宋教仁(1882〜1913) ●原文、訳 ◆ゆり子 |
登南高峰 宋漁父(1913年) ● 日出雪磴滑 山枯林葉空 徐尋屈曲径 竟上最高峰 村市沈雲底 江帆走樹中 海門潮正涌 我欲挽強弓 ●南高峰に登る 日出で雪に石段滑り 山枯れ林葉空し 徐ろに屈曲の径を尋ね ついに上る最高峰 村市は雲の底に沈み 江帆は樹の中を走る 海門は潮正に涌き 我は強弓を挽かんと欲す ● 夜明け、雪で滑る石段を上る 冬枯れの山で、林の木々は葉を落とし、がらんとしている 曲がりくねった小径を見失いそうになりながらゆっくりと歩き ついに高峰の頂上に到達する 村里や町は雲の下にかすかに見え 銭塘江に浮かぶ舟は樹木の間をすかして走るようだ 河口では潮がまさに涌き立ち 私はいにしえの勇士たちのように 海潮をとめる強弓を思い切り引き絞ろう ◆「登南高峰」について 「南高峰」は浙江省杭州の西湖の西にある山。 『辛亥革命烈士詩文選』では題名は「登韜光絶頂(=とうこうの絶頂に登る)」となっている。「韜光」は西湖北畔にある寺の名とのこと。 いずれにせよ、銭塘江を見下ろせるらしい。 この詩は1913年3月2日に『民立報』に掲載された。 強弓を引くというのは、五代十国の呉越のときの故事による。海の潮の向きを変えるべく、五百名の勇士に強弓を引かせたという。 ここではおそらく、「袁世凱の独裁を防いでやる!」という気概を示すものと思われる。 そして、これから築いていく新しい国家への意気込みをも。 そうなると、「屈曲の径をへて最高峰に上る」というのも、苦難続きだった日々を経てついに絶頂に達したという、彼の得意を表しているのだろう。 しかし、この詩を発表した20日後、彼は上海の鉄道病院で息を引き取った。 『宋教仁集』(中華書局、1981年)より。 蕭平編『辛亥革命烈士詩文選』(中華書局、1981年)も参照。 2003年8月3日 ◆追記 宋教仁が見下ろしていた銭塘江は、大潮のときに海潮が怒潮となって逆流する。彼が留めようという潮がこれを指すなら、それはとんでもなく大きな意気込みを示しているといえる。 けれども彼は背後から撃たれて殺されてしまった。「宋遯初を殺したのは、単なる殺人ではなく、平民政治への打撃であり、専制政治を伸張させるものであった」(張百麟「説明本党国会期間之遭遇與態度」『国民』1913年6月、第2号……宋月紅『宋教仁的政党政治思想研究』2005年より孫引き) 2006年10月24日 |
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