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ミシュレ『革命の女たち』

 

 

6 ロラン夫人(91―92年)

 

 

 共和国を望み、切に希い、それを作り上げようというのには高貴な心や秀れた才能だけで充分ではなかった。なお必要なものがあった。……何であろうか。若々しいこと、あの魂の青春、あの熱烈な血液、魂の中にのみ存するものを既に現実世界の中に見、それを見つつ創造していくあの無分別さ、そんなものを持つことである。……要するに信念を持っていなければならなかった。

 意志と思想との間にのみならず、共和国の習慣と風習との間にも或る種の調和が必要であった。内心の共和国、精神の共和国を自己の中に持たなければならない、そしてそれだけが共和政体を正当化し、基礎づける。という意味は、自己に対する支配、及び自己に特有なデモクラシーを所有し、義務への服従の中に自由を見出すことなのだ。……その上になお、一見矛盾しているようだが、上のような徳高く強靱な魂は自らを追いたてて、行動の中に投げ込む程の情熱にみちみちた瞬間を持たなければならなかったのだ。

 

 疲労困憊のいまわしい日々、革命の信念が衰えようとする時、当時の多くの代議士や主なジャーナリスト達は力をつけ勇気を得ようとして、ある邸宅に出かけるのだった。そこにはこの二つのもの、力と勇気とが必ずあったのだ。ささやかな家で、新橋に程近いゲネゴー通りにある小さなホテル・ブリタニクである。この通りはかなり薄暗く、一層陰気なマザリーヌ通りに続いていて、御承知のように見えるものといえば、造幣局の長い塀ばかり。彼らは四階に登って行く、すると必ずそこに、一緒に仕事をしている二人の人物、最近リヨンからやって来たロラン夫妻を見つけ出すのだ。小さな客間には、夫妻が筆を執るテーブルが一つあるだけ、寝室は半分戸が開いていて中に二台の寝台があるのが見える。ロランはもう六十近いが、夫人は三十六。だがもっと若く見える。夫はまるで夫人の父のようである。背はかなり高く痩せており、威厳のある情熱的な風貌をもっている。その夫人(原註)の光栄のために、影が薄くなっているこの夫は、やはりフランスを心の中に抱いていた熱血の市民の一人であり、王制の時代に、当時として開かれていた僅かな道をたどって、人民の幸福という聖なる理想をやはり追求してやまなかった、あのヴォーバン(ルイ十四世時代の元帥、技術家として国境を強化し、課税の平等を求めた)やボワギュベール(ヴォーバンのいとこで、経済学者で労働と商業との自由を説いた)の徒で、昔ながらのフランス人の一人であった。手工業監督官であった彼は生涯を仕事と旅行、フランス産業の出来る限りの改良を探究する仕事と旅行との中に過した。その旅行について多く書き、又ある種の職業に関する試論や覚書を種々発表している。美しく勇気のある夫人は良人の為に、主題が無味乾燥であるにもかかわらず、いささかもめげずに、筆写、翻訳、編纂に従った。『泥炭採掘者の技術』、『短毛にして乾燥せる羊毛職工の技術』、『手工業辞典』は、最も多幸な幾年かを一人の男子の誕生とその子に乳を与えることにひたすら過して来たロラン夫人の美しい手に成るものであった。夫の仕事や思想にぴったりと結びついていた彼女は、一種の娘のもつような尊敬の念を夫に対して抱いていた。時には彼の食物を彼女が自分で準備までするのであった。全く特別な料理が必要なのだ。老いた夫の胃はなかなか気むずかしかったし、仕事で疲労していたからだ。

 

 (原註)ロランと結婚する以前。フリポン嬢は父親の不行跡からヌーヴ・サン・テティエヌ街の修道院に身を寄せなければならなかった。この街はパスカル、ロラン、ベルナルダン・ド・サン・ピエール(一七三七―一八一四初期ロマン派の小説家)の思い出で大変有名な小さい街で、植物園に通じていた。彼女はそこで尼としてではなく、自分の部屋にひきこもって、プルタルコスとルソーの本にかこまれて生活し、いつも快活で元気のある女性だった。とはいえ、超スパルタ的な節制に甘んじており、孜々として共和制の諸徳をすでに身につけていたように見えた。

 

 この頃、ロランは自分で筆を執って、夫人のペンに頼ることはなかった。彼が助力を求めたのは、もっと後になって大臣(一七九二年ジロンド党員として内務大臣となった)になった時、無数の困難にぶつかり気を使うことが多くなってからである。彼女はものを書かずにはいられぬという気性ではなかったから、もしも革命が彼女を隠れ家から連れ出さなかったならば、才能や雄弁の如き天の賜物もその美貌と同じく用いることもなく埋もれたままであったであろう。

 政治家が訪れて来ても、ロラン夫人は進んで議論に加わろうともしない。自分の仕事をつづけたり、手紙を書いているのだった。しかし、偶々意見を求められると、その時、彼女の語気は生き生きとして、簡潔な表現をとり、優しいが人の胸を衝く力をそなえていて、一同を全く感動させてしまうのであった。「自惚の強い人が彼女の語る言葉の中に勿体ぶったところをみつけ出してやろうとしても、何の隙もなかった。その言葉は全くありのままにいって非常に完全なものであった。」

 一見して、ルソーのジュリー(ルソーの書簡体小説『ジュリー、別名新エロイーズ』の女主人公)を見ていると考えたくなるが(原註)、それは違う、ジュリーでもソフィー(ルソーの『エミール』の女主人公)でもない、きっとルソーの筆から直接生れた女性達より、もっと正統的なルソーの娘、ロラン夫人である。ロラン夫人は上の二人のように貴族の令嬢ではなかった。マノン・フリポンというのが娘時代の名前(私は平民的な名前を好まぬ人々が腹立たしくてならない)であるが、父は彫刻師で、彼女も父の家で彫りものをした。彼女は平民の出だった。平民には上流階級の人々の殆どもっていない血液や肉体のある種の輝きが容易に見受けられる。彼女の手は美しいが小さくはなかったし、口もやや大きく、頤は反り上っていたし、背丈は華奢で、反り身になっているのが大変目につく、そして貴婦人方には珍しい豊満な胸と腰とをもっていた。

 

 (原註)レモンティやリィウフその他の人々の描いた肖像を見ていただきたい。木版ものとしては『覚え書』(ロラン夫人の作)の初版(革命暦七年)の冒頭にあるシャンパニューの手になる善良さにみち、天真爛漫たる肖像画がある。これは三十九歳の時死の少し前に描かれたものだ。逞しく、すでに『お母さん』の面影をもち、敢て申すならば、明らかに批判的な性向をもった断乎として決断に富む女王の風貌がある。この批判的な性向というのは彼女の革命についての論戦に見受けられるのみならず、また闘いや快楽に流されず、情熱を制し、またこの世において満ち足りることを知らなかった人々に一般に見受けられるものである。

 

 彼女がルソーの女主人公たちと違う点がもう一つある、というのは弱さをもっていないということである。ロラン夫人は勇気に富んでいた。女の人達がぐったりとなってしまうような閑暇とか夢想にも全然力萎えてしまうことはない。最高度にまで勤勉で活発であった。仕事は彼女にとって徳を守護するものなのだった。犯すべからざる一個の理念、義務が、この美しき生涯の誕生から死に到るまで高く飛び交うている。もう嘘もつけない時、最期の時にあたって、こんな自分についての証言を残している。「誰も私くらい肉欲を知らない人はおりません」――又別の所に、「私は五感を抑えつけました。」といっている。

 

オルロージュ河岸にある父の家で、そこからシャン・ゼリゼー通りにかけて彼女が見た――そう自分で語っているのだが――あの深い青みをたたえた空のように澄み切った彼女――真面目な夫の机の上で一心に仕事をしている汚れを知らぬ彼女、身を切るような苦痛を犯して子供に根気よく乳を与えているゆりかごの傍の純らかな彼女――等しく情熱に燃えた友愛の心で彼女をとりまく男の友人たちや若い人々に書き送った手紙の中で、彼女はやはり以上の姿にも劣らず純潔な姿であった(原註)。彼女は人々の心をしずめ、慰め、また己の弱さに打ち克たせる。男達は、丁度徳そのものに向っているかのように、死に到るまで彼女に忠実であった。

 

 (原註)当時彼女の事で思い悩み、パリから遠く離れたリヨンの近くに移ってしまったことで悲観しているボスクに与えた美しい手紙を見られたい。「朝のいろいろの支度も終え、穏やかな夜に入って、私は火の傍に腰を下ろしております。私の友は机に向い娘は編物をはじめます。そして私は友と言葉を交わしたり、娘の仕事をみてやったりして、この娘や懐かしい家庭のふところに暖かにくるまる幸福を味わいながら、一人の友に手紙を書いているのです。外には冷たい雪が、数多くの恵まれぬ人々の上に霏々として舞い落ちております。そんな人達の運命に思いを馳せてはなにか心に感じております……」等。青年にその心をしずめてやり、清くしてやり、高めてやるために示された内心の優しい絵、徳ある人の幸いにみちた真面目さだ。……だが次の日には、嵐がこの巣を打ち壊してしまう。

 

 彼らの中の一人が、危険もかえりみず、恐怖時代のさ中に、彼女が自分の生涯を語っている不滅の原稿を獄屋(ロラン夫人は一七九三年六月二日、ジャコバン党により他のジロンド党員と共に逮捕された)に取りに行ったのである。彼自身追放され、追われる身であったが、身を隠すものとては氷の花咲く木ばかり、雪の上を逃れながらこの神聖な原稿を守った。いや、その原稿が彼を救ったのだ。原稿は彼の胸の上に、それを書いた偉大な心の持ち主の熱と力とを変らず持ちつづけていたのだ(原註)。

 

 (原註)忠実なしっかりとしたボスクもまた同じく、最期の時に当り、前々から尊敬して熄まなかった彼女の崇高な理想を完璧ならしめるために、自己を打超えて彼女に立派な忠告を与えて、衆人の目を忍んで死んだり、毒を仰いだりしないで、断頭台を受け入れ、堂々と死に、その勇気を以て共和国と人類とに敬意を捧げるようにといった。彼はこの勇ましい忠告の故に彼女に続いて不滅と化した。ロラン夫人は口に笑みを浮べてその峻厳な夫と手を携えて永遠の生に、向った。又ボスク、シャンパニュー、バンカル・デ・ジサール等(ジロンド党の人人についてはいわずもがな)の完璧なしかもやさしい友人達と共に不滅と化した。何ものも彼等の中を裂くことはないであろう。

 

 余りにも完璧な徳を見るのに甘んじない人たちはこの女性の生活に何か弱点がありはしないかと不安げに探すのだった。そして何の証拠もなしに、いささかの徴候もないのに(原註)、そういった人たちは想像を逞しくしたのだ。ロラン夫人がその立役者であったドラマの真最中に、即ち危機や恐怖のさ中にあって夫人が最も雄々しかった頃に(それは明らかに九月事件の後かさもなくば、ジロンド党を運び去ってしまったあの難破の前日であろうか)ロラン夫人は、男のお世辞に身を傾けたり、恋のたわむれをする気持があり、そんな暇も持っていたのだと想像してみた。だが、そんな風に考える人達を困らせた唯一のことは、夫人のお気に入りの相手の名を見つけ出すことである。

 

 (原註)敢えてそんな徴候をおたずねになるならば、実際は何の証拠にもならないけれど、ロラン夫人の「覚え書(メモワール)」の二個所ばかりが上げられる。彼女は情熱について「辛うじて私はスポーツマンの情熱でもって豊満さを保っている」と語っている――しかしここから何が結論されるだろうか? ――又夫人は五月三十一日頃、自分を出発にかりたてたのは「うれしい理由で」と語っているが、このうれしい理由というのが、バルバルーやビュゾ(共にジロンド党の首脳部)に対する恋に他ならぬと結論をみちびきだすのはあまりにも突飛で、まったく大胆すぎることである。

 

 繰返していうが、以上のような仮定の理由となるような事実は一つもなかった(実は、死んだビュゾの懐中からロラン夫人の恋文が発見され、ビュゾと彼女との情交は断定されている)。ロラン夫人はどこから見ても常に自己に対する女王であり、自分の意志や行動に対しても絶対的な主人であった。それならば、彼女は感動なるものを持ち合わせなかったのだろうか? この逞しいが情熱に満ちた魂の持主は、心に吹きすさぶ嵐を持たなかったのか? ……こういう疑問は又全く別問題だ、そしてこれに対して躊躇することなく私は答える、然りと。

 

 くどくどしく述べるのを許していただきたい。――次の事実は、今なおあまり注意されていないけれど、私生活のほんの逸話といった類の些細な事ではない。九一年、ロラン夫人の上に一つの重大な影響を与えることがあったのである。当時夫人の魂が激しく燃立つようになった特別の理由をはっきり見きわめなければ、この時期以後の、ロラン夫人の実践したあの力に満ちた行動が更に一層不可解なものとなるであろう。彼女の魂はそれまで平静で力がこもっていた。力とはいうものの、それは全く自己の中に立て籠って外的行動を伴わぬ一種の力であったが。

 

 ロラン夫人は八九年にはリヨンから程遠からぬヴィルフランシュの近く、ラ・プラチエールの憂わしげな囲いのある家に、人目にはつかぬが充実した生活を送っていた。夫人は全フランスと共にあのバスティーユの砲声を耳にして、その胸は震え感動で一杯になったのだった。彼女の抱いていたすべての夢が、古人の書の中に読み、心に思い描き希望してやまなかった一切のものを、この目覚ましい事件が実現してくれたように思えた。それでこそ彼女は祖国を持つといえるのだ。革命はフランス全土に拡り、リヨンも目覚める。そしてヴィルフランシュも、田園も、一切の村も。九〇年の聯盟祭の日に、王国の半ば、コルシカからロレーヌに至る市民軍の全代表がリヨンに召集された。朝からロラン夫人は素晴らしいローヌ河畔に立って陶然としていた。すべての民衆に、この新しい友愛の精神に、この輝やかしい暁に恍惚としていた。夜になって彼女はその記事を、リヨンの青年で、営利は顧みず、ひたすら愛国の情から新聞をやっている友人シャンパニューのために書き送った。この無署名の新聞は六万部も売れた。ここに集った市民軍たちは皆それとも知らず、ロラン夫人の魂を抱いて家に帰っていったのだった。

 

 彼女もやはり家路についた。人気ないラ・プチエールの邸に、考え込んで戻って来た。

 邸がいつもより一層実りのない貧弱なところのように思えた。夫から委せられた技術に関する仕事はあまり彼女に適したものではない。興味津々たる『八九年の選挙人に関する口頭弁論』、七月十四日の革命、バスティーユの占拠のことを読んでいた。丁度折もよし、この選挙人の一人、バンカル・デ・ジサール氏がリヨンの友達の手を経て紹介されて夫妻の許を訪れ、数日の間この家で過すことになった。バンカル氏はクレルモンに移ってそこで公証人をやっていたが、もとモンペリエの工場主の家の出であった。最近彼はこの金になる地位をなげうって、自ら選んだ研究、人間愛に根ざした政治的な探究、市民としての義務に全身を打ち込んでいる人であった。年は四十位。才気煥発という方ではないが、たいへんもの静かな、情のこまやかな、善良で慈愛に満ちた心の持主であった。嘗て深い宗教的な薫陶を受けており、国民議会の哲学的なまた政治的な時期を経て、オーストリヤに長く捕われの身となった後、ヘブライ語で読もうと努めていた聖書を繙きつつ、深い敬虔な気持ちの中に身罷った人である。

 

 彼は若い医者のラントナスに伴われてラ・プラチエールにやって来た。ラントナスはロラン夫妻の友人で、ロラン夫妻の下に幾週間も、幾月も滞在して皆と一緒に仕事をしたり、用を足してやったりして生活を大いに共にしていた人である。心のやさしいラントナス、情のこまやかなバンカル・デ・ジサール、謹厳だが激しい善良さを持つロラン、この三人に共通した善と美を愛する心、また三人の考えている完璧な女性像のあらわれともいうべき婦人に対する愛着の気持、そういったものが、自然と一つのグループをつくりあげ、完全な調和をつくり出したのだ。ともどもに生活を一緒に続けてゆけるかどうか尋ねあう程までに、お互は意気投合していた。三人が三人共一緒に生活しようという考えに至ったかどうかは知る由もないが、とにかくロランは生き生きとした気持で情熱的にそうした考えを抱いていたのであった。ロラン夫妻は自分達のもっているもの一切合切集めて六万リーヴルの金を結社にもたらすことが出来た。ラントナスは二万リーヴル或はそれに少し超える位を持っていたし、バンカルが十万ばかりを加えることになった。この額は当時値の下っていた国有財産を買いとることが出来る位の可成りな金高となったのである。

 

 ロランがバンカルにこの計画について語っている手紙程人の胸をうち、堂々とした誠実さに富んだものはない。この気高い信頼の念、友情と正義に対するこの信念がロランに、また彼等総てに、こんな高い理想を与えたのだ。「君、やって来給え。」とロランはバンカルに言う、「ああ、何を愚図々々しているのか? ……君は僕たちのやり方が率直で断乎としていることを知っている。もう気持のぐらぐらする年恰好でもあるまい。この位になればもう決して人は変わらぬものだ。……僕たちは祖国を説こう、人の魂を高揚させよう。あのお医者さんには仕事があるし、妻はこの辺の病人たちの薬屋さんといったところ、君と僕の二人も自分たちの仕事をしようじゃないか。」

 

 ロランの大きな仕事はこの地方の農民たちを説得することであり、新しい福音を説き明かすことであった。年にも似ず健脚家の彼は、手にステッキをもって、友人ラントナスと一緒に途々自由のよき種をまきながら、しばしばリヨンまで歩いてしまうのであった。このロランはバンカルをよき助力者、新しき伝道者であると信じていた。その優しさに溢れ人を感動させる言葉は奇蹟を成し遂げることだろう。婦人の傍での若いバンカルの利害を超えた熱心さに見慣れたロランには、年も上でもっと生一本だったら、バンカルが自分の家庭に平和以外のものをもたらすかもしれないなどとは考えてもみなかった。だが、あんなに愛している妻をば自分の仕事の変らぬ伴侶であるとばかり思っている彼は、いささか夫人が女であることを忘れていたのだ。仕事好きで、つつましやかな、みずみずしく、しかも純い心のロラン夫人、透き通るような肌の色、くっきりと見開いて潤いを帯びた眼、ロラン夫人は力と正義との最も人を落着かせる像であった。彼女の優しさは正に女性そのものであったが、その雄々しい精神、ストイックな心は男性的なものであった。彼女の男の友人達をみてみれば、夫人の傍で女性的なのは却って男たちの方であるといえたかも知れない。バンカル、ラントナス、ボスク、シャンパニュー達は皆優しい顔立ちの人たちであった。皆の中で一番弱々しい心の、最も女性的なものは、皆が一番しっかりしていると思っている人、謹厳なロランであったのだ。彼は老いの身で、深い情熱に心も脆くなって、他人の生活によりかかり、もう死も間近いとさえ思われる。

 

 事態は危機に瀕しているといわずとも、小競合や騒乱に満ちていた。まさにジュリー(『新エロイーズ』の女主人公)の傍らにサン・プルー(ジュリーの家庭教師で恋人だが、彼女の父に反対される)を呼びよせるウォルマル(ジュリーの父は彼女を友人ウォルマルに嫁がせるが、ウォルマルはサン・プルーを自分の家に住まわせる)であり、ラ・メーユリーの岩蔭に入って危険に陥った舟である。(ウォルマルとサン・プルーは湖上で嵐にあい、ラ・メーユリーの岸に上り休息するが、二人の心は苦しみに喘ぐ)難船はしなかったかもしれないが、ともかく漕ぎ出さなければよかったのだ。

 ロラン夫人がバンカルに宛てた手紙がそれなのだ。雄々しいが余りに率直で、また余りにも感動に浸たっている。この手紙はまことに不用意に認められたものだが、ロラン夫人の純真さや、経験は浅いが、常に持ちつづけていた処女のような心の量り知れぬ程の記念物となってしまった……これを読む人はただ跪づくばかり。

 

 私をこれ程までに驚かし、感動させたものはない。……何としたことか。この英雄も実は一個の女性であったのか。(ただ一度だが)一瞬この偉大な勇気がくじけたのだ。戦士の鎧のほころびて、みれば傷つける乳房も露わなクロリンダ(物語の女主人公でサラセンの勇士、彼女を愛するタンクレードはそれとは知らず、一騎討で殺してしまう)の姿を思わせる女性なのだった。

 

 バンカルはロラン夫妻にあてて、優しい愛情に満ちた手紙を書いた。その中にあの団結を提議して「それは私たちの生涯の魅力となることでしょうし、そうなれば私達も、同志達の役に立たぬ者でもなくなります。」当時リヨンにあったロランはこの手紙を妻に送った。彼女は田舎でたったひとりであった。その夏は雨が殆どなく、十月に入ってからもなかなか暑さは酷しかった。しかも雷は数日ひっきりなしに鳴っている。天にも地にも嵐が、情熱の嵐、革命の嵐が孕んでいた。きっと大混乱がやって来るだろう。……色々な事件のまだそれと知れぬ波がざわめいている、やがてそれは人々の心を覆えし運命を逆転させるだろう。この期待を孕む偉大な瞬間に、人間は神が自分のために雷鳴を轟かせ給うのだと敢えて信じ勝ちなものである。

 

 ロラン夫人はこの手紙を一読するや涙にくれたのであった。何から書いてよいかもわからずに、ただ机に向った。自分の乱れた気持をそのまま書いてゆき、泣いていることも隠さなかった。これは確かに優しい告白以上のものである。しかしこのすぐれて勇気に満ちた女性は、自分の希望をも打ち壊わしながら、ひたすらに書きつづけて行こうとするのであった。「いいえ、それであなたは本当に幸福でいらっしゃるとは思いません。私があなたの幸福をかき乱したのは許されぬことと存じております。でもあなたはそれを、何かまちがった手段に結びつけようとなさっていらっしゃるようにお見受けいたします。私としてはお引きとめ申さねばならぬような望みに結びつけようとしていらっしゃるのではございませんか。」その他の文字もすべて徳義心や矛盾のまことに心うつ混合であって、何かしら不吉な運命の予感さえ漂っている。「私達がまた会えるのはいつのことでしょうか。……この問を時々自分に問いかけてみては、どういってよいのか思案にくれるのでございます。……さあれ、自然が私達に明すまいとしている未来を探りあてようなどとなぜするのでしょうか。自然のヴェールの下に、未来をそのままにしておこうではありませんか、それをつきやぶる力は私達に所詮与えられておらぬからでございます。何か一種の力を与えるのがせいぜいと考えられる程、自然は偉大なもののようでございます。ですから、現在を賢明に用いること、それがよい幸先をととのえることになるのです。」――更に少し後のところで、「この一週間というもの、雷の鳴らぬ時とてございません。また鳴り出しました。この田園を覆う空模様の色合いは好ましく存じます。荘厳で、暗さにみちております。とは申せ、この上ない恐怖をおこさせる程の、恐ろしい姿をとることになるかも知れませんが……」

 

 バンカルは賢明で礼を知る男であった。憂愁にかられて、冬であるというのにイギリスに渡って長い間逗留した。ロラン夫人自身の望んだより遙かに長い間と申し上げようか。こういったことはどんなに正しい心の持主にも起る矛盾である。彼女の手紙を注意して読めば、おかしい位の心の動揺が読みとれる。遠ざかると思えば近寄り、自分が信じられなくなるかと思えば安心し切っていたりする。

 

 二月に入って、リヨンの町のいろいろな事件でロランがパリに発つことになった時、夫人は、バンカルがきっと戻って来るだろうと思われる大中心地パリに、再び出て行くのだという喜びを、心秘かに抱いていなかったとは誰がいえようか。だが、パリは正に彼女の考えを全く別の方向に向わせてしまうことになる。情熱は姿を転じ、公共の仕事の方に向きを変えてしまった。これはよく観察すると興味深くもまた人の心をうつことである。リヨンの聯盟祭の日の、あの大きな感激、あの全人民結合の陶然たる光景の日以後、夫人は自分一個の感情に対しては弱く脆い女性となった。しかしながら、この感情は今や、パリを目の前にして、全く普遍的なもの、市民的なもの、愛国的なものとなった。ロラン夫人は自分の姿をはっきり知った。もう愛するものとては祖国フランスのみ。

 

 夫人が他の女の人ならば、大革命により、共和制により、闘いや死によって自己から逃げ出すことが出来たのだと言うことも出来るであろう。ロランとのきびしい結合は、時代の色々な事件を相共に担ってゆくことによって更にゆるぎないものとなった、仕事を共にする結婚は更に共同の敵に対して闘い、ともどもに身を犠牲にし、英雄的な努力を一緒にするという夫婦になった。かく忍耐強い夫人は、けがれなく、勝ち誇れる姿で断頭台に上り、栄光に到り着いたのである。

 

 パリに彼女が来たのは九一年二月、共和国の問題が沸騰する前夜であった。彼女は共和国に、信念に対する勇気と情熱との二つの力をもたらした。これまで大きな事件のために不毛の砂漠の状態を抜け出られなかった彼女は、今や青春に満ちた精神や、初々しい思想、感情、刺戟を得て、すっかり疲れ果てた政治家達を若返らせるに至った。政治家達といえば、もう力萎えた形であったが、彼女こそは、その日に生れ出たばかりといったところである。

 

 今一つの神秘的な力がある。きわめて純潔なこの人物、運命の手によりこよなく守られたこの人物が登場するのである。その日は女性がひどく恐れられるものとなった日、義務を行うことのみでは充分でなくなる日であり、又長い間抑えつけられていた心が溢れ出ようとする日であった。夫人は何か人知れぬ威圧する力を持ち、敗れることを知らぬ姿で登場した。何の懸念も彼女をたじろがせない。一個人の感情が自らに打ち克ち、自らを逃れて、その魂の全体が、高貴なる目的、偉大で徳に適った輝かしい目的に向きをかえるようにと、又そこに名誉のみを感じながら帆に満々たる風を孕んで、革命と祖国の新しい太陽の上に進み入るようにと、幸福の女神が欲しているのであった。

 さればこそこの時の夫人には当るべからざるものがあった。それは丁度ルソーがウドゥト夫人に対して恵まれぬ情念(ルソーは一七五六年頃彼女に恋した)の後に、自分の上に立ち戻り、自己の中に沈潜し、全世紀が燃えたつような、消えることのない焔の大きな中心を見出した時の姿に近かった。しかもこの炎は今世紀(十九世紀)になって、百年を隔ててなおわれわれはその熱を感ずるのである。

 

 ロラン夫人がパリの上に向けた最初の一瞥は何にもまして厳しいものであった、国民議会は恐ろしいものに思えたし、友人達には哀れを感じた。国民議会やジャコバン党の議席について、夫人はその鋭い眼差しで、あらゆる人々の性格を見やぶり、数々の誤謬、臆病、下劣さや、憲法起草者たちの演ずる喜劇、自由を愛する者達の遅疑逡巡をあからさまに見てとった。彼女は全く誰にも手心を加えるということをしない、ブリソは好ましくはあったが臆病で軽率であるし、コンドルセは表裏があるように思え、フォーシュ(僧侶出身のジロンド党員)に対しても、「この人の中には坊主がいるのがはっきりわかる」のであった。ペションとロベスピエールとは辛うじておめがねに適った、二人ともがのろまで遠慮がちではあるが、我慢のならぬ程でもなかった。若くて激しく、又大胆で厳格な彼女は誰かまわずに説明を求め、遅れたり、障害の言い訳するのに耳を傾けるのを望まず、みんなに男らしくピチピチと活動するよう要求するのであった。

 

 暫し姿を現わし、期待されはしたが、今では既に失われてしまった自由の情ないありさまを見てリヨンに戻りたくなった。彼女は言っている(五月五日に)「悲嘆にくれて涙を流しました。私達には新しい反抗が必要なのではないかしらと思われます。さもなければ、幸福にとって、又自由にとって何等なすところがないと申せます。とはいえ、国民の中にそれだけ充分な気力があるかどうか私には分りません。内乱はたとえそれ自体どんなに恐ろしいものであろうとも、私達の性格や生き方を一新させるように進めるものであるのかもしれません……。すべてのことに準備を怠ってはなりません。悔なく死ねるようにさえしておかねばなりません。」

 

 ロラン夫人がいとも簡単に絶望してしまった世代は、やはり進歩に対する信念、人間の幸福に対する真摯な意欲、公共の福祉に対する熱烈な愛情など、多くのすばらしい美点をもっていた。またこの世代は犠牲の偉大さによって世界を驚かした。しかし、是非言っておかねばならぬのだが、四囲の状態が未だのっぴきならぬ力で抑圧してこない時期にあっては、旧制度(アンシャン・レジーム)(革命前、十八世紀フランスの政治、社会組織)下に形づくられた如上の性格は雄々しい断固たる様相をとって現われてこなかった。人々の心には勇気が欠けていた。当時は、その口火を切って落す如き非凡の才を誰も持ち合わせていなかった。あの巨大な才幹あるにも拘らず、ミラボーさえ御多分に洩れぬのである。

 

 この事も言っておくべきだろうが、当時の人々は既に多く書き、多く語り、多く闘ってきた。どれ程多くの仕事や議論や事件がつみ重ねられたことだろうか! 如何に多くの急速な改革が行われたことか! 世界は何と一新したことか! ……国民議会や出版に携わる重要な人々の生活は困苦を極めていて、これも一つの問題となると思われる。国民議会の二つの会議、休みなしに十一時か真夜中にまで及ぶジャコバン・クラブや他のクラブの集会、それに明日のために演説を準備せねばならず、論文がある、雑務がある、厄介な事件がある。委員会の会議、秘密会など……大きな情熱をもち、無限の希望を抱いていたはじめの頃は、その故にこそ煩雑なものすべてに耐えてゆくことが出来たのである。しかしともかくも努力はつづけられたが、仕事は延々といつ果てるとも終るとも知れず、人々はいささかうちのめされてしまった感があった。この世代にはもう智慧も浮ばず、力も失せて、その信ずるところにいくら真摯なものがあろうとも、若々しさも、潑剌とした精神もなかった。信念にも最初のころの情熱はも早なかった。

 

 六月二十二日(この日、国王一家はヴァレンヌで捕われ、共和政の要求が強くなった)政治家達全般がためらいがちの中で、ロラン夫人はためらわなかった。彼女はジャコバン党の人々の腰弱な血の気のない提議に反対して、小委員会が議会の開催を要求すべきだと手紙を書き、地方に報知させた。「君主制を政府に保存すべきか否かを諾か否かで判っきり解決すること」と。又二十四日には断乎として「いかなる摂政も不可能なこと、ルイ十六世を退位せしめねばならぬこと」等を証明している。

 すべての或は殆どすべての人たちが尻ごみをし、ためらい、なお動揺していた。みなは利害と適当な時期を考慮してぐらついた。お互いが他人を期待し、当てにしていた。「われわれは八九年の時の十二人の共和主義者にも劣る」とカミーユ・デムゥランは言う。ヴァレンヌへの逃亡のお蔭で共和主義者は非常に増した、自らそうと知らずに共和主義者となったものたちの数は限りなかった。彼等は自らが共和主義者たることを自身で知らなければならなかった。そんな人達だけがうまく計算することになったのだ。自分では計算したくもないのに。この前衛の先頭に立ってロラン夫人は進み、金の剣を定めなくゆれ動いているものに投げつけた。勇気と正義の観念とを投げつけたのであった。

 

 

    

 

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