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宋教仁(1882〜1913)

原文、訳

ゆり子

 

 

 

 

 

 

 

登南高峰  宋漁父(1913年)

 

日出雪磴滑 

山枯林葉空

徐尋屈曲径

竟上最高峰

村市沈雲底

江帆走樹中

海門潮正涌

我欲挽強弓

 

 

南高峰に登る

日出で雪に石段滑り

山枯れ林葉空し

徐ろに屈曲の径を尋ね

ついに上る最高峰

村市は雲の底に沈み

江帆は樹の中を走る

海門は潮正に涌き

我は強弓を挽かんと欲す

 

 

夜明け、雪で滑る石段を上る

冬枯れの山で、林の木々は葉を落とし、がらんとしている

曲がりくねった小径を見失いそうになりながらゆっくりと歩き

ついに高峰の頂上に到達する

村里や町は雲の下にかすかに見え

銭塘江に浮かぶ舟は樹木の間をすかして走るようだ

河口では潮がまさに涌き立ち

私はいにしえの勇士たちのように

海潮をとめる強弓を思い切り引き絞ろう

 

 

「登南高峰」について

 

「南高峰」は浙江省杭州の西湖の西にある山。

『辛亥革命烈士詩文選』では題名は「登韜光絶頂(=とうこうの絶頂に登る)」となっている。「韜光」は西湖北畔にある寺の名とのこと。

いずれにせよ、銭塘江を見下ろせるらしい。

この詩は1913年3月2日に『民立報』に掲載された。

 

 強弓を引くというのは、五代十国の呉越のときの故事による。海の潮の向きを変えるべく、五百名の勇士に強弓を引かせたという。

 ここではおそらく、「袁世凱の独裁を防いでやる!」という気概を示すものと思われる。

 そして、これから築いていく新しい国家への意気込みをも。

そうなると、「屈曲の径をへて最高峰に上る」というのも、苦難続きだった日々を経てついに絶頂に達したという、彼の得意を表しているのだろう。

 しかし、この詩を発表した20日後、彼は上海の鉄道病院で息を引き取った。

 

 

『宋教仁集』(中華書局、1981年)より。

蕭平編『辛亥革命烈士詩文選』(中華書局、1981年)も参照。

 

 

2003年8月3日

 

 

 

追記

 

宋教仁が見下ろしていた銭塘江は、大潮のときに海潮が怒潮となって逆流する。彼が留めようという潮がこれを指すなら、それはとんでもなく大きな意気込みを示しているといえる。

けれども彼は背後から撃たれて殺されてしまった。「宋遯初を殺したのは、単なる殺人ではなく、平民政治への打撃であり、専制政治を伸張させるものであった」(張百麟「説明本党国会期間之遭遇與態度」『国民』1913年6月、第2号……宋月紅『宋教仁的政党政治思想研究』2005年より孫引き)

 

 

2006年10月24日

 

 

 

 

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