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    多摩丘陵から 〜日記のようなもの       
     
    2009年10月 3日 10日 13日 25日 26日
     
     
    ●10月3日(土)
     10月。1日の国慶節について各マスコミは、ああだ、こうだと分析だの論評だのしていた。けれども、わたしとしては10月1日はどうでもよい。悪いが、今の中国にはさほど関心はない。わたしにとって重要なのは10日と13日。双十節と、コ鄰先生の命日だ。 
     とはいえ、諸般の事情で今は中国近代関係は止まっている。歩いている時の妄想の具と化してしまっている。悲しいし、申し訳ないことなのだけれど。
     
     わたしの望みは、楊篤生の再評価だ。というより、再発見か。
     どこかの研究者が彼を見出して、正当な評価を与えてくれないか。
     
     中国の民主化というとき、見出され評価されるべきは、まず宋遯初君だ。実際、ここのところ再評価されてきているらしい。神保町をうろうろすると、彼の関係の研究書が散見できる。
     それはとってもよろこばしいことなのだが、その前にいる篤生を忘れないでほしい。彼の思想はもっと評価されるべきだ。03年の時点で、どうしてあんなところまで行けたのか。そして早すぎる晩年の到達点まで、誰かきちんと跡づけて、時代の中で彼の占める特異性を明らかにし、意味づけてほしい。
     わたしじゃだめなんだ。荷が勝ちすぎる。
     
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     今日は陰暦八月十五日。中秋節。今ベランダに出たら曇っていたが、雲を後ろから月が照らしている。これはと思い待っていると、出てきてくれた。ほんの数十秒でまた隠れたけれど、ちょっとでもうれしい。
     
     
     
     
    ●10月10日(土)
     双十節。辛亥革命98年。再来年には100周年を迎えるわけだ。
     こんな覚えやすい日付にしてくれてありがとうと言いたいが、この日に武昌起義が勃発することになったのは、誤算や手違いや色々ぐちゃぐちゃした要因が絡まってのこと。日がいいから、というわけではない。
     その後もぐっちゃぐちゃ。星台先生が望み、遯初君が構想した道筋とは、およそ違うところを行っている。獅子吼にある軍事大国の姿だけは実現したか?
     
     昨日まで電車で秩父事件関係の本を読んでいた。これは当初定めたとおり11月1日に決行したが、これも問題がなかった訳ではない。誤算や手違いがあり、延期すべきか否かぎりぎりの議論が戦わされ、結局のところ強硬派が押し切る感じで決行されたらしい。延期派が勝っていたら、蜂起そのものがなかったかも? というより、延期という目はやはりなかったと言うべきか。それほど農民たちは追い詰められていたから。
     読んでいて、自分はばかなんじゃないかと思った。ほとんど数ページ毎に上を向いて涙をこらえねばならないのだ。有名な「恐れながら、天朝様に敵対するから加勢しろ」などというのはもちろんのこと、なんでもない小さな逸話までが胸に迫ってくる。感傷に流れるのは厳に慎むべき事(当事者に失礼だから)だが、感傷だか感動だか何だか分からぬところで身体が反応する。
     身体の反応。まさにそんな気がする。これはもう、血のせいにするしかないかもしれない。
     父の実家は、秩父にほど近い埼玉県北西部の養蚕農家だった。さすがに今はやっていないが、わたしの小さなときにはまだ納屋に蚕がいた。あの辺一帯は桑畑が多く、道沿いや畑の境界も桑の木で、あの不思議な形の木を見ると、「いなか(お祖母ちゃんち)に来た」という気がしたものだ。
     今でこそ、都市近郊の地の利を活かした蔬菜や植木(街路樹等)の栽培で、暮らしは悪くなさそうだが、米の採れぬ土地で、往時はかなり貧しかったらしい。蚕の成長に合わせて人間の生活空間が狭まっていくような、人よりお蚕さんのほうが偉いような、そんな暮らしだったようだ。
     祖母が生まれたのは1890年だから、秩父事件の4年前だ。二代続けて母一人娘一人とのことで、暮らしは厳しかったと想像される。事件の年、曾祖母がどうしていたのか知らないが、「暴徒」の噂が伝わっていないわけはない。手元の地図でざっと計ると、皆野から25キロほどしか離れていない。目と鼻の先ではないか。
     もちろん困窮していたのは秩父の農民だけではない。みんな重税と松方デフレと高利貸しとにぎゅうぎゅうに痛めつけられていたので、だからこそ関東一円一斉蜂起という幻想を抱きえた訳だ。そして実際、秩父で敗れた困民党軍は、上州から信州佐久へ転戦する過程で、むしろ数を大幅に増やしている。
     たぶん曾祖母も何かを感じたはずだ。あの白いころころした虫を媒介として、何か呼応するものが、わたしの中にもあるのかもしれない。
     
    そう言えば、小学校で蚕を飼った時、平気で掌に載せていた。芋虫なんて嫌いなのに、蚕は平気だった。
     
     なんて、情に流してはいけない。それは分かっている。
     今の学界、学説がどうなっているのか知らない。でもたぶん、むかーしあった議論、秩父事件は自由民権運動か、それとも最後の百姓一揆か、などという論題は、たぶん今ではばかばかしいものになっているのだと思う。そんなことも知っていけたらと思う。
     
     
     佐久から参加した井出為吉の土蔵からは、『仏国革命史』が見つかっている。たぶん同じ本を、楊篤生も読んでいる。
    これって、すごいことだと思う。
     
     
     
     
    ●10月13日(火)
    10月13日はサツマイモの日……と近所のスーパーのチラシに書いてある。ほかの店のにも書いてあるから、お店で勝手に決めたものではなさそうだけれど、なんなんだ? 
     
    1913年10月13日、長沙は大雨だった。濡れて帰った楊昌済先生は、いきなり息子の開智を怒鳴りつけて、温厚な人格者の激昂に一同を驚かせた。
     
    この日、楊徳鄰が銃殺された。行年四十四。
     
    彼を救出するために、昌済先生はずっと奔走していた。そのためか彼もいっしょに処刑されたという噂が流れ、黄興さんが章行厳に、デマだから安心しろという旨の手紙を書いている。
    その手紙に書き添えてあった。華生(徳鄰)の母は健在で、息子の死をまだ知らないと。
     
    お母さんはこのとき数えで六十三歳。篤生も死を伏せろと遺言したが、いつまで隠せただろう。ぱたっと手紙が来なくなれば、どうしたって不審に思うだろうに。
     
     
    いま街は、どこもかしこも金木犀の香で、むせるよう。
     
     
     
     
    ●10月25日(日)
     昨日の野音は雨。雨の野音は慣れているが、今回は予期していなかったし、何より10月末のことで、なかなか厳しいものとなった。帰途の寒さには備えていたが、暑がりだからライブ中は大丈夫だろうと薄着で臨んだが、後半は凍えてしまった。脂肪の貯えがないので、一定の線を越えるとこうなる。
     ファンの増大で指定席がとれず、初の立ち見となった今回、もとよりステージは全く見えないが、寒さを除けば存外の快適さだった。雨さえ楽しめた。細かい雨が降りしきる中、時折プラタナスの梢から大きな滴が頭上に落ちる。そんなことも楽しい。最後尾にいたので、手すりの上に鉄棒のように乗り上がると、ステージがよく見える。腕力の続く数十秒間だけだが、要所要所でそうして見ていた。手すりに座ってしまいたいところだが、さすがにそれは危険なので禁止。
     
     以下にレポを。
     
    入場を待つ間、屋台の並ぶ植え込みの前に立って、夫とふたりで歌っていた。偶成、遁生、季節はずれの男。「今夜は俺は ずぶ濡れさー」
    やっと入ると間もなく客電が落ちる。いきなり「タラララー」と「夢のちまた」。でも憶えていない。
    「古い曲を」で素直に喜び、「暗くなるのが思ったより早く、時間の案配を間違えた」という意味のことを言うので、何だろうと思うと、「ジャン」! 思わず奇声を発してしまった。「暮れゆく夕べの空」。これをライブで聴く日が来ようとは。うれしさと、あまりの美しさとで、後半嗚咽してしまった。涙ぐむならともかく嗚咽はないだろうと自分でも驚くが、隣で夫も肩を震わせていた。とにかく声がきれい。喉のよい早い段階でよかったと思った。
    「おかみさん」はかっこよく、「遁生」は美しく、「何も無き一夜」は言うことない。上々の中で「いつものとおり」! ファン歴の浅い頃に憶えて、よく水道橋付近を歩きながら歌っていた。ここ十年程は歌っていなかったので、歌詞を憶えているか試される感じで聴いたが、ほぼ憶えていたのでうれしかった。「空染まるまで歩いたら」という部分が大好きで、それで歌っていたのだと思い出した。
    「珍奇男」からの4曲は申し分ない。かっこいい! 「季節はずれ」は特にうれしい。
    「きみの面影だけ」ほとんど聴いていなかった曲だが、旋律はきれいだと思った。
    「ジョニー」は「光の輪をまき散らし」が心に飛び込んできた。「地元の朝」は個人的な事情で苦手だが、「七色の」の部分は美しかった。それでも苦しいので、ちょっと駄言を許してもらう。宮本の背後にそびえる旧長銀のビルと、その隣のビルとに、灯りが残っていた。土曜の晩に誰か働いているのだろう。仕事をしながら聞き流している騒音のかけらが、不意に意識に入ってきて留まることがあるが、それが「死にたーい」「俺は死にたーい」だったら、何だと思うだろう。何の集会だ? 本当は死にたがっているのではなく、むしろその逆なのだけれど。そんなことを想像して、ちょっと可笑しくなった。
    「シグナル」。この「シグナル」は絶品。上から下までよく出ていた。レコード以上のでき。
    そして大好きな「ココロに花を」では、レコードどおりの小刻みな手拍子をさせてもらった。
    「OK、トミ!」で「フライヤー」と分かる。あとは鏡獅子状態。
    「ガスト」はよく聞こえなかった。「ファイティングマン」最高!
    総じてこの日は、みんなのノりがよかったように思う。
    「so many」はだめなんだ。「島国イコール孤立じゃないぞー」とか、「革命は輸出できるぞー」などと叫びたくなる。ましてこの数時間前に『走向共和』の張振武が段祺瑞に殺される場面を見たばかり。革命の果実はこうして奪われる。悲しいことに多くの革命で。
    「やさしさ」好! 「Sky is blue」かっこいい!
    この日は最後まで声が伸び伸びと美しく、最高の状態だった。すばらしかった。
     
     
     
     
    ●10月26日(月)
     ライブ後はおなじみの筋肉痛。左腕が痛い。脚にもきている。夫は慣れぬ鉄棒のせいで、胸など全身が痛いそうだ。
     ふだん使わない筋肉を使うからだというのなら、日常的に腕の素振りと森光子スクワットとを行うべきか。
     年に3回くらいのライブのために?