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生まれ年年表 1860〜1898 (増補改訂版)

 単純に生まれた年で並べてみました。人選は多分にわたしの趣味です。      

西暦 干支 中国 日本 中国 日本 その他の国
                                
1860 庚申 咸豊
10
万延 譚人鳳
江標
         チェーホフ 日本じゃ桜田門外の変があった。
譚人鳳は華興会の長老。人呼んでヒゲの譚
江標は学政(省の教育長官)として、湖南変法運動の立役者の一人となった。長沙の校経書院を改革し、学生だった楊毓麟を見出した人物。戊戌の前年に任期が満ちて湖南を去るが、彼の敷いた路線は後任の徐仁鋳に受け継がれた。戊戌の政変で失脚し、翌99年に病没。肺疾だとか。若い!
チェーホフはしみじみと好きだが戯曲は未読。彼はサハリンを旅し、アイヌの人々の高潔な人格を讃えている。
1861 辛酉 11 文久               リサール
タゴール
ホセ・リサールはフィリピン独立運動の英雄とされる。実は武力闘争には最後まで反対だったのに、とばっちりで処刑された。
タゴールはインドの詩人。ノーベル文学賞をもらっている。
1862 壬戌 同治     シュニッツラー シュニッツラーは大好きな作家。ウィーンの医師。キューブリックの映画「アイズ・ワイド・シャット」の原作「夢小説」の作者。彼は日本へは森鴎外によって紹介された。わたしは「みれん」(原題「死」)を鴎外訳で読んだ。
1863 癸亥 徐仁鋳  徳富蘇峰 ボニファシオ 徐仁鋳の父は変法派で皇帝側近の徐致靖。徐仁鋳江標の後任の学政として湖南変法運動を推進した。戊戌の政変で失脚し、1900年に没。この人も若い!
ボニファシオ
はフィリピン独立運動の闘士。彼らの武装蜂起のとばっちりでリサールは処刑された。リサールのようなエリートではなく、下層の労働者。政治的には「純真幼稚」? アギナルドに殺される。
1864 甲子 元治   二葉亭四迷  ヴェーバー ヴェーバーは言わずと知れた社会学の巨人。学生時代、「プロりんくらいは読まないとね」と脅されて、往生した人は少なくないのでは。ページを繰るのと読むのとは違うから。でもでも、今なら読めるかも。
1865 乙丑 慶応 譚嗣同
呉敬恒
 
  譚嗣同は本サイトの最重要人物のひとり。変法運動のリーダーのひとりだった。西太后のクーデターで処刑される。亡命の機会はあったのに、「中国には国のために命を投げ出す人がいないからだめなんだ!」と言って逃げなかった。著書『仁学』はめちゃくちゃおもしろいが、大学者章炳麟には「雑駁だね」と言われている。
呉敬恒呉稚暉といったほうがなじみがある。クロポトキンに傾倒するアナキストだった。
1866 丙寅 孫文
禹之謨
    禹之謨は民族資本家。陳天華姚洪業の公葬を企てた。これが1万人が参加した岳麓山事件とよばれるもの。は湖南の学生界に多大な影響をもっていた。彼の工場に置かれた革命宣伝書を読みに、学生たちが集まっていた。しかし官憲に憎まれて投獄され、半年にわたる拷問の末に殺害される。
1867 丁卯 唐才常 南方熊楠 潘佩珠  唐才常譚嗣同と同郷の幼なじみ。湖南変法運動で活躍した。変法派の残党を集めて蜂起を企てたが、あっさり敗れて処刑された。
熊楠は大英博物館で孫文と知り合って仲がよかった。歳も近かったんだね。変な奴同士ウマがあったのか。
潘佩珠はベトナム独立運動の志士。東遊運動(日本への留学運動)を起こしたが、日本は彼の味方ではなかった。辛亥後、ベトナム光復会を結成して武力闘争を行うが、逮捕され、死ぬまで幽閉される。
1868 戊辰 明治 蔡元培 徳冨健次郎
北村透谷
小川芋銭
ゴーリキー 明治維新の年だが、味のある顔ぶれだ。
蔡元培は一発合格で進士になった超エリート。教育界に生きた人で、五四運動時の北京大学校長。晩清には自分の女学校でテロリストを養成しようとしていた。女のほうがテロには向いてると。
トルストイに心酔する蘆花と、全然評価しないゴーリキーとが同年というのはおもしろい。お育ちの違いだろうか。ゴーリキーは自伝三部作がすばらしい。こんなに高い魂の人は滅多にない。
透谷は自由民権挫折組。よく知らぬが痛ましいイメージがある。
小川芋銭は画家。牛久沼のほとりに住み、「河童の芋銭」といわれる如く、河童の画を多く描いた。平民新聞に漫画を描いていて、幸徳なんかとも関係が深い。
1869 己巳 章炳麟   クルプスカヤ
アギナルド
ガンディー
章炳麟は変な人で、訳わからん。わたしの手には負えません。
クルプスカヤレーニン夫人。教育関係の著書が多い。晩年のスターリン体制下では不遇だったでしょう。
アギナルドはフィリピン独立運動家だが、ボニファシオの成果を奪った感じがして、よい印象はない。
1870 庚午 楊徳鄰 堺利彦 レーニン
ルクセンブルグ
楊徳鄰楊毓麟や殿麟の兄だから徳麟なのだろうけれど、こっちの字を書くことが多い。『論語』の「コ不孤、必有鄰」からか? 反袁世凱運動をしていて、第二革命時に銃殺される。
レーニンて同い年だったのか。レーニンの兄アレクサンドル・ウリヤノフは、皇帝暗殺未遂で処刑されたテロリスト。
ローザ・ルクセンブルグはポーランドの思想家。わたしは彼女の思想を知らぬまま、書簡集からうかがえる人柄だけを慕ってきた。レーニンに反対なら、そんなに遠くにはいないだろう。
1871 辛未 10 楊昌済
さいてん
唐群英
幸徳伝次郎
宮崎滔天
国木田独歩
田山花袋
朝永三十郎
島村抱月
  楊昌済楊毓麟と同族で、二世代違うので大叔父さん(叔祖)と呼ばれた。教育者としての孔子を尊敬し、二言目には孔子と言うので、学生たちのつけたあだなが「孔夫子」。
載てん(さんずい+恬)は光緒帝。父は咸豊帝の弟、母は西太后の妹。幼君が成人して親政を始めると問題が起こりがちだが、彼の場合、状況が悪すぎた。性急な改革は西太后らによるクーデター(戊戌の政変)で103日で終わり(百日維新)、以後は08年に死ぬまで幽閉の憂き目を見た。毒殺説もある。
唐群英は日本に留学して華興会、同盟会に加入。『留日女学生雑誌』を創刊。武昌起義で帰国し女子後援会などを組織し、孫文に「巾幗英雄」と呼ばれた。その後も女子参政権、女子教育など女権運動に貢献。
幸徳秋水は兆民先生の高弟ですね。言わずと知れたアナキスト。
滔天孫文孫文と言うけれど、実は黄興さんのほうが好きだったのではないかと、わたしは疑っている。
独歩は日本文学音痴のわたしの好きな数少ない作家のひとり。花袋は72年とも。よく知らないのだけれど、夫が大好きなので。彼は不当に評価が低いそうだ。独歩、花袋、藤村の三人は、本当によい仲間だったらしい。
朝永三十郎は哲学者。主著「近世における『我』の自覚史」は西洋哲学史の古典。カントに重きを置いている。楊昌済はこの本は読んでいないかも知れないが、朝永の本は読んでいるらしい。ノーベル物理学賞の朝永振一郎の父親です。
1872 壬申 11 楊毓麟 島崎藤村   楊毓麟は本サイトの主役です。頭の切れる憂愁のテロリスト。
1873 癸酉 12 梁啓超
徐錫麟
     梁啓超って、若いんだよね。いかにも才人で、一時はたいへんな影響力をもった。若き毛沢東梁啓超風の文章を書いて、教師に注意されたのは有名な話。
徐錫麟は巡撫の恩銘を殺したテロリスト。ド近眼なのでやたらめたらに撃ちまくったらしい。彼の心臓を恩銘の部下が食べたとか。彼については魯迅も「范愛農」で書いている。
1874 甲戌 13 黄興
楊度
程家てい
    黄興さんは好きだな。武張ったことが好きだけど、ごくまっとうな知識人らしい。軍事の才はなさそうね。
楊度(ようたく)は複雑な人。なぜか悪い奴とは思えない。袁世凱の帝政の旗振りなんかしたのにね。晩年は周恩来の紹介で共産党に入党した。「政治変色龍(=カメレオン)」なんて呼ぶ人もいるが、気の毒な気がする。
程家てい(=木+聖)はなかなかの重要人物で、色々な人脈の接着剤の役割も。留学生規則事件の際、『朝日新聞』に堂々たる反論を投書して掲載された。満人高官に仕えて裏切り者視もされ、宋教仁に弁護されたことも。さいごは袁世凱に反対して殺された。
1875 乙亥 光緒 陳天華
秋瑾
柳田国男  ハシント
ユング 
本サイトの主役、陳星台先生。秋瑾と同年なんですね。秋瑾徐錫麟の事件に連座して処刑。魯迅の「范愛農」でも触れられている。短刀を持った姿が有名だが、男装の写真を見るとかわいい。
柳田国男は田山花袋と早くから仲がよかった。その花袋の紹介で島崎藤村と知り合うと、花袋曰く、島崎君は私よりも柳田君と、より仲よくなってしまったと。それがあの有名な「椰子の実」と『海上の道』の逸話につながる。
ハシントはフィリピン独立運動の闘士。ボニファシオの片腕。貧農の出で、苦学した。18歳で革命団体カティプナンに加入(最年少)。「カティプナンの頭脳」と呼ばれ、事実上の領袖ともされる。ボニファシオアギナルドに処刑された後も闘争を続けた。
ユングについては、よく知らない。フロイトの影響を受け、師とも父とも呼んで慕ったが、後には決別したそうな。独自の理論をうち立てている。
1876 丙子 呉越* 石川三四郎 金九 呉エツの越は木偏がつきます。もとは越だが、自分でつけたらしい。父が転勤族で越の地で生まれた。ちなみに弟は楚という(呉越、呉楚兄弟?!)。字の孟侠ももとは同音の夢霞だったとか。きれいすぎて柄じゃないからと変えたらしいが、なるほどテロリストには孟侠のほうがいい。五大臣に投げつけるべき爆弾が懐中で暴発。随員しか殺せなかったけれど、宣伝効果は大だった。彼は許嫁に「あなたも立派な革命家になってください」と書き遺したが、彼女は革命家ではなく革命家の妻になったそうだ。
石川三四郎はアナキストなのだけれど、ちょっと風変わりな人。洋行の際に船中で徳川義親と知り合い、人柄を買われて家庭教師になったため、徳川家に「主義者」が入ったと学習院や宮内省で大騒ぎになったとか。震災の時には危ないところで徳川に保護された。その後、北多摩郡千歳村に移住。
1877 丁丑 10 陳其美       陳其美は裏社会と関係が深いらしいが、わたしはよく知らない。
1878 戊寅 11 劉揆一   安昌浩  劉揆一陳天華と同じ船で日本へ留学。同盟会で孫文批判が高まったとき、ひとりをかばって張継と殴り合いを演じたとか。晩年は霖老と呼ばれ、同郷の毛沢東にも敬意を払われた。
1879 己卯 12 于右任
田桐
  スターリン
サヴィンコフ
トロツキー
安重根
于右任は上海で楊毓麟宋教仁と新聞を発行していた。
田桐宋教仁と武昌での同級生。『民約論』の訳者。
ロシアの三人、すごい顔ぶれ。サヴィンコフはテロリストです。『蒼ざめた馬』の作者ロープシンはこの人。
1880 庚辰 13 呉禄貞
陳独秀
布施辰治    呉禄貞は日本の士官学校を出て北方で軍務に就いていたが、実は同盟会員だった。楊徳鄰とも関係が深い。が暗殺されたので、徳鄰は命からがら逃げ帰った。やったのは袁世凱とも言われている。警告はあったが、用心と臆病とをはき違えて無警戒だったと、誰かが言っている。
陳独秀は五四運動で活躍した。共産党の創設者で初代委員長だが、トロツキストとして除名された。最近、再評価の動きがあるとか。
布施辰治は弁護士。労働運動、農民運動、被差別民、朝鮮人などなど、人権擁護のために八面六臂の闘いをした。今なら「人権派弁護士」と呼ばれるのだろうか。「反人権派弁護士」なんて、存在矛盾だろうに。
1881 辛巳 14 章士サ
趙声
姚洪業
李石曽
魯迅
小島祐馬
小山内薫 
ケマル-アタチュルク  章士サの妻、呉弱男は青山女学院を卒業。留学生同士の恋愛結婚だった。そろってスコットランドに留学。
趙声
は軍人。楊毓麟呉エツを紹介したのはこの人だ。いわゆる黄花崗起義の指揮をとったが、敗北。失意のまま、香港で盲腸の手術を受ける。剛毅な人で、麻酔もせずに手術を受けたが、出血多量で死亡。
姚洪業は留学生取締規則反対運動で帰国した学生のために上海に中国公学を建てたが資金面で行き詰まり、黄浦江に身を投げた。
李石曽はパリのアナキストグループで呉稚暉とともに中心的存在だった。日清戦争時の頃に天子の側近として活躍した李鴻藻の三男坊ともいわれるが、そうすると六十歳過ぎでの子になるが?
小島(おじま)先生は『中国の革命思想』(筑摩叢書)しか読んでいないが、これはとても勉強になった。
1882 壬午 15 宋教仁
張継
蔡鍔
青木繁   宋教仁は本サイトの第三の主役? 亡命留学中の詳細な日記をのこしてくれた。これがおもしろい! 何度ひもといても飽きることがない。
張継は元はアナキストだった。孫文排斥運動のときにをかばう劉揆一と殴り合ったというが、当時ののあだ名は「火の玉」。危ない奴だったのか。後、国民党右派の長老に。
蔡鍔については雲南の新軍で部下だった朱徳が熱く語っている。蔡鍔に心酔しているようです。変法期には湖南時務学堂で最年少ながら優等生だった。第三革命の立て役者となったあと、結核の治療のために日本へ行くが、そのまま死去。
青木繁はなんとなく好きな画家。辛亥の歳に満二十八で死去。 
1883 癸未 16 寧調元
汪兆銘
江亢虎
さいほう
諸橋轍次    寧調元は萍瀏醴起義の際に捕らえられ、山ほど詩を詠んで「獄中詩人」と呼ばれた。それ以前のヒゲの譚に言わせれば天真爛漫で書生らしい人だったとか。出獄したら人が変わっていたそうだが。反袁運動をしていて、第二革命時に処刑される。
悪名高くなってしまった汪兆銘は、孫文派の論客だった。摂政王載ほうの暗殺未遂事件を起こしている。
江亢虎は中国社会党を立てた人。袁世凱に対して妥協的だったが、第二革命時に袁に追われて亡命。後、汪兆銘に加担して漢奸とされ獄中死した。
載ほう(さんずい+豊)光緒帝さいてんの弟。宣統帝溥儀の父。幼い息子の摂政になるくらいなら自分が皇帝になればいいのにと思うが、厄介な事情があるのだろうな。
諸橋先生には日頃『大漢和辞典』でお世話になっています。この方のエネルギーは尋常じゃない、というか、はっきり言って異常です。
1884 甲申 10 17 劉道一
胡瑛
劉師培
師復
北一輝
北村西望
ザミャーチン 秩父事件の年。
劉道一は萍瀏醴起義の際に処刑された。その妻は夫の死後に自殺を図って助けられたが、結局2年後に縊死している。道一は22歳だったから、奥さんも若かっただろうに。
胡瑛宋教仁と同郷で仲がよかったが、のち、袁世凱の帝政に加担した。
劉師培は学者の家に生まれた国学者。妻の何震とともにアナキズムの論客だったが、満人高官端方のスパイになり、後には袁世凱の帝政を推進した。なんで?
師復もアナキスト。こちらはまっとうな人。原名は劉紹彬だが、排満復仇主義のテロリストとして劉思復と改名し、さらにアナキストとして姓を否定し師復と名のった。辛亥後も精力的に活動したが、結核で早世。
北一輝宋教仁の親友を自称しているが、から見たらどうだったか……。
北村西望は長崎の平和祈念像で有名。わたしは秩父・三峯山にある愛らしい狼親子のレリーフが大好きだ。
ザミャーチンゴーリキーの作家仲間。わたしは『われら』しか知らないが、これはすごい小説だ。反ソ連的として迫害される彼をゴーリキーは守ろうと努めたが、レーニンの死後はゴーリキー自身も批判される身で、ザミャーチンが穏便に亡命できるようスターリンとの仲介をするのが精一杯だったようだ。
1885 乙酉 11 18 鄒容
朱執信
周作人
大杉栄
野尻抱影
若山牧水
  鄒容は17か18で『革命軍』を書いた。義兄弟の契りを結んだ章炳麟が捕らえられたため、自ら出頭。獄中で病死。はたちになるやならずやでした。
朱執信はマルキシズムの紹介者。ちょっとおもしろそうな人。
周作人魯迅の弟ですね。イタリアのアナキスト、マラテスタの文章を、呉弱男と共訳している。
大杉の文章の訳を宋教仁が『民報』に書いている。
野尻抱影は英文学者。星の文学者といわれ、星に関する古今東西の文学作品にやたら詳しい。大佛次郎の実兄。
若山牧水の墓所のあるお寺の、阿弥陀様の前で、わたくし結婚式を挙げました。
1886 丙戌 12 19 焦達峯
朱徳
陳翼龍
石川啄木*
平塚明子
萩原朔太郎
松井須磨子

  焦達峯譚嗣同唐才常と同郷。会党に深く入り込み、「兄貴」と慕われるまでになった。彼が組織した共進会の「平均人権」は、孫文の平均地権への無理解の例として評判が悪いが、むしろ水平社的な積極的な意味を持つと思われる。革命勃発で湘省の都督になるが、立憲派に殺害された。
朱徳
についてはスメドレーの『偉大なる道』を読んで。
陳翼龍はアナキスト。江亢虎の中国社会党に参加したが、に反して反袁世凱運動をし、袁によって殺害された。
啄木は85年説もある。幸徳の獄中書簡を入手し、「ココアの一匙」や「果てしなき議論の後」を書いた彼が、わたしは好きだ。
らいてうさんはよく知らないが悪い印象はない。
萩原朔太郎は、なぜか好き。
1887 丁亥 13 20 呉弱男
蒋介石
荒畑寒村   呉弱男は東京の青山女学校に学び、同盟会の英文秘書を務めた。英国留学中の章士サに熱烈な恋文で呼び寄せられてロンドンで結婚。賢母良妻はとんでもないという女性解放論者だったが、英国婦人との交際により思想が大きく変わったらしい。
寒村については寒村自伝を読んでください。『ロシア革命運動の曙』(岩波新書)は、ナロードニキについてのよい教科書です。
1888 戊子 14 21        
1889 己丑 15 22 李大サ 内田百   百鬼園先生は随筆もいいが小説が好き。よって件の如し。
1890 庚寅 16 23   山川菊栄 ホー・チミン
チャペック
菊栄さんは社会主義の論客としてよりも、『おんな二代の記』や『武家の女性』などの柔らかな文章が好き。母の千世さんは水戸の漢学者の家の出で、女子師範(現・お茶の水女子大)第一期首席。そのお母さんからの聞き書きが貴重です。御茶ノ水の谷にうさぎがぴょこぴょことか。
なお、わたしの祖母はこの年に生まれ、1991年まで生きた。菊栄さんと同年と思うと興深い。子だくさんの貧しい農婦でした。
カレル・チャペックはチェコの作家。ロボットの語を創った人として知られるし、日本では児童書の棚に並んでいたりもするけれど、SF作家とか児童文学者とかって呼ばないでね。そんな枠で捉えられる人ではない。兄のヨゼフは画家で、弟の著書の挿絵も描いている。カレルはナチスのプラハ進駐直前に世を去ったが、ヨゼフは強制収容所で死去。
1891 辛卯 17 24        
1892 壬辰 18 25 黄一欧     黄一欧黄興の長子。宮崎滔天に預けられて宮崎家から小学校に通っていた。黄興の依頼で宋教仁が漢文を教えたことも。
1893 癸巳 19 26 毛沢東
宋慶齢
  スヘバートル  スヘバートルは、モンゴル独立革命の英雄。貧しい牧民の子で、苦学した。革命後まもなく、29才で死去したため、相棒のチョイバルサンと違って、きれいなイメージのまま残っている。
宋慶齢
の登場には若い同志たちは渋い顔をしたらしい。「新社会では一夫一婦でいくはずなのではないですか」と批判したら、孫文は「既成事実は見逃してもいいのでは。君たちもそうしたら?」としゃあしゃあとしていたとか。
1894 甲午 20 27 楊克恭 高群逸枝   甲午農民戦争、日清戦争。
楊克恭は、楊毓麟の娘。1910年に17歳で善化県の張氏と結婚。でも父は婚礼にも帰ってはくれなかった。今と違って往復に数カ月もかかるのでは仕方ないか。花婿は北京の清華学校(米国留学の予備校・現清華大学)に在学していたから、夫妻で留学したのかもしれない。弟の克念(98、99年ごろの生まれ)も清華学校に学ぶ。楊毓麟克恭を静、克念を得と呼ぶが、幼名だろうか。静と得って大学から?
逸枝さんの父は民権運動の残党で、妻と対等なよい関係を結んでいた。民権運動の成果だと言ってよいと思う。37歳で研究を始めた逸枝さんは、尊敬すべき人だ。日本の女性史の開拓者です。
1895 乙未 21 28 蔡和森   チョイバルサン 蔡和森楊昌済の湖南第一師範の教え子で、毛沢東の親友で同志。同様、師に絶賛されている。
チョイバルサン
スヘバートルと並んでモンゴル独立革命の英雄なのだが、モンゴルのスターリンとも呼ばれてしまっている。
1896 丙申 22 29   牧野信一   マキノは好きです。
1897 丁酉 23 30   大佛次郎   大佛次郎野尻抱影の弟。戯曲に志を持ちながら、食うために書いた「鞍馬天狗」が売れに売れて、あとにひけなくなったとか。筆名は「鞍馬天狗」用に考えたもので、鎌倉出身だから「だいぶつじろう」としたのを、周囲が勝手に「おさらぎ」と読んでくれたそうだ。大仏氏は鎌倉幕府だからそれでいいのだろうけど。それにしても、いかにも使い捨てのいい加減な筆名だ。ぜんぜん本気じゃなかったのだろう。気の毒に。
1898 戊戌 24 31 楊開智
周恩来

許広平
    戊戌の変法、戊戌の政変。
楊開智楊昌済の息子。 妹の開慧(1901年生まれ)は、毛沢東の最初の妻。は晩年、身のまわりの世話をする秘書たちに、開慧と同じ髪型をさせていたって本当?
許広平魯迅の妻。教え子だったのよね。歳もずいぶん離れている。

 最後のほうに空欄が多いのは、辛亥革命の範囲を出てしまうからです。あしからず。


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