千歳村から〜日記のようなもの      

 

2004年9月16日〜

 

 18日 

 

月16日(木)

9月16日。大杉栄、伊藤野枝、橘宗一君が殺された日。震災後のどさくさでというけれど、もう16日だ。朝鮮人の虐殺は2日には既に始まっていたし、亀戸事件は4日だ。どうかしている。

朝鮮人はこの千歳村でも3人も殺され、蘆花徳冨健次郎が「済まぬ事羞かしい事」と記している。東京市内から遠く離れたこんな田舎でも、そんなことがあるなんて。

 

ちょっと必要があって、朝鮮近代史のおさらいを始めた。江華島事件前夜あたりから併合されるまでの流れを、ざっとながめようと思う。

けれども早くもいやになっている。かつて朝鮮史から逃げ出したはこのためだ。

朝鮮近代に興味をもったのは高校に入ったばかりの頃だったから、読むものみんな知らないことだらけで、事柄の一つ一つに驚きながらも、知ること自体が楽しかった。けれどもじきに、楽しいなどとは言っていられなくなった。子どもらしい正義感で憤激していたが、しかし自分はその「悪の帝国」の側の人間なのだ。

わたしの母は植民地官僚の娘として、広大な官舎の奥で育った。祖母の身体が丈夫でなかったためもあり、末子である母には専用の子守りがついていたそうだが、日本語のよくできない彼女を、母は「オモニさん」と呼んでいたそうだ。といっても、母は朝鮮語は一つも知らない。遊ぶのは官舎の子どもたちだけで、日本人のみの閉鎖空間にいたようだ。たまさか朝鮮人部落の近くを通らねばならないときは、息を詰めて走って抜けたそうだ。さらわれるとか何とか言われていて、恐かったのだと。さわられる云々は、もちろん日本人の加害意識の表れだろう。人さらいをしていたのは日本だ。

外祖父はわたしが八歳のときに亡くなった。年に一、二回しか会わなかったから温顔しか憶えていない。その祖父は朝鮮で何をしていたのだろうか。

大学で受けた姜徳相先生の講義によれば、相当いいかげんな連中が判事として朝鮮に渡ったとか。わたしの祖父は有資格者だと、そのときは反発を覚えたが、しかし考えてみれば、祖父は食い詰め者の失業弁護士からいきなり判事になったのだ。そこで身を立て直せたのも、その後の栄達も、すべて朝鮮があったればこそのことだ。

だまされて入植した開拓団なら、ひょっとしたら酌量の余地もあるかもしれない。しかし祖父は官僚であるから、積極的に荷担したのだと言わざるをえない。どうしたって言い逃れることはできない。

 

歴史が悲しいだけでなく、この国にはなぜか妄説を吐くやからが少なからずいる。それで余計にいやになる。

どうしたって覆うべくもないことは、簡単な年表を眺めただけでも解ることだ。そこを認めた上ででなければ、何も始まらない。

 

 1904年の乙巳条約は、「保護条約」という名の亡国条約だ。その調印の際には日本軍が漢城市内に出動し、伊藤博文の前で大臣たちの会議が開かれた。あくまで反対した宰相は別室に連れ出され、そのとき伊藤は「逆らうようなら、かまわないからやってしまえ」と言ったという。そういう状況下で、残った五人の大臣の賛成によって、条約は調印された。このときの五大臣を朝鮮の人たちが売国奴と呼ぶのはしかたないかもしれないが、自分で判をついたのだから同意したのだと日本側が強弁することは、絶対に許されない。

 

 

月18日(土)

九・一八。戦争の始まった日。この国の近代は、ときどきいやになる。

 

今朝は6時過ぎから公園へ。セセリを撮った。この蝶は捕まえやすいので子どものころにずいぶん遊んでもらったが、撮るのも簡単だった。つぶらな瞳が愛らしい。

ムラサキシキブがだいぶ色づいてきた。

 

 生まれ年年表に数人追加。

 

 

 

 

 

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