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多摩丘陵から 〜日記のようなもの      

 

2010年3月 6日 7日 17日 20日 22日

 

 

3月6日(土)

 陳星台先生生誕135年。

 

 

 

3月7日(日)

 昨日は忙しくて、1行書くのが精一杯だった。もちろん、旧・西小川町まで出かけられるわけもない。だから前日の5日に行ってきた。

 ここのところ雨続きで今日も雨だが、5日は久々に好天で、東新訳社があった辺りにある西神田公園には、お弁当を食べる人がたくさんいた。公園の一角で何やら工事をしていて、その工事の人たちも食事中。戸外で食べるのが気持ちよいのは分かるけれど、怪しい行いをするには、ちょっと具合が悪い。工事の囲いの蔭に立ったが、向かいのベンチからは丸見えだ。

 あいまいに合掌して観音経を読む。はじめは口の中で、途中から開き直って、きちんと合掌して声に出して唱えた。

 終えてから、出口近くにある石楠花にあいさつして公園を出た。この木は道から見えるので、いつもこの木を星台先生に見立てて声をかけている。まだ固いが、つぼみがたくさんついていた。

 

 

 

3月17日(水)

暮れゆく夕べの空 子どもたちが帰る頃

聞こえてくるだろう 夕方の音が

俺たちは今日もまた 背をのばして働いた

優しいささやきを 待ちわびていた

 

それから……

 

襟を正してキザなセリフを吐け

笑う瞳に永久の涙をたたえろ たたえろ

忘れかけてた夢がよみがえるはずさ

 

俺たちゃそうさ 俺たちゃ自由さ

俺たちゃそうさ 俺たちゃ自由さ

 

自由 自由……

 

君は夕陽の中 自由を求めさすらってた

さすらってた

 

暮れゆく夕べ 夕べの空

暮れゆく夕べ 夕べの空

暮れゆく夕べ 夕べの空

暮れゆく夕べ 夕べの空

 

暮れゆく夕べの空 子どもたちが帰る頃

聞こえてくるだろう 夕方の音が

俺たちは今日もまた……

 

聞こえてくるだろう

聞こえてくるだろう

聞こえてくるだろう

夕方の音が

 

 

こうして頭の中に流れる宮本の歌を書き取っていると、その力強く美しい叫びに胸がつまる。

昨日、野音のDVDを入手。LP仕様の特別版ということでいやな予感はあったが、思ったとおり巨大だ。わたしたちの年代には懐かしい大きさだが、これを持って多摩の奥地まで帰るのは骨だった。重くはないけれど、電車の中でかさばる。それでも、disk unionの袋、それも大きい袋を持って歩くのは、さるスジではかっこいいこととされているので、まあいいかなと。

 

そして夜、少しだけ見た。2009年10月24日、豪雨の野音。

あれは辛かった。雨の野音は何度も経験しているが、このときは降ると思わなかったので、念のために合羽は用意したものの、タオルも荷物を守るビニール袋も持っていなかった。おまけに、10月末の夜の雨が、あんなにも寒いものとは思わなかった。

それでもわたしたちは運がよかったらしい。プラタナスの巨木の下にいたので、だいぶ守られていたようだ。立見でよかった? まったく見えず、たまに柵に鉄棒の要領で乗り上がって見るだけだったし、しゃべりやつぶやきは全然聞こえなかったが、曲を聴く分には差しつかえなかったから、よいのかもしれない。

 

改めて見る「暮れゆく夕べの空」は、すばらしかった。常々、7枚目の27歳の宮本が、声という点では最高地点だと思っていたが、この夜の「暮れゆく夕べの空」はそれに劣るものではなかった。いや、較べられるものではない、較べてはいけないものだと思った。こんな歌を創り、こんな歌を歌える人がこの世にいるのは、奇蹟のようだ。ミヤジ、ありがとう。

そして「遁生」。ライブでも何回か聴かせてもらっているが、この日が最高だ。これも美しかった。エレキギターをつま弾きながら、ほとんどアカペラに近く、三千人が息を詰めて見守る中、聞こえるのはミヤジの声と雨音ばかり。夢のような十余分だった。

 

宮本には分かってほしい。わたしたちが彼の難曲群を好むのは、別に「カルト」だとか「ディープ」だとか「奇異動物」だなどと思ってのことではない。それらの曲をミヤジが真剣に創っているのはよく分かる。渋谷好みの「ポップな」曲よりも難曲群のほうが、宮本の真の心情、彼が本当にかっこいいと思っているものが、表現されていると思うからだ。

実際、かっこいいし。

 

♪♪♯♪♪♭♪♪♯♪♪♭♪♪♯♪♪♭♪♪♯♪♪♭

 

今朝、うぐいすを聞いた。今年はじめてのうぐいす。梅の香はとうに沈丁花にかわり、もくれんも咲いた。

 

 

 

3月20日(土)

 宋教仁事件発生から97年。1913年の今夜、上海駅で撃たれる。

 友人たちが再三再四、忠告警告したにもかかわらず、それらを笑い飛ばして汽車を選んでしまったわけで、これはもうどうしようもない、避けられぬことだったのだろう。

 満三十歳。得意の絶頂での死だった。

 

 彼の場合は、ゆかりの場所もよく分からない。上海に行ければよいが、どこでもドアでもなければ無理だし、そんな物があったら、上海より先にリヴァプールに行きたいし。

 

 でももちろん、遯初君も大好きだ。今日、明日、明後日と、なんとなく辛い気持ちで過ごすんだ。

 

 

 

3月22日(月)

 宋遯初先生没後97年。行年三十二。31歳の誕生日の2週間前だった。

 彼のためにあげるにふさわしいお経が何なのか、浅学の身には分からない。第一、彼が仏徒なのかどうかすら知らない。篤生は確かに仏徒だし、星台先生はいかにも観音的だけれど、遯初君についてはそういう話は聞かないし、あまり仏教的でない気もする。

 ということで、とりあえず彼自身の詩を掲げる。

 

登南高峰

 

日出雪磴滑

山枯林葉空

徐尋屈曲径

竟上最高峰

村市沈雲底

江帆走樹中

海門潮正涌

我欲挽強弓

 

「徐に屈曲の径を尋ね、ついに上る最高峰」というのが好きだ。そして「我は欲す強弓をひかんと」

 やはり得意の絶頂だったのだろう。法によって袁世凱を封じ込めることができると信じていたのだろう。そんなの画餅に過ぎない、などというのは、結果を知っている後から見てのことで、中にいてはそんなことは分からない。彼には十分な勝算、確信があったのだろう。まさか自分が殺され、それによって全てがおじゃんになるとは、思いもよらなかったのか(それにしては、死を予期したかのような不気味な発言も遺しているが)。

 

 民智が啓けぬうちは議会制民主主義は無理であり、強力な権限と指導力とをもった大統領が必要だと、孫文なんかは考えていた。それに対し遯初君は、数千年の専制の歴史をもつ中国では、強力な権力者を作ればそれはすぐに専制君主化すると。経験を積めば民度は上がっていくはずだと。

 

 同じような議論が、フランス大革命のときにもあったようだ。アメリカの大統領のようなのを設けたらという意見に対し、拒否権をもつ大統領なんかつくったら、それはすぐに王になってしまうと。本家のアメリカで大統領の三選が禁止されているのも、同じ理由からだろう。

 

 王様って何?

 輿論調査のニュースでいつも思うのだけれど、内閣や首相の支持・不支持の理由として「指導力の有無」というのがあるが、指導力があれば支持、なければ不支持というのは、どういうことなのだろう。

 みんな、英邁な君主による専制が好きなのだろうか。

 大勢でああだこうだ言いながら、びこたこと右往左往しながら、それでもなんとかやっていく、というのではいけないのか。

 それで船が山に登っていっても、途中で誰かが気がついて、「これって山に登っているんじゃないの?」と言い出せば、軌道修正もできるだろう。ああだこうだもめている様が、衆人環視の中で行われれば、問題の困難さも共通認識となるだろうし。

 英邁な君主が判断を誤って山に登りだしたとき、誰もそれを指摘できないほうがよほど恐い。

 もちろん、エリートさんたちの「大衆操作」によって、みんなで「こっちだー!」と山へ登り出すというのも恐いけれど。

 

 改めて思う。わたしは心底、専制君主が嫌いなんだ。専制的な家庭で育ったせいだ。アナキズムにひかれるのも、それが直訳すると「無強権主義」であるように、相互扶助、お互い様の、善意に基づく優しく緩やかな関係性の世界だからだ。

 

だから孫文は嫌い。偉そうな人はいや。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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