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    千歳村から 〜日記のようなもの       
     
    2008年10月 9日 12日 13日 20日 27日 29日
     
    ●10月5日(日)
     昨夜、NHKでリバプールを紹介する番組をやっていた。
     はじめから見ていたわけではない。実のところ、見ていたわけでもない。取り込み中でTVをいじれぬ状況の中、気がついたら背中で聞こえていた音がそれだった。
     
     港町として、貿易港として栄えたリバプールだが、その貿易というのが奴隷貿易だった。という話。
     リバプールを紹介するなら、ビートルズの町、ばんざーい!という感じで、ゆかりの地を巡ればよいものを、こういう話にしてしまうのは、さすがNHK。こういう姿勢は好きだ。
     もちろんジョン・レノンの家などにも行っていたが、ペニー・レインが奴隷商人だったとか、アイルランド人の苦難とか、そんな話がついてまわる。この鬱陶しさもさすが。
     
     わたしがひっかかったのは、そんなことではない。ちょろっとだが中華街が紹介された。150年前にできたとかで、中華街としてはヨーロッパで最古級だとか。
     リバプールの中華街。篤生のお墓を守ってくれていたのは、ここの人たちなのか。今も守ってくれているのだろうか。
     それにしても150年前というのはなんだろう。どういう事情で、そんなに華僑が増えたのか。
     ああ、わたしは何も知らないんだ。
     
     見ていた(正確には「聞いていた」)のは10分か15分ほどだったと思うが、よい番組だったようだ。
     再放送があったら、ちゃんと見てみようかと思っている。
     
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     町中、金木犀の香り。あたま動かない。ひたすら眠い。
     
     
     
    ●10月9日(木)
    ひょんなことから、がらにもなく古今集を読んでいる。古文の知識など高校で習っただけだから、意味はとれたりとれなかったり、とれてもぴんときたりこなかったり。それでも、時々窓外に目をやってぼうっとしながら、朝の電車でちびちび読むには、思いのほか合っているようだ。
    たまに、知っている歌がある。たいていは百人一首に入っているものだが、そうではないのもある。
    今朝、こんな歌にあたった。
     
    年をへて住みこし里を出でていなば いとど深草野とやなりなむ
     
    この歌、知ってる。と思ったとき、何か心に触れるものがあった。
    何だろう、と思い巡らし、それに思い当たったとき、吹き出しそうになった。幸い、ちょうど新宿に着いたところだったので、面を伏せて本をしまい、そのまま人波に乗ってそそくさとホームに出たけれど、危ないところだった。
     
    業平のこの歌は、たぶん伊勢物語の一節として、高校1年のときに習ったものだ。当時わたしの隣の席にいたのは、頓狂で、ちょっと風変わりな男の子だった。
    おそらく、「出でていなば」の箇所を先生が品詞分解などしながら説明していたときだと思う。彼が突然歌ったのだ。軽妙な節で、声を潜めるでもなく、「わたしゃ因幡の白うさぎー」と。
    潜めた声ではないが、独り言らしく小さな声だったので、聞こえたのはほんの近所の、両隣と前の席くらいの範囲だったと思う。そのごく少数の人たちが、笑いをこらえるのにどんなに苦労したか。
    それなのに、本人は笑うわけでもなく、周囲の苦難にも無頓着に、何事もなかったようにひょうひょうとしていた。
     
    あれは何だったのだろう。いわゆる「受け狙い」でも何でもなく、いわば彼の魂からするっと出た歌だったのは確かだと思う。
     
    思えば、あの学校には、ああいうちょっと変わった人が時々いた。『究極超人あーる』の春風高校に似た校風、というと褒めすぎで、実際にはもっとずっと息苦しく居にくいところもあったが、それでもどこか春高じみた、許容範囲の広い「テキトー」な学校だったような気がする。
     
    数年前、新宿で人を殺して逃げてきたヤクザが、どういうわけかあの学校に入り込み、構内で自殺するという事件があった。そのとき、TVのレポーターが「なぜ門を閉めていないんですか」と、いかにもけしからん!という感じで向けたマイクに対し、校長は「まあ、だって、近所の人たちの散歩道にもなってますし」と、飄然と答えていた。何がいけないの? というように。改める気などさらさらないのは明らかだった。(そりゃそうでしょう。歌舞伎町のまん中にあるならともかく、そんな事件がそうちょくちょくあるわけはない。ところで、実はこの学校、かつては本当に今の歌舞伎町のまん中にあった。この女学校が戦災で移転しなければ、歌舞伎町はあんな街にならなかったはずだ……というのが古老の嘆きらしい)
     
     校舎を建替えて昔の面影が全くなくなっても、校長が何人も代わっても、いい加減な校風というのは変わらないものなのか。
     
     
     
    ●10月12日(日)
     久しぶりに公園へ。夫に持たされたカメラは、何年ぶりかで手にするPENTAXのK1000。ピントも露出も自分で決めて、カッシャンとかわいい音のする古いカメラだ。
     撮るのはいつものとおり、軒下の干し柿だの、朽ちた切り株だの。
     
     今年は多摩ニュータウンの公園ばかり行っていたので、千歳村の愛する公園は、ひょっとしたら数カ月ぶりかもしれない。いつものとおり欅の巨木が迎えてくれたのに、雑木林の中に入って驚いた。ずいぶんさっぱりしている。熊笹の藪など下草が刈られただけでなく、木も伐られてしまっている。妙にがらんとしていて気持ちが悪い。雑木林は人の手を入れて、更新していかねばならないのは分かっている。古い木を伐って、若い木の成長を促して、そうやって維持していくのは知っている。でも、これはちょっとやりすぎではないか。
     鬱蒼としたのが好きだったのに。これから紅葉が始まると、立つ角度によっては深山のような厚みが出るはずなのに。
     
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    今日は渋谷AXでイベント。体力の関係でワンマンにしか行かないことにしているので、皆様の報告を待つのみ。
    今日のイベントは対バンがすごい。チャボと泉谷しげる。どうもチャボ主催らしいと思ったら、それどころではなく、チャボの誕生日ライブだそうだ。
    58歳。泉谷は60歳。そこに42歳(石くんだけ41)のエレカシ。若僧だ。
    チャボに呼ばれたというのがうれしい。ミヤジもうれしいだろう。なにせ学生時代、「RCのコピーでは日本一!」と吹いていたそうだから。
    なにより、勉強になるに相違ない。40を過ぎて、体力的な衰えを覚え、同時に、今が転機であること、もっとはっきり酷な言い方をすれば、ある意味ピークを過ぎ、天才の時間が終わり、これから別のあり方を模索していかねばならないこと。聡い宮本のことだから、そういう自覚はあるはずだ。そしてチャボも泉谷も、宮本が今そういう状況にあることは見て取っているに違いない。彼らも来た道だから。
    そこでこういうイベントに呼んでもらえて、40どころか50、60のロッカーのあり方を見せてもらえるというのは、宮本にとって多大な益になると思う。
    今朝のTVでミヤジと泉谷とが話していた。泉谷は敬称抜きで「宮本」と呼んでくれた。そして自らの来し方と現在のあり方について語り、「丸くなったと言われるが、性格が変わったのではなく、幅が広がっただけだ」と言って、「同世代の奴らを挑発してやる」と。老け込んでんじゃねえぞ! と。
     
    泉谷が言ってくれた。「宮本の声が欲しい」って。そうだろう。まともなボーカリストなら、誰でも思うだろう。あの声が欲しいって。
     
     追記:この夜のエレカシ、泉谷のカバーを1曲、RCのカバーを2曲(!)演ったそうだ。聴きたかった……
     
     
     
    ●10月13日(月)
     楊コ鄰先生没後95年。
     1913年10月13日、銃殺さる。享年四十四。
     
     
     
    ●10月20日(月)
    一昨日のライブの後遺症で、まだ左腕が痛い。今年のライブはこれで終わり。新春ライブはないということなので、次は春のツアーか、下手すると夏の野音までないかもしれない。にもかかわらず、全く意気込まずに臨んだ。3時間に及んだ夏の野音のあと、夫が3週間寝込んだため、今回はスタンディングは断念して指定席をとった。エレカシのために生きているわけではない。自分たちの人生のほうが大事だ。
     
    会場は水道橋に今年できたJCBホール。朝夕の通勤時に昼の散歩時と、いつも見ている、円筒形の奇怪な建物だ。もともとサーカスが小屋をかけていた場所なので、建て始まったときには、サーカスはどうなるのかと要らぬ心配をしてしまった。わたしはサーカスには興味ないが、いつも長蛇の列ができるのを見ていたし、あっという間に巨大なテントが張られ、公演が済むと、またあっという間にきれいさっぱりなくなるのも、おもしろく思っていたから。
    その後、新しい建物には中にサーカスが小屋をかけられるくらい巨大なホールができるという噂を聞いた。どんな大きなホールだろう。ここでエレカシをやってくれれば交通費がかからなくてよいが、そんな大きなところでやることはないだろうなとも思った。
     
     さて。実際に行ってみたJCBホールは、なかみも奇妙だった。入った階が第3バルコニーで、ステージは地下にある。わたしの席は第2バルコニーの中央付近。とにかく狭い。隣とも前後とも余裕がない。傾斜が急なので見やすくはあるが、最前列は柵が低くて恐そうだ。
    そして、サーカスのテントというのはさすがにデマだったが、なるほどこれなら空中ブランコでも綱渡りでもできそうだ。やはりサーカス用だったのか(後でホールの公式HPを見ると、会場の使用例として、スタンディングの次にサーカス用のしつらえ方が書いてあった。やっぱり……)。
    狭いが近い。ステージもアリーナも全部よく見える。スタンディングのときはいつも後方に陣取るので、前のほうがどうなっているのか分からなかったが、今回はつぶさに見ることができた。すごいことになっていた。やはり前のほうへ行くべきではない。
     
    ライブ自体は、よかったとしかいえない。ミヤジの声がよく出ていた。美しかった。
    今回こそ静かにしていようと思ったのに、打楽器に弱いわたしはトミのドラムとシンクロしてしまい、結局いつものとおりガンガンいってしまった。
    それでも、静かな曲のときは腰掛けて聴いた。椅子があると助かると、心底思った。
    前の席の「実直なサラリーマン」風の青年が、途中から立ち上がってガンガンいっていたのが、好もしく思えた。
    ファン層は明らかに広がっている。10代から70代までって、あながち冗談ではない。誰かに連れられて来ているのではない、年配の方々も、少なからず見受けられた。
     
    今の会社に移ってからの新曲群には正直疑問があったが、ライブで聴くとそんな疑問も吹っ飛んだ。
    自分を殺して「丸くなる」のが大人なのではなく、少ない摩擦で上手に我意を通せるのが大人だと誰かが言っていたけれど、今の宮本がそうかもしれない。
    ほんのちょっと表現形式を和らげて間口を広くするだけで、魂は売らぬまま、本来持っている剣呑な部分も殺さずに忍び込ませて、それで活動を続けられるくらいのセールスが得られるならば、それでいいではないか。
    以前、あの恐ろしいポニキャニ時代に、宮本は自分を殺して「ヒット曲」を求め、結果としてアーティストとしてだけでなく生物的にも死に瀕した。今度もそうなりはしないかと心配したのだが、もう大丈夫のようだ。宮本だって42歳。二度目のことでもあるし、わたしが案じる必要はない。客層が変わって、ミーハーっぽい人たちが増えて、ちょっと気持ち悪くはあるけれど、残っていくのは宮本の芯が好きな人たちだということも分かっている。
    だから大丈夫だと、確信をもたせてくれるライブだった。
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    ああ〜〜やっぱり宮本好きだ〜
    わたしの人生に彼の音楽があるということは、なんて幸せなんだろう。
     
    今回のライブでぐっときたことばを拾ってみる。何度も聴いている曲なのに、ミヤジに歌われると一々新鮮に刺さってくる。
     
    多分幾世代にも亘る長い人の歴史の そのまた果てに佇むぼくら(傷だらけの夜明け〜本人も歌うのをためらうような甘ったるい曲だが、それでもこんな一節があるのだから一筋縄ではいかない)
     
    世界日本の歴史や、世間の常識や歯がゆさと。ボクはひとりで連日連夜いろんなものと戦ってゐる。文明やあらゆる偉人や友情や恋のかけひきと。……高みをのぞんでは敗れゆくのが、ボクのクセらしい。(地元のダンナ)
     
    ああ 歴史上では、なんてちっぽけな生涯生涯。ああ でも世界中でたったひとつだけの人生人生。(地元のダンナ)
     
    どうやら体力もおちてゆくオレは やさしさや悲しみや飼い殺しの鬱屈をためたこの病をも一度解き放ってやらなきゃなるめい(未来の生命体)
     
    最後の「地元のダンナ」、上から見ていたらアリーナの前の方は人波がうねってモッシュ状態のようだった。まあ、じっとしていられる曲ではありませんね。
     
     
     
    ●10月27日(月)
     先週、市ヶ谷のお濠に何か数羽ぽちぽちと浮かんでいた。気になったが、いかんせん走っている電車から見るのだからはっきりしない。それが今朝は数を増していて、ホシハジロと確認できた。
     となると、どうしても不忍池へ行きたくなる。
     で、お昼に行ってきた。まだ数は多くないが、いつもの顔ぶれ、ホシハジロ、キンクロハジロ、オナガガモがいた。30羽もいただろうか。ユリカモメはまだ見えない。
     既にカモおじさんたちが餌を撒いている。この池には去冬から「餌付けすると肥りすぎて北へ帰れなくなったり、人馴れして自転車にはねられたりするからだめよ」という旨の貼り札が出ているのだが、そんなものにかまう人たちではない。
     長いレンズをつけたカメラのおじいさんも来ている。冬鳥の季節到来ということで、わたしとしてはうれしい限り。
     池の端をぶらぶら歩いていると、猫がいた。ふちぎりぎりのところに寝そべって、地べたにあごをつけ、水面を見つめている。視線の先を追ったが、べつに鯉も鴨もいない。枯れつつある蓮の茂みがあるばかりだ。
     そこにさっきのカメラのおじいさんがやってきて、足を止め、猫にレンズを向けた。鳥を撮るレンズだろうに。
    やはり猫は格好の被写体なのか。わたしも公園に木や花を撮りに行ったときに猫がいると、ついつい何枚も撮ってしまう。別に猫好きではなく、触ったことは生涯に何回もないのだが、猫にはレンズを向けさせる力がある。
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     一昨日、恒例の秩父行。例年は温泉に一泊するが、今年は夫の体調が定まらぬため、日帰りにした。朝起きてみて大丈夫そうなら行こうと。
     7時半に家を出て、11時半に山の上に着いた。杉林で樹の香をいっぱいに吸い込んだ。紅葉はまだ始まったばかりだが、それでも駐車場はいい加減いっぱいになっている。来週にはたいへんな人出になるのだろう。
     バスの関係で1時間ちょっとしかいられず、あわただしかった。それでも、山の気を浴びることができて、わたしはずいぶん元気になった。海育ちの夫が海を見ると元気になるように、わたしにはこの山が必要なのだ。
     
     林の中を奇声をあげながら飛んでいた尾の長い黒白の鳥、あれは何だったのだろう。一瞬、カササギかと思ったが、こんなところにいるわけはない。烏の仲間のような気がするけれど、オナガなら見間違えるわけないし、カケスにしては大きいし。???
     
     
     
    ●10月29日(火)
    陰暦十月一日。ということで、楊篤生のお誕生月間となる。
     それにしても、彼の正確な誕生日はいつなのだろう。昔から周囲の友人のお誕生日情報を集めるのが好きなわたしとしては、一番大事な人の誕生日が分からないのは、とても悲しいことだ。(もちろん、正確には「一番大事な人」は夫だが、彼はその次くらいに位置し、星台先生とはいい勝負で、悪いけど宮本浩次よりは上だ。ミヤジは大好きだけれど、それはあくまでステージの上と下、楽曲を通してのものであって、あまり根掘り葉掘り個人的な細かいことまで知りたいとは思わない。そういうことは作品からほの見える分だけでいい)
     『楊毓麟集』を編んだ饒懐民氏は劉揆一の評伝では劉家の族譜を駆使し、ついでに星台先生の族譜にまで触れている。その饒氏が何とも言わないのだから、彼の生日は不明のままなのだろう。
     今のところ、「同治壬申十月」としか分かっていない。1872年の陰暦十月は、陽暦11月1日から30日までにあたる。だからとりあえず、今年は陽暦10月29日から11月27日までと、同11月1日から30日まで、都合10月29日から11月30日までの33日間を楊篤生先生お誕生月間とする。
     もちろん、別に何の行事があるわけでもなく、単にわたしひとりで「わーい」と喜んでいるだけなのだけれど。
     
     楊家の族譜、ないかしら。『楊毓麟集』には家書が載っているから、保存してくれている人、おそらく子孫の方が、いらっしゃるのだろう。だったら族譜もありそうなものだ。
     
     根掘り葉掘り、細かいことまで知りたいです。帰りの電車で読書に倦むと、家書のコピーを取り出して、そっと読んでいます。やたら細々と口うるさいお父さんとしての手紙を。そして病身の妻を気遣う、やはり細々とくだくだしい手紙を。
     
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     関係ないけど、こんな「弾きガナリ」もこの世にはある。
     
     
     
     
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