辛亥人士列伝

 

楊昌済教育救国

劉道一22歳で刑死

姚洪業投江自尽

寧調元囚徒詩人

禹之謨実業救国

 

 

 

 

 

楊昌済よう・しょうさい(1871・6・8〜1920・1・17)

 

楊毓麟の密友

 

湖南省長沙県板倉の人。

楊毓麟とは同族で年齢も一歳しか違わず、若い頃から親しく交わった。それは終生変わることなく続き、踏海した毓麟の後始末をした昌済は、その後も折に触れて毓麟の思い出を語っている。

わたしには二人は光と影のように思える。ただ、どちらが光でどちらが影であるかは簡単にはいえない。表に表れた行動だけ見れば、変法運動・革命運動の真っ只中に飛び込んでいった毓麟は、教育救国を志して生涯を教育に捧げた昌済よりは華やかなように見える。しかし性格的にはむしろ毓麟が陰性で、昌済のほうが落ち着いた明るさをもっているようだ。そして歴史的な役割ということでは、辛亥革命に直結する毓麟と、毛沢東を生んでしまった昌済とを、比べることは無意味だろう。

おそらく近藤邦康氏のいわれるとおり、「一つの根から出て別々の方向にのびていった二本の大木」と考えるのが妥当だと思われる。

 

歳は近いが世代は昌済のほうが二つ上で、毓麟は昌済を叔祖(大叔父)と呼んだ。生家は毓麟のほうが豊かだったのだろう。毓麟は十五歳で秀才になってから、長沙の岳麓・城南・校経の三書院で継続して学んでいるが、昌済は経済が許さず、家で塾教師をしている時期が長い。長沙の城南書院に毓麟を訪ね、ともに過ごした日のことを、昌済は詩に詠んでいる。心ゆくまで論じ合い、書を投げ出して雑談し、山に登ったり、碁を打ったりという青年らしい交わりだった。

1893年、ともに郷試に応じ、そろって落第。昌済は帰郷して塾教師の生活に戻り、以後は受験していない。一方長沙にとどまった毓麟は、校経書院在学中に変法派の学政(教育長官)に見出され、97年に抜貢、ついで郷試に受かって挙人となる。そして譚嗣同や唐才常とともに変法運動を推進していく。『湘学報』の編集に携わり、湖南不纏足会では理事を務めた。

昌済もそのころ長沙に出て岳麓書院に学んでいた。岳麓書院の山長(院長)は反変法の態度をとっていたが、昌済は変法に大いに関心を寄せた。不纏足会にもすぐに入会し、南学会の会員となり、講習会で譚嗣同に質問して譚に激賞されている。

要するに、毓麟は主催者側、昌済は一般参加者側だったわけだ。

 

その後曲折を経て、毓麟は日本へ留学。翌年、昌済も日本へ渡るが、これは毓麟の強い勧めによる。毓麟は日本でも政治運動に邁進するが、昌済は地道に学業に励み、留学生向けの予備校である弘文学院を畢え、嘉納治五郎に推されて高等師範に進んでいる。

 

そして09年、英国へ留学。先に渡英していた毓麟と章士サの推薦によるものだ。スコットランドのアバディーン大学で哲学、倫理学、教育学を修める。

10年には夏休みに毓麟と二人でスコットランド各地を旅行。二人とも山ほど詩を詠んだらしい。

11年8月に毓麟が踏海。10月には武昌起義が勃発して、章は急ぎ帰国。けれども昌済は残って学業を続け、文学士の学位をとっている。その後ドイツにまわって視察してから13年春に帰国。

 

13年、第二革命の際、反袁世凱運動をしていた楊コ鄰(毓麟の兄)が袁の配下に捕らえられたため、その救出に奔走。その甲斐もなく10月13日にコ鄰は銃殺される。その日、豪雨の中を帰宅した昌済はいきなり息子の開智を怒鳴りつけ、人格者の激昂に皆が驚いたという。また、昌済もコ鄰と一緒に殺されたというデマが流れた(無事だから安心しろという手紙を、黄興が章士サに書いている)。それだけ熱心に運動していたということだろう。単に同族の友人というだけでなく、二年前にみすみす毓麟を死なせてしまったという苦い思いが、彼にはあったのではないだろうか。

 

そのほかのこと・・・湖南第一師範で優秀な学生の毛沢東君と出会い、最高の師と慕われ尊敬されたり・その毛君のデビュー作「体育の研究」は章士サの雑誌に掲載されたもので、もちろん楊昌済の紹介によるものだったり・北京に移った楊家に毛君が居候して娘の楊開慧と恋仲になり、恩師の死後に結婚したり・捕らえられた楊開慧が毛沢東との離縁を拒んで殺されたとき、毛は「妻子はいるが生死不明」と言って既に再婚していたとか・実質上三回結婚した毛沢東は、晩年には身の回りの世話をする秘書に楊開慧と同じ髪型をさせて、最初の妻を偲んでいたとか・・・そんなことは、わたしにとってはどうでもいいことだ。

 

楊昌済は母方が宋明理学を旨とする学者の家系で、昌済本人も理学を好んだ。その日記は残念ながら未見だが、厳しい自己省察の記録らしい。周囲の反対にもかかわらずアヘン中毒の兄に仕え、自分たち夫婦は歩いても兄夫婦は轎(かご。日本の駕籠と違い、お神輿のような形)に乗せたという。その徳を周囲にほめられても、ほめられるのを喜ぶ気持ちが自分の中にありはしないかと反省してしまう具合で、そんなことだから五十にもならずに胃病で死ぬのだと、わたしのような凡人は思ってしまう。

教育者としての孔子を尊敬し、二言目には「孔子」と言うので、学生たちに「孔夫子」とあだ名されたという。けれども単なる旧弊な儒教主義者ではなく、英国帰りでカント哲学も修めたその学識と見識と、上述したような人格とによって、毛をはじめとする学生たちの深い尊敬を勝ち得ていたようだ。

 

楊昌済というと、「毛沢東の最大の恩師にして岳父」という捕らえられかたをするのが普通だが、わたしにとっては楊毓麟の叔祖、最大最良の終生の友だ。武力闘争に飛び込んでいった楊毓麟に対し、教育救国=人材の育成と民智の底上げによる救国を目指した楊昌済は、一見地味に見える。けれどもまさにその教育によって毛沢東を生んでしまっている。

そして実は、楊毓麟はロシア・ナロードニキの影響を受けていて、下層の教育を重視している。また、「民智を開く」というのは変法運動において強く説かれたところでもある。二人の道は実は一つなのではないかと、わたしには思えてならない。

さらに言えば、革命宣伝家・陳天華、政治家・宋教仁、民族資本家・禹之謨、そして教育家・楊昌済は、それぞれ楊毓麟の『新湖南』の思想を体現したものではないかと、わたしは考えている。

 

 

王興国『楊昌済的生平及思想』(湖南人民出版社、1981年)

近藤邦康「楊昌済と毛沢東〜初期毛沢東の『土哲学』」(『社会科学研究』33−4、1981年)他

 

(2004年12月18日)

 

 

 

劉道一りゅう・どういつ(1884・7・22〜1906・12・31)

 

萍瀏醴起義で刑死

 

湖南省湘潭の人。劉揆一の弟。

04年の長沙起義に際して、彼は黄興の命で紅幇系の会党(秘密結社)の頭目・馬福益との交渉に当たっている。

馬は四十歳近く身体魁偉。反清復明を旨とする会党の頭目とはいえ、革命のかの字も知らぬため、訪ねてきた道一らに対して非常に軽んじる風だった。坊ちゃんたちの謀叛ごっこに関わっている暇はないということだろうか。

しかし道一は全くひるまず、堰を切ったように説きだした。同行した万武は、馬が怒り出せば生命はないものと、生きた心地がなかったという。けれども道一が滔々と弁舌をふるい、革命の意義を説いた結果、この「龍頭大爺」馬福益は恭しく態度を改め、協力を約束した。かくて、馬は黄興・劉揆一らと鶏の血をすすって盟を結び、ともに事を起こすことになる。

 

馬福益関係では、別にこんな話もある。

劉兄弟の父は刑事関係の役人をしていたが、この父が馬福益逮捕の命令を受けて帰宅したときのこと。たまたま道一が家に帰っていて、父がその辺にぽんと置いた荷物を盗み見、馬が翌朝に逮捕されることを知る。驚いた道一は馬のもとへ急ぎ走り、事なきを得たという。

これは父が間抜けなのではなく、息子たちの活動に勘付いていて、わざと見られるところに置いたと考えるほうが妥当だろう。

 

その後、長沙起義の失敗により日本へ亡命。秋瑾らと演説練習会を設立するなどの活動をする。

 

06年、父の病気を理由に帰国。劉揆一が帰るのは危険ということで、弟の道一が代わって帰った。そして湖南で工作中に萍瀏醴起義が勃発。道一は混乱の中で捕らえられる。はじめ揆一と間違えられ、官側は大いに喜び、道一も「劉揆一として死ぬ!」と覚悟を固めていた。しかし間もなく弟であると判明。それでも委細かまわず罪状をでっちあげて、12月31日に斬首。享年二十三。

 

この件に関して、東京にいた宋教仁が日記に記している。それによれば、東京にもたらされる情報はかなり錯綜していて、捕らえられた、処刑された、いや無事だ、などと二転三転する。結局処刑されたことがわかって、宋は揆一を訪ねると、既に揆一は家からの手紙を手にしていて満面の涙、言うに言われぬ痛ましさだったと。

揆一の嘆き方は一様ではなかったようだ。追悼会での嘆きぶりは章太炎に呆れられている。けれども、単に兄弟として同志としてだけでなく、兄の身替りという要素もあったわけだから、無理もないだろう。

 

道一の妻は自殺を図って助けられたが2年後に縊死したため、烈婦とみなされている。

また、父親は道一刑死の一カ月半後に病没。残った家族は揆一によって東京に呼び寄せられた。

 

写真で見る劉道一は、和服に丸眼鏡で、いかにも明治時代の書生さんという風情である。夫妻の墓所は長沙の岳麓山にあるが、故郷の湘潭にも劉烈士祠が建てられている。

 

 

『辛亥革命回憶録』第二集(文史資料出版社、1962年)

餞懐民『劉揆一與辛亥革命』(岳麓書社、1992年)他

(2004年12月17日)

 

 

 

 

姚洪業よう・こうぎょう(1881?〜1906・5・6)

 

投江自尽

 

湖南省益陽の人。原名は宏業だが、洪秀全を慕って洪業と改めた。宋教仁の日記には字の剣生で記されている。

長沙の明徳学堂で学んだというから、黄興の学生だったのだろう。華興会に参加し、陳天華とともに江西省方面のオルグを担当する。

長沙起義の失敗後、日本に亡命留学し弘文学院に学ぶ。05年に同盟会が結成されると黄興の紹介で入会。同年末の留学生取締規則事件に憤慨して帰国する。

06年春、帰国した留学生たちとともに上海に中国公学を建てるが、資金難と官紳の妨害とで間もなく行き詰まる。このため姚は幹事としての責任を痛感して、同年5月6日、黄浦江に身を投じた。

翌月、禹之謨、寧調元らにより、長沙の岳麓山に烈士として葬られる。

 

(2004年12月12日)

 

 

 

 

寧調元ねい・ちょうげん(1883〜1913・9・25)

 

囚徒詩人

 

 湖南省醴陵県の人。字は仙霞、号は太一(字と号とを逆にしているものもある)。読書人の家庭に生まれ、少年時から詩をよくした。

 1903年、長沙に出て明徳学堂に学ぶ。黄興の教え子であり、優秀な学生だった。華興会に参加して学生へのオルグを担当する。長沙起義の失敗により華興会の幹部が亡命した後も湖南に留まり、湖南巡撫の端方の暗殺を企てるが未遂に終わり帰郷する。

 その後、湖南省派遣の留学生に選ばれて渡日。黄興の紹介で同盟会に入る。取締規則反対運動では積極的に宣伝活動をする。

 06年初めに帰国。上海で姚洪業らの中国公学に関わるが、間もなく帰郷。湖南で会党と連絡をとるなどの活動をする。そして同年夏、長沙で禹之謨らとともに陳天華、姚洪業の公葬を企図。一万人の葬式デモを成功させる。

 その後、寧、禹を革命党だと密告する者があったため、寧は明徳校長の助けで上海へ逃亡するが、禹之謨は逃亡を拒んで逮捕、処刑された。

 難を逃れた寧調元は、上海で雑誌『洞庭波』を発行する。誌名は屈原の「湘夫人」にある「洞庭波兮木葉下(洞庭なみたち、木葉くだる)」からとったものと思われる。寧は「屈魂」という筆名も用いている。戦国時代の楚の国で国を憂えて自尽した屈原を、同じ楚人として慕っていたのだろう。

その後、再渡日し、同盟会機関誌『民報』の編集にあたる。また、東京でも『洞庭波』を発行。これには楊毓麟も編集人に名を連ねている。しかし東京の『洞庭波』は一冊出しただけで停止し、『漢幟』と改名して再び発刊する。改名したのは、地域色を払拭するためだったという。『漢幟』は二号まで刊行された。

 この二誌は反満を旨とするもので、満清政府の立憲改革を批判し、テロルを賞賛する文章が多かった。また、詩も多数掲載されたが、その多くが呉樾、陳天華、姚洪業の三烈士への追悼詩だった。

 1906年12月、いわゆる萍瀏醴起義が勃発。湖南省の瀏陽、醴陵、江西省の萍郷の一帯で、鉱山労働者を中心に3万余人が参加した、一大武装蜂起である。この報に同盟会は急ぎ寧調元らを派遣するが、まもなく起義は鎮圧され、寧も捕らえられる。このとき捕らえられた劉道一は、同年12月31日に処刑されているが、寧は友人たちの奔走により、なんとか死罪は免れた。

 

 寧調元は獄中で詩を詠んだ。元もと詩は好きで杜甫に傾倒していた彼は、友人や親戚に本を差し入れてもらって読書に励み、杜甫ばりの詩を詠んだ。三年間の獄中生活で詠んだ詩が約六百首。また、革命人士たちが詩の結社「南社」を結成すると、寧は獄中から入会している。

 当時の獄というのがどういうものであったのか、よく分からない。禹之謨も獄中で多数の家書を書いているから、そういう自由はあったのだろうか。

 けれどももちろん、楽であろうはずはない。鄒容は獄中生活に耐えられず、二十歳の命を散らしている。宋教仁の兄は出獄後に放蕩して早世したが、獄中で受けた拷問で身体を壊していたらしい。禹之謨も完膚ないまでに拷問された。そして寧調元については、譚人鳳が記している。彼は天真爛漫で書生っぽい人だったが、獄から出てきたら人が変わっていたと。

 

 楊毓麟のパトロンだった湖南の大郷紳の龍氏らの尽力で09年末に出獄。後はジャーナリズムで運動を続け、詩文も多数発表する。

 11年4月、同盟会は広州で武装蜂起をする。会の総力を傾けた大規模なものだったが、あえなく敗戦。72名の犠牲者を出す(黄華崗起義)。この失敗によって革命派の受けた打撃は大きく、楊毓麟はノイローゼを悪化させて踏海し、黄興も死にたいともらしたという。そして寧調元もすっかり絶望して意気消沈し、酒に溺れ花を愛でる日々で、時政を語ることもなくなった。編集の仕事も辞め、日本へ行ってしまおうと上海まで来たところで、武昌起義の報を聞き、とたんに元気を取り戻したという。

 その後もめまぐるしく変わる情勢の中で積極的に活動。袁世凱との妥協には反対で、反袁活動を続ける。楊コ麟らとともに、反袁世凱の武装闘争も計画していた。

13年に袁によって宋教仁が殺されると、寧は孫文と黄興に会い、第二革命を起こして武力で袁を討つように説く。そして長江流域を中心に討袁のために奔走し、武力闘争の準備を進めるが、起義は失敗。寧調元は6月25日に捕らえられ、9月25日に殺害された。享年三十一。

 

 

主に劉湘雅「革命家和詩人〜寧調元」『辛亥革命在湖南』(湖南人民出版社1984年)によった。

(2004年12月12日)

 

 

禹之謨 う・しぼ(1866・8・27〜1907・2・6)

 

陳天華を敬愛する不敵な「政治商人」

 

 

湖南省湘郷県に生まれる。元は士人の家だが、祖父が塾教師から商人に転じ、父も商人だった。

 之謨は幼時から伝統的な教育を受けるが、四書五経は好まず、『水滸伝』や『三国演義』等、伝奇小説類を好んだ。また、父の阿片をやめさせようとして、かえって父の楽しみを奪おうとする親不孝者とそしられたことから、儒教が大嫌いになったという。

 このほか、禹之謨の青少年期には、彼の性向を表す幾つもの逸話が残っている。生家がすぐ近くにある郷里の「大人物」曾国藩に対し、敬意を払わないばかりか満奴として反感を抱いたとか。母の兄が富裕でありながら貧民に対し酷薄だったので、我利我利亡者と面罵したとか。なお、この伯父は禹之謨を憎み、後に之謨が捕らえられた時には保身もかねて之謨の罪状を上申したが、革命後に黄興が禹之謨を顕彰すると慌てて弔意を表したという。

 十五歳の時、之謨のはねっ返りぶりを案じた父は、学業をやめさせて商家へ徒弟に出す。はじめは熱心に働いたが、間もなくその悪辣な商売ぶりに反発し、一年足らずで家に戻されている。

 

その後は家業を手伝いながら独学。その中で明末清初の湖南の思想家、王船山に出会い、深く傾倒する。

 二十歳の頃、劉坤一の幕下にあった叔父を頼って南京へ出、愛国的人士と交流。日清戦争時には劉坤一の軍隊に入って功をあげ、官位を得ている。

 その後、湖南に帰り、変法運動に積極的に関わる。譚嗣同、唐才常、楊毓麟らと連絡をとり、特に唐才常と仲がよかった。

 戊戌の政変で変法運動が扼殺されると、唐才常の自立軍に参加。事が敗れ、危うく難を逃れて日本へ留学する。日本では、自由、平等、博愛の西洋啓蒙思想を熱心に吸収するとともに、工業技術の習得にも努める。

 

そして1902年春、紡織機器を携えて帰国。翌年春、湘潭に工場を設立する。品質がよく安価だったので繁盛し、夏には長沙に移転して大規模な織布、タオル製造を行う。そこでは工芸伝習所を附設して、学生に簡単な応用化学と手工芸とを教えていた。また、女性の自立を促すために、女子を工場に招いて技術を習得させた。事業は繁栄したが、禹之謨は利益を皆と同じだけしかとらなかった。禹之謨もその家族も、工員と同じ食堂で一緒に食事をとった。中村義氏は禹の工場のありかたに、空想的社会主義者を想起したくなると述べている。

安価な工場製品は農家副業の手工業を圧迫するものであろうが、どのみち外貨との競争を強いられるわけだから、禹の試みは評価されるべきだと思う。

 

事業の一方、彼は黄興と会い、華興会の活動を支持、協力する。長沙起義の失敗で華興会の面々が亡命した後も、禹之謨は湖南で革命の種をまき続けた。1905年に東京で同盟会が結成されると、黄興により湖南分会を任される。また、陳天華を深く敬愛し、彼の工場にある陳の著書を読みに学生たちが常に大勢集まっていた。このほか、米貨排斥運動や利権回収運動にも尽力する。

彼は湖南の「実業救国」、「教育救国」を目指し、湖南の実業界と教育界に多大な力をもっていた。

つまり華興会にとって楊毓麟がその理論的支柱であり、陳天華が啓蒙宣伝を行い、禹之謨が実践を担ったということができよう。

 

1905年12月8日、陳天華が日本政府に抗議して自死したこと(伝記参照のこと)をきっかけに留学生二千人が一斉帰国。姚洪業は帰国留学生のために上海に中国公学を建てようとするが資金面で行き詰まり、憤りのあまり黄浦江に身を投じた。

1906年6月、禹之謨は寧調元らとともに、この二人の烈士を長沙の岳麓山に公葬することを企画する。禹が陳天華の、寧が姚洪業の柩をそれぞれ守り、学生市民一万余名とともに岳麓山へ。学生たちは手に白旗を持ち、喪服代わりの白い制服を着て、哀歌を高唱し、ビラやパンフレットを撒きながら、厳かに進んでいった。一大デモ行進である。軍警も呆然と見送るしかなかったという。葬儀は禹之謨の演説をもって散会し、群衆に深い感動を与えた。

また禹之謨らは、学生運動を弾圧しようとした長沙・善化の学生監督を娼館に襲ってその醜行を暴くという事件も起こし、これらによっていよいよ官憲の憎むところとなる。

 

同年8月10日、学生を煽動して騒動を起こした廉で逮捕。事前に情報があって逃亡の機会はあったが、禹之謨はそれを拒否して縛についた。

それから半年に及ぶ拷問に耐え、07年2月6日、絞刑に処せられる。享年四十二。

 

民国元年、1912年10月、故郷で盛大な追悼会が催される。さらに同年11月には長沙で公葬が営まれ、駆けつけた黄興自らの前導で柩は岳麓山に葬られた。

 

 いかにも不敵な硬骨漢である禹之謨だが、自立軍失敗で亡命留学した01年に生まれた次男が、初めて父に会ったときのことをこう回想している。

05年のこと、表で遊んでいると知らないおじさんがやってきた。誰だろうと思って見ていると、大人たちが「稽先生がお帰りだ! お帰りだ!」と騒ぎ出したので、父だとわかってうれしくなった(禹之謨の字は稽亭)。家族一同大騒ぎで出迎え、父は満面の笑顔でそれに応えていた。座が定まり一通りの挨拶がすむと、父は急に子どもたちの中から私を見つけ、胸の前に引き寄せると頭をなでてくれた。私は身体中があたたかくなったような感じがした。

人間的な大きさや温かみを感じさせる、わたしの好きな逸話である。

 

 主に成暁軍『禹之謨』(上海人民出版社1984年)を中心に、

 『禹之謨史料』(湖南人民出版社1981年=禹之謨の孫たちが当時の記録、回想等を集めたもの)を参考にした。

 

(2004年12月11日)

 

 

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