目次へ

 

 

ミシュレ『革命の女たち』

 

 

16 革命に続く半世紀間の女性たちによる反動

 

 

 熱月(テルミドール)九日の後に、反動をはやめたことが幾つかあった。――

 

 革命政治の度の過ぎた緊張、官能にも心情にも一番ひどい犠牲を払わせていた制度の疲労。見さかいがなく、抗うことのできない憐れみの情の動きには量りしれぬものがあった。

 女性たちが反動の主な動因だったとしても驚くにはあたらない。

 

 服装の故らなだらしなさ、民衆の言葉や習慣の採り上げぶり、時代のみだりがわしさは、厚顔無恥の名により烙印を捺されてしまった。じっさい、共和派当局は、日ましに苛酷さを加え、公民の資格の保証として、風儀の厳格さを押しつけようと大童になっていた。

 道徳上の非違の検察は、行政官によるばかりでなく、民間団体によっても行われた。一再ならず姦通事件がコミューヌとジャコバン派に持ち込まれた。両者ともに不道徳な人間は容疑者であると判定した。これこそ当時いかなる罰にもまして怖れられていた、由々しく忌まわしい罪名だった!

 嘗てこれ以上手きびしく闇の女を追求した政府はなかった。

 そこからあれほど噂の種となった身籠った生娘にはけ口を求めるようになった。じっさい、身を過った娘たちは、救いの手を少しも差しのべられないと、大方闇の女になる。棄て児は孤児院へ行く、つまり死ぬということだ。

 舞踏会と賭博(そのころは遊女屋と同じ意味の言葉)はほぼ姿を消した。

 九二年まであれほど女性たちの華やいだサロンも、九三年以前に閉じる。

 女性はみずから無力になり果てたことを悟った。この惨い政府の下では、嫁と母にしかなれなかったろう。

 

 引き金は熱月九日(いわゆるテルミドールの反動、ロベスピエール一派の没落の日)に引かれる。前代未聞の氾濫が、猛り狂う乱舞が、この日からはじまった。

 

 断頭台に連れて行くためにロベスピエールにさせた長い道行で、最も怖ろしいことは、どんんな値段でも払って借り切られた窓々の光景だった。ずっと前から姿を消していた見ず知らずの顔が、日向に浮き出ていた。金持や娘たちの一団が、これらの露台に綺羅を飾っていた。公衆の感じ易い心のこの激しい反動に恵まれて、これらの人々の物狂わしい気持もおおっぴらになる勇気をえた。女たちは殊に許しがたい光景を示した。恥かしげもなく、七月を口実に、半裸の姿に、花で胸を飾り、びろうどに肘をついたまま、背後の男といっしょに、サン・トレノ通りに半身を乗り出して、甲高い声で叫んでいた、「死刑に! ギヨティヌに!」彼女たちはこの日大胆にも再び晴れの化粧をし、夜、晩餐を催した。誰ひとりもう我慢する者はなかった。

 ド・サド(サディズムで有名なサド侯爵、九二年より監禁されていた)は熱月十日に獄を出た。

 

 葬列がアソンプシヨンに着くと、デュプレ夫人の家のまえで、女優たちが一場の芝居を見せた。復讐の女神たちが輪になって踊っていた。一人の子供が牛の血の手桶を持って、折よくそこに来かかり、箒で、その家に向って血の滴を投げかけた。ロベスピエールは眼をつぶった。

 晩に、この同じ狂乱の女たちは、ロベスピエールの犠牲になった者の寡婦だと喚きながら、デュプレおばさんのいるサント・ベラジに駈けつけた。おそれをなしている牢番に門を開けさせ、老女を絞め殺して、窓掛けの帳桿に吊した。

 

 パリはとても陽気に返った。なるほど、饑饉はあった。西部を通じてまた南部にも、恣に暗殺が行われた。しかしパレ・ロワイヤルは賭博者と娘たちで溢れ、貴婦人は半裸の姿で闇の女を顔負けさせていた。ついで、犠牲者追善舞踏会が催され、恥しらずなみだらな風儀が心にもない悔みを乱痴気騒ぎに捲き込んでしまった。

 感じやすい人が、泣き喚きながら、アシニャ紙幣(革命時代の紙幣だが、その濫発によりはげしいインフレが生じた)と国有財産について投機をやっていた。投機商人団(バンデ・ノアール/大がかりな闇屋をさす)はありもしない親戚を熱い涙で悼んでいた。侯爵夫人や伯爵夫人、国王びいきの女優たちは、堂々とフランスに帰り、牢屋か隠れ家かから出て、身を惜しまずに、恐怖政治を国王派につけようと努め、恐怖政治家(テロリスト)たちに纏りつき、熱月党員(テルミドリヤン)(テルミドールの反動を行った一派)を惑わし、殺戮へ手を延ばさせ、共和制を血ぬるためにその匕首を研いでやった。多勢の山岳党員、タリヤンやバンタボルやロヴェールは、貴族のような結婚をしていた。肉屋のルジャンドルは、長いあいだ血を搾られた牛のようにぺしゃんこになってきたが、ラ・コンタ(有名な女優、マリヴォやボォマルシェの作を演じ、コケットや侍女の役が得意であった)につつかれて急にまた手に負えなくなった。このボォマルシェの『フィガロ』の意地悪なシュザンヌは牡牛に投げ縄をかけ、ジャコバン党のまんなかを、角を下げてしゃにむに、駆け抜けさせた。

 

 これらのことは既に語るべきではない。これはみなもう「革命」には属さない。半世紀いらい続いている長い「反動」のはじまりなのだ。    

 

目次へ