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ミシュレ『革命の女たち』

 

 

2 サロン―コンドルセ夫人

 

 

 テュイルリ宮の対岸のほとんど正面、フロールの亭と王室方のサロンたるランバル夫人(王妃マリ・アントワネットの親友)のサロンとの見える所に、造幣局(ラ・モネエ)がある。そこにはもう一つのサロン、同時代の人が共和国の温床と呼んでいるコンドルセ氏のサロンがあったのである。

 科学アカデミーの著名な幹事の主催する、このヨーロッパの中心をなすサロンには、実際、世界のあらゆる地点から、当時の共和制の思想が集まって来た。その思想は、そこにおいて発酵し、体をそなえ、闡明せられた。その思想の首唱者であり、第一の思想家は、すでに知れるごとく、八九年以後は、カミーユ・デムゥラン(ジャコバン党員 本文中に後出)であったが、九一年六月に、ボンヌヴィル(ジャーナリストで当時の世論の指導者)とコンドリエ派(共和主義を奉ずる政治クラブ)とが、まず第一声をあげた。

 

 偉大なる十八世紀の最後の哲学者、現実の分野に乗り出した彼らの学説を見とどけるために、何びとよりも生き長らえた者は、ダランベール(啓蒙思想家)の後継者、ヴォルテールの最後の通信者、テュルゴ(重農学派の経済学者でルイ十六世の財務総監)の友たる、科学アカデミーの幹事、コンドルセ氏であった。彼のサロンは、思考するヨーロッパのおのずからなる中心であった。国家という国家は、あらゆる学問と同じく、ここに本拠をおいていた。あらゆる優秀な外国人は、フランスのもろもろの学説を受けいれてのち、その応用を求め、論議せんとしてここに来たのであった。そこには、アメリカ人のトマス・ペインあり、イギリス人のウィリアムズあり、スコットランド人のマッキントッシュあり、ジュネーヴ人のデュモンあり、またドイツ人のアナカルシス・クローツがあった。この最後の人は、かくのごときサロンなどには全然ふさわしい人物ではなかったのだ。九一年には、あらゆる人々がここに集い来って、ともに混り合ったのである。そしていつでも片隅には、孜々として倦まない友、医師のカバニスが来ていた。彼は、病弱で憂鬱な面持ちをしていたが、この家に、彼がミラボーに抱いていた、優しい、深い愛着をもたらしていたのである。

 

 これら著名な思想家の間に、コンドルセ夫人の高雅にして乙女のような姿が飛び舞うていた。ラファエルありしならば、その姿こそ形而上学の典型と考えたことであろう。さながら輝くばかり、すべては、彼女の視線のもとで、光を放ち、潔らかになるように思われた。彼女は以前、修道女であったが、いまでも、一人の婦人というよりはむしろ、上品な令嬢のように見え、当時二十七歳(夫よりも二十二歳年下)であった。そしていまや繊細な心理分析の書、『同情心についての書簡』を書き終えたところであった。この書には、極端なほど遠慮した衣をまとってはいるが、それにもかかわらずしばしば、何ものかが欠けている若い心情の憂鬱が感ぜられるのである(原註)。彼女が、名誉や宮廷の寵愛に対して野心があり、それを得られない口惜しまぎれに、大革命に身を投げ入れたと仮定したものもあるが、それは無駄である。彼女ほど、かかる性格からかけ離れているものはないのだ。

 

 (原註)大革命以前に書かれた、人を感動せしめるこの小冊子は、のちになって、九八年に出版された。それは、二つの時代の性質をうけている。その書簡は、愛すべき著者の義弟であり、慰さめてのない友であり、また深い傷の打明け話の聞き役であるカバニスに宛てたものであるが、それらは、悔恨と愛せられた影とに満ちているこのほの暗いエリゼ・ドートゥィュの中で書かれたものである。これらの書簡は、声低く物語っていて、感受性の強い絃には響止めがつけてある。遠慮深い筆使いをしているので、われわれは、さまざまの暗示のあいだに、若い娘の初めての悲しみや、夫を失った妻の悔恨に属するものを、そこにいつでも聞きとれるとはかぎらないのだ。この、繊細にして感動的な、やがて雄弁になろうとしていた文章が呼びかけているのは、コンドルセであろうか? カバニスであろうか? しかし、ある潮時に、彼女は止まって言うのだ、「わたくしどもの幸福の匡正者であり指導者……」。

 

 ここに、以上の話よりもよほど真実らしい噂があるのであるが、それは人々が次のように言ったということである。すなわち、彼女は、コンドルセと結婚する以前に、自分は自由な心を持っていない、と彼に宣言したであろう、という噂である。彼女は愛していた、しかし希望もなく(彼女は公爵の情人であったとも言われる)。コンドルセは賢明にも父のごとき善意をもって、この告白を受け入れた。彼はこの告白を尊重した。同じ言伝えによれば、彼らは、二年のあいだずっと、あたかも二つの精神のごとくに生活して来たということである。コンドルセ夫人が、この、見かけは冷静な男が心中に抱いている情熱のすべてを見たのは、八九年、あの七月の美しい瞬間のことであった。そして、この偉大な市民を愛しはじめた。あたかもおのれ自身の幸福であるかのように人類の幸福への望みを抱いた、この深く優しい魂を愛しはじめたのだ。彼女には、夫がこの偉大な思想、この美しい欲求のもとに永遠の若さを保っている青年に見えた。彼らの間にできたただ一人の子供は、バスティーユの奪取ののち九カ月の、九〇年四月に生まれた。

 

 コンドルセは、当時四十九歳であったが、実際、これらの事件で若返った。彼は、新しい生活、第三の生活をはじめたのである。ダランベールとともに数学者の生活を、ヴォルテールとともに批評生活をはじめていたが、いまや、政治生活の大海に解纜したのだ。彼は進歩を夢みていた。そしていまや、それを為さんとするのであった。少くとも、それに没頭しようとするのであった。彼の全生涯は、合一することの稀なる二つの能力、すなわち、確乎たる理性と未来に対する無限の信念との間の、あざやかな結合を示していた。ヴォルテールを正しくないと思うときには、ヴォルテールに対しても断乎として譲らず、また、エコノミストたち(いわゆる重農学派のこと 経済上の自由主義を説く)の友人ではあったが、彼らに対して盲目的になることもなく、ジロンド党に関しても、同じく束縛されていなかった。彼が、ジロンド党の偏見、すなわち地方の偏見に対して、パリのためにおこなった弁論は、いまだに感嘆の念をもって読まれているのである。

 

 この偉大な精神は、たえず生きており、眼覚めており、自己を制御していた。いかなる抽象的な仕事に没頭していようとも、彼の精神はいつでも解放的であった。サロンにおいても、群衆の中にあっても、たえず思索していた。彼には娯楽というものが全然なかった。あまり口を開かなかったが、すべてに耳を傾けていた。すべてを利用した。いかなることをも、いまだかつて忘れたことがなかった。彼にものを訊ねる専門家はすべて、自分が専攻していることにおいてもなお、彼の方がおのれ以上に専門的であることを知ったのであった。女たちは、彼が、流行の歴史にいたるまで心得ており、それを古きにまでさかのぼり、もっとも微細な点まで知っているのを見て、驚きかつ恐れた。彼は、非常に冷やかに見え、決して内心を吐露しなかった。友達は、彼が自分たちのために事に処してくれるときにひそかにそそぐ激しい熱意によってのみ、彼の友情を知ったのである。「それは、雪に覆われた火山だ」と、ダランベールは言った。青年として、彼は恋をした、そして、望みを失って、あるときはまさに自殺せんとしたこともあった、という話である。だがもはや、すでに齢も重ね、分別もついていた。だが、心の底においては、熱烈なるものが無いわけではなく、妻のソフィに対しては、遅咲きであればあるだけに、それだけ一層深い、また生命それ自身よりも深い、かつ人の量り知れない情熱の含まれる、ひかえめな、だが大いなる愛情を抱いていたのである。

 

 高貴なる時期よ! いかばかりこれらの女性たちは、愛せられるにふさわしく、男性によって理想そのものと、祖国と、そして徳とに混ぜ合わされるにふさわしいものであったことか!……最後に、カミーユ・デムゥランの友だちが、彼の『ヴィユ・コルドリエ』(一七九三年十二月より発行された機関紙)を停止することを乞い、「寛容委員会」の彼の要求を延期すること(恐怖政治の寛容ならんことを要求したもの)を求めた、あの悲しい昼食を、いまだに思い出さぬ者があろうか? 彼のリュシルは、妻として、また母として、我を忘れて、彼の頭に手をまわしてこう言った。「ほっといてちょうだい。この人をこのままにしておいてください。この人をなるようにならせてください。」

 かくして彼女たちは、結婚と恋愛とを気高くも犠牲にして、死に面した男の疲れた額をかき上げ、さらにまた、彼に生命をそそぎかけ、不滅の道に導いて行ったのだ。……

 彼女たちもまた、いつでもそこにいるであろう。そこに来る人はいつでも、彼女たちのような英雄的にして魅力ある女性を見なかったことを悔むであろう。まさに彼女たちは、永遠の愛の典型として、また愛惜として、いまだにわれわれの中において、心情のもっとも高尚な夢にあずかっているのだ!

 

 コンドルセの顔立ちと表情との中には、何かしらこの悲劇的な運命の影のごときものがあった。臆病な態度とともに、(人々の中にあっていつも孤独な学者の態度のごとく)悲しげな、忍耐ぶかい、諦めたようなところがあったのだ。顔の上部は美しかった。眼は、高尚で優しく、たえず真剣に理想を追い、未来の奥底を凝視しているように思われた。一方、あらゆる学問を包含している広い額は、巨大な倉庫、過去の完全なる宝庫のごとくに見えた。

 次のことは、ぜひ言わなければならないが、彼は、人間としては、強いというよりはむしろ広いという方で、その唇、少しく柔かく弱々しく、少しく垂れている唇に、それが予覚されたのであった。精神をすべての対象に分散せしめている普遍性は、彼の疲労の原因であった。しかもなお、彼は、生涯を十八世紀のうちに過ごし、その重みを背負っていたのだということをつけ加えなければなるまい。その時代のあらゆる論争、偉大なるところも卑小なるところも、すべて越えて来たのだ。そして、その矛盾を宿命的に有していた。こちこちのジュスイット派だった司祭の甥として、その眷顧を一部分受けて成長し、ラ・ロシュフゥコー家の手あつい保護をも受けた。貧しくはあったが、貴族であり、コンドルセ侯爵の肩書きを持っていた。生れも地位も、親族関係も、多くの点において、彼は旧制度に引きつけられていた。彼の家、彼のサロン、彼の妻も、同じ対照を示していた。

 

 コンドルセ夫人は、グルゥシー家の生れ、まずはじめは修道女となったが、やがてルソーと大革命とに熱狂し、半ば僧籍にあった地位を抜け出して、自由思想家たちの中心であったサロンを催し、いわば哲学の上品な修道女のように見えた。九一年六月の危機(国王一家のヴァレンヌ逃亡事件)は、コンドルセにも何らかの決心をうながし、その意志表示を求めた。彼は、一方においては友人関係や彼の先人たちと、他方においては自己の思想との間にあって、どちらか一方を選ばなければならなかった。利害関係にいたっては、そのようなものは、彼のごとき人物には何らのかかわりもなかった。おそらく彼が気にかけていた唯一のことは、共和国が偉大な習俗をすべておとしめ、それだけ一方に自然の優越性を高めるにいたったならば、妻のソフィが女王になっていたかもしれぬということである。

 

 親友ラ・ロシュフゥコー氏は、ラファイエットの場合のごとく、彼の共和主義の熱をさまし得るものと、その望みを失わなかった。彼は、おのれの家庭でかつて保護してやった男、おとなしい学者、優しく臆病なこの男を簡単に自分の仲間に引き入れることができるものと信じていた。人々は、コンドルセがシエィエース流の王党派の思想を持っていることを確信し、この確信を民衆の間にひろめるまでにいたったのである。かくして人々は、彼を自分たちの方に引き込み、同時に、好餌として、王太子の師傅に任命されるかもしれぬという旨を申し入れたのである。

 

 このような風評のために、彼は、そういう噂がなかったときよりも早く、態度を決定しなければならなかった。七月一日に、『鉄の唇』紙上に、自分は「社会クラブ」において「共和国」について話すつもりである、ということを発表した。彼は十二日まで待った。しかもそれを、ある遠慮をもっておこなったのである。彼は、巧みに立論して、人々が「共和国」に対しておこなった多くの平凡な異論を反駁した。しかしながら、次の言葉をつけ加えたが、これには人々も非常に驚いてしまったのである。「しかしながら、もし民衆が、王位を残しておくべきかどうか、王位継承権が二つの公会の間の短期間つづくかどうかを世論に問わんがため一つの国民公会を召集するということを見合わせるならば、かくのごとき場合に、王位は、市民権に対して本質的に反対ではない。……」と。彼は、人々が自分を王太子の師傅に任命するはずであるという、時の風評に対して仄めかしていた。そして、かかる場合には、特に王位なしですまし得ることを王太子に教えるであろうと言ったのであった。

 

 このように決断がにぶっている様子が見えたので、共和党の人々はあまり喜ばず、王党派の人々も怒ってしまった。その上、人々が、かくも重々しい手によって書かれ、機智と皮肉とにみちたパンフレットをパリに撒布したときには、王党派の面々は、なお一層傷つけられてしまったのだ。コンドルセは、彼のサロンに出入する若い社会の代弁者であり、意見のまとめ役であった。そのパンフレットは、『一人の若き機械技師の手紙』と称し、わずかな部数ではあったが、立派な立憲君主を規定したものであった。彼は次のように言った。「かくのごとき国王ならば、十分に王位の職責を果し儀式に進み行き、行儀正しく玉座に着席し、ミサに赴き、立法議会の議長の手から、多数党が任命した大臣のリストを或る手段によって受けるだろう。かくのごとき国王ならば、自由に対しても危険にはならないであろう。注意して国王を改めつつ、王位は永遠に続くであろうし、それこそ、世襲制よりもなお一層美しいものである。人々は、非道におちいることなく、それを神聖にして犯すべからざるものであると宣言し、不合理なしに謬らざるものと言い得るであろう。」

 

 これは注目すべきことであるが、冗談半分に大革命の大海に解纜したこの円熟した重々しい男は、自分に恵まれようとしている好機を全然見て見ないふりをしていたわけではなかったのだ。彼は、人類の遙かなる未来の中にこそ満腔の信念を置いていたが、現在に対しては、あまり信念を持っていなかったし、現状については、何らの幻想も抱かず、非常な危険を感じていたのである。彼はそういうことを恐れていたが、それは自分自身のためではなく(彼は喜んで生命を献げた)、愛する妻のためであり、七月の神聖なる瞬間にやっと生れたばかりの幼な子のためであった。何カ月も前から、必要とあらば家族を逃すことのできる港があるかどうかをひそかに照会していた。そして彼はサン・ヴァルリィの港で捕えられたのである。

 

 すべては延び延びになり、次第々々に事件は近づいた。それは、コンドルセ自身の手によって到来せしめたようなものだ。かくも慎重なこの男は、恐怖時代のさなかにあって大胆になった。彼は、九二年の憲法草案の起草者として、九三年の憲法を激しく攻撃したので、追放に対して隠れ家を見つけなければならなかったのである。(九三年ジャコバン党が勢力をますと、ジロンド党の意向を反映した九二年憲法を拒否し、新たにジャコバン党中心の九三年憲法を作った)

 

 

 

 

 

 

 

    

 

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