千歳村から 〜日記のようなもの      

3月6日(月)

 陳星台先生生誕131年。西暦1875年3月6日土曜日、光緒元年(乙亥)正月二十九日、湖南省新化県下楽村に生まれた。

 心ならずも中国近代史に首を突っ込んだわたしが、こんなにずっぽりとはまり込んだのは、ひとえに彼に出会ったことによる。

 この稀有な魂をこの世に産んでくれたことを、宝卿公ならびに名も分からぬ母の羅氏に感謝します。

 

 と、いうことで、東新訳社の辺りと思しき公園で、ばかの一つ覚えの普門品偈を誦してきた。彼本人が金光游戯観音を名乗ったからだけでなく、その絶筆となった宝卿公の伝記に記された父と祖母のありかたが、どうも観音の門弟らしく見えるから。

 

 彼の国では観世音菩薩は民間宗教に取り込まれて、観音という女神(!)になっているとか。宋代のお姫様の生まれ変わりだとか何だとか。もとは仏教の菩薩だということすら、忘れられていると聞く。

 観世音菩薩ことアヴァローキテーシュヴァラはもちろん男だが、女性的なイメージが強いのも確かだ。ちなみに、観世音というのは誤訳らしく、観自在菩薩というほうが原義に近いそうだ。わたしはどちらでもいいと思う。観音様と呼び慣れているのだから、それはそれでいいではないか。

 

 

●3月11日(土)@

 ここ数日、書きたいことはあったが、自由な時間がとれなかったので、ここでまとめて。

 

例年3月10日が近づくと、大空襲関係の報道がぽちぽち出てくる。今年も数日前から新聞の地方面等に毎日のように記事が出て、今日もかなりのスペースを割いていた。けれども夫はそれらを見ようとはしない。

昨日もTVのニュースでその話題が始まると、「わるいけど」と言ってチャンネルを変えた。「やっぱり辛いから。新聞でもよく取り上げてくれてありがたいけど」と。

この人は子どものとき、家にあった早乙女勝元『東京大空襲』を何の気なしに読んで、うなされたそうだ。自分が関係者だと知ったのは、その後のことだとか。

早乙女氏をはじめとする方々の、忘れまい、忘れさせるまい、という営みは、大切なことだし敬服する。けれども一方には、忘れたい、できればなかったことにしたい人たちもいる。いずれにせよ、たいへんな思いをされて生きてこられたので、それはわたしなどの思い及ぶところではない。

 

本当のことを言うと、委細は知りたくない。一晩で十万人が焼き殺された、それで十分だ。想像を絶する非道な恐ろしいことだということくらいはわかる。

と思ったけれど、昨今のTVのCMのえげつない表現(殺虫剤とか洗剤などなど)を見ると、ひょっとしてイメージを喚起する力が落ちている人が多いのかとも思う。あんな「リアルな」映像は不必要だし不愉快なだけなはずなのに、そんなのが増えているような気がする。

十万人などと言われても、たった十万? 戦国時代の長平の戦いなんて四十万人生き埋めだよ、なんて言われかねないか。

 

ともかく。

恐ろしい思いをしながら亡くなった十万人の方々と、辛い思いで生きてきた連なる方々のために、昨日は祈らせていただいた。そしてありきたりだが大事なこと、非戦の誓いを。わたしは誰も殺したくないし、殺されたくないし、殺させたくもないと。

 

附記:非戦闘員を狙った大量虐殺は犯罪であり、夫はなろうことなら米国を訴えて一言謝らせたいと言う(米軍は木と紙の日本家屋の模型まで作って、最も「効率的に」殲滅する研究をしたと聞く)。当然ながら、同様に、重慶その他の方々は日本を訴える権利を有する。

 

3月11日(土)A

 昨日、エレファントカシマシに激震。3月4月の公演中止。トミこと冨永義之が体調を崩し、入院、手術。最低一カ月の治療と安静とが必要とのこと。

 後ろで夫がまくしたてる。

慢性硬膜下血腫って、脳の血管が破れたか何かしたんじゃないのか。パンチドランカーとかゆさぶられっ子症候群みたいな。だとしたらドラマーの職業病だ。今は手術して快方に向かっているといっても、この先どうなるか。ライブは減らした方がいいし、本当は5月の公演も止めるべきだ。エレファントカシマシは四人でエレファントカシマシなので、一人でも欠けたらそれはもうエレファントカシマシではない。大事にしてもらわねば。

 

同感だ。15歳で結成し、19のときに成ちゃんが加わってから、まる20年。宮本の才が突出しているから、「宮本浩次とエレファントカシマシ」みたいな時期もあったけれど、ここのところバンドの演奏が格段にうまくなり、バンドの一体感みたいなものが増していただけに、とっても心配だ。ライブの成否はひとえにトミのできにかかっているところがあるから、いつもトミに重点的に声援を送っているんだ。

とにかく、無理をしないで、ゆっくり養生してほしい。

 

とかなんとか言いつつ、エレカシの前日なので諦めていたカスタのライブのチケット、さっさと買ってしまった。不実なファンでごめんなさい。

 

 

3月11日(土)B

 おととい湯島の天神さまへ行ったら、梅はやっと咲きそろってくれていた。わたしの好きな女坂からの眺めは壮観だった。

 不忍池には、妙な咳のようなものをしているオナガガモがいた。まさかインフルエンザでは。冬鳥は北から来るのだから大丈夫かとも思うが、ヨーロッパで白鳥から出たといっていたような気もするし、ちょっと心配。餌づけに励むカモおじさんたち、危なくないだろうか。

 

 湯島の梅を夫に見せたいと思ったけれど、さすがに土曜日は混雑するだろう。と迷っていたら、逆に夫から谷保天神に誘われた。「やぼてん」の語源とされる天神さま。菅公ファンの夫は去年も行って写真を撮ってきている。

 なるほどいいお社で、素晴らしい梅林だった。天気もよく、紅梅白梅ともに青空に映えていた。マスク越しでも香りを楽しめたが、夫は鼻が詰まっていてわからないと嘆く。

 集った人々は年齢層が高く、なんとものどかな、にっこにこの日だった。

 

 画質にこだわる頑固な銀塩派だった夫も、最近はデジタルを使うことが多くなっている。けれども今日は銀塩の愛機を連れていた。今日はあまり撮らないと言っていたが、それでも3本くらいは撮ったのではないだろうか。

 これから銀塩はどうなっていくのだろう。金食い虫で困ると思っていたが、ここにきてもっと重大な問題が出てきているそうだ。写真屋さんの質が落ちていると。需要が減ったせいか、腕がよいと思って使っていたお店が、だめになってきているそうだ。紙の質も落とされてしまい、思った色に焼いてくれないとか。

 これでは、リバーサルにするか、ネガなら現像だけ頼んで、家でパソコンに取り込んで印刷するしかないと、夫はこぼしている。

 この人はパソコンがあまり使えない。技術的にではなく、身体的に難がある。画面を長時間見ると、ポケモン症候群みたいになって、えらいことになる。液晶は論外だというのでブラウン管に変えたが、それでも厳しいそうだ。

 

 

●3月20日(月)

 毎年書いているような気がするけれど、毎年この日は巡ってくるのだからしかたない。

 1913年3月20日午後10時45分、上海駅で宋遯初君が撃たれた。

 

 毎年のことだから、ちょっと違う話を。(ちなみに、去年はこちら

この年、石川三四郎は周囲の勧めもあって欧州に亡命する。その途次、3月5日の朝から7日の晩まで、船が上海に停泊。その間、彼は上海の黄興宅を訪問。ここで黄興さん、宋遯初君と再会し、歓待されている。

「玄関に飛んで出て、自ら私の外套をぬがしてくれた」ほか、「黄興の家を辞去しようとしたときも、二人は私を抱きしめて別れを惜しみ、外套を着せてから、また抱きしめるのであった。玄関警護の人たちも、あっけにとられていたようだった。さすがに私も、後ろ髪を引かれる思いがした。何ぞ計らん、私が上海を去って一週間めに、宋教仁は帰北の途につかんとしたところを、上海の停車場で袁世凱の手先に射殺されてしまったのである。私はそのニュースをポート・サイドの新聞で初めて知り、船中で悲嘆にくれた。」とのこと。情の厚い人たちだ。

 

なお、石川は欧州で、長年あこがれていたエリゼ・ルクリュの甥のポールや、エドワード・カーペンターと会って、歓待され大喜びしている。

 ポール・ルクリュといえば、この人にはかつて李石曾や張静江らの新世紀グループが世話になっている。というより、彼らがアナキズムと出会ったのはポールと知り合ったかららしい。

 この件に深入りすると遯初君から離れてしまうので今は避けるけれど、改めて思う。からまってるなぁ。

 

 ここ数日たいへんな強風が吹き、ベランダが土だらけだ。でも風のおかげで今朝は富士がかっきりくっきり。今季一番ではないかという鮮やかさだ。

一昨日から鶯が鳴き、桜も品種によっては咲き始めている。木蓮もほぼ開きはじめ、越冬型ではない蝶も見た。きょう湯島聖堂に行ったら、杏が満開だった。春だ。

 

 

●3月21日(火)

 遯初君は今日一日苦しみ続けるのかと思うと、かわいそうでならない。暗殺されることは免れ得ぬことだったにしても、もっと楽に逝かせてあげたかった。

 

 『宋教仁集』の最後にあるのは、袁世凱宛の電報だ。日付は1913年3月20日。黄興さんが代わりに打ったのかと思ったら、そうではなく、本人が口述したものらしい。ずっと意識はあったようだ。

 電文の内容は……自分は曲者に撃たれてもう助からないから、あとはよろしく。民権の保証に尽力し、国会に不抜の憲法を制定させてください、云々。

 この電報を袁が北京で受け取ったとき、たまたま章行厳と会食中だった。行厳は電文を瞥見し、遯初は死ぬまで袁に騙されたことを知らなかったのかと、可笑しく思った。

(もちろん、遯初君は誰が自分を殺すのか百も承知で釘を刺したのだと思うけど)

袁は遯初の死を嘆いてみせ、さらに、これは黄興が主導権争いでやったに違いない、などと言い出した。このため行厳はさすがに腹を立ててその場を辞し、翌日北京を発って上海へ戻った。そして反袁運動に邁進することになる。

 

 革命勃発の報を受けて行厳が帰国したとき、遯初は行厳が英国から書き送った記事の切り抜きの束を差し出したという。遯初君の議会主義の後ろには、英国仕込みの行厳がいたわけだ。

 

 

●3月22日(水)

 手術後、全く望みがないというわけでもなかったらしいが、22日午前4時頃容態が急変。報せを受けた黄興さんが駆けつけると、遯初君は既に話すこともできず、集まった友人たちの顔をながめて、名残惜しそうにしていた。見かねた黄興さんが耳元に口を寄せて、「遯初、安心して逝っていいよ」と言うと、遂に息をひきとった。……と、当時の報道にある。多少の脚色はあるかもしれないけれど。

かくて、1913年3月22日午前4時40分頃、桃源漁父宋教仁死去。行年三十二。31歳の誕生日の二週間前だった。

なお、黄興さんの科白の訳は、とうのそのみ氏にご教示を受けました。

 

 黄興さんはああ言ったけれど、その後の推移は全然安心できるものでなかったのは、周知のとおり。たぶん遯初君は、未だに安心できずにやきもきしているに相違ない。

 

 

3月25日(土)

 昼に歩く飯田町附近や電車からのぞき見る新宿御苑などで、だいぶ桜が咲いてきたので、公園に行ってきた。

 

 途中の民家の庭先で、品種はわからない桜の木の中に、ワカケホンセイインコが三羽入っていて、盛んに花を食べていた。この鳥はこの辺では珍しくなく、群れを成して飛んでいるのはよく見かけるが、至近距離で見るのは初めて。夫はおもしろがって何枚も写真を撮っていたが、全然逃げようとしないで花をむさぼり続ける。夫はリバーサルなので、わたしはデジカメで撮った。 

 公園では染井吉野はまだ咲き始めだが、彼岸桜が満開になっていた。彼岸桜は一週間前は一本だけが二、三輪つけていただけなので、一変した姿に驚いた。コブシ、モクレン、レンギョウ、ボケ、などなども咲きそろっている。

 

 先日おもしろい史料を入手した。いずれ紹介するつもり。

 

 

3月28日(火)

エレファントカシマシの久々のアルバム。正直言って、少なからず不安だったのだが。

 

全く杞憂だった! ライヴで感心しなかった曲も、別の曲かと思うほどよくなっていた。比喩でも誇張でもなく泣かされた曲もある。たまらんわ。

 

だけどこれ、同世代の音楽だ。若い子にはわからないだろう。35歳未満お断りか。

ずいぶん若い頃から「老い」を歌ってきた宮本だが、以前のはイメージの中の「老い」だった。でもここにきてそうではなくなってきている。自分の力の程も見えてきて、残り時間も見えてきて、その上で、どこまで行けるか。

トミの病気はアルバム完成後のことだけれど、より切実に身に迫る問題になってきたわけだ。

 

二十歳くらいのとき「BLUE DAYS ここは生き地獄」と歌い、三十七で「天国でも地獄でもない今を 三十七の俺が歩いていた」と。そして三十九の今、「素直に今を生きられりゃあ、どんなに、どんなにいいだらう。素直に生きてゆけりゃあ」と歌う。

これは後退じゃない。わたしがもっと若ければ、後退だと思って寂しくなり、もっと威勢のよい音楽を探しに出かけただろう。でも違うんだよ。

 

 

 

 

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