2日 7日 10日 20日 25日
     
    ●1月1日(木) 
     昨日、近所の公園でろうばいが咲き初めていた。つぼみばかりの中に、気の早いのが数輪ひらいて、甘い香りを放っていた。
     
     そして今日は夫と神田神社へ。日の出前なのに、カーンと明るい境内は和やかな気に満ちて、それだけでにっこにこになってしまう。不思議な空間だ。
     
     昨夕、恩師の訃を聞いた。
     わたしのように非礼で恩知らずの学生を、卒業させてくれただけでなく、評価もしてくださった。大きな先生だった。その温顔に甘えて、自分がどんなにひどいことをしたのか、わかったのはつい最近のことだ。
     本当に大きな先生だった。ご冥福をお祈りします。
     
     
    ●1月2日(金)
     とても1月とは思えぬ暖かさだが、夫が眠ったまま起きる気配がないので、陶淵明をポケットに入れて一人で公園へ行った。
     あてにしていたベンチに先客がいたため、一番好きなポプラに背をあずけて淵明を開く。
     けれども、あまりにもうららかで、穏やかで、なごやかで、目は活字の上をすべって頭に入ってこない。
     そのうち、すぐ後ろの四阿で誰かがサックスの練習を始めた。音階や何かの一節を繰り返すだけで曲になっていないのが、よけいにのどかで平和な気持ちにさせ、とってもだけど淵明先生の感慨についていける状況じゃない。
     しばらくぼうっと空を見ながらサックスの音を聞いていた。
     
     だけど、こんなに暖かくていいのかな。やっぱり地球は滅びるのかな。
     
     
    ●1月7日(水)
     初めて湯島聖堂に行った。ほんのよちよち歩きの頃から聖堂の辺りをうろうろしていたが、門をくぐったことはなかった。勝手に入れるものと思わなかったから。
    去年、夫がひとりで行って、「かわいい仲尼の像があるよ」と。それで興味をもったが、そのままになっていた。
    元日に明神様に行ったとき、聖堂にも寄りたかったが、時刻が早すぎて閉まっていた。
     
     で、今日、秋葉原に行く用があったので、ついでといっては何だが明神様に寄り、秋葉で用事を済ませた帰り道に聖堂へも行ってみた。
     気に入りました。なんで今まで知らなかったのだろう。
    仲尼は確かにかわいかった。巨大だが、どことなく心許なげな様子がいい。
    大成殿で初老の婦人が熱心に拝んでいた。その傍らのベンチで、男の人が昼寝していた。
     なんというか、空間の気がいい。明神様の気が明るくからっとしていて好きなのだが、聖堂も明るい。明るいけれど、和やかなようでどこかびしっと硬質な感じがする。
     
     魯迅が、弘文学院(嘉納治五郎が建てた清国人留学生のための予備校)の教師に孔子廟に連れて行かれて、なんで今さら孔子様かとうんざりしたと書いている。
     
     さて、楊篤生はこの孔子廟を訪れただろうか。儒教を激しく攻撃した彼は、しかし自分の息子には、中国民族の精華として四書五経を学ぶよう指示している。
    でも、孔子廟には行かないかな、やっぱり。
     
     
    ●1月10日(土)
     昨日も聖堂に行った。孔子廟には学業成就の絵馬がたくさん。わたしは軽く頭を下げただけだけど、仲尼は好きだ。
     
    島田虔次氏がどこかでこんな意味のことを書いておられる。
    Aという人物がBという書物を読んだことが判っている。
    Bという書物にはCという事柄が書いてある。
    だからAという人物はCという事柄を知っている。
    という推論は、はなはだ危険である。我が身に照らして切に思う……。
    島田氏ほどの碩学でもそんなことをおっしゃるのだ。ましてやわたしのようなザル頭では全くひどいもので、確かに読んだ、しかもノートを取りながらきちんと読んだはずの文献が、時をおいて読み返すと、あれっこんなこと書いてある! というのがぼろぼろ出てくる。情けないことこの上ない。
    内田義彦に教わったとおり、みちみちはむはむと自分のものにして読みたいけれど、なかなかできない。その内田先生も、自分は本を読むのが下手くそで、などとしゃあしゃあと書いているし。
    読むって難しい。
     
     
    ●1月20日(火)
     晋の世族年表完成。ここ十日ほど、寝る間も惜しんで『左伝』をひっくり返しほっくり返しした成果だ。
     これのために隠公から哀公まで250年を、何往復しただろう。要領が悪く遺漏が多いから、前から全部めくって、次は後ろから全部めくってを、何度もくり返さねばならなかった。それでもまだ、ぬけたところはあるのだろうな。
     そんなことを嬉々としてやっているわたしを、夫は奇異なものを見る目で見ていた。「そんなものを作っていると知ってたら止めたのに」とか、「表作りに淫しているのではないか」と。
     確かにわたしは、インデックスだの表だのを作るのが大好きだ。昔、『SFマガジン』や『ロッキングオンJAPAN』のインデックスを作っていたこともある。
     でも、雑誌のインデックスも今回のも、自分で必要だから作ったまでだ。こんなものがあれば便利なのにと思ったから、作ったというだけのこと。楽しかったけどね。
     
     『左伝』というのはお話の宝庫と言われ、確かにその通りなのだけれど、漫然と読んでもあまり益はなさそうだ。けれども、きちんとした鉤をもって読むと、それによっていろいろなものが出てくる。かっこいい言い方をすれば、鉤の数だけ『左伝』があるということ。
     問題は、どんな鉤をもってくるかということなんだけど。
     
     関係ないけど、横綱強い。強すぎる。ちょっとないタイプの強さに見えるのは、やはり根がボフだからか。
     仕切りのときから体中に力がみなぎり、お相撲をとるのが楽しくてならないように見うけられる。
     
     だけど千代大海、そろそろ横綱になろうよ。
     
     
    ●1月25日(日)
     梅が香っている。桜より梅が好き。香りが好きだし、花期も長いし。もちろん桜は桜でいいし、甲州で桃花に圧倒されたこともある。
     「いわんや是青春、日まさに暮れなんとす。桃花乱れ落ちること紅雨の如し(況是青春日将暮 桃花乱落如紅雨)」
     芥川龍之介が高等学校のノートに長吉さまのこの詩をいたずら書きしていたというけれど、この詩だけでもファンになるには十分だと思う。