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ミシュレ『革命の女たち』

 

 

14 リュシル・デムゥラン(94年4月)

 

 

 

憲法制定議会は、コミューヌごとに、結婚と誕生死亡の申告が行われる役場の会堂に、祭壇をしつらえるように命じていた。

 人間の運命の最も感銘ぶかい三つの瞬間がこうしてコミューヌの祭壇で神聖なものとして祝われ、家の絆が祖国の絆と一つにむすばれたら、この祭壇はすぐ唯一のものとなり、役場は社殿になったかもしれない。

 ミラボーの意見に人々は従うべきだったろう。「革命からキリスト教の匂いを抜かないかぎり、何ら為すなくおわるだろう。」

 

 サン・タントワヌ郊外の職人が幾人か、九三年に、もし自分の結婚がコミューヌで役人により神聖なものとして祝われないならば、正当なものとは思わないと宣言した。

 カミーユ・デムゥランは、九一年に、サン・シュルピス教会でカトリックの儀式に則って結婚した。妻の家族がそうすることを望んだのだ。しかし、九二年に、息子のオラスが生れると、自分でこの子を市庁に連れてゆき、憲法制定議会の法律を要求した。これが共和式洗礼の最初の例だった。

 

 大革命を通じて一番心を打つ想い出は、その偉大な文筆家、立派で弁舌さわやかなカミーユと、彼の麗しいリュシルと、ふたりをともに死へ導いた行為(しかも彼女こそ直接にこの行為に与ったのだが)、すなわち恐怖政治のさなかに、あれほど大胆に「寛容委員会」を提唱したことの想い出である。

 

 八九年に貧乏というよりも赤貧といった方がよく、肉体の点からは生れつき恵まれておらず、おまけに幾らか吃りのカミーユは、人を惹きつける心情の発露と、刺すように鋭い才智の魅力により、綺麗で、やさしくて、非の打ちどころがなく、しかも割合に裕福なリュシルを征服してしまった。彼女を描いたおそらく二つとない肖像画の、貴重な細密画が一枚あった(モォラン大佐所蔵)。あれは今どうなってしまったろう? 誰の手に移ったものか? これはフランスに属している。入手した人が誰であるにせよ、そのことを想い起して、われわれに返して下さるようにお願いする。革命記念館が早晩作られる日まで、美術館に置かれるべきだ。

 

 リュシルは元大蔵省書記と、テレ蔵相の妾だったと称される大変美しくすぐれた女とのあいだに生れた娘だった。肖像画は、リュシル・デュプレシ・ラリドンという名の示すとおり、あまり高くない階級の綺麗な女の姿である。綺麗だが、殊に勝気で、デムゥランを小さく女にしたようだ。感動し、荒立ち、幻想につかれた魅力にとむ小柄な顔は、『自由なフランス』(彼女の夫の美しいパンフレット)の息吹きを受けている。精霊(ジェニイ)がそこを横切ったのが感じられる、天才(ジェニイ)ある一人の男の愛が。(原註)

 

 (原註)彼女は一緒に死にたいと思うまでに夫を愛している。――けれども彼はこれほど献げつくしたこの心を、名残りなく、そっくり得ただろうか? 誰がそう言い切れよう? 彼女はずっと低い一人の男(あまりにも有名なフレロン(コルドリエ・クラブに属するジャーナリスト))に熱愛されていた。彼女はこの肖像画ではたしかに乱れていて、生命がそこではいかにも傷つき、顔色が暗く、冴えない。……可哀そうなリュシル! 私はおそれる、おまえはこの盃で飲みすぎた、革命がおまえのなかにある。おまえがここで解くことのできない結び目にからまれたのを私は感じるように思う。……しかし何と美事におまえはそこから死によって身を脱することだろう。

 

 

 この二十歳の若い女が八月十日の夜の感動を物語っているすなおなページを写す楽しみに、われわれは抗うことができない。

 

 八月八日に、私は田舎から帰って来た。もう誰も彼も頭がのぼせきっていた。私はマルセーユの人たちと夕食を共にし、私たちは心ゆくまで楽しんだ。食後ダントンさんの家へ行った。母上は泣いて、無性に悲しんでおられ、子はぼんやりした様子をしていた。ダントンは覚悟を決めており、私は気違いのように笑っていた。その人たちは事件が起らないのではないかと怖れていた。私だってちっとも自信があったわけではないけれど、みんなに言ってやった。まるでよく知っているかのように、事件が起るだろうと言ってやった。

 「でもそんなふうに笑えるものかしら?」とダントン夫人が言うので、「あら、これはね、今晩たんと涙を流す先触れなのよ」と答えた。――いいお天気で、私たちは幾度か街を廻ってみた。人が多勢いた。サン・キュロット派(革命的な小市民や労働者等で、彼らは貴族のようなキュロットをはいていなかった)の人がいくたりか「国民万才!」と叫びながら通った。続いて騎馬隊が、最後に数えきれないほどの一団が。恐ろしい気持が私を捕えた。「あっちへ行きましょう」と私はダントン夫人に言った。夫人は私のこわがるのを笑った。でも繰り返して言ったら、夫人もやっぱりこわくなった。私は夫人の母上に言った、「さようなら、じきに警鐘の鳴るのが聞こえますわ。」夫人のお宅に着いてみると、めいめい武装していた。カミーユ、私のいとしいカミーユは、銃を持ってやって来た。おお神様! 私は寝台のかげに身を寄せ、両手で顔をかくして、泣き出した。けれども、そんなに弱味を見せたり、カミーユになんでもそういうことに係り合いになってほしくないと声をあげて言いたくはなし、人に聞かれないで話しかけられる折を窺って、私の怖れていることをすっかりカミーユに言った。彼はダントンの側を離れないよと言いながら、安心させてくれた。私は後で彼が危険に身をさらしたことを知った。フレロンは死を覚悟した様子に見えた。「僕は人生にあきた、」と彼は言った。「死ぬことしか求めない。」偵察が来るごとに、この人たちを見るのもこれが最後かと思った。これらの仕度をすっかり見てしまわないように、そっと、光のない客間に入った。……私どもの愛国者たちは出て行った。寝台のそばに行って坐ると、気が挫け、疲れきって、ときにはついうとうとしかけ、口をきこうとすれば、わけもわからぬことを口走るのだった。ダントンが横になりに来たが、別に忙しい様子もみせず、ほとんど外へ出なかった。真夜中が近づき幾度か人が彼を探しに来、ついに彼はコミューヌに向って出掛けていった。コルドリエ派の人たちの警鐘が鳴った、長いあいだ鳴った。たった一人、涙にぬれ、窓辺に跪いたまま、ハンカチに顔をかくして、私はこの宿命の鐘の音を聴いていた。……ダントンが帰って来た。幾度も人が来て良い報せや悪い報せを告げてくれた。それらの人たちの計画がテュイルリに行くことにはっきりと気づいたので、私はすすり泣きしながらそう言った。今にも気が遠くなりそうに思えた。ロベール夫人がみんなに夫君のことを尋ねていた。「もしあの人が死んだら、」と夫人は私に言った、「生き残ってはいませんわ。でもあのダントンという男、あの中心人物! もし夫が死んだら、妻として短刀で刺してやる……」カミーユは一時に帰って来、私の肩にもたれて寝入った。……ダントン夫人は夫君の死に対して覚悟している様子だった。朝、大砲が撃たれた。夫人は聴き、蒼ざめ、思わず行きかけたまま、気を失った……

 「私たちはどうなってゆくの、可哀そうなカミーユ! 私はもう息をする力もない……神様! もしあなたのいらっしゃることがほんとうでしたら、どうぞあなたにふさわしい人たちをお救い下さい……私たちは自由になりたい、たとえどんな犠牲を払っても!……」

 

 

 リュシルは、こんなに素直に女らしい弱さのなかに自分を示しているけれども、死に臨んでは英雄だった。

 

 友ファーブル・デグランティヌの逮捕により息の根をとめられた出版言論の自由のために叫ぶ断乎とした、おそらく決死の一歩を踏みだすべきか、恐怖政治の本流から脇に敢えて身を避けるべきか、デムゥランとその友人たちのあいだで討議された、あのせっぱつまった刹那のリュシルを見なければならない。

 

 誰がこの瞬間に哀れな芸術家の危険を見なかったろう? ……あのつつましいしかも栄えある屋敷(旧コメディ街、ドォフィヌ街附近)に入ってみよう。二階には、フレロンが住んでいた。三階にはカミーユ・デムゥランとその愛らしいリュシルが。友人たちは脅えてやって来ては、頼んだり、警告したり、とめたり、奈落の危険を示した。つゆほども小心なところのない一人の男で、一家と昵懇なブリュヌ将軍が、ある朝二人のところへ来て、自重を奨めた。カミーユはブリュヌに昼食をとらせ、その言分の尤もなことを打ち消しはしないで、飜意させようとつとめた。「食ベテ飲モウ。」と彼は、リュシルに悟られないように、ラテン語でブリュヌに言った、「明日ハ死ヌノダカラネ。」ともかくも彼は自分の献身と決意とを切々心を打つばかりに語ったので、リュシルは駆け寄って抱擁したほどだった。「この人をほっといてちょうだい。」と彼女は言った、「ほっといてこの人の使命を果たさせてやって。フランスを救うのはこの人です。……別の考えの人たちには私のチョコレートもあげないわ。」

 

 カミーユの友人で、その妻を情熱こめて讃えていたフレロンが、トゥーロン占領(一七九三年八月以来イギリスの手にあったこの地は、十二月フランス軍により奪回された)に加わり、剣を振りかざして砲台に上った次第を書いたところだった。私はカミーユがリュシルの眼にそれだけ箔をつけて自分を見せたかったのだと悦んで信じたいくらいだが、しょせん彼は偉大な文章家にすぎなかった。しかも英雄たろうと望んだのだ。

 

 今を時めく二つの委員会(公安、保安委員会で恐怖政治の中心機関)に対してあれほど勇敢な『ヴィユ・コルドリエ』の第七号と、ロベスピエール反対の第八号(一八三六年公刊)とが、カミーユを失脚させ、ダントン事件に捲き込ませた。

 

 訴訟がまき起こした激しい昂奮と、被告に好意ある態度で裁判所を囲んだ信じられないほどの群集とは、もしリュクサンブールの囚人たちが外へ出るようにでもなったら、民衆を引きずるかもしれないと思わせた。しかし牢獄は人間を挫く。一人として武器はもたず、またほとんど一人も勇気がなかった。

 

 一人の女がこれらの人たちに勇気を与えた。デムゥランの若い妻は、そのリュクサンブール(大革命の間、この宮殿は牢獄となっていた)の周りを、心の痛手に気も狂わんばかりに、さまよった。カミーユはそこに、鉄の格子にすがりついたまま、眼で彼女を追い、嘗て人の心を刺し貫いた最も痛ましいことを書いていた。彼女もまた、この怖ろしい瞬間に、夫を激しく愛していることに気づいた。若くて輝かしい彼女は、これまで軍人たちの献げる敬意、ディヨン将軍やフレロンの献げる敬意を悦んで見ることもできたのだった。フレロンはパリにいながら、彼等のために何ひとつ敢えてしなかった。ディヨンはリュクサンブールにいて、まるでほんもののアイルランド人みたいに酒をくらっては、来る人をつかまえてトランプばかりしていた。

 

 カミーユはフランスのために、そしてリュシルのために身を滅ぼしたのだった。

 彼女もまた彼のために我が身を亡ぼした。最初の日、彼女はロベスピエールの心に訴えてみた。昔ロベスピエールが彼女と結婚するだろうと世間では思っていたこともあった。彼女はその手紙(この手紙は下書のままで終っている)のなかで、ロベスピエールが自分たち両人の結婚の立会人だったし、一番の親友でもあるし、カミーユがひたすら彼の栄光のために尽くしてきたことを想い起こさせてから、自分が若く、美しく、惜まれるに足ることを感じ、われとわがいのちを貴いものに思いなしている女らしい次の言葉を言い添えた、「あなたは私たちを二人とも殺そうとしていらっしゃる。あの人を打つのは取りも直さずこの私を殺すことです。」

 ひとことの答えもなかった。

 

 彼女は自分を讃美してくれるディヨンに宛てて書いた、「九月(一七九二年の王党派虐殺事件)の二の舞いをやるという噂ですが……せめて自分の生命を守ろうともしないのが心ある人のしわざでしょうか?」

 囚人たちは一人の女のこの訓えに顔を赤らめ、行動に移る腹を決めた。けれどもリュシルが先ず、人民のさなかに身を投じて、群衆を煽ってから、彼女に続いてようやくはじめようとしたにすぎなかったらしい。

 

 ディヨンは、向う見ずで、おしゃべりで、軽挙なので、まずはじめにラフロット某とトランプをしながら、酒のあいだにすっかり事件を話してしまった。ラフロットは耳を傾けて相手にしゃべらせた。ラフロットは共和派だったが、そこに、閉じ込められ、逃げ路もなければ希望もないまま、おそろしいほど誘惑にそそられた。その晩(四月三日)は訴え出ずに、おそらくなお迷いながら、一晩中待った。翌朝、命と引き換えに、魂を売り渡し、名誉を売り、一切を告げた。この恥しらずな武器によって実にダントンを、カミーユ・デムゥランを、そして幾日か後に、リュシルを、またリュクサンブールの囚人で、誰ひとり事件に係りのない、お互いに顔さえ知らない幾人かを殺したのだ。

 

 被告のうちただひとり大きな勇気を示したのはリュシル・デムゥランだった。彼女は雄々しくも、その誉れある名にふさわしく見えた。ディヨンや囚人たちに、もし「九月二日」の二の舞いをやるなら、「われとわが命を守るのは彼らの義務だ」と言ってやったと述べた。

 

 たとえどのような意見をもつ人にせよ、この死によって心を掻きむしられない者はなかった。女流政治家でもなければ、コルデやロランのようでもなく、ただ一人の女で、見ればうらわかい乙女で、一見幼な子のようだった。可哀そうに、彼女は何をしたのだろう? 恋人を救おうとしたのか? ……夫を、あの立派なカミーユを、人類の弁護人を。凛々しく麗しいこの女は、その美しい徳ゆえに、このうえ貴い務めを完うするために死んだ。

 

 母の、美しくやさしいデュプレシ夫人は、こんなことになろうとは疑ってみることさえできなかったろうが、この出来事に愕き、ロベスピエールに書き送ったが(この手紙は偽筆と言われている)、ロベスピエールはこれに答えることができなかったのか、敢えてしなかったのか。噂によれば、昔リュシルを愛して、結婚したいと思ったという。もし返事をよこしたなら、今でもなお愛していると世間は信じたろう。身を危くするきっかけを与えていたかもしれない。

 

 世間ではみなこの用心ぶかさを憎んだ。同情が湧いた。誰も彼も痛ましい思いを受けた。民衆ぜんたいを通じ、党派の別なく、異口同音に一つの声(あの不幸をもたらす声の一つ)が起った。

 「おお! これはあんまりだ!」

 

 人間の魂にこの責め苦を負わせながら何をしたというのか? 思想に残酷な戦を挑み、盲目で、野獣のような、おそろしい、すさまじい力をこれに対して目ざめさせた。すなわち原理を踏み越えて進み、血の仇を報いるために、血の河を流し、幾たりかの人間を救うために幾ヵ国もの国民を殺しかねない荒々しい感受性を搔き立てたのだった。(原註)

 

 

 (原註)『リュクサンブールの牢獄から、芽月十二日、午前五時、

 「睡りが幸い僕の苦しみをとだえさせてくれた。人は眠るときは自由で、囚われの身を少しも感じない。天が僕を憐れんでくれたのだ。

つい今しがた、夢でおまえを見、おまえと、オラスと、家にいるデュルスとを交るがわるかき抱いた。けれども坊やは膿が垂れてきて片眼を失ってしまい、この出来事の痛手が僕をめざめさせた。

醒めてみるとやはり牢のなかにいた。少し日が射していた。もうおまえを見ることも、おまえの返事を聞くこともできないので、だっておまえと母上が話してくれたもの、せめておまえに話しかけ書いて送ろうと起きあがった。

けれども窓をあけると、独りぼっちだという思いや、僕をおまえから隔てるおそろしい鉄格子や、閂が、気力を打ち負かしてしまった。僕は泣きくずれた、というよりも墓のなかで叫びながらすすり泣いた、リュシル! リュシル! おお私のかわいいリュシル、どこにいる? (ここに涙のあとが目につく。)

昨日の晩も同じような瞬間があって、庭におまえの母上を認めたときやはり心が張り裂けた。我しらず身を動かして格子のそばに跪き、憐れみを乞うように手を合せると、母上も、たしかに胸のうちで、顫えておられた。昨日母上の苦しみを(ここにも涙のあと)そのハンカチと、この光景に耐えられずに、下げられたヴェールとに見た。今度来てくれるときには、お母さんはもっとおまえのそばに坐って、ふたりの顔をよく見せておくれ。ぼくの考えでは、危険はない。

眼鏡があまり具合がよくないから、半年ほどまえに持っていたような、銀でなく、銅ので、頭に掛ける柄の二本ついたのを買ってほしいのだが。十五番のことを訊いてみてくれ。商人はその意味を知っているから。

だけど何よりも、ねえロロット、僕のとこしえの愛にかけて、お願いだから、おまえの肖像画を送っておくれ。他人に同情しすぎたばっかりに苦しんでいる僕におまえの絵描きさんが同情してくれて、日に二度時間を割いてくれるように。牢獄のおそろしさのなかで、その肖像を受けとる日は、僕にとってお祭りのような、陶酔と有頂天の日になるだろう。さしあたり、おまえの髪の毛を送っておくれ。僕の心臓にあてておけるように。

いとしいリュシル! 御覧、僕はふたりの初恋の頃に立ち帰ったよ。あの時分には誰かおまえの家から出てきたというだけでその人が気になったものだ。昨日、僕の手紙をおまえのところへ持って行ってくれた市民が帰って来たとき、『で、妻にお会いでしたか?』と、まるで昔あのランドルヴィル師に言ったみたいに言って、その人の服や、その人の体じゅうに、何かしらおまえの姿が、何かおまえのものが残ってでもいるかのように思わずその人を眺めたものだ。時を移さず僕の手紙をおまえに渡してくれたのだから、親切な人だ。うれしいことに、その人には、日に二度、朝と晩とに会える。この僕たちの苦しみの使いは、昔ふたりの喜びの使いがそうだったかもしれないほど、僕にはありがたいものになっている。

部屋に割れ目をひとつ見つけた。耳を当てたら、呻き声が聞えた。思いきって言葉をかけてみたら、苦しんでいる病人の声が聞えた。僕の名前を訊いたので、言ってやった。『おお神様!』とその名を聞いて病人は叫ぶと、起きてきた寝床にまた倒れた。はっきりとファーブル・デグランティヌの声だと分った。『そうだ、僕はファーブルだ。』と彼は言った。『でも君がここに! じゃあ、反革命をやったな?』けれども怨みを買ってこのかすかな慰めさえ奪われはすまいか、もしたまたま誰かに話を聞かれでもして、ふたりが別々にされもっと厳重に見張りをされはしないかとおそれて、敢えて話し合おうとはしなかった。彼は爐部屋をあてがわれているし、僕の部屋も獄舎が綺麗になるものならば、けっこう綺麗になるだろうに。

だけど、ね、どういう訳かも分らず、訊問もされず、新聞ひとつ受け取らずに密室に入れられるのがどんなことかおまえには想像もつくまい。これは生きながら同時に死んでいることだし、棺桶に入っていることを感じるためだけに生き永らえるようなものだ。

清廉潔白の身は平静で勇気が湧くという。ああ、なつかしいリュシル! いとしい妻よ! ともすると僕の無実は夫のそれや父のそれや子のそれのように弱いのだ。もし僕をこんなに手酷く扱うのがピットやコーブルク(イギリスの首相とオーストリヤの将軍で、「ピットとコーブルグ(ママ)の一味」とは反革命派の代名詞)だったら! それなのに同僚が、それなのにロベスピエールが僕の投獄令状に署名したのだ! 僕が共和国のためにあれだけのことをしてやったあとで、しかもその共和国がだ! それがあれだけ多くの立派な行為と犠牲とを捧げた僕の受ける褒美なのだ! 

ここへ入りしなに、エロォ・セシェルやシモンや、フェルゥや、ショーメットや、アントネルに会ったが、彼らはこれほど不仕合せではない。誰も独房には入れられていないのだから。

五年このかた共和国のためにあれほど多くの憎しみと危難に身を献げてきたのは僕だし、革命のさなかに身の潔白を保っても来たし、この世でおまえだけにしか、いとしいロロットよ、宥しを求める要もない僕だし、そしておまえもそれを与えてくれた僕だ。知ってのとおり僕の心は、弱点こそあれ、おまえにふさわしくなくもないのだから。

その僕を、みずからかつて友人と称し、現に共和派と称している人間どもが、獄舎のなかの、密室に、陰謀者として投じるとは! 

ソクラテスは毒を仰いだ。しかし少くとも牢獄のなかで友人と妻とに会っていた。おまえから別け隔てられている方がどんなに辛いことか! どんな極悪人でも死による以外リェシル(ママ)のような女からぎ離されたならあまりに罰がひどすぎよう。死はそのような別離の苦痛を一瞬しか感じさせないのに。

だが罪人はおまえの聟にはならなかったろうし、おまえは僕がひたすら同胞の幸福のためのみに呼吸していたからこそ僕を愛してくれたのだ。

……誰か呼んでいる。……今ちょうど、革命裁判所の係員が訊問しに来たところだ。僕が共和国に対して陰謀を企てたかどうかという訊問しか受けなかった。人をばかにするにもほどがある! こうして最も純粋な共和主義を侮辱できるものか!

 僕を待っている運命が目に見える。さようなら、僕のリュシル! いとしいロロット、かわいい子! 父上にお別れを言っておくれ。おまえは僕のなかに人間どもの野蛮さと恩知らずの手本を見ている。僕の最期はおまえの名誉を傷つけはすまい。僕の怖れが根も葉もないものでなかったことも、予感がほんとうだったことも分るだろう。

僕は操正しい天女のような女を妻にし、よい夫、よい息子だったし、よい父にもなれたろうに。

僕はあらゆる真の共和論者、あらゆる人々の尊敬と愛惜とを、美徳と自由とを持って行く。

僕は三十四歳で死ぬ。が、五年このかた、かずかずの革命の断崖絶壁を落ちもせずに越え、いまなお生き続け、なおも書類を枕に静かに頭をもたせかけていられることが不思議なはなしで、僕の書いた多すぎるほどの数にのぼる書きものはしかもみな同じ人類愛を、同胞を幸福に自由にしたいという同じ望みを呼吸し、暴君の斧すらこれを打ちはしないだろう。

権力がほとんどすべての人々を酔わせ、誰も彼もシュラクーサイのディオニュシオス主)のように《圧制こそよき碑銘》と称していることは僕もよく見ている。

だが、悲嘆にかきくれる寡婦よ、心を慰めるがいい! おまえのあわれなカミーユの碑銘は栄えあるもの、暴君を斃したブルトゥスやカトーの輩のそれだ。

おお、いとしいリュシル! 僕は詩を作るため、不幸な者を守るため、おまえを仕合せにするため、おまえの母上と僕の父と、そして僕たちの心にかなう幾人かの人たちと一緒に、一つのタヒチ島(フランス共和政の樹立を聞いて、当時タヒチ島にも共和政府が作られたらしい)を作るために生まれたのだった。

僕は世界中の人がみな讃えてくれるような一つの共和国を夢みた。人々がこれほど残忍不正だとは信じられなかった。

僕をいら立たせた同僚たちに当てつけた書きもののなかの、いくつかのじょうだんが、僕のかずかずの心づくしの思い出を搔き消そうとどうして考えられよう?

 僕が自分の揶揄とダントンに対する友情との犠牲になって死ぬことを、僕は自分の心に隠しはしない。彼ともフィリポとも一緒に死なせてくれることを僕は暗殺者どもに感謝する。

同僚たちは僕らを見棄てて、僕の知らない、しかも、たしかに、下劣きわまる誹謗に耳を貸すほどの卑怯者なのだから、僕らがみずから裏切り者を摘発する勇気と真理に味方する愛情との犠牲になって死んでゆくことを僕は知っている。僕らは実に共和主義者の最後の者として滅びるのだという証拠を身につけてゆくことができる。

すまない、恋しい友よ、ふたりが別れ別れにされてしまうやいなや失ってしまった僕のほんとうのいのちよ、僕は自分の想い出にばかり耽っているね。

むしろおまえにはね、リュシル! 忘れさせてあげるようにしなければならないのに。僕のかわいい子! 僕の雌雞さん! 後生だから、枝に止らないで、鳴いて僕を呼ばないでおくれ。おまえの鳴き声を聞くと墓の底でも胸が張り裂けるだろう。僕のオラスのために生きて、あの子に僕のことを話してきかせてくれ。聞けないことを言っておやり。どんなにか可愛がってやったろうものを! 

たとい刑は受けても、神のあることは信じている。僕の血が僕の過ちを、人間としての弱みを拭い消してくれようし、僕のもっているよいところ、僕の美徳や、自由を愛する心は、神様がそれに酬いてくださるだろう。

いつの日にかまたおまえに会えるだろう、おおリュシル! おおアネットよ! 僕みたいに心が傷つきやすいと、こんなにたくさんの犯罪を見せつけられることから解放してくれる死は、それほど大きな不幸だろうか?

 さようなら、ルル! さようなら、僕のいのち、僕の魂、この世での僕の神! いい友達を、徳も人情もあるありとあらゆる人々を、残してあげる。

さよなら、リュシル、いとしいリュシル! さよなら、オラス、アネット! さよなら、父上! 

僕のまえから生命の岸が逃げていくような気がする。まだリュシルが見える! 見えている! 

僕の括られた腕がおまえを抱き緊める! 僕の縛られた手がおまえを抱き、僕の斬り離された首がおまえのうえに憩ろう。僕は死んでゆく!」

 

 

 

 

 

《ゆり子蛇足》

 1789年7月12日に「武器を取れシトワイヤン!」とアジって、爆発寸前だった民衆に火を点けたカミーユ・デムーランが、その後、ダントン派として処刑され、それに抗議した妻も断頭台上に消えたことは、なんとなく知っていた。彼女は囚人たちに暴動を起こさせようとしたという咎により処刑された。

 学生時代に見たワイダ監督の映画『ダントン』では、群衆の中で幼児を頭上にかかげて叫ぶ彼女の姿が、数十秒だけ映し出されていたと思う。

けれども『ベルばら』育ちの身としては、別の思いもある。デムーランの奥さんといったら! とはいえ、池田氏がデムーランの人物像の一部を借りたのは事実だが、彼とベルナールとは全くの別人だし、その妻に至っては無関係もいいところだ。可憐で且つ心の強いところは、ロザリーと似ていなくもないかもしれないが、それにしたって、較べるのもあほらしい。

 

例によってミシュレは、読者が当然知っているであろう事柄には説明を附さないので、その常識を共有できない者には分かりにくい文章になっている。もちろん、わたしにも分からないことだらけだ。

ただ、この章を写していて、何度も涙してしまった。おそらくミシュレがリュシルを痛ましく思っていたからだろう。ひょっとしたら、彼自身も涙しながら書いたのかもしれない。ミシュレの描くリュシルは、あまりにもかわいらしい。

 

門外漢のわたしは、ダントン派の評価についても何も知らない。マチエなどは、こんな連中が処刑されても悲しむ民衆は一人もいなかったというような書き方をしている。けれどもわたしには、判断の材料も能力もあるわけがない。ここはただ、ミシュレはこう書いた、と記すことしかできない。

 

 

 

 

 

 

    

 

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