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ミシュレ『革命の女たち』

 

 

4 女性の結社――オランプ・ド・グージュ、ローズ・ラコンブ

 

 

 ジャコバン党員は、「憲法の友」と呼ばれていたが、彼らの部屋の下に集まっていた結社は、「憲法擁護の男女愛国者協和会」と名づけられていた。それは、九一年五月にすでに確固たる地盤を築いていた。この会が憲法議会の法令に対して抗議した重大な時期に、この会は、三千人の人々に対して呼びかけたのであるが、このとき、著名な一会員を獲得した。この人物こそロラン夫人であり、当時彼女は、パリに旅行に来ていたところであった。

 不幸にして、われわれは、女性の諸結社の歴史をさしてつまびらかにしない。われわれが若干の軽い印象をまとめられるのは、新聞のささやかな記事や伝記などにおいてである。

 これらの団体の多くのものは、南仏の輝かしい女流即興詩人オランプ・ド・グージュによって、一七九〇年から九一年にかけて設立されたものである。彼女は、ローペ・デ・ベーガ(スペインの作家)のごとく、一日に一つの悲劇を口述したが、ほとんど無学文盲であったのだ。読むことも書くことも知らなかったとさえ言われている。彼女は、呉服・小間物行商の女と、一説によると、ある商人とのあいだに、モントォバンで生まれた(一七五五年)(これはミシュレの誤まり、実は一七四八年生れ、父は肉屋であったらしい。)また一説によると、父は文人であったと言うことである。また、彼女がルイ十五世の私生児であると信じていた者もあった。この不幸な女性、勇敢な思想を多分に抱いているこの女は、移り気な感傷の殉難者であり、それに弄ばれたのである。彼女は、女性の権利を、次の正しい崇高な言葉で確保した。「女性は、断頭台にのぼる権利を持っているがゆえに、議政壇上にのぼる権利をも持っているのだ。」

 八九年七月には革命派であったが、十月六日に、パリで捕えられた国王を見たときには、王室派であった。九一年六月には、ルイ十六世の逃亡と裏切りとを知って、共和主義者となり、国王が裁判に附せられたときには、また国を愛するようになった。人々は、彼女の軽率を笑った。すると、彼女は、南仏の人の激しさをもって、笑った人々に対してピストルの決闘を申し込んだ。

 ラファイエットの一派は、彼女を反革命の祭の先頭に立たせたが、このことのために彼女は葬り去られることになったのである。人々は、彼女を動かして、その貧弱な頭では到底理解できないほどの数々の事件に当って、筆を執らしめた。メルシェその他の友達は、もういい加減にやめておけと忠告したが、それも無駄であった。彼女はたえず、自分の意図の純粋なることを信じて、進んで事を行った。その意図を、非常に高尚なパンフレット『無辜の矜恃』において、一般に説明した。憐憫の気持は、彼女にとっては致命的なものであった。国民議会の傍聴席で国王を見たときには、真剣な共和主義者であったにもかかわらず、国王の弁護を申し込んだ。これは承認されなかったけれども、以来、葬り去られてしまったのである。

 女性たちが一身を犠牲にして党派に挑戦する場合には、男性以上に危険をかえりみないものだ。そして、英雄的行為によって熱狂した女性の上に手をかけ、人間の獣性のためにこのかよわい女性の上に容易に暴行を加えて、彼女たちを嘲弄する、これこそ当時の忌わしいマキヤヴェリズムであったのだ。ある日、オランプは、あるグループの中で捕えられて、頭を抑えられた。兇暴な男が頭を腕にかいこんで、帽子を奪った。その髪はばらりと乱れた。彼女はいまだ三十八歳の若さ(実は四十五歳)であったとはいえ、その髪は痛ましいほど白髪であった。才能と情熱とで彼女の精魂はすっかり枯れていたのだ。「誰かオランプの頭を十五スゥで譲ってもらいたいと思う奴があるかね?」と、その男は叫んだ。彼女は、少しもさわがず、優しく言った。「ねえ、あなた、ここに三十スゥのお金をおきますよ。」人々は笑いくずれ、彼女は逃れた。

 だがそれも、長いことではなかった。革命裁判所に召喚され、息子(彼女はかつて貧しく賤しい賄方と結婚し、一子をもうけていた)が侮蔑したまなざしで自分を見棄てるのを眼のあたりにするという恐ろしい苦悩を嘗めたのである。事ここに到っては、力も尽きはてた。もっとも勇敢な者でも、常に免れることができるとは限らない自然の悲しい反応によって、彼女は、涙にぬれ、死を恐れて戦慄する、かよわい女性に立ち戻った。人々は彼女に言った、妊婦は刑罰を延期される、と。彼女もまたそれを望んだと言われている。一人の友人が、涙ながらに、彼女につらい勤めをなさしめようとしたが、人々は、もうその必要がないことが分った。革命裁判所で招いた産婆と外科医は残酷にもこう言った。妊娠しているとしても、身ごもってから間がないので、証明することができない、と。

 彼女は勇をこして断頭台の前に進みより、祖国に、自分の復讐をとげてくれるようにと、またときどきは思い出してくれるようにと乞いながら死んでいった。

 

 女性の結社は、九三年には一変してしまったが、当時はあなどりがたい影響力を有していた。「革命派の女性たち」という結社に、当時、頭首かつ指導者として、雄弁にして大胆な一人の娘(ローズ・ラコンブのこと、もとは地方の女優)があった。彼女は、五月三十一日の夜、ジロンド党の失脚を決定した司教館の総会において、もっとも激越な主導権を握り、男性の憤怒をはるかに凌いでいたのであった。当時、彼女は恋人として、多分シャリエ(リヨンのジャコバン党員、神秘的共産主義者と言われる)の弟子であり、また、ジャーク・ルゥとも緊密に結びついていた若いリヨン出の男、ルクレールを愛していた。ジャーク・ルゥは、サン・マルタン街の選出の委員であり、その説くところは、若干の共産主義的な思想を拡めていた。ルクレール、ルゥ、その他の人々は、マラ(ジャコバン党の大立物)の歿後、さしてマラ主義でもない傾向の雑誌、『マラの影』を作った。

 これらの大胆な改革者たちは、ロベスピエールやジャコバン党員から激しく憎まれていたので、改革者たちの新しさを受け入れようとする女性の諸結社に対して、ジャコバン党は敵意を抱かざるを得なかったのである。

 他方、大多数が王党であり、商売が不振であることを非常に憤慨していた魚売りの女やパリ大市場の女売子たちは、女性の結社を怨んでいた。彼女たちは、まったく見当はずれのことなのであるが、女性の団体にその責任があると思っていたのだ。市場の女たちは、むしろこれらの女たち(貧しい女性の労働者たち)よりも強く、よいものを食べていて、相手をしばしば踏みつけにしたことがあったほどである。彼女たちは、サン・トゥスタッシュの墓地下のこれらの諸結社の一つを襲って、殴打し、ほうほうの態で逃げ帰らせたことなど、幾度もあったのだ。

 また一方、共和主義の女たちは、魚売りの女が、世人ことごとくが法に従って所有している国民帽章を持とうとしないことにあきたらなかった。ジロンド党の滅亡のとき、九三年十月に、彼女たちは、男装をして、武器をとり、大市場を練り歩き、魚売りの女たちを辱かしめた。魚売りの女たちは、相手に飛びかかり、その頑丈な腕で、男どもが大いに喜んで見ている中で、卑猥な折檻を行った。パリは、その噂でもちきりであった。国民公会はその裁判をしたが、犠牲者たちに分の悪いものであった。議会は、女たちに集会することを禁じたのだが、この社会上の大きな問題は、こうして偶然によって阻止されたわけである。(実はこの問題は、公会で種々取上げられた後、女性は家庭にあるべきものとして拒否された)

 ローズ・ラコンブはどうなったか? 不思議なことだ。この過激な女性は、当時の大部分のテロリストのごとく、弱さと人間性とを持っていて、そのために危く生命をおとすところであった。彼女は、一人の容疑者を救わんとして、非常に危い目にあった。それは、九四年の悲劇的な時期である。彼女は、ダンケルクの劇場に雇われた女優として、旅券を求めた。(舞台に復活するためこの契約を結んだばかりのところ、九四年四月二日に逮捕された)

 九四年六月には、彼女が、酒、砂糖、香料パンなどを囚人に売りながら、牢獄の扉に坐っているのを見出すのである。それは儲けのある仕事で、牢番どもに鼻薬をきかせると、どんな値段にでも売ることを認められていたのだ。もはやどう見ても、そこには九三年の激しい乱酔した女性の姿を認めることができなかったであろう。彼女は、自己の利益に汲々たる物売りになっていた。しかのみならず、優しく美しい物売りになっていたのだ。

 

 

 

    

 

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