ったことがあったが、その時も彼女は夫に手紙をやって、彼の意見もきかずに自ら自分の命を処分することについて夫の前に許しを乞うている。ロランのもつただ一つの弱点、それは彼女への激しい愛情で、それは内に蔵すれば蔵する程深まりゆく愛情であることを夫人は知っていた。

 

 判決を下された時夫人は「ロランはきっと自殺するでしょう。」と言った。ロランに夫人の死を隠しておくことは不可能であった。ロランはルアンの近くに身を引いて、信用のおける友達である婦人たちの家に逃れていた。あとをくらます為に遠くへ行ってしまいたかった。この季節ではこの老人にとって遠くへ行くのはなまやさしいことではなかった。並足でやってくるガタガタ馬車をみつけた、九三年には道路は泥沼のようであった。ようやく夕方になってコール県の境についた。治安力が無力になっているので盗賊は街道を跋扈し、農家を襲い、憲兵は彼等を追っかけているという有様。ロランは不安を感じ、決心したことをもうこれ以上先へのばすことをしなかった。馬車を下り道を外れて、館に向う細い小径をたどり、一本の槲の木の下で立ち止まった。仕込杖を抜きはらい、我と我が身を柄も通れと刺したのであった。体の上に彼の名と「徳高き者の遺骸を尊ぶべし」という言葉が見出された。未来は彼を裏切りはしなかった。ロランは敵たる人々の、とくにロベール・ランデ(国民公会議員)の尊敬の念をかち得たのであった。(原註)

 

(原註)レモンテーがロラン夫人について書いた肖像をここにひき写すという楽しみにあらがえぬ。

「しばしば私は、」と彼は言う、「一七八九年以前にロラン夫人に会った。夫人の眼、姿勢、髪の毛はとくにすばらしい美しさをもっていた。その微妙な肌の色は清新の気をたたえ、色艶はゆたかに、遠慮がちで無邪気な物腰を加えて、彼女を不思議な程に若返らせていた。彼女が「覚え書」(メモワール)の中で、自分はパリの生れといっているが、パリ女のもっている気楽な優雅さというものを見たことがなかった。だが、私は彼女が不作法だったといおうとするのでは毛頭ない。単純で自然さにみちた人であっても、その人は上品さをもたぬとはいえぬからである。

彼女を初めて見たとき、人の心を悩ましたジャン・ジャック・ルソーの『ジュリー』に出てくるヴヴェーの孫娘に対して抱いていた像が、現実に姿を現わしたのだと思ったことをよく覚えている。その語るのに耳を傾ければ、私の幻想は一層完璧なものとなった。ロラン夫人は能く語った、まことによく語った。自惚の強い人なら彼女の語る言葉に虚飾を見つけようとするだろうが、そんなことはしようとしても出来ることではなかった。それはあまりに完全な自然そのままの姿であった。機智、良識、豊かな表現、人を刺す理知、飾り気のない優情、こういったものがすべて象牙にまごう歯と薄紅色の唇との間から巧まずして流れ出たのであった。ただ身をそれに打委かせるほかはない。

革命になってから会ったのはたった一度、御主人が最初に大臣になった始めの頃であった。清新な、若さに溢れ、素朴さに満ちた夫人の容姿はなおいささかも衰えず昔そのままであった。御主人はまるでクエーカー教徒(イギリスの新教徒の一派で、服装、言語などの謹厳をもって有名)といった姿である。夫人は御主人の娘といった方がよいようであった。そのお子さんは腰のあたりまである美しい髪の毛をなびかせて、夫人のまわりを飛び廻っていた。ド・カロンヌ氏(大革命直前の財務総監革命と共にイギリスに亡命)のサロンにアメリカのペンシルヴァニヤの住人たちが移住してきたとでもいった有様だ。ロラン夫人の語るのは政治のことばかり、私の控え目なのを夫人は可哀そうに思っているのが、私には分った。魂は熱していたが、心はやさしく当り障りがなかった。

君主制の大きな分裂がまだおきていなかったけれども、彼女は無政府状態の症状が生れかけていることを隠さなかったし、自分は死ぬまでそれと闘うのだと言っていた。どうしてもそうしなければならぬという時には、自分の首を断頭台にのせましょうと私に語った時の夫人の平静な、しかも断乎とした調子をよく覚えている。

私は白状するが、その時この美しい首が、獄吏の刃の前にのべられている姿を思い浮べて、どうしても消すことのできぬ印象を与えられた。というのも、この頃はいろいろな党派の狂気が、このような恐ろしい考えにまだ私達を慣らしていない頃だったからである。

されば後になってロラン夫人の驚くべき程心の堅固であったことや、その死に当っての勇ましい姿を知っても、さもありなんと思い、そう驚きもしなかった。この有名な女性の心の中では、一切のものが調和し、わざとらしさなどは全くなかった、わがフランス革命を通じてこの女性は最も強固な性格の持主であったのみならず、最も純正な性格の持主であった。

歴史は彼女を侮辱することなどはしないであろう。他の国の人々もわれわれのことを羨むであろう。」

 

 

 

    

 

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