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黄興と孫文

 

おまけ:捲土重来

 

題烏江亭  杜牧

 

勝敗兵家事不期

包羞忍恥是男児

江東子弟多才俊

捲土重来未可知

 

 

「烏江亭に題す」

勝敗は兵家も事期せず

羞を包み恥を忍ぶは、これ男児

江東の子弟、才俊多し

土を捲き重ねて来たらば、未だ知るべからず

 

戦の勝敗は兵法の専門家でも予測しきれるものではない

身に帯びた恥を耐え忍んでこそ男児というもの

江東の子弟には優れた人材が多いのだから

ふたたび兵を起こし土を巻く勢いで来たなら、

勝敗はどうなったかわからないのに

 

 

 「捲土重来」の語の元になったとされる詩である。

 杜牧(とぼく 803〜852)は李商隠とともに晩唐を代表する詩人で、盛唐の「詩聖」杜甫に対し「小杜」ともいわれる。

 この詩は、項羽の最期の地となった烏江(うこう)の古蹟で読まれたものだ。

 

 秦末、劉邦(漢の高祖)と覇を争った項羽は、敗走して烏江まで来た。

 ここで項王は東して烏江から揚子江を渡ろうとした。烏江の亭長が船を用意して待ち、項王に、「江東は小さな土地ですが、なお方千里、衆数十万、王たるに十分な土地です。願わくは大王には急いでお渡りくだされい。いま船をもっているのはわたくしだけで、漢軍が来ても渡ることができないのです」と言った。

 項王は笑って、「天がわしを滅ぼそうとするのに、わしはなんで独り渡ることができよう。そのうえわしははじめ江東の子弟八千人と江を渡って西したのに、今一人の還る者もないのだ。たとい江東の父兄が憐れんでわしを王にしようとも、わしはなんの面目があって彼らに会われよう。またたとい彼らが何も言わなくとも、わしはひとり自分の心に恥じないでおれようか」と言い(後略)

 『史記』「項羽本紀」(訳:小竹文夫・小竹武夫/ちくま文庫)

 項羽はこの後もう一暴れしてから自刎する。

 

 わたしは杜牧のこの詩を読んで、たいへんな違和感を覚えた。とくに、「包羞忍恥是男児」の句には、「わかってないなあ」と言わざるを得ない。

 項羽は父兄から子弟を預かって兵を挙げた。その子弟を失ってしまった以上、父兄に合わせる顔がない。それは恥という次元の話ではない。

 おそらく、氏族社会的な父兄との盟約という感覚が、項羽にはまだまだ残っていたのだろう。実際には徴兵徴発に近いものであっても、感覚としては、子弟はあくまで父兄から預かり父兄に託されたものだった。だからそれを父兄に返すことができなければ、父兄の信頼を裏切ったことになる。

 これはまだ調べている途中なのだが、春秋期には国人と父兄との関係は強いものだったと思われる。一族の長老である父兄は、国家で重きをなしている貴族である当主に対し、意見できる(べき)存在だったことが、『左伝』からうかがえる。(襄公27年、定公13年など)そして、当主たる国人は君主の地位をも左右できる存在で、君主の地位は国人と盟を結ぶことによって成り立つものだった。こういう春秋期の感覚の名残が、古い楚の国の将軍家の出である項羽には、まだ残っていたのだろう。

 

 中国における中央集権の専制国家は秦漢帝国に始まる。以来、杜牧まで千年。そのころには、父兄、子弟という感覚が失われてしまっていたのだろうか。そして、君主が徴兵して、それを死なせるというのも、上から降ってくる当たり前のことで、恨みはしても裏切りだとは考えないのだろう。杜甫の「兵車行」や「石壕吏」その他の詩を見ても解るが、唐帝国の皇帝権力は、抗いがたいものだった。そこには父兄から託された子弟などという感覚は一片もない。そういう時代の杜牧には、項羽の苦悩は理解不能のものだったのだろう。

 

 あまり関係ないが、ここでわたしは項羽と同じ楚人である黄興のことを思い出す。

 1911年4月、黄興らは広州で大規模な武装蜂起に打って出る。これは革命派の総力を挙げてのもので、黄興自身も手指を失う重傷を負う激戦だったが、あえなく敗北に終わり、七十二人の同志が命を落とした(黄華崗七十二烈士)。彼らが後に広州の黄華崗に祀られたことから、この起義は黄華崗起義(こうかこうきぎ)と呼ばれている。

 この敗北による黄興の落胆ぶりは並大抵ではなかった。さらにこの直後、ともに起義の指揮を執った趙声が病死。そのうえ追い打ちをかけるように、八月には英国に留学中だった楊篤生の訃が届く。黄興は死にたいともらし、真偽のほどはわからぬが、発作的に船から海に飛び込もうとして、抱きとめられたという話もある。

 そして黄興は、個人テロ(暗殺)をやりたいと言い出す。圧倒的な人望のある黄興にここで死なれてはいけないと、同志たちは寄ってたかって説得にあたり、結局黄興はテロルを断念する。

 もともと黄興は個人テロには反対で、そのために楊篤生と袂を分かったこともあった。その彼が、なぜそんなことを言い出したのか。それについて、孫文がロンドンにいた呉稚暉に宛てた手紙が残っている。呉稚暉は古い革命家で、楊篤生に遺書を託された人物である。

 孫文は、広州での起義の失敗後に黄興がぶちぶちと「不平」を言い出したと述べ、個人テロを諦めた黄興が、兵を立て直すために資金を必要としていると言う。だから楊篤生が黄興に遺した金を送れというのが手紙の主旨だ。この手紙で孫文は黄興の電報を引用している。これを読むと、個人テロを主張した黄興の気持ちが、痛いほどよく解る。

 

 黄興は、自分が死なせてしまった七十二人の友人たちに、自らの死を以て酬いたいと考えていたのだ。

 

 孫文は黄興の苦悩を「不平」と言う。孫には黄の苦悩が理解できなかったのだろう。孫は第一回の蜂起で親友を亡くして以来、何度失敗しても挫けることなく蜂起をくり返してきた。これは、目的を達するためにはどんな犠牲も厭わない「鋼鉄の意志」なのだろう。

 では彼にとって、犠牲となった人たちは何なのだろう。もとより覚悟の死ではある。しかし、だからといって生き延びた者が何の痛痒も感じないようであったとしたら、それは人間性を疑われてもしかたないだろう。

 もちろん、革命成った暁には、烈士たちは中華民国臨時大総統孫文の名で顕彰され、手厚く祀られている。それでよいと孫文は言うのだろう。それまでに何人死のうと、さほど気にかけた様子はないように思われる。

 

 けれども黄興はそうではなかった。革命の勝利を信じ、黄興を信じて命を賭け、死んでいった仲間たちの死を、彼は重く深く受けとめざるをえなかった。

 個人の資質もあろうが、これは、早くから海外に向かって開けた広州に生まれ、ハワイに出稼ぎに行き成功した兄に従いハワイで教育を受け、経書も英訳で読んだと噂される孫文と、湖南の田舎の小地主の息子である黄興との違いではないかと、わたしには思われる。

 黄興は「士大夫意識」や氏族社会的な感覚をひきずった古い人間で、孫文はそういうものから解放された新しい人間だということなのだろうか。

 

 子弟たちを死なせてしまっては父兄に合わせる顔がないと言って死を選んだ項羽と、自分が死なせた友人たちの死に己の死を以て酬いたいと願った黄興と。二千年を隔てたこの二人の楚人に、共通する心情を見たと言ったら、牽強にすぎるだろうか。

 わたしには、清末郷紳層の心情の深層に、古代の国人の遺伝子が見られるという気がしてならない。

  

 

 〈主な文献〉

 松枝茂夫『中国名詩選』(下)岩波文庫、1986年。

 市野澤寅雄『杜牧』漢詩大系14、集英社、1965年。

 「復呉稚暉函/一九一一年八月三十一日」

『孫中山全集』第一巻、中華書局、1981年。 

 

2004年2月23日

 

《附記》

 『春秋左氏伝』僖公二十八年(前632年)の伝文にこうある。

  城濮の戦いで楚が晋に大敗した後、楚王は令尹(宰相)子玉に使者を送り、責任を問うた。「申・息の子弟があなたに従って戦さに出て、多数が戦死した。そのあなたがもし帰還したら、申・息の父兄に合わせる顔があるのか」

これを受けて子玉は自殺する。

 

『史記』がこれを下敷きにしているのか、楚人というのがこういうものなのかは分からない。

 

2008年4月16日

 

 

 

おまけ:「捲土重来」の語について

 わたしはこれを、「土埃を巻き上げて、どどどーっと来ること」だと思っていた。けれども念のため辞書を引いたら、全然ちがっていた。

 「捲土」は、文字どおり土を捲くこと、敷物を捲くように地面を捲く、つまり底引き網や絨毯爆撃のように、どどどーっと、くまなく根こそぎ持っていくことをいうらしい。

 そこで、敷物を捲くいうところに遊牧民の臭いをかぎ、「巻」という字を調べてみた。すると案の定、獣皮を巻くという意味らしい。古代のことは知らないが、今の北アジアや中央アジア、西アジアの遊牧民は、地面に獣毛製のフェルトや絨毯を敷くとそこが床になり、移動するときは巻いて出かける、そんな感じがある。元は遊牧民だったらしい周の人たちも、殷の文明と出会う前は、地面に直に獣皮を敷いて坐っていたのかもしれない。

 また、「巻」というと「席巻」ということばもある。「席」というのは蓆(むしろ)のこと。長四角のござのような座布団で、四人で坐るのが普通らしい。「男女七歳にして席を同じうせず」の席はこれのことだ。席はもちろん獣皮ではなく、芦か何かを編んだものだ。

 牧畜民の「捲土」にせよ、農耕民の「席巻」にせよ、いずれも具体的な情景の浮かぶことばであり、根こそぎ持って行くという点では変わりない。この辺り、周と殷との出会いという太古の昔が想像されて楽しい。

 

 なお、「席を巻く」というと『詩経』風の「柏舟」の一節が思い出される。「我が心 石にあらざれば まろばすべからざるなり/我が心 席にあらざれば 巻くべからざるなり」というもので、高橋和巳の小説の題名がここからとられている。

 

 〈主な文献〉

 白川静『字統』平凡社、1984年。

 

 

2004年2月23日

 

《附記》

 最新の考古学によれば、「殷=農耕民、周=牧畜民」ではなく、その逆で、「殷=牧畜民、周=農耕民」らしい。

 

2008年4月16日

 

 

 

 

 

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