千歳村から 〜日記のようなもの      

8月1日(火)

 昨日は陰暦の七月七日、たなばただった。高校の友人たちは山へ行ったそうだ。きれいに晴れたとか。

 やはりたなばたは、梅雨の明けた陰暦ですべきだと。

 

 

8月3日(木)

天神様へお参り。

 不忍池の蓮はだいぶ咲いた。元気に繁っているが例年より花が少ないように思える。わたしの気のせいだろうか。

 蓮の花は好きだ。屈原の花。仏様の花。光を放っているとしか思えぬ華やかさなのに、なぜにこんなにも清らかなのか。なるほど、激情的で高潔な屈子の身を飾るのにふさわしい。そしてあの清楚に輝くつぼみの中には、小さな仏様が坐っていらっしゃるのだ。

 おそろしい暑さに閉口したが、時おり気持ちのよい風が吹いて生き返る気がした。風を受けて、日を透かした蓮の葉が、一斉にわさわさと。永井荷風の号の由来は知らないが、こんな風をいうのかなと思った。荷風に心酔する宮本なら知っているのだろう。

 

8月3日。95年前の今ごろは、篤生はもう、どうにもならなくなっていたのだろう。彼にとっていい話ではないし去年も書いたので詳細は省くが、さいごの頃、彼は常軌を逸した言動で、呉弱男を怯えさせ章行厳を泣かせたという。

屈子と同じ楚人らしい激情性を有するとはいえ、あの頭の切れる端正な人が。

そんな騒ぎも、昨日今日のことではあるまい。

 

そして明日には汽車に乗ってリヴァプールへ。

 

 

●8月5日(土)

 楊毓麟先生、没後95年。

 毎年同じことを書いてもしかたないので、今年はただ静かに偲ぶことにする。

 

 一つだけ。

 彼は何より思想家としてすばらしい。傑出した人だと思う。

 

 

8月17日(木)

TVの日本昔話は昔から好きでよく見るのだけれど、今はかつてのように素直に無邪気には見にくくなっているる。

例えば昨夜の「河童の雨ごい」。

村はずれの沼に河童が住み、悪さをしては村人を困らせていた。旅の僧がそれを聞き、河童を訪ねて訳を訊くと、河童は、人でもなければ魚や亀でもない我が身が悲しいので、苛々して悪さをするのだと訴えた。僧は、そんなことをしていると後生が悪く、来世はもっと悪いものに生まれてしまうが、善根を積めば次は人間になれるかもしれないと、諭して立ち去った。

 やがて村が旱になり、人々はやぐらを組んで雨ごいをしたが、一向に雨は降らなかった。そこに河童が現れたため、人々は日ごろの恨みをはらさんと、袋叩きにした。さんざ打ちのめして縛り上げると、河童は自分に雨ごいをさせてくれと言う。そこで、縛ったままやぐらに上げると、河童はそれから何日も、飲まず食わずで一心に祈り続けた。何日も何日も。その姿を見て村人たちも祈り始めると、やがて大粒の雨が降り始めた。そして人々が狂喜する中、河童はむくろになっていた。

 そこにあの旅の僧が通りかかり、河童の死んだことを知ると、自分が河童に諭したことを村人たちに話した。村人たちは、河童は人間に生まれ変わると信じて、沼のほとりに遺骸を葬り、祠を建てて祀ったとさ。

 

 というのだけれど。

 河童って何だ? 水の精? 妖怪? ばかな。人間だ。仲間から離れた漂泊民か何か、ともかく村社会の埒外に置かれた、被差別民に決まっている。人間扱いされぬ彼が、人間になるために身を投げ出す。陰惨な話だ。

 一皮むいただけで、やりきれなさが増すが、勇をふるってもう一皮むいてみる。

 

 河童は自ら志願したことになっているが、そうでなかったとしたら。

なぜ河童はしばられていたのか。

巫覡、不具者、戦争捕虜、奴隷などなどを、雨ごい等の儀式の際に焚いたり日干しにしたりということは、太古から行われてきた。左伝にも、旱のときに君主が、巫女を焚こうかとか、せむしを晒そうかなどと言って、賢臣に諌止された例が出てくる。諌止したのだから当時既に蛮行とみなされていた、などというのは理屈に過ぎない。せっぱつまった人間の考えることに、そう変わりはない。人柱の噂のあるトンネルなんてあちこちにある。問題解決のために犠牲が要るとされたとき、河童が使われる。あれは埒外の存在であり、人間ではないということにする。人間でないのなら、殺しても問題ない。そして、捕らえてしばって犠牲として晒した。

 

では、あの僧はなんだろうか。彼が河童に会って間もなく、たまたま旱になったのだろうか。そうではなく、旱になってから河童に会い、はじめっから雨ごいのために河童を諭し、因果を含めたのではないだろうか。だとしたら、僧は村人に加担して河童を死なせたことになる。河童の後生はおそらく保証されるから、騙したとは言いたくないが、僧は少なくとも河童の切なる願いを利用したことになる。

 

あるいは、僧などいなかったのかもしれない。河童を殺したことは仕方がなかったことではあると正当化はしても、一抹のやましさは残る。不憫だとも思う。だからせめて、来世では「人間」に生まれて幸福になると、もっと言えば、自分たちの行為は彼が人間になるのに資するものだったのだと。そういうことにしたかったのかもしれない。

 

 なんにせよ、やりきれない。

 

 

8月24日(木)

 連日暑くて、背中に地図を描いて歩いている。

ぼうっと空など見ていないで、下見て歩かなければいけない。蝉やらカナブンやらの死骸が転がっているから。

 

 昨日で陰暦七月が終わったので、居間の陰暦カレンダーをめくったら、今日からは八月ではなく閏七月だった。陰暦は好きだけれど、ときどきこういう大がかりな修正が必要なのだね。

 楊篤生の命日に七月説があるのは、閏六月を六月と間違えたためだと思われる。陰暦六月なら7月6日になる。でも、楊昌済先生は閏六月十一日と書いていて、これはリヴァプールの墓地の碑文にある1911年8月5日と合致する。だいいち、昌済先生が間違えるわけありません。

 

 

8月25日(金)

 冥王星が惑星じゃなくなってもいいじゃないか。なくなるわけじゃないし。冥王星も入るように惑星を定義すると、幾つに増えるかわからないと言われれば、それまでだ。

 確か高校のときに、『天文ガイド』でローウェルのことを読んだ。パーシヴァル・ローウェル。天文マニアで日本マニアのアメリカ人。望遠鏡で火星を見ていて「運河」を発見してしまった人。この人が第9惑星の存在を予言していた。で、その後ほんとうに発見されたとき、彼に敬意を表してプルートと名づけられたそうだ。プルートはもちろんギリシアの~の名だが、よく見るとローウェルの頭文字、PLが織り込まれている。うまくつけたなと、おもしろく思ったので憶えていた。

 ローウェルさんも、太陽系には八つの惑星だけでなく、わやわやと色々な天体で賑わっている、ということで満足してくれるのでは。

 

 冥王星という和名をつけたのは、わたしの大好きな野尻抱影。朝刊の一面トップの記事に、抱影の名を見出すなんて、これっきりないだろう。そんな小さなことがうれしい。

 もし今後あるとしたら? 「鞍馬天狗」は抱影作だった! なんてことでもなければ、ないでしょう。そんなことあるわけないし。

 

 夏前だったか、白川『字通』がもう一冊必要だということになり、ネットで調べて都下の古書肆へ夫と買いに行った。店頭のガラスケースの中に鎮座ましましていたのを、店のおじいさんに出してもらった。ついでに文学全集の大佛次郎の巻も買おうとすると、老人は「大佛はおまけします」と言って、豆知識を一つくれた。鎌倉の人なので筆名を「だいぶつ」にしたが、人が勝手に「おさらぎ」と読んだのだと。

 なるほど。やっぱり全然本気ではなかったのだね。いかにも一回こっきり用の、冗談性の名だ。

 大佛は金のためにやむなく筆を曲げて「鞍馬天狗」を書いたのだと聞く。だからそんな冗談みたいな名にしたのだろう。それが売れに売れたから、やめられなくなってしまったわけか。

 わたしは大佛はあまり知らないのだけれど、「詩人」には泣かされた。心が壊れるかと思った。

 

 ここでわたしも豆知識をひとつ。

 抱影が書いていたのだけれど、大佛は子どもの頃、本名の清彦を鎌倉辺のなまりで「きよしこ」だと思っていたとか。中学校のノートの表紙にローマ字で「KIYOSHIKO」と書いてあるのを抱影が発見し、驚いて注意したそうだ。自分の名前を「間違って」認識していたとは、兄の抱影よりも大佛自身がどんなに驚いたか。

 

 でも別に「間違って」いるわけではないんだ。鎌倉ではそれで問題なく通用するのだから。

 

 

8月30日(水)

「弥生時代がいつ始まったか」、で考古学の人たちは大もめにもめているそうだ。簡単な農耕は縄文時代から行われていたわけだから、要は、「簡単にはいかない(つまり、それによって社会のあり方まで変わってくる)稲作がいつ始まったか」、もっと言えば、稲は日本原産ではないのだから、「稲作はいつ伝来したのか」、が問題なのだろう。

 では一体、「稲作技術の伝来」つてなんだろう。と思い、素人なりに考えてみた。

 技術の伝来とは何か。『はじめての米づくり』や『これであなたも稲作農家』などというマニュアル本を輸入したわけではないから、もちろん技術の伝来とは技術者の渡来のこと、技術を身につけた人がやって来たということである。

 人が来たとは、どういうことか。青年海外協力隊ではないのだから、わざわざ海を越えてやって来て、倭人たちに稲作技術を指導して、自分たちでできるようになったのを見定めて去って行く……なんてことをするわけはない。

 では何だ。

 移民だ。

 新天地を求め、種籾を持って海を越え、野蛮人の島に至り、土地を拓いて田を作り。そこで原住民とどういう交渉があったかは分からない。自発か強制か知らぬが作業を手伝った者もあるだろう。そして実った米を食べさせてもらい、こんなおいしい物がこの世にあるのかと、驚いたかもしれない。

 そこから先は知らない。何百年もかけてじわじわ広がったのか、あっという間のことだったのか、専門家に訊いてほしい。

 

 わたしが知りたいのは、渡って来たのが誰だったのかだ。わざわざ危険を冒して海を越えて来たのはどういう人たちか。冒険好きの酔狂者? 普通に考えれば、亡命者、難民だ。戦乱か何か、故地にいられない事情ができて、やむなく大挙して海を越えたのだ。

 動乱というと、まず思いつくのは殷周革命で、これだと弥生時代の始まりをかなり早める説に符合するようだ。しかし残念ながら、殷は高度な農耕文明ではあったが、地理的に稲作圏ではない。殷の遺民が日本に渡って来ている可能性は大きいと思うし、その日本への影響も大きいと思うが、稲作とは関係ないだろう。稲作というなら、やはりもっと南、呉や越の辺りか。となると、時代はずっと下って春秋末期の越による呉の滅亡か。

さらに下って戦国時代になると、世をはかなんだ人たちがどっと渡ってきていても不思議はない。あるいはその末、秦の始皇帝の活躍と漢楚の抗争の頃。魯仲連の元祖「踏海」発言もあった。あれは秦王政を皇帝と呼ぶくらいなら東海を踏んでやる、つまり自尽するということだけれど、死なないで東海を越えて亡命してもよかったわけだ。そういう人たちもいたのではないかな。

 

もちろん、渡来人の故地は大陸よりも朝鮮半島のほうが主だろう。わたし自身、埼玉産の父を通じて、朝鮮の人々の血を受け継いでいると思う。

でも、案外多くの人たちが、半島を経ずに直接渡って来ていたのではないかと想像する。

 阿倍仲麻呂や鑑真和上のように難儀する人もいるけれど、海流や風を捕まえられれば案外簡単に越えて来られるようだし、実際かなり古くから交流はあるようだ。

 春秋期の地図を見ていると、「越」という地名は今の浙江省のほかにも、ベトナムをはじめとしていくつか見受けられる。みんな海辺だ。と思っていたら、日本にもあった。今でこそ裏日本などと失礼な呼び方もされるが、ちょっと前までは堂々たる表玄関だった越の国が。

 

 なんてぐだぐだ考えていくと、この島国も東アジア世界の末席に連なっているのだと、改めて感じられる。

 もっと大きく見れば、まさに島尾敏雄の言うとおり、フィリピン、台湾、沖縄、奄美、九州島、四国島、本州島、北海道、そして千島や樺太まで、ひと連なりに連なっているんだなと。そして人々は太古から往来していたのだと。そこにはもとよりどんな線も引いてはいないから、そんな線はどこにでも引けるし、どこにも引かなくったっていいんだと。

 そんなことも思った。

 

 

 

 

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