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ミシュレ『革命の女たち』

 

 

15 どの党派もそれぞれ女たちのために滅ぶ

 

 

 女たちが、はじめから、革命の興奮を新しく煽り立てたとすれば、逆に、目先の利かない涙もろさに駆られて、女たちが逸早く反動に力を添え、その影響がどんなに尊敬に値したときですら、往々党派の滅びる下地を作ったと言わなければならない。

 

 ラファイエットは、その性格の公平無私なこと、アメリカに倣い、ジェファソン(アメリカ合衆国の大統領)の友情を得たことなどにより、ずっと遠くまで進んでゆけたはずだ。ところが彼に纏わりついて諂う女たちの影響や、妻の感化にさえ捕えられ、妻のいかにも慎ましい態度や、悩みや、美しい心がけが、強く彼の心に働きかけた。いわば彼は自分の家に王室の有力な弁護人を、無言の涙によって強い弁護人を妻として抱えていたのだ。彼女は夫が国王の牢番となるのを見て心慰まなかった。ノアーユ家に生れ、両親と一緒に、勤王派の狂信の主な火元の一つである、ミラミヨヌ派の修道院にのみほとんど暮したのである。彼女は遂にオヴェルニュに逃れ、夫は少しずつ選りぬきの擁護者になった。

 

 ラファイエットを打ち負かしたジロンド派の人々も、見たとおり、やはり女によってひどく身を危くした。ロラン夫人の勇ましい無分別な行いをわれわれはよそで数えあげた。ヴェルニヨの天才がカンデーユ嬢の竪琴のあまりにも優しい音に睡り込み気抜けするのも見た。

 

 ロベスピエールは、弟の軽はずみのために誤って告発され、われ知らずつい物神崇拝の的になり、自分を信心してくれる女たちの滑稽な礼讃に取りまかれたために当然訴えられた。カトリヌ・テオの事件により実に死ぬほどの打撃を蒙った。

 共和派から、国王派に移っても、同じことが目に映る。王妃の弁えのないふるまいや、無理強いと過ちや、外国との関係がほかのどんなことにもまして、王家の運命を傾けるのに与った。

 

 

 ヴァンデ(大革命の間を通じて、反革命運動の中心地方であった)の女たちは、夙に、内乱を用意し、これを起そうと努めた。が、女たちの熱意の盲めっぽうの荒立ちがやはりこれを失敗させた原因の一つだった。九三年十月にロワール河を渡った大軍(ヴァンデ反乱の敗残軍はブルターニュに入ってイギリス軍と連絡しようとした)を追う女たちの執念が、何よりもその行動の自由を失わせるに与った。ヴァンデ軍中でも最も腕のあるド・ボンシャン氏は、絶望のうちにも、やがてその護りの堅い、深いボカージュを棄てて、平野に置かれたヴァンデ軍が、国境に兵力のあるフランス軍に追い討ちをかけるときに、自分の与える兵力に望みをかけていた。この猪突戦法は恐ろしい速度と機動と、人と兵士の厳とした覚悟を求めていた。ボンシャンは一万ないし一万二千の女たちがヴァンデ軍にかじりついて、自分たちをも連れて行かせるだろうということを勘定に入れておかなかった。

 

 女たちは国に止まるのを危険だと思った。そのくせ冒険ずきで、内乱をはじめたのと同じ勢で、その最後の機会をまたも追いかけようとした。男よりも速くうまく行くし、世界の涯てまで進軍してみせると誓った。ある者は世間しらずな女であり、他の者は修道女(フォントヴロの大修道院長のように)なので、好んで十字軍の、自由で勇ましい生活の未知を空想に描いていた。それにまたなぜ革命は、男があれほど拙く戦ったのだから、もし神がそう望まれたなら、女でも克ち得られないことがあろうか?

 

 私の一友人の叔母で、それまで立派な修道女だったひとに、夥しい危険を冒してまであの烏合の大軍に従って何を望んでいらっしゃるのかと尋ねてみた人があった。「国民公会をこわがらせてやること」と勇ましく答えた。

 

 男たちは熱に乏しいから自分たちの力で支え励ましてやる必要があるとヴァンデの女たちの多くは信じていた。自分の夫と恋人を真直ぐに進ませ、司祭に勇気をつけてやろうと望んでいた。ロワール河を渡る際に、艀の数が少く、待つ間を、告解に使った。司祭は岸の丘に坐って、女たちの告解を聴いた。この仕事は共和軍の大砲の逸れ弾に幾度か乱された。告解を聴聞している神父の一人が逃げようとした。……告解している女が捉える、「あら! 神父さま! 罪のお宥しを! ――ああ! 娘よ、あなたはもう済んでいる。」だが女はいっかな放そうとはしないで、法衣を摑んだまま、砲火の下に神父を引き留めた。

 

 怖れこそ知らなかったにせよ、この貴婦人たちはやはり軍隊にとって大きな足手まといになった。女たちが鈴なりになっていた幌馬車五十台のほかに、或は荷馬車に乗り、或は馬に乗り、徒(かち)で行くなど、あらゆる風をした女が幾千人となくいた。子を引き連れたものも多勢いた。幾人かは身籠っていた。間もなく男たちが出発のころとは違ったのに女たちは気づいた。ヴァンデ人の徳はその習慣につながっていて、国許から外に出てみると、だらしがなくなってしまった。指揮者や司祭にかけた信頼も消え、前者が逃げて船に乗り込もうとしているのではないかと疑った。司祭に対しては、お互いの諍いや、アグラの司教(叛軍に法皇から遣わされたアゴラの司教と称して近づいた)の佯りや、ベルニエ(ジロンド党員で叛軍に味方していたが、敗北が分るや、革命軍に投じた)の企みや、それまで隠されていた操行や、一切が恥じしらずにもあからさまになった。軍隊はここに信仰を失った。中途半端はなく、昨日の信心家が、俄かに今日は疑い深くなって、多くはもう何ひとつ尊敬しなかった。

 

 ヴァンデの女たちは内乱に加わったことから惨らしい報いを受けた。後で受けた溺れ死にの刑は言わないにしても、ル・マンスの戦い(ロワール渡河に失敗した叛軍はその郷里に帰ったが、十二月十三日、この地で大打撃を受け、同月二十三日、ラヴネーで全滅した)からすでに三十人ほどの女がその場で銃殺された。ほかに、なるほど、兵士らに救われたものも多く、兵士らはえている貴婦人たちに腕を貸して、修羅場から助け出してやった。できるだけ多勢の女たちが都会の家庭に匿まわれた。マルソ(革命軍の司令官でル・マンスの勝利者)は、自分の馬車で、身寄りをみな失ってしまった一人の令嬢を救った。女は別に生きようとも思わず、救い主を少しも助けようとはせず、裁かれて死んでいった。救ってくれた男と結婚した女もいくたりかいたが、これらの結婚はうまくゆかず、鎮めようのない苦々しさがやがてよみがえってきた。

 

 グゥバンと名乗る、ル・マンスの若い使用人は、戦の晩、ある門口に隠れ、どこへ行ってよいかも分らないでいる哀れな令嬢を見つけた。自分もこの都会では他所者だし、一つも確かな家を識らなかったので、自宅に引き取った。寒さか、怖しさか、顫えているこの不仕合せな女、それを自分の寝床に入らせた。たかが六百フランの雇人の身とて、一つの私室と、一脚の椅子と、一台の寝台と、それきりしか持っていなかった。八晩引き続いて、自分の椅子のうえで眠った。すると疲れて、病気になったので、女に頼み、服のまま、傍で寝る許しを得た。男が当然なるべきものになったことは言うまでもあるまい。折よく令嬢は親許に帰ることができた。たまたまこの女が金持で、大家の娘で、しかも(これこそいちばん意外だが)なにがしかの憶い出を抱いていることが分った。人伝てにグゥバンに結婚したいと言わせた。「いや、お嬢さん、僕は共和派だし、青は青いままでいるべきです!」

 

 

 

    

 

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