千歳村から〜日記のようなもの      

 

2005年3月6日〜

 

 18日 20日 22日 30日

 

●3月6日(日)

 陳星台先生生誕130年。

 光緒元年正月二十九日、湖南省新化県下楽村に生まれた。父は陳善、号して宝卿。母は羅氏。兄が二人。長兄は星台より二十歳以上年長で、次兄は早世。宝卿公は秀才で、貧しい塾教師であったが、村の知識人として徳望があった。

 ……と、伝記を書いてもしかたない。

 

 「中国はみな漢人である。漢人がみな革命を必要と認めれば、スイスやノルウェーの分離のように、一枚の文書を以て通過し、流血は必要ないのである。ゆえに、中等社会に革命主義を知らしめて、漸次下等社会に普及させていく。そうなったならば、一人が事を起こせば万人が応じ、何の困難もない。」(絶命書)

 

 未完の近未来小説「獅子吼」に彼が描いた中国像は、実に堂々たる軍事大国で、あまり好きになれない。

 けれども、ここに掲げた「絶命書」に見られる彼の考え方は、わたしには好もしく思える。

 

 「中国皆漢人也」には、問題があるけれど。

 

 

3月18日(金)

況是青春日将暮

桃花乱落如紅雨

勧君終日酩酊酔

酒不到劉伶墳上土

 

いわんやこれ青春、日まさに暮れなんとす

桃花乱れ落ちること、紅雨の如し

君に勧む終日酩酊して酔え

大酒飲みの劉伶でも墓土の上までは酒は来ないのだから

 

李長吉の「将進酒=酒を勧める歌」の、最後の部分。

横書きにしてしまうと悲しいが、それでもやはりよいものはよい。

 

況是青春日将暮、桃花乱落如紅雨

 

鮮やかな情景だ。「紅雨」というのは長吉以後の詩には見受けられ、辞書にもあるけれど、長吉以前にはあるのだろうか。「如」とつけていることだし、彼の造語なのではないかと思っている。

 

なお、詩の前段は、瑠璃のさかずきに紅いぶどう酒、じゅうじゅう脂のしたたる肉、楽器を鳴らし、美女が歌い舞う、宴のさまをうたっている。

 

 将進酒 李長吉

瑠璃鍾

琥珀濃

小槽酒滴真珠紅

烹竜炮鳳玉脂泣

羅屏繡幕囲香風

吹竜笛

撃鼉鼓

皓歯歌

細腰舞

 況是青春日将暮

 桃花乱落如紅雨

 勧君終日酩酊酔

 酒不到劉伶墳上土

 

 

●3月20日(日)

 1913年3月20日午後10時45分頃、上海駅のプラットホームで、同夜11時発の列車に乗ろうとした宋教仁は、袁世凱の放った刺客により狙撃された。

 そして3月22日午前4時40分、鉄道病院にて死亡。満31歳の誕生日の2週間前だった。

 

 何年か前にも紹介したと思うが、『辛亥回憶録』にある楊思義「宋案見聞」から。

 楊思義が宋教仁と13年の2月に会ったとき、宋に袁世凱の人物について問うと、宋は「あれはとんでもなく狡猾な奸雄だね」と。それを聞いて楊はそんな人物をうまく制御できるのか心配すると、宋は「民主国家の主権は国民にあり、国民の代表は国会だ。国家の政務は完全に内閣により処理され、内閣は国会を通過しなければ成立できない。総統は一個の虚君にすぎないから、彼がどんなに狡猾でも悪事をなすことはできない。我が党はうまく国会を制御しさえすれば、袁世凱を御することができるのだ」と言った。楊はそれは理想にすぎるのではないかと疑ったが、宋があまりに自信満々なので、何も言わなかった。

 

 この楊思義という人物は湖南人で、宋にドイツ留学の世話をしてもらったらしい。そして13年3月、留学が決まった楊に宋は「私たちは過渡期の人物にすぎず、君たちのような青年の同志がこれから祖国を建設していくのだ」と励ました。楊はこのとき、若いといっても十歳も違わず、自分だって十分青年なのに、どうしてこんな年寄りみたいなことを言うのだろうと、内心おかしく思った。

 

 そして3月20日、楊が訪ねていくと、宋は于右任や陳其美とともにいて、ソファーにのけぞって大笑いしていた。陳が、笑っている場合じゃない、奴らは君を暗殺しようとしている、と警告しても、宋はかえってますます笑い、「革命家が暗殺するならともかく、革命家を暗殺するなんてあるか」と、涙を流して笑い転げる始末だった。

 

 こういう話は何なのだろう。特に、僕たちは過渡期の人間で云々というのは、うすら寒いものを感じさせる。得意の絶頂だった30歳の宋教仁が、死を予期していたわけでもあるまい。

 けれどもどこか妙なのだ。周囲の人が寄ってたかって警告し、汽車は危ないから船で行けと忠告していたのに、彼は頑として受けつけなかった。これは何なのだろうか。ばかな人ではないはずなのに。

 

 

●3月22日(火)

 宋教仁没後92年。

 「ブルジョワ」議会主義者であったこと、孫逸仙と対立していたことなどからだろう、彼は悪し様に言われていた時代が長かった。ある座談会の席上で老人が、「宋教仁は袁世凱の独裁に反対して殺されたのに、なんでこんなにぼろぼろに言われなければならないのか」と涙を流して訴えたという話がある。

今でこそ再評価されているが。

 

 

3月30日(水) 

久しぶりに湯島聖堂へ行ったら、杏が満開だった。孔子の家にもあったという木だ。なんとなくうれしい。

 

スポーツナショナリズムが怖い。

戦争する代わりにサッカーをしているのではないよ。仲良くするためにやっているんだよ。

自分にとって自分の仲間や「くに」が大切なら、相手にとっても相手の仲間や「くに」が大事なんだということを、理解するためなんだ(「くに」は国家と同義ではない、念のため)。

かけがえのない唯一無二の存在である自分を大切にすることが、同様に唯一無二の他者をも大切にすることにつながる。慈悲はそこから生じる。自分を大切にするのが第一だと、ジャン・ジャックも言っている。

 

以前、『新湖南』を読んだ夫は開口一番こう言った。「こいつ湖南野郎じゃん!」

そうだよ。楊篤生はむちゃくちゃ湖南野郎だ。けれども彼は偏狭な郷党主義者ではない。

「湖南は湖南人の湖南である」と彼が言うとき、同時に、「広東は広東人の広東である」とか、「四川は四川人の四川である」などなどが意味されている。そこから更に、中国は中国人の中国であり、朝鮮は朝鮮人の朝鮮であり、そうしてアジアはアジア人のアジアであって、更には世界中全ての被抑圧民族の連帯をも訴える。

これはすごいことです。晩年にクロポトキンに近接したのもうなずける。

わたしが彼を好きなのは、彼のこの思想ゆえだ。

別に、頭脳明晰、眉目秀麗、且つ湘人らしい熱情の持ち主だから……ではないよ、たぶん。

 

 

 

 

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