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ミシュレ『革命の女たち』

 

 

13 デュプレ夫人の家にいたロベスピエール

 

 十七歳のときのロベスピエールを描いた、これという取柄もない平凡な一枚の小さい肖像画が、おそらくすでにアラスの「薔薇の会」(文学や芸術を談ずる会)の会員だったことを示すためか、一輪の薔薇の花を手にした姿を現している。この薔薇を心臓のうえに握っている。下に「わが愛しき女の友のためにすべてを」という優しい銘が読まれる。

 アラスの青年は、パリに移っても、この純な気持に相変らず忠実だったろうか。それは分らない。憲法制定議会で、たぶん、ラメット兄弟や他の左派の貴族の青年たちと親しくつきあっているうちに少しばかり脇道にそれたかもしれない。おそらく、この議会の初めごろの幾月かに、これらの友達を必要だと考え、故ら仲間に引き入れられながらこの絆を緊めようと思って、時流の腐敗にあながち縁がなくもなかったろう(原註)。そうとすれば、ここでもやはり先生のルソー、『告白』のルソーに随うつもりだったのかもしれない。だが早くも立ち直り、しかも徐ろに浄化をはかるにあたって、誰ひとりこれ以上うまく自分の生活を整えたものはなかった。『エミール』と『サヴォーヤの助任司祭』と『社会契約論』とが彼を自由にし上品にしていった。彼は名実ともにロベスピエールになった。品行の点では、少しも堕落しなかった。

 

(原註)九〇年には、どうやら『エロイーズ』にのぼせていて、妾が一人あった(拙著『歴史』第二巻三二三頁参照)。八九年の言動については、私は怪しい一つの逸話を語ろうかどうかと思いまどうている。この話はロベスピエールの崇拝家である名高い、信頼するに足るある芸術家から聞いたものだが、この人自身もアレクサンドル・ド・ラメット氏から得た話である。この芸術家がある日その旧い憲法制定議会の一員を送って行くと、議員が、フルリュス通りで、ラメット兄弟の元の邸を示して言うには、ある晩ロベスピエールがそこで兄弟と一緒に食事をして、マレ区の、サントンジュ街の家に帰る仕度をしていた。財布を忘れてきたことに気がつき、帰りにある娘の家に寄らなければならないから、必要だと言いながら、六フランの銀貨を一枚借りて、「友人たちの細君を誘惑するよりもいい」と言った。――ラメットがこの言葉を拵え出したのではないと考えようとすれば、一番納得のいく説明は、管見によると、ロベスピエールが、つい最近パリに着いて一番進んだ党に迎えて貰おうと思い、憲法制定議会では、一番進んでいるのは若い貴族だったから、せめて言葉でなりと、その風習をまねるのが役に立つと信じていたということだ。真直ぐに自分の清廉潔白なマレ区に帰ったろうということは賭けてもいい。

 

 シャン・ド・マルスの虐殺(九一年七月十七日)の夕、ある指物師の家に彼が難を避けるのをわれわれはすでに見た。たまたま運よくそうなったのだが、そこにまた帰って、身を落ち着けたのは、何といっても偶然ではなかった。

 

 これよりさき、憲法制定議会のあとで、九一年十月に、アラスの勝利から帰ると、サン・フロランタン街の一室に妹と宿を取っていたが、貴族風の上品な街で、ここに住んでいた貴族たちは亡命してしまっていた。シャルロット・ド・ロベスピエールは、融通のきかないきつい性格で、若い頃からすでに老嬢じみたとげとげしさがあり、態度や趣味は田舎貴族のようで、一転してたやすく貴婦人になりかねなかった。ロベスピエールは、もっと線が細く女性的で、それでいてやはり物腰の硬いところや、素気ないが、嗜みのいい身仕舞いに、一種の議員らしい貴族の風が争えなかった。言葉遣いは、親しみ深い調子のなかにも、いつも上品で、文学についても上品な或はきびきびした作家、ラシーヌやルソーに殊のほか愛着を寄せた。

 

 立法議会の一員にはならなかった。検事の地位も拒んだが、そのわけは、彼に言わせると訴追されている人々に手ひどく反対の立場を明かにしたら、それらの人々が自分を個人的な敵とみなして忌避するおそれがあるかもしれないからだ。また死刑に対する憎しみを乗り越えるのに彼は余りにも苦痛を忍ばなければなるまいと世間の人は想像していた。アラスでは、この死刑を嫌う気持が教会関係の判事の地位を棄てるように決心させた。憲法制定議会でも、死刑に対し、戒厳令や、あまりに厭な思いを起させ、民衆の福祉にかかわる過激な処置いっさいに対し、反対の意見を述べたのだった。

 

 この年、九一年九月から九二年九月にいたるあいだ、ロベスピエールは、公職に就かず、記者とジャコバン党員の任務のほか何の使命も仕事もなく、舞台に立つことも少かった。ジロンド党が表に立って、戦争の問題について国民の輿論と完全に同調しながら華々しく活躍していた。ロベスピエールとジャコバン党は平和の説を採ったが、この説は根っから不人気なために大きな傷手を受けた。当時この偉大な民主主義者の人気が強められ盛り返される必要が根本的にあったことは疑いを容れない。彼は長いこと、倦まず撓まず、三年も話し、注意を独り占めにし、疲れさせて、そのあげく、勝利と栄冠を得たのだった。公衆というこの王は、国王のように気まぐれで、熱しやすく、十分に彼には酬いたと思って、誰か他の気に入りのものに眼をとめたのではないかと疑われるふしもあった。

 

 ロベスピエールの言葉は変るわけにはゆかず、彼は一つの文体しか持っていないのに、舞台は変り演出も変り得るのだ。一つの仕掛けが必要だった。ロベスピエールが探さないのに、仕掛けの方でいわばやってきた。彼はこれを迎え、これを掴み、ある指物師の家に泊ることを、何の疑いもなく、仕合せとも天の助けとも見なした。

 

 革命生活では演出が大いにものをいう。マラは、本能から、それを感じていた。初めの隠れ家である肉屋のルジャンドルの納屋に、とても都合よく、居つづけることもできたはずなのに、コルドルエ派の酒倉の暗がりを選んだ。この地下の隠れ場所から自分の火と燃える言葉が、まるで人の知らない火山のように、 毎朝迸り出るという考えが彼の空想を魅惑した。これはきっと民心をも捕らえるにちがいなかった。マラは、人まねがひどく好きで、八八年にベルギーのマラともいうべきイエズス会士フェレール(オーストリヤの専制的支配に反抗するベルギー革命運動の闘士)が、地下百尺、石油坑の全く底に、住居を選んで、人気を増すため、これを利用して大いに成功したことを、一部始終知っていた。

 

 ロベスピエールはフェレールやマラのまねはしなかったろうが、ルソーをまねて、しょっちう言葉でまねている本を、実行に移し、『エミール』をできるだけ近く模写する機会を喜んでつかんだ。

 九一年の末近く、彼はサン・ルロランタン街で病んでいた。疲労に悩み、自分にとって新しい経験である徒然に悩み、また妹のことで悩んでいたそのとき、デュプレ夫人がシャルロットの許に来て、兄上の御病気を知らせてくれなかったとて一悶着おこした。夫人はロベスピエールを奪い去るまで帰らなかったし、病人はかなり機嫌よくなすがままに任せた。夫人は住いが手狭なのにもかまわずに、病人を自宅の、とても清潔な屋根裏部屋に落ち着かせ、ここに家中で一番いい家具と、青と白のかなりきれいな寝台に、いい椅子を数脚添えた。周りには、演説家の大して多くもない本を立てるために、真新しい樅の棚があった。彼の講演、報告、覚書きなどが、夥しく、残りの場所を塞いでいた。ルソーとラシーヌを除き、ロベスピエールはロベスピエールしか読まなかった。壁には、デュプレ夫人の熱心な手で彼女の神とも仰ぐ人について作られた絵姿や肖像をどこにでも掛けてあって、ロベスピエールはいずこを向いても、自分で自分を見ないわけにはいかず、右にも、左にも、ロベスピエール、またロベスピエール、いつもロベスピエールというありさまだった。

 

 どんなに腕のある政治家が、こういう目的に使う家を特に建ててみたところで、偶然がしてみせたほどうまく成功はしなかったろう。マラの宿のように地下室ではなかったけれども、暗いくすんだ小庭は少くも穴倉に負けなかった。しめっている証拠に瓦が緑がかり、向うに息抜きのない小庭がついて、低い家は、その頃、銀行と貴族の雑った区域だったサン・トノレ街の巨きな家並みのあいだに圧しつぶされたようだった。下れば郊外(フォブール)の王侯の館が続き、ルイ十六世の婚礼のみぎり、千五百の圧死者を出した忌わしい想い出のまつわる華かなロワイヤル通りだった。上手は、人民の窮乏をもとに建てられたヴァンドーム広場の徴税請負人どもの邸だった。

 

 ロベスピエールを訪れる人たち、信心家や巡礼が、何を見ても目障りなものばかりの、この神を怖れぬ一角に、正義の士を眺めに来たとき、受ける印象はどんなだったろう。家が教えを垂れ、口をきくのだった。敷居をまたぐとたんに、中庭のあわれでみじめなありさまや、納屋や、鉋や植木が、「ここにいるのは清廉の士だ」という人民の言葉を言いかけた。――登ってゆくと、屋根裏が更に歎声を挙げさせた。清貧で、見るからに仕事熱心で、樅の棚に載っている偉人の書類のほかに飾りけ一つない部屋は、非の打ちどころのない志操と、疲れを知らぬ仕事と、人民に捧げつくした暮しぶりを語っていた。地下室のなかをのし歩き、言葉つきや身なりをすぐ変える、気違いじみたマラの芝居気や、変幻きわまりなさもそこにはなかった。ここでは、気まぐれなものは一つもなく、なにもかも整然とし、なにもかも正直で、まじめなものばかり。感動が湧き起り、この世で、初めて、美しい徳の住む家を見たと思った。

 

 けれどもやはり、よく見ると、この家が職人の住いではなかったことに注意なさい。下の小さい客間で初めて家具を見かけたはなから、十分そのことが悟られた。それはそのころ、ブルジョワの許ですら、珍しい楽器のクラヴサンだった。この楽器はデュプレ家の令嬢たちが、かわるがわる、隣りの修道院で、少くとも数ヵ月、受けていた教育を忍ばせた。この指物師は精確に言えば指物師ではなく、家具の請負師だった。家は小さいながらも、自分の持ち家で、わが家に住んでいたのだ。

 

 これにはみな二つの面があって、一方では人民でありながら、しかも人民でなかった。営々として仕事に精を出し、辛苦よく小ブルジョワジーの身分についさきごろ移った人民だと言ってもいい。移り行きのあとは一目見ても明かだった。父親は気性の荒い一徹な親爺で、母親は意志が強く激しく、ふたりとも元気いっぱいで、親切で、いかにも庶民らしいひとたちだった。四人の娘のうち末娘だけは親ゆずりの潑剌とした言葉づかいと動作をもっていたが、他の娘たちはもうそこから隔ってしまっていて、殊に長女はそうで、志士たちは敬意を込めて慇懃にコルネリヤ嬢(ローマの典型的な女丈夫)と呼んでいた。この女は押しもおされもせぬ令嬢で、ロベスピエールがときおり内で朗読をしてきかせるときなど、彼女もまたラシーヌをよく味った。家事にもクラヴサンを奏くにも、何につけ凛とした風情を具え、納屋で母親を助けて、洗濯をしたり家の食事の仕度をしたりするときでも、やはりコルネリヤだった。

 

 ロベスピエールはそこで一年、演壇から遠ざかり、一日中論説やその晩ジャコバン党員に聞かせる演説の準備をしながら過した。――その一年こそ、実は、彼がこの世で暮したただ一年にほかならなかったのだ。

 

 デュプレ夫人はそこに彼を引き留めておくことを快く思い、不安な眼差しで見張りをめぐらした。八月十日の委員会が夫人の許に安全な場所を求めたとき、「あちらへいらっしゃい。ロベスピエールの身を危くします」と言った激しい語調からもそのことが判じられる。

 まるで家の息子であり、神様だった。みんなが彼のために身を献げた。男の子は秘書をつとめ、あんなに書いてはまた消したところの多い彼の演説を写してはまた写し直した。父のデュプレと甥は飽くことも知らずに耳を傾け、その言葉をひとことも漏らさずに貪り聞いた。デュプレ嬢たちは彼を兄のように見ており、潑剌として愛くるしい末娘は、蒼白い演説家の額の皺を伸ばさせる機会を一つも逃さなかった。これほど手厚いもてなしを受ければ、どんな家でもいやではなくなったろう。小さな中庭は、家族や職人で賑わい、活気の欠けることがなかった。ロベスピエールが、自分の屋根裏部屋から、書きものをしている樅の机から、文章の切れ目に眼をあげると、家から納屋へ、納屋から家へ、コルネリヤ嬢やその可愛らしい妹たちの誰かが行き来する姿が見えた。人民の生活のこんなに美しい光景を見て彼は自分の民主思想をどれほど強められたことだろう! 人民から、野卑を去り、窮乏と、窮乏の道連れである悪徳とを引き去ったもの! 家庭の些事までもこれに携わる人たちの一際すぐれた心ばえにより高められている、庶民風であると同時に上品な暮しぶり! 家事が、その一番卑しい面ですら、帯びる美しさ、愛する人の手によって仕度された食事のおいしさ! ……これらすべてを感じない者があったろうか? 不仕合わせなロベスピエールが、さまざまな境遇にに強いられて生れてこのかた送ってきた味気ない、暗い、あざとい暮しのうちにも、この自然の魅惑の一瞬を感じ、この和やかな光を楽しんだことをわれわれは疑わない。

 

もちろんこのような家庭では填め合せが難しかったにちがいない。一人のジャコバン党員がある日ロベスピエールに向って「デュプレ一家を喰いものにし、その人たちに、まるでオルゴンがタルテュフ(モリエールの『タルテュフ』の主要人物、オルゴンはタルテュフを偽善者とも知らず、家へ出入させる)を養うように、自分を養わせている」という非難を加えたが、これはその時代の同胞愛と友情のめでたさを感じる資格のない男の下品で不作法な非難だ。

 

 確かなことは、ロベスピエールが宿料を払うという條件でなければデュプレ夫人の家に入らなかったことだ。彼の細い神経がそうすることを望んだ。誰も反対しないで、言うとおりにさせた。おそらくまた、彼を満足させるために、初めの幾月かは受け取らなければならなかった。けれども短い運命に怖しいほど引きずり廻され、毎日に圧しひしがれるうちに、そのことを見失って、しかもきっと他の仕方で友人たちに填め合せをつけることができると思った。じっさい彼は代議員の手当しか貰わず、それを受け取るのを忘れることさえよくあった。宿料を妹に支払い、下着や衣類にかかるなにがしかの費用と、途で煙突掃除の少年にやる幾スゥかをこれに加えると、手許にはきっかり一文も残らなかった。テルミドール九日(一七九四年七月二十七日で、ロベスピエール派の没落の日)に一万フラン身につけていたのが見つかったというのは敵方の作り話だ。そのとき四千フランの宿料をデュプレ夫人に借金していたのだった。

 

 

 

 

    

 

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