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宋教仁(1882〜1913)

原文、訳

ゆり子

 

 

 

 

 

訳詩二首  宋教仁

 

霜林残柿剰両三

薄暮飢鴉争剥啄

二ツ三ツ残リシ柿ヘ鴉来テ

アラソヒ落ス秋ノ暮哉

 

 

夜静疏鐘沈遠寺

秋高孤雁渡寒雲

秋ノ夜ハ更ケ行ク鐘ノ声スミテ

空ヲ渡ル雁ノ一ムレ

 

 

宋教仁が亡命留学中の日本で書いた日記「我之歴史」1906年の項より。

 

十月三十日晴 午前、『ドイツの官制』を二ページ訳す。入院している日本人が余の部屋に来て、某新聞にある和歌数首を余に見せて、漢詩に訳してほしいと言った。見てみると、その中には情景を見事に表したものもある。その一つを戯れに二句に訳した。(柿の歌)また別の一句を訳して七言律詩二句にした。(鐘の歌)たいへんおもしろかった。(後略)

 

当時、彼は神経衰弱で脳病院に入院中だった。元の歌の作者は不詳。日記にはこのとおり、漢字カナまじりで元歌を記している。

 

 亡命中、宋教仁は何度となく脳病院で受診し、幾度か入院もしている。彼が苦しんでいたのは主に友人関係による。同郷の幼なじみで遠縁でもある留学生で、亡命してきた宋を横浜まで迎えに来てくれた人物がいるのだが、この人が次第に精神のバランスを崩し、今でいうストーカーのようになってしまうのだ。

 一緒に住みたい、一緒に寝なきゃいやだ、ほかの人と仲良くしちゃいやだ、さっきの物言いは何だ、さっき俺のことをいやな目つきで見ただろう…………といった風情で、日に何度も宋教仁を訪ねて来ては執拗に悩ます。そこに宋の恋愛問題も絡むのだが、これにしても、女性をめぐる男二人の三角関係ではなく、教仁をめぐってのものにしか見えない。

 この友人は、宋を遊郭に誘って断られたことがあるが、遊郭に出入りすれば同性愛ではないというわけではない。肉体的には異性愛で精神的には同性愛というのは、それこそプラトンの昔から現代に至るまで、ごく普通に見られることだ。ほとんどの場合が無自覚だが。

 それにしても彼の行動は常軌を逸していて、病院に入れても抜け出して来ては宋を苦しめる。宋も疲労困憊して脳病院の門をたたくようになったという次第で、この関係は結局、この友人の帰国まで続いた。

 

 このような経験の中で、宋教仁は人間の心の働きに興味を持ち、心理学の本を読んだり、陽明学を研究するようになる。

 例の友人との関係でも、相手を批判しながらも、同時に彼に対する自分の心を分析して反省するなど、見ていて気の毒になるくらい生真面目だ。

勤勉な彼は、入院中も毎日のように外出して人と会い、読書量も半端ではなく、翻訳の仕事もするなど、何のために入院しているのか分からないところがある。こういう人だから、病気にもなるのだろう。

 

それでも、ときにはここで掲げたような楽しい遊びをすることもあった。また、『杜工部詩集』や高青邱の詩集を入手して喜び、自分でもいくつか詩を詠んでいる。杜甫はかなり好きだったようで、子どもの頃から真似て詩作していたという。

 

 

 

『宋教仁集』(中華書局、1981年)より。

松本英紀訳『宋教仁の日記』(同朋舎出版、1982年)を参照。

 

2003年7月12日

 

 

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