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    多摩丘陵から 〜日記のようなもの       
     
    2014年12月 5日 7日 8日 31日
     
    ●12月5日(金)
     先日、多摩市の連続放火事件の容疑者が逮捕された。推定無罪とはいえ、ひとまずは安心した。
     事件当時、TV各局のリポーターさんが、口をそろえておっしゃっていた。「私も現場を歩いてみましたが、アップダウンが非常に多く……」
     多摩ニュータウンをなめてもらっては困る。多摩の横山と言われた、なだらかに連なる丘陵地を、切り刻んで造った町だ。川沿いにでも行かないかぎり、どこもみな、坂と階段と陸橋だらけだ。トンネルまである。
     それだけではなく、道路が丘陵を巡るかたちでできているから、大通りでも、ぐるっと大きく湾曲している。まっすぐ歩いているつもりで、全然まっすぐ行っていないのだ。
     日頃、駅までの往復や買い物だけでも、けっこうな運動になる。心肺機能や脚力が鍛えられて、なかなかよい。
     
     さて、12月になった。今年は7日が日曜日。休日にこの多摩の地から出るのは、至難の業だ。7日はこちらで偲び、8日に旧・西小川町へ行くことにする。
     
     
     
     
     
    ●12月7日(日)
    清国人同盟休校   
    東京市内各学校に在学する清国留学生八千六百余名の同盟休校は大学教授連盟辞職に次ぐ教育界刻下の大問題なり右は去月二日発布の文部省令清国留学生に対する規程に不満の念を懐きたるものにして該省令は広狭何れにも解釈し得るより清国学生は該省令を余り狭義に解釈したる結果の不満と清国人の特有性なる放縦卑劣の意志より出で団結も亦頗る薄弱のものなる由なるが清国公使は事態甚容易ならずとし兎に角留学生一同の請ひを容れて之を我文部省に交渉するに至りしが有力なる某子爵は両者の中間に於て大に斡旋中にして右の結果両三日中には本問題も無事落着すべしといふ(『東京朝日新聞』1905年12月7日 文中強調はゆり子)
     
    今日は一日、絶命書と宝卿公の小伝との執筆に費やされる。
    そして明日、大森へ。
    激情性の人とされるけれど、実際は無口で物静かな人だった。この二日間は、殊に静かに過ごしたような気がする。
    覚悟はとうにできていただろう。あとは機を待つだけだったのではないか。
    その機をくれたのが、朝日新聞だったわけで。
     
    昨日、今日と、ひどく寒い。12月初旬とは思えない。
    1905年の今頃は、どんなだったのだろう。
    なんにせよ、海に入れる気温ではない。
     
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    買い物帰り、頭上のにぎやかさに見上げると、葉を落とした桜並木の梢にエナガの群れがいた。せわしなく動き回る、小さな小さな鳥たち。
    世界にはこんなに愛らしいものがたくさんいるのに、どうしてみんな穏やかににこにこで暮らせないのだろう。
    もっとも、エナガさんたちが忙しくしているのは、わずかな虫やら何やらをついばまねばならないからで、食われる虫にも虫なりの命があるわけで、話は簡単ではないのだけれど。
     
     
     
     
     
    ●12月8日(月)
     109年前の今日、陳星台は海に入った。こんな時期に遠浅の海に自ら沈んでいくなんて、とても人間にできることとは思われない。
     
     昼、旧・神田区西小川町、現・千代田区西神田の、東新訳社跡へ。
     寒波はぬけたと天気予報では言っていたが、まだまだ12月とは思われぬ寒さ。それでも西神田公園では、お弁当を食べる人たちがちらほらといた。
     日大と思しき学生たちが、けたたましい声をあげて通り過ぎていく。
     30年なんて、すぐ経つものなんだね。
     「大地沈淪幾百秋……」もごもご唱えてから目を開けると、向こうの隅で、誰も乗っていないブランコが大きく揺れていた。
     星台先生が、来られたのだろうか。
     
     一つ、星台先生にでもなったつもりで、檄文のようなものでも書いてみようか。
     
    わたしは新聞でしか知らないけれども、香港でのデモが曲がり角を迎えているようだ。
    わたしたちはもちろん、民主化推進の立場をとる。学生諸君を否定するつもりは、毛頭ない。
    しかしながら、「歴史」というものと何十年も格闘していると、自ずとある感覚というものが出てくる。
    愚公山を移す。
    小枝を銜えて海を埋めようとする精衛が、ただ一羽であれば、百万年経っても埋めることはできはしないだろう。しかしもし、十億羽の精衛が一斉に小枝を銜えて奮闘したならば、小さな湾の一つくらい、すぐに埋められないものだろうか。その意気に感じた何十億もの鳥たちが加勢してくれたならば、どんな海でもきっと自ずから退き割れることだろう。
    今、楊篤生の「英国工党」を訳しているのだけれども、彼とお付き合いをしていると、そういう「中国人らしい長大な思考法」というものに打ちのめされる。
    篤生風に言えば、湖南が湖南人のための湖南であるのならば、香港もまた香港人のための香港であるはずだ。そして、湖南人と香港人とが互いの苦しみを我が苦しみとして分かち合うことができるのであれば、香港人が傷つき倒れるとき、どうして湖南人が座視することができるだろうか。
    湖南だけではない。湖北、江西、安徽、浙江、広東、四川……。
    ひとえに中国一国にとどまらない。日本も韓国もモンゴルもチベットも、民主主義を奉ずるものは皆、兄弟だ。黄色人種だけでなく、白人も黒人も、それは変わりない。
    全ての世界に「無強権」を。全ての者に「自由」と「尊厳」を。全ての社会に「平等」と「無差別」を。
     楊篤生が今生きていたら、きっとこういうことを書くと思う。
     
     『春秋左氏伝』などを繰り返し読んでいると、痛切に思うことがある。
     命には、捨て所というものがある。
     無駄死には、してほしくない。それは決して臆病者の言い訳ではなく、今はまだ、機が熟していないからだ。それは全ての「歴史を知る者」が、等しく言うことだろう。
     
     では、その「時」はいつなのか。それまでに我々は、どんな準備をしなければいけないのか。
     
     もとより一個人の能力で、全てを見通せるはずもない。賢者は野に散らばっている。それを集めて太い縄にすることこそが、我々の、殊に歴史学に携わる者の、当然の務めではないかと考えている。
     つい、熱くなってしまった。本当に、陳・楊両先生の魂が降りてきたのかもしれない。
     
     それにしてもこの日本の現状は、どうにかならないものだろうか。人任せと謗られるかもしれないが、1930年代の悪夢が、まさか生きている間に蘇ってこようとは思わなかった。
     誰か意図的に、ヒトラーでも手本にして煽動しているのではないかと、勘ぐってしまう。
     楊篤生風に言えば、爆弾やピストルではなく、簡潔にして力強い、一読で人を目醒めさせるようなビラがあれば済む話なのだろうが。
     
     星台先生は、正にそういう人だったのだね。彼の死が時宜を得ていたかどうか、今もわたしには分からない。けれども、彼が静かに海を踏んで消えていったことで、岳麓山の行進は起こった。かつてこのサイトに書いたことだが、どんなに叙情且つ文学的で、歴史学としては間違っているのだとしても、わたしはその行進を、辛亥革命の濫觴の一つだと考えている。
     
     そして行進は、まだまだ続いていく。四海兄弟の黄金世界へ向かって。
     
     
     
     
     
    ●12月31日(水)
     劉道一君、没後108年。
     まだ満22歳だった。
     おもしろい人材だったのに。残念だ。