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多摩丘陵から 〜日記のようなもの      

 

2012年12月  6日 7日 8日 10日 12日 

 

●12月4日(火)

 つまるところ、宮本浩次はあの美しい『町を見下ろす丘』を創って死んだんだ。その後、遺骸からはがれた鱗のかけらが数枚、風に舞って届くことはあったが、それも結局は幻だった。

打てば響くようなとか、受験秀才・学校秀才的な意味では頭悪かったが、びっくりするような聡さ、賢さ、認識力というか悟性というようなものを、彼は有していた。でなければ、あんなにすばらしい楽曲群(詞も曲も)を生み出せたわけがない。

でも、その彼はもう死んだんだ。

彼がくれたたくさんの曲は、わたしの身内に深く浸み込んでいて、これはもう、ぬけるものではない。折にふれ、ほんの小さな言葉や気持ちの揺れから、ついつい口をついて出るのは、彼にもらった歌なのだ。それはもう、どうしようもない。これからもわたしは、彼の歌とともに生きていくことになる。

でも、もう終わった。ミヤジは死んだんだ。こんな終わり方をするとは思わなかったよ。

 

本当の話、だまされて知らぬ間に変なクスリでもやらされているんじゃないか?

発言が腹話術の人形みたいで気味が悪い。他者の意識や言葉を自分の意識や言葉だと思って喋っている。奇矯なロッカーだとか、俺さまモードだとかというレベルではない、薄気味の悪い小児性。

ともかく彼は、これまでの自分の歩みも作品群も、長年月を支えてきたファンたちも、全部否定し捨て去って、取り巻きのスタッフと給料をくれる会社様とのためだけに歌っていくつもりだそうだ。それならそれでよい。好きにするさ。

 

 ベスト盤は買う。野音は外聴きだったから。でも、ユニオンで買うのは恥ずかしいから、発売日まで待って石丸で買う。ユニオンみたいなとんがったところで、今のエレカシを買うのは恥ずかしい。

 そんなバンドになってしまった。

 

 

 

 

●12月6日(木)

 明日、明後日は所用で行けそうにないので、今日、旧・西小川町の東新訳社跡へ行ってきた。

 考えようによっては、今日も大事な日なのだ。なぜなら、今日が星台先生の最後の「普通の日」だから。

 彼は今日までは、苦悩を抱えながらでも「普通に」過ごしていたわけで、そういう意味で、この12月6日という日も、かけがえのない日ではある。

そんな今日を、彼がどういうふうに過ごしたのか、想像のしようもない。分かっているのは一つだけ。晩餐に宮崎寅蔵を東新訳社に招き、秘蔵のサザエの殻の杯でもてなしたということ。言語不通と星台先生の寡黙とのため、「乾杯」「乾杯」以外には一語も交えなかったと、滔天が書いている。ほかの人なら、筆談でも片言の日本語ででも、話すだろうに。それでも星台先生の「謙遜優美の徳」に触れ、「慕わしく恋し」い温かな気持ちで滔天はその夜を過ごした。

そして、明日は例の朝日新聞の記事が出、明後日は大森海岸へ。

 

 

日頃、「先生、先生」と楊篤生を慕っているわたしだが、やっぱり星台先生も大好きだ。

今日は天気がよく暖かだったので、西神田公園は人が多かった。居心地が悪かったが、隅っこに陣取って、一人きりで慰霊祭を行ってきた。この高尚優美(滔天)な稀有の魂のために。

 

 

 

 

●12月7日(金)

 

○清国人同盟休校   

東京市内各学校に在学する清国留学生八千六百余名の同盟休校は大学教授連盟辞職に次ぐ教育界刻下の大問題なり右は去月二日発布の文部省令清国留学生に対する規程に不満の念を懐きたるものにして該省令は広狭何れにも解釈し得るより清国学生は該省令を余り狭義に解釈したる結果の不満と清国人の特有性なる放縦卑劣の意志より出で団結も亦頗る薄弱のものなる由なるが清国公使は事態甚容易ならずとし兎に角留学生一同の請ひを容れて之を我文部省に交渉するに至りしが有力なる某子爵は両者の中間に於て大に斡旋中にして右の結果両三日中には本問題も無事落着すべしといふ

『東京朝日新聞』明治38年12月7日(文中強調は、ゆり子)

 

 

 

 

●12月8日(土)

 陳星台先生、没後107年。

 

 今日の東京は陽射しが暖かかったが、1905年の12月8日は曇天だった。さぞ寒かっただろう。そんな日に遠浅の海に入った星台先生。覚悟のほどが知れる。

 

 

 

 

●12月10日(月)

『東京朝日新聞』明治三十八年(1905年)十二月十日の記事2つ。

 

○清国人の溺死体

昨日午前一時頃荏原郡大森字浜端の海岸へ三十前後の洋服男の死体漂着せしを検視せし処ポツケツトより神田区西小川町一丁目一番地東新館方東文華、神田区駿河台清国留学生会館楊度様と記せし書留郵便の封筒あり右楊度といふは清国留学生会館の幹事なれば溺死者は東文華ならんとて目下同館へ照会中なりと

 

○清国留学生取締規則に反対の理由 

   十二月七日午後草稿 程家檉

今日の新聞紙上清国人同盟休校なる記事あり曰く「前略右は去月二日発布の文部省令清国留学生に対する規程に不満の念を抱きたるものにして該省令は広狭何れにも解釈し得るなり清国学生は該省令を余り狭義に解釈したる結果は不満と清国人の特有性なる放縦卑劣の意志より出たる団結も亦薄弱のものなる由なるが(中略)両三日中には本問題も無事落着すべし」云々と余は本記事によりて日本人の吾人に対する甚しき誤謬を知ると同時に文部省当局が斯る意向を以て本件に臨まば本件は愈々紛糾を重ね遂に潰裂収拾すべからざるに至り近来偶々萌芽を発したる東亜発展の機運も為めに一頓挫を来たし日清両国の為めに悲むべき結果を生ぜん事を恐るゝなり(後略)

 

 

 

 

●12月12日(水)

 陰暦十月二十九日。

 明日は十一月一日。

 ということで、本日を以て楊篤生のお誕生月間終了。

 

 

 

 

●12月31日(月)

 劉道一君没後106年。

 

 おもしろい人物だったのではないかしら。長沙起義のときの馬福益との交渉の場面など、なかなか肝の据わった僕だと思う。22歳での刑死は残念だ。

 揆一の嘆きっぷりを太炎が難じているけれど、兄の身代わりで死んだようなところがあるから、揆一が嘆くのも無理はないだろう。

 

 名のある辛亥志士で、中華人民共和国成立後まで生き延びた人は少ないが、劉揆一(字は霖生)はその一人だ。同郷の毛沢東に「霖老」と呼ばれ敬われていたとか。

 

 

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 お正月といったって、いつものとおり二人だけだから、何をするということもない。舅姑に電話くらいするけれど。

 減塩生活では食べられる物も限られる。魚卵も練り物もとんでもない。もともとおせち料理は保存食だから、塩分の固まりのようなもの。

 例年どおり、お煮しめと夫の好きな豚の佃煮とは作るけれど、あとは酢蓮とおなますくらい。

 せめて上等なアイスクリームでも食べましょか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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