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千歳村から 〜日記のようなもの      

9月2日(土)

 陽気なる逃亡者、になるか

 陰気なる生存者、になるか

 

 夫は明らかに前者なのだが、わたしはどちらだろう。どっちつかずでおろおろするだけの、一番しょうもない部類だなあ。

 宮本も歌うとおり陰気なる生存者は勇気があるが、陽気なる逃亡者もまた難儀なものだ。馬場辰猪も死んじゃったしなあ。

 

 

 宮本がポッカの缶コーヒーのCMに出るとか。働く「オッサン」の代表の一人として選ばれたらしい。

 彼がこういうバイトをするのにわたしは基本的に反対なのだが、今回は「オッサン」という語の響きにひかれるし、たぶんミヤジ自身も同じように思って引き受けたのだろうから、これはこれでいいや。早く見たい。あんなかっこいいオッサン、そうそういないぞ。楽しみだ。

 

 エレカシの今年の野音は今日が一般発売日。19時に見たら、ぴあ、ローソンともに完売だった。さすが。わたしはファンクラブでとったけど、ぱにょこちゃんはとれたかなあ。今のものすごいエレカシを見てほしいのだけれど。

 

 

 今日は本当に久しぶりに公園へ。たぶん梅雨入り前に行って以来だ。もともと夏は蚊の攻撃でじっとしていられないから、あまり行かないのだけれど、今年は夫の病気があったので、なおのこと公園どころではなかった。

 で、久々に行ったのに、茶毒蛾の発生で昨日消毒したばかりだとかで、化学物質敏感症(過敏症まではいかぬが、かなり弱いので、勝手にそう呼んでいる)の夫が入口で眼の痛みを訴えたため、大好きな雑木林は避けて開放公園だけ歩いてきた。夫はポジ、わたしはネガで、花壇のひまわりや、咲き初めた萩など撮ってきた。

 乾燥した晴天。木陰で風が吹くと気持ちいいけれど、日なたはやはりかなり暑い。白髪をポニーテールにした老人が何周も走っていた。大丈夫なのだろうか。

 車の下で猫が長くなって寝ていたが、運転手が戻ってきたので、危ういところで逃げていった。

 帰り道、農家の無人スタンドに茄子が出ていたので購入。3本で100円。きれいな茄子だ。夕食におかかで煮たらおいしかった。

 

 

9月7日(木)

びっくりした。目の前で事故を見た。

 昼に明神様と湯島聖堂にお参りに行った。先週行ったときは、医科歯科大の前に警察車輌が停まっていて、警官やらなにやら数人いて、前のつぶれたタクシーと後ろのつぶれた乗用車がいた。普通に考えればタクシーがぶつけたのだろうけど、失業してしまわないかな、などと思い出していた。

 お参りを済ませ、ついでに秋葉に下りて、新しくできたヨドバシカメラをのぞいてみた。再開発後行っていなかったので、きょろきょろしていたら時間を食い、ヨドバシは本当にちょっとのぞくだけで引き返した。

 時間がなくなったので、あの急な淡路坂を急ぎ足で上り、聖橋の交差点の信号が赤なのを確認して歩調を緩め、上りきって一息ついた。

と、目の前の交差点で、聖橋から来た小さなトラックと、靖国通りのほうから来た青い乗用車と、進路が交錯したと思ったら、すごい音がして、次いで乗用車の後ろの窓のガラスがばらばらと砕けて全部落ちた。トラックは前の角がつぶれている。一方乗用車は、横っ腹が大きくへこんでいた。運転手しか乗っていなかったからよいが、助手席にいたらただじゃすまなかっただろう。2台とも脇へ寄り、トラックの運転手がすぐに降りてきて、乗用車と何か話していた。

 昼時だし駅前だしで人がたくさんいて、みな立ち止まって見ているし、電話は誰でも持っているだろうから、わたしの出る幕ではないだろうと、そのまま帰ってきた。

 道々考えた。事故はわたしのすぐ前で起きた。でも状況がよく思い出せない。憶えているのは、スローモーションみたいにゆっくりと、あれ〜? という感じでぶつかったこと。ものすごい音がして、一拍おいてからガラスが落ちたこと。次にトラックのつぶれたのを見、乗用車がえらいことになっているのに気づいたのはその後だった。でも状況がいまひとつ分らない。どっちの車が悪かったのか。それぞれの車がどっちへ行こうとしていたのか、本当にトラックが右から乗用車が左から来たのかさえ、実はあやふやだ。いま考えると、乗用車の左側にトラックが当たるには、それではちょっとおかしい気もする。

 確かに見ていたのに。音を聞いて振り向いたのではなく、2台の車が近づいて当たるところをちゃんと見ていたのに。

 今日は大勢いたからいいけれど、わたしが唯一の証人だったらどうしよう。こんなに頼りない人間が、人の人生を左右するようなはめになったら。そうじゃなくてこうじゃないの? などと言われたら、簡単にうんと言ってしまいそうだ。これはとっても怖いことではないか?

 

 そういえば今日は午前中に地震があった。古いビルの10階だから、ゆ〜っくりと大きく、実に気持ち悪く揺れる。

 妙な日だった。

 

 

9月11日(月)

 昨夜は驚いた。窓を開けて寝ていて、雷の音に飛び起きた。午前三時過ぎ。たいへんな豪雨で、稲妻は見えないが空は間断なくピカピカ光り、雷鳴も轟いていた。五時過ぎに起きたときも似たような状況だったが、出勤時にはすっかり止んで、青空さえ見えていた。

 

 憧れの人を王子様と呼ぶ習はわたしにはない。夢想妄想ため込んで仮想恋愛に明け暮れていた少女時代にも、そういうことばで認識したことはなかった。実在(クラスの誰彼とか)架空(小説やまんが等の人物など)とも、具体的に固有名詞で呼んでいた。別に思想的なものではなく、そういう発想がなかった。

 まして今は、王子だなどとんでもない。何しろ先方は王朝の打破に生涯を捧げた人だ。清朝を否定したのみならず、日本の「万世一系」を恥知らずと切って捨て、英国のことも「立憲の祖国を名のりながら王様なんかいる」と冷笑した人だ。

 

 でも、紳士ではある。それはもう、原義どおりの意味で。彼自身は、あるいは晩年には苦いものを感じていたかもしれないが。

 

 彼が生員(いわゆる秀才)になったのは十五のとき。生員となれば下級の紳士で、庶人とは一線を画する。税制、刑事その他の制度的特権のほか、道を歩けばお辞儀されるし、何かの集まりの際は、その場に年寄りがいてもそれを差し置いて上座に坐らされる。数えで十五だから今の日本なら中学2年くらいの歳から、そういう身分であったわけだ。

 それに何の疑問も持たず、ひたすら昇官発財(官僚として出世して財産を築く)にいそしめればよかったのだけれど、時代も彼自身の性向もそれを許さなかった。

 

 紳士というのはちょっとおもしろい存在のようだ。生員は形式上は学校の生徒で、学政の管轄下に入る。たとえ犯罪を働いても通常の裁判は行われず、学政によって処分を下される。学政は省の教育長官。というと省の長官である巡撫の下に入りそうだがそうではなく、いずれも天子の直属なので、格としては同等である。学政は科挙の責任者なので、彼の考えに適う者が官僚として天子の手足になるわけだから、極めて重要な役職なのだ。実際、楊篤生を見出して挙人にした学政は、ばりばりの変法派の人物だった。

 そして紳士は地方の実質的な支配者だった。清朝は中央集権制だから、巡撫やら府や県の知事やらは中央から派遣されてくる。これらの地方官は、任地との癒着による腐敗を防ぐため、出身地には赴任しないことになっていた。つまり皆よそ者であり、任期が満ちれば去って行く存在である。そういう彼等にできることは、徴税その他のわずかなことで、あとは紳士層に委ねられていた。なにしろ新しく赴任した知事の最初の仕事は、土地の紳士たちの姓名、字、誕生日などを調べて名簿を作り、あいさつ回りをすることだった。とにかく紳士層ににらまれては何の仕事もできない。紳士が中央に対して知事の罷免運動をしたり、ひどいときには農民を煽動して知事を襲ったりもした。

 そういう紳士たち(官僚予備軍と、退職して帰郷した官僚)が地方の政治や経済を握っていて、そこから革命派も立憲派も出てくるらしい。

 

 

9月12日(火)

宮本のCM、昨日までに3回ほど見た。「ほど」がつくのは、振り向いたら最後の座っているところだったというのがあるから。

いい笑顔だ。実にかわいい。男が嫌いなはずの夫まで、かわいいかわいいと喜んでいる。オッサンか。確かに年齢的にはオッサンだし、本人も数年前からしきりに、中年だのおじさんだのと言っているけれど、そうは見えないなあ。

 

 文人、武を好み、武人、政を語る、

 というような言い方があるようだけれど、確かに武を好む文人は多い。黄興さんは烏家拳術(未詳)を習っていたというし、遯初君は梅花拳を習っていたり、近所の子どもを集めて戦争ごっこをしていたとか。譚瀏陽先生になると、形意拳、通背拳、太極拳と、武術マニアの夫をもつわたしには馴染みの武術(特に形意拳は夫の最も好むもので、毎日のように型を見せられている)に加え、馬だの弓だの剣だの、ひととおりかじったようだ。

 でも、楊篤生はそういう感じがしない。爆弾を抱えて生きたテロリストだけれど、武術を習ったという話は知らないし、似合うとも思えない。小さいときから書物と筆だけの世界にいたような気がする。

 それでも若いころには、楊昌済先生と碁を打ったり山に登ったりもしていたのだけれど。

 

 やっぱり楊篤生の噂をするのは楽しい。顔がにやけてしまう。

昨日入手した遯初君関係の本を電車で読んでいて、思いがけず彼の名を見つけた。にやにや笑いが浮かんでくるのを抑えることができなかった。

これじゃ怪しい人だよ。

 

 

9月14日(木)

 今日は天神様へ。不忍池で殺人事件があったのと猛暑とで、ここしばらく行っていなかった。途中、明神様近くで信号を待っていると、品のいいおばあさんに声をかけられた。「神田明神はまだ先ですか」「明神様なら、ここ渡ってその先すぐです。すぐだからわかります」

 それからずんずん行って天神様にお参りし、不忍池に下りた。蓮の花はとうに終わり、冬鳥はまだ当分来ない。何しに来たんだろうと思いながら、わさわさと繁茂した蓮を見て少しだけ歩いた。池の端の住人が住まいと思しき植え込みから何かを抱いて出てきた。地面に下されたのは、掌に乗りそうな赤ちゃん猫だった。細い引き綱につながれている。これから散歩らしい。

 天神様に戻り、境内を抜けて、明神様に向かう。半分ほど来たところで、向こうから来たおじさんに声をかけられた。「湯島天神へはどう行けば」「ここ、まーっすぐです。まーっすぐ行けば突き当たります」

 わたしは割とよく道を訊かれる。でも、不案内で点と線の世界だったり(不安でも自信ありげにずんずん歩くからいけない)、そうでなくとも頭の回転が悪く機転が利かぬため、うまく答えられないことが多い。別れてから、もっとわかり易い言い方があったのにと、ほぞをかんでばかりだ。

 今日は、大好きな神様ばっかり、それもまさにこれから行くところばかり、しかも教えやすい地点で訊かれたのでよかった。

 明神様の後で湯島聖堂にも寄ったが、さすがに聖堂への道を訊く人には会わなかった。

 

 宋遯初君が楊徳鄰に宛てた手紙が残っているそうな。徳鄰と黄興さんならともかく、この組み合わせは思ってもみなかったので驚いた。でも考えてみれば何の不思議もない。03〜04年頃、徳鄰は華興会のシンパだったようだから、そのころ面識もあったかもしれない。

 華興会が砕けてから篤生が踏海するまで、徳鄰は楊度らと立憲派として活動していた。やっぱり気になる、この人。立憲派と革命派とは、どういう関係だったのだろう。

 それと別にミーハー的には、徳鄰の書いた文章を読んでみたい。今までわたしが見たのは、楊昌済先生が日記に引用している書簡の一節のみ。篤生を湖南でなく英国に葬ることに対する賛意を述べたもの。人間いたるところ青山は在るのであって、必ずしも故郷に葬らなくてもよいと。それに、祖国が光復したあかつきには、「烈士の英霊」は必ず怒潮となって帰ってくるからと。

 この手紙のことは何度も書いていると思う。だってわたしはこの手紙が好きなんだもの。

お兄ちゃんは本当は篤生に帰ってきてほしかったのだろう。高橋に葬りたかったのだろう。それがよくわかるから。

 

ずっと気になっていた程家檉の生年がわかったので、生まれ年年表に追加。74年らしい。

 

 

●9月18日(月)

 九・一八。ちょうど75年。次の首相になるらしい人は、日本の近代史についての評価は歴史家にまかせると言っているけれど、どこの御用学者にまかせるのだろう。

 

ついでに言えば一昨日は九・一六。大杉、伊藤と橘宗一君の殺された日。震災の混乱に乗じてというが、半月たっているのだからすごい話だ(亀戸事件は九月四日)。

わたしは学生のとき、黒色戦線社が出している彼らの検屍報告書を何げなく読んでしまった。普通の区立図書館の開架に全く普通に並んでいるんだもの。結果、いたく傷ついた。生前の暴行がひどすぎる。

 

 この本は今でも神保町に行けば簡単に買える。こういう本の出版を野放しにし、おまけに税金で買って善良なる市民に閲覧させているとは、とんでもないことだ。こんなことでは日本に誇りを持てなくなってしまう。

 などと、本気で言う人もあるだろう。でも、震災時の朝鮮人虐殺も、亀戸事件も甘粕事件も、もちろん九・一八に始まる侵略戦争も、ぜんぶ本当のことなのだからしかたない。要は、なかったことにすることではなく、「もうしません!」ということでしょ。あの本も、今もあの古い図書館で何げなく手にとって、心が破けてしまう子がいるかもしれないけれど、でも、ああいう本が公立図書館にあるのはいいことだと思う。

 

 

 どうも、休みの日はうまく動けない。午前中、洗濯だ掃除だ買い物だでばたばたし、午後はまるまる眠り虫、というのが型になっている。いつまで経っても康南海先生は進まない。いけないなあ。

 学ぶに暇なしという者は、暇ありといえどもまた学ぶことあたわざるなり。勉強したいけど時間がなくって、などと言う人は、時間があっても勉強しない。

数年前、都内の名刹で初参りしたときにいただいたおみくじだ。さすが観音様、全部お見通しだ。おっしゃるとおり、言い訳だらけの怠け者です。と言いつつ、今日もまた昼寝してしまった。

あとでことわざ辞典で見つけたけれど、件のことばは淮南子にあるそうな。

 

 

9月19日(火)

近所の花壇や植え込みに、緑の棒がにょきにょき生えているのに、気がついたのは昨日のこと。もうちょっとかなと思ったのに、今日、飯田橋で咲いているのを発見した。真赤な彼岸花。そういえば明日からお彼岸だ。

 

もう一つ、昨日気づいたこと。『論語』を書き写していて、あっと思った。里仁篇第四。「子曰、コ不孤、必有鄰」……徳は孤ならず、必ず隣あり。

楊毓麟の兄は楊コ麟のはずなのに、同時代人のほとんどがコ鄰にしている。本人がそう書いていたのだろうけれど、なぜだか分らなかった。画数が多くて面倒だからかななどと、ばかなことも思っていた。

答はおそらくこれだ。麟も鄰も音は同じだから、コに続くlinといえば鄰でしょう、と。それが当時の教養人の、当然の発想だったのだろう。

そういう彼らの「当然」が知りたくて経書を読んでいるのだが、全く底が知れない。きりがない。彼らはどうやってこれを頭に詰め込んでいたのだろう。どういう頭の構造をしていたものやら。

 

当然だの常識だのって、時空とともに変わるさ。彼らの知らないこと、わたしたちはたくさん知っているじゃないか。

って、そうだろうか。

 

先日、夫とともに、隣家の品のよい老婦人と立ち話をした。ひょんなことから夫が、「今どき流行りませんが」と言いながら、愛読する作家たちの名を挙げると、彼女は、あらあらという感じで言った。「わたしどもの時代には常識でしたけれどね」

喜寿に近い嫗の時代の常識はそれとして、ではわたしたちの時代の常識はといえば、我が家の今朝の会話が端的に示している。

 

「湯治に行くから時刻表買ってきて。全国版はいらない。マットがいいな」

「マット。モンスター・アタック・ティームですね」

 そうなんだ。ウルトラマンとウルトラセブンと、仮面ライダーとガッチャマンと、ヤマトとガンダムと。そんなものが世代の共通語なのだ。それで世界観や人生観をある程度まで作ってしまっている。ギエロン星獣やペガッサシティやノンマルトを持ち出せば、何か文明批評ができたような気になる。それらは確かに優れた作品で、わたしも大好きだ。でもそれらを作ったのはもちろんわたしたちの上の世代の人間で、その土台にはわたしたちよりも古い教養がある。そのほんの一部から、子供向けに作り出しただけだ。

 なのにわたしたちの世代は、それを基礎教養として新たなものを作ろうとしている。それでは縮小再生産にすぎないではないか。どんなに優れていても、子ども向けは子ども向け、子どもの理解力に合わせたものなのだから。

 

 なんて言いながら、わたしもかなり影響を受けている。わたすげの舞う中で瞑目するギエロン星獣を思うと、涙を禁じえない。

 

 

9月20日(水)

まだ蝉もがんばっているけれど、金木犀が咲きだした。これが咲くと脳髄に蜜を流し込まれたようで、どうにもならなくなる。

 

 子どものころ、どこかで聞いたか読んだかしたのだけれど、歳をとると筋力と羞恥心とが二つながら弱くなるので、おばさんは電車で脚を開いて座るのだと。

 なるほどと思い、以来意識して膝をぴったりくっつけて座ってきた。

 でも、最近気がついたのだけれど、膝を閉じて座っている人なんて、いません。老若問わず、およそ見ない。

 つまり、女は脚を閉じて座るという美意識が既にない。過去の、時代遅れの価値観になっている。すなわち、こういう座り方をすることこそが、一時代前の人間であることの証明であったと。平たく言えば、古くさいおばさんだ。

 そもそも、男の人は混雑しない限り大股開いて座るのに、なんで女は閉じねばならぬのか。開いたほうが楽に決まっている。というより、閉じるほうが不自然というべきか。わたしだって家でどべっとしているときは、そんなこと気にしていない。

 だからこれはこれでいいんじゃないですか。わたしが実際にどう座るかは別として。

 ただ、あまり短いスカートのときは、閉じたほうがいいと思う。やっぱり迷惑でしょ、と夫に同意を求めると、迷惑かどうかは女による、と差別的な発言が返ってきた。

 

 

9月22日(金)

 陰暦八月朔日。

 昨日の新聞で驚いた。渋谷公会堂がC.C.レモンホールになるって?!

 財政難で渋谷区が命名権を売ってしまったとか。

 アスベスト除去の工事をしていたから(そんなものの下で飛び跳ねていたとは!)、色々と物入りなのかもしれないけれど、だからって、C.C.レモンとは。渋公ワンマン!といえば若いミュージシャンの一つの目標だ。

 いずれ、略称ができるだろうな。だれもC.C.レモンなんて呼ばないだろう。

 ともあれ、03年の10月に、「偉大な人の伝記の37歳のところを読む〜」と、身体を半分に折って苦しそうに「覚醒」を歌う宮本を見たのが、わたしの「渋公」の最後だったわけだ。

 

 

 もう一つ昨日のニュース。教職員への日の丸・君が代強制は違憲だとする地裁判決。驚いたけど、きわめてまっとうな判決だ。

 でも、今朝方のTVでの「識者」の方々の発言には、もっと驚いた。夫とふたり、口あんぐりで顔を見合わせた。曰く、国旗・国歌への敬意は人格・人柄・礼儀の問題だと。

 つまり、わたしは品性下劣ということか。わたしは日の丸・君が代のみならず、どこの国旗・国歌にも敬意を払うつもりはない。敬意を払うべきは人であって、国家へではない。国家は(必要)悪であって、いずれなくしていくべきものだと思っている。

 国家があって人があるのではない。人があって、便宜上の必要から運営しているのが国家だ。国家から人権を与えられ、国家の仁慈で生きさせてもらっているわけではない。

 天賦人権か国賦人権かだなんて、明治時代に議論されたことだ。いまだにこんなところで引っかかっているのか。

 

 どうせわたしたち夫婦はジャン・ジャックの徒、クロポトキンの徒だ。競争は社会が病気の状態で、相互扶助主義こそがまっとうな生き物の生きる道だと思っている。本気で思っている。

 実現性を考えて「愚也」と結論づけた楊篤生も、「四海兄弟の黄金世界」として、考え方そのものは共感をもってくれたものと信じている。

 

 

9月24日(日)

 朝、きれいに晴れたなあ、とベランダからおもてを眺めた。築五十年超だった隣の団地が建てかえのため取り壊されて、今は更地になっている。おかげで空が広くなった。

 雲一つないと思ったら、南西の低い位置に青いものを発見。すぐに山並みと分かった。

驚いた。十六年住んでいるが、山が見えたのなんて初めてだ。そういえば夏には、いつも音だけ聞かされていた多摩川の花火が遠望できて、これもびっくりした。全部、団地の建物で遮られていたのか。

丹沢の山だろうか。ひょっとしたらと思い、改めてよく見ると、富士が見えた。おぼろげだが、確かに富士だ。

これはうれしい。いつでもどこでも、富士が見えるとうれしい。まして、高層でもない自宅から見えるなんて。

 

夫も静かに喜んでいた。彼は富士の見える町で育ったので、富士には特別な思いをもっているらしい。

わたしの小学校の校歌は「西南遠く富士を見る」で始まるが、夫に言わせると、富士が西南にあるなんておかしいと。富士は北にあるものだ、否、富士のある方が北だ、と。

山梨側からの富士の写真など見ると、富士を裏から見てはいけない、なんて言うし。

富士に表裏があるなんて、知らなかった。

 

でも、この広い空は今だけだ。隣の団地は高層化する。それができあがったら、今までずっと享受してきた日当たりすら、得られなくなる。

そうなる前に引っ越すつもりだ。

 

今日、野音のチケットが届いた。びっくりするような良い席!

わたしはいつもクジ運が悪くて、一番後ろの壁際の席になったこともあった。そのときは、ファンクラブの会員番号が若いと冷遇される、という噂を信じたくなった。

でも、去年はかなりよかったし、今年は本気ですごい!

気合いを入れて臨まねば。

宮本、待ってろよ!

 

 

 

9月30日(土)

 TVで世界の鉄道のような番組があって、時々見る。といっても、ちょうどご飯仕事の時間なので、背中で聞きながらたまに振り返る程度、CMがうるさいとNHKのニュースに変えて、そのまま忘れてしまったり、殺人事件などの見たくないニュースでまた戻ったり、といった感じだ。

 その番組が、昨夜は「上海から長沙へ」ということだったので、慌てて手近の使い回し用テープで録画しながら見た。例によって背中で。

 

 でも予想どおり、細かく紹介したのは出発地の上海で、長沙には着いただけだった。

 

 やっぱりと思ったが、それでも手を止めてちゃんと対した。

湘江を見せてくれた。先生、湘江ですよ、と楊篤生に呼びかけた。長沙ですよ。帰りたかったんでしょうね。せめて星台先生のように遺骨だけでも。

 

この番組、先週は「北京から上海へ」だったから、次回は長沙発にならないかな。それなら、長沙市内も紹介してくれるかもしれない。岳麓山などを見せてくれるかもしれない。

 

 いつか行ってみたい? どうだろう。リヴァプールのほうが先かな。

 

 

 昨日からひよどりが鳴いている。山から帰って来たらしい。

 

 

 

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