千歳村から〜日記のようなもの      

 

2005年8月3日〜

 

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8月1日(月)

危ない、危ない。

定説やら一つの史料やらを鵜呑みにするのは危険だと百も承知でありながら、ついつい油断してしまう。

それにしても、今まで疑わずに諸事の前提としてきたものが、こうも簡単に崩れてしまうと、やっぱり呆然とする。

後で改めてまとめるつもりだが、とりあえず今はこれだけ。

章行厳先生、ごめんなさい!

 

 

例えば楊篤生の生年。1871年説と72年説とがあるが、わたしは72年説をとる。曹亜伯『武昌革命真史』で楊殿麟による伝記というのを引き、そこに「同治壬申十月」とあるからだ。これは陽暦の1872年11月1日から30日にあたる。実弟の言ならば間違いはないだろう。

では71年説はどこから出たのか。よく分からないが、馮自由の『革命逸史』に71年とあるから、この辺が根拠かもしれない。『革命逸史』はよく引かれる文献だが、ここに関してはうなずけない。

 

また、楊篤生が進士だとするものをよく見るが、わたしは彼は進士にはなっていないと考える。『武昌革命真史』の殿麟による伝に「戊戌一試春官」とあり、わたしは意味をとりかねているのだが、なるほどこれは戊戌の歳に及第して進士になったようにも思える。

しかし、明清進士題名録をいくら探しても、楊毓麟らしき人物は見当たらない(蔡元培はあったけど)。

また、『湘報』にある湘省出身の及第者の名簿にも、彼の名を見ることはできなかった(『湘報』には彼は挙人として出ている)。

さらに、楊昌済の「踏海烈士楊君守仁事略」を見ると、十五で博士弟子員(秀才)となり丁酉(97年)に抜貢、さらに挙人に、とはあるが、進士になったとは書いていない。この伝記は曹亜伯が引く湘人作のものとは違い、反清革命家としての楊篤生ではなく、憂国の立派な士人としての彼を記したものであるし、この書き方であれば、進士になっているのなら当然書くはずだ。また、彼らの関係性から見て、勘違いやうっかり書き落とすことは、到底考えられない。

 

ということで、彼は進士にはなっていないと思われるのだけれど、どんなものなんでしょうか。饒懐民氏は進士にしていないけれど、『辞海』でも進士となっていたなぁ。新しいものが進士としていると、さすがに気になる。横山先生、どうして説を変えてしまったんですか?

 

 

●8月4日(木)

1911年8月4日、楊篤生は夜汽車でアバディーンを発ち、リヴァプールに向かう。

 

●8月5日(金)

 楊守仁没後94年。

 

 曹亜伯によれば、赤インクでしたためた遺書をリヴァプールの駅から郵送。爆弾製造のために貯めていた100ポンドを黄興に革命資金として、路銀の余り30ポンドを老母に養育の恩に報いるために、それぞれ送るようにと記す。遺書はロンドンの石瑛、呉稚暉宛というが、楊昌済と弟の殿麟にも書いている。

 そこから普通電車で海へ向かい、服を脱ぎ、中国人と分かるよう紙傘を添えて置いて、下着姿で海に入る。

 ロンドンから呉稚暉等が駆けつけた時は、既に漁夫によって引き揚げられて柩に納められていた。

 

 

●8月6日(土)

1911年8月19日にドイツ留学中の蔡元培が落手した、ロンドンの呉稚暉よりの17日付書簡。

楊篤生踏海の詳細と、その後の処理について。

8月10日、華僑公所で追悼会。参会者四、五百人。呉が故人の生平(生涯)について報告。この夜、駐英留学生監督の銭文選も来る。

8月11日午前、葬儀。リヴァプール市の東北隅の公共墓地に葬る。参列者二百人。費用は十八ポンド。高碑を建て、題して「中国踏海烈士楊先生守仁墓」、この費用が四十ポンド。これらの費用は銭氏が出した。

ここに葬ったのは、行厳らと相談して皆で納得して決めたことで、理由は以下のとおり。

 

一、東の三島(日本)に朱舜水あり、西の三島(英国)に楊守仁あり。ともに永遠に芳名を遺す。

 

二、遺骨をかえすと、陳天華先生のときの騒ぎや(岳麓山事件)、秋瑾女士の墓が暴かれたような、おもしろくないことも起こりうる。

 

三、遺骨がなければ、老母を騙しとおすこともできるかもしれない。いたずらに悲しませることはない(篤生は老母には死を秘すようにと遺言した)。

 

四、遠すぎる。

 

楊昌済は後年の日記に、「篤生をリヴァプールで葬ることに私も賛成した」と記している。そして、「性恂(コ鄰)もまた賛成した」として、その手紙を引いている。故国が光復した暁には、烈士の英霊は必ず怒潮となって東返すると。

昌済が賛成した理由は記されていないが、コ鄰の理由は呉たちが述べるところとひと味違う。コ鄰としては、やはり帰ってきてほしかったのだろう。

それにしても、こんなにたくさん理由を並べねばならないというのは、それだけ異郷の地に葬ることに対する抵抗感が強いということか。

 

また、朱舜水と同列にするとはすごいが、おそらくそれが彼らの気持ちなのだ。篤生の死は陳星台や姚剣生(洪業)とは違い個人的なもののはずだが、彼らはそうは受け取らず、自身に近い問題として感じ取ったのだろう。だからこそ篤生は烈士と呼ばれ、民国成立後には他の烈士たちとともに顕彰されているのだ。

 

なお、蔡元培は呉稚暉から手紙を受け取った翌日の8月20日、伝記「楊篤生先生踏海記」を書いている。このすばやさは、篤生の死が蔡にとっても大きな衝撃であったことを示しているといえよう(ここには呉から送られたらしい篤生の遺書も引用してあるが、つらすぎるので今は措いておく)。

 

曹亜伯は『武昌革命真史』に、「葬儀にはずいぶん遠方からも集まったが、章士サ呉弱男夫妻だけは来なかった」と書いている。しかし呉の書簡によれば、「行厳と相談した」となっている。ということは、章士サは葬儀に参列したのだ。昌済もいるのに、わざわざアバディーンの章と相談するわけがない。章もリヴァプールに来ていたと考えるのが自然だろう。ただ、呉弱男は本当に来なかったのかもしれない。幼児を二人も抱えているし、後述の理由から彼女が篤生に反感をもっていても不思議ではないから。

 

民国十六年(1927年)に出された『武昌革命真史』と、事件直後の呉の書簡と、どちらが信頼できるかは言うまでもない。27年なら章士サは生臭い政治のまっただ中にあり、批判も相当に多かったから、色々な意図が交じる可能性もある。一方、呉稚暉が蔡元培宛の私信で、事実を曲げてまで章士サをかばう理由はどこにもない。曹亜伯は当時英国留学中で葬儀にも参列していたので、つい鵜呑みにしていたが、いけないようだ。

 

もっとも、踏海直前に楊篤生が章士サと仲違いしていたのは事実らしい。楊は章に対し些細なことで激昂して常軌を逸した態度に出たため、呉弱男は怯えて逃げ出し、平生人前で泣くことなどない章も、このときばかりはあまりに情けなくて涙を禁じ得なかったという。「些細なこと」だったかどうかは篤生の言い分も聞かなければ判断できないが、篤生が騒ぎ章が涙したということだけは、楊昌済が証人に立てられているから事実なのだろう。

 

齟齬が生じた原因は分からない。金銭問題という説もある。篤生は遺書で章を謗っており、何かあったのは間違いない。それが何で、どの程度のものだったのか。

 

篤生は元もと円満な性格とは言い難いとはいえ、常軌を逸した行為というのは、やはり病気のせいであったと考えるべきだろう。彼の頭痛は渡英以前から始まっていて、上海時代に既に健康体とはいえなくなっていた。彼の健康状態については昌済のほかに于右任も記しており、渡英の際に兄のコ鄰に薬を持たされたこともわかっている。あるいは留日時代の爆弾暴発事故で隻眼を痛めている(失明ともいう)こととも関係があるかもしれない。

頭痛と不眠とが耐え難いほどになっていて苛々してしたところに、「些細なこと」かどうか、ともかく何か気に障ることかあって、ヒステリーでも起こしたのだろう。文弱の身であっても大人の男の人が本気で怒れば怖いから、たとえ気の強い弱男であっても怯えるのは無理はない。

もちろん篤生の苦悩は頭痛だけではないが、今は触れない。

 

ついでながら、楊昌済が書いた「踏海烈士楊君守仁事略」について少々。

白吉庵氏は『章士サ伝』で、民国初年の政争の中で楊篤生の遺書が章士サ攻撃に使われ、困った章が楊昌済に証言を頼み、その結果書かれたのがこの文章だとしている。「篤生が頭痛に耐えかねていた」と記すことで、彼がとてもまともな精神状態にはなく、そういう人の書いた文章は信ずるに足りないと暗に証しているのだと。

しかし、この政争や章からの昌済への依頼の手紙は1912年夏のことである。一方「踏海烈士楊君守仁事略」には、篤生踏海を「今年閏六月」と記している。陰暦の辛亥の歳は陽暦1912年2月までであるから、時期的に合わない。さらに、この文章が発表されたのは『甲寅雑誌』第一巻第四号、1914年11月である。『甲寅』以前にも一度発表し、そのときに加筆や操作がなされた……という可能性は皆無ではないが、やはり白氏の説には少々無理があるように思える。

 

 

8月20日(土)

 日露戦争まではよかったと言いたがる人が多いのは不思議だ。アジアを喜ばせたとか。

 

植民地取りっこ戦争であることには、全く変わりがない。だから堺や幸徳は反対したわけだし、日清、日露から十五年戦争まで、真っ直ぐ続いているんだ。

 

それに、取りっこの対象となった朝鮮、中国が喜ぶか?

 

 勝ったからだろ。勝ったから、よかったといいたいだけだろ。

 敗戦の原因をつくった人を「戦犯」と呼ぶのと同じだろ。

 戦犯は戦争犯罪人(戦争を起こした人や、捕虜虐待などの戦争犯罪者)であって、勝敗とは関係ないのに。

 

 

8月21日(日)

 変法期を扱った本を読んでいると、24、5歳の楊篤生に会える。維新派激進分子として、『湘学報』にずいぶん書いているし、湖南時務学堂の教習も務めた。

 

 その後、しばらく郷里に身を潜め、それからどうしたのだろう。自立軍に参加したという説もあるけれど、確証がない。というより、加わっていない可能性のほうが強そうだ。誘われなかったのか、断ったのか。

 

 で、いきなり、『游学訳編』、『新湖南』。ばりばりの革命家、テロリストとして現れる。

 

 潜伏期間に、いったい何を考えていたのだろう。

 

 そういうことが、何もわからない。どうしても年譜が埋まらない。

 

 唐突に死んじゃうしなあ。

 

 

8月26日(金)

楊篤生と紹興グループとの関係について少々。記憶に頼って未確認の箇所もあるので、不正確かもしれないけれども。

 

私見では、楊篤生は1903、04年には湖南に入っていない。つまり華興会結成の際に彼はいなかった。といっても、華興会に加わらなかったわけではない(ちなみに、長沙で黄興らの活動の隠れ蓑になっていたのは、大郷紳の龍氏と、黄興が教員を務めていた明徳学堂だが、龍氏は篤生のパトロンであり、篤生の実兄徳鄰は明徳の教員で華興会シンパだった、などという事実もある)。

そのころ篤生は上海にあって、光復会に集まることになる人たちと連絡をとっていた。あるいは光復会は華興会の別組織(下部組織ではなく、いわば長沙班に対する上海班のような対等で並列的なもの)だったのかもしれない(中村哲夫「華興会と光復会の成立」参照)。というより、軍国民教育会の暗殺団から光復会が生まれたようなので、華興会と光復会とは同会の双子の子どもというべきか? そこで蔡元培が篤生に共鳴し、その爆弾研究に自分の愛国女学校の器材を提供するなどしている。蔡の篤生に対する思い入れの強さは、「楊篤生先生踏海記」によく表れている。そして陶成章ももちろん、重要なメンバーとしてそこにいた。

 

ただ、この辺の人間のつながりは、思いのほかぐちゃぐちゃしているようだ。

篤生は英国で呉稚暉と親しく交わり、呉を遺書の宛先の一人にしている。その呉がかつて東京で成城学校事件に関連して江戸城のお濠に飛び込んだとき、彼に付き添い保護して帰国させたのが蔡元培。呉、蔡ともに欧州留学後も連絡は密で、蔡の「踏海記」は呉よりの書簡を受けて書かれている。呉は共通の友人として、篤生踏海について詳しく書き送ったのだろう。

ところで、呉稚暉は孫逸仙とも親しかった。東京で同盟会やアナキストグループに孫批判が高まる中、孫は欧州グループに味方を見出していたようだ。『孫中山全集』にはかなりの数の呉敬恒宛書簡があるが、その中には陶成章による攻撃についてこぼしているものもある。

陶成章は逸仙批判の急先鋒で、ほとんど斬奸状めいたものまで書いていた。

陶、蔡、呉、孫と、妙なねじれを示しているようだ。

ちなみに楊篤生は、おそらく孫逸仙と会ったのは09年10月21日、ロンドンでの一度だけだろう。ロンドンに立ち寄った孫を篤生が訪問したもので、孫はこのときの篤生について悲しげで物腰の丁寧な人だったと語っているが、篤生が孫をどう見たかは残念ながら不明。それより前の06年3月には、東京で若い宋遯初を相手にさんざんに謗ったようだが。

なお、黄興が孫に提出した人材リストで篤生を絶賛したのは、この会見よりも後の10年5月のことだ。

 

ほかに紹興人と湘人との関係としては、秋瑾が劉道一と近しかったこと、周作人が章士サの妻である呉弱男とマラテスタの文章を共訳していることなども思いつくが、あまり関係はないか。

 

 

8月28日(日)

 華興会結成の二回の会合に顔を並べたのは誰々か、なにぶん地下活動のことだから当事者たちの回想によるしかない。それが複数あって、その間に若干のずれがあるのだが、そのいずれにも楊篤生の名が出てこないことを、中村哲夫氏は訝しんでいる。

 わたしはこのとき篤生はいなかったと思っている。

 

 英国から儷鴻夫人に出した手紙で篤生は、辛丑冬に別れて以来あなたと会ったのはわずかに二回、会わせても一カ月にも満たないと書いている。

 二回というのは、06年に姉の喪で四日間帰郷したことと、渡英直前に上海に家族を呼んでしばらく一緒に暮らしたことをいうのだろう。妻宛の私信、それも恋文としか読めない内容の手紙で、嘘を書くことは考えられない。

 長沙の城内から高橋まで、ものさしで計ったら40キロほどだった。40キロといってもぴんとこないのだけれど、子どもたちを学校に入れろと指示する手紙では、心配なら毎週末に轎(かご)を迎えにやればいいと言っているし、高橋より数キロ先の板倉の昌済宅には、後に蔡和森や毛沢東が入り浸ることになるし。

要するに、帰ろうと思えば簡単に帰ることのできる距離ということ。03、04年なら維新期のほとぼりも冷め、別に追われる身でもない。

 

 もちろん、帰っていないのだからいなかった、と決めつけることはできない。でも、やっぱり長沙にはいなかったという気がする。気がするだけだけど。

 

 それにしても、妻を愛する男性は魅力的だというのは同感だ。篤生は妻を、子どもの母として、楊家の嫁としてだけ、大切にしていたのではない。それは周儷鴻という一人の女性に対する愛情だったと思う。自分の写真の裏に詩を書いて送ってくるし、あなたの写真を送って下さいなんて言うし。どうせ英国婦人に「まあ! 奥様の写真もお持ちでないなんて! まあ、まあ!」とかって言われたんでしょと、やっかみ半分に言いたくなるわ。

 

 パリの娼館に連れて行かれて、化け物みたいな白人娼婦たちに目を白黒させたこともあるにせよ。

 

 

8月29日(月)

 大騒ぎして呉弱男と結婚した章士サは、弱男の四十歳の誕生日に詩を贈っている。その前々年には教育総長として学生たちに自宅を打ち壊されるなど、彼女には多々苦労をかけてきたからか。

 

 でも章行厳先生には奥さんが三人いる。だからてっきり弱男とは死別したものと思っていたが、彼女が亡くなったのは行厳が亡くなる3カ月前だとか。

 

 行厳は二番目の妻を亡くしてから寂しく暮らしていたが、突然、三番目の妻に会いに香港へ行くと言い出す。北京から香港へ、長途で気候も違うから、高齢の身では無理だと家族はとめた。でもじっさまは頑としてきかない。周恩来から言ってもらうが、それでもきかない。毛沢東に頼むと、あの老人は誰にもとめられないということで、政府専用機に医師団をつけて送り出した。

 でもやっぱり無理な話だったので、間もなくそのまま香港で死去。満九十二歳。

 

 

8月31日(水)

畏友K氏より、「陳天華が出てくるし、なにより良書だ」ということで薦めていただいた、山室信一『日露戦争の世紀』(岩波新書の先月の新刊)を読了。なるほどよい本で、得るところが大だった。著者の考え方や、全編を通しての枠組みや流れは、実際に読んで汲み取るしかないので、ここでぐちゃぐちゃ書いても詮ないこと。

 

 だから細かい話をすると、例えば日露戦争中に神田駿河台のニコライ堂が、ロシア正教でありながら無事に守られたことは、美談として語られている。けれども実は、世界の輿論に対するPR戦の中で、「キリスト教文明国に対する野蛮な仏教国の戦争」ではないということを世界(欧米列強)に示すためには、ニコライ堂は守られなければならなかったのだとか。そして実際には、当局の意向にもかかわらず、正教徒の多くが露探として迫害された。あの鐘の音を聞く度に思い出すことになりそうな話だ。

 また、非戦論もそれに対する反論も、現在行われているものと同じ論が、日露戦争期に既に出揃っていたとか。

 

 そしてミーハーたるわたしが一番反応したのは「露探」の二字。ロシアのスパイということなのだけれど……。

 蔡元培によると、楊篤生が天津から北京に行く舟で乗り合わせた日本人たちに、露探と間違えられたことがあった。篤生は、「殺されるのなどなんでもないが、露探の汚名は我慢がならない。自分は支那の革命党である!」と啖呵を切ったとか。要人暗殺を企てて潜伏中の身なのになんてこと言うんだと、きれいな顔してなんとまあ湘人らしく情の毅いことと、呆れるばかりだったのだけれど。

 露探と疑われたというのは、本当に危なかったのだ。そこで殺された可能性は十二分にあったのだ。

 

 

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