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伝記

 

目次

@留学まで

A日本留学から長沙起義まで

B「要求救亡意見書」そして中国同盟会

☆陳星台の人柄

C踏海

☆エピローグ

 

 

 

 

 

chen  (1875〜1905)

☆年齢は原則として「数え」です。

 

 

@留学まで

 

陳天華は1875年3月6日、湖南省新化県下楽村(現・栄華郷小鹿村。県城から北北西に35キロほど)に生まれた。山に囲まれ、川の巡り流れる地だ。

字は星台。原名は顕宿だが、満面にあばたがあったため、自ら天華と名のったという。(あばた=花)号は思黄、過庭など。

★05年に「意見書」の件で神田警察が呼び出した際の名が「陳顕宿」となっているいるから、こちらが正式の名前なのだろう。なお、字は名と縁のあるものにすることが多いと聞くが、顕宿の宿を星宿(=星座)の宿ととれば、星台と縁語といえるか。(2011/09/24附記)

 

父の陳善、号して宝卿は、落第秀才で貧しい塾教師。(落第秀才=いつまでも科挙の本試験である郷試に受からない知識人には、教師くらいしか生活の途はなかった)1900年に七十一歳で没しているから、星台は宝卿四十六歳のときの子だ。長兄とは二十歳以上離れ、次兄は早世しているから、実質上は独子として育ったと考えられる。(この頃の常で男子しか勘定に入れないが、星台は「子女」と記しているから、姉妹が何人かいたかもしれない)長兄には障害があったため、宝卿の期待は星台の一身に注がれていた。

星台は五歳で村の塾に入り、九歳で『左伝』に通暁するなど神童ぶりを発揮した。このため宝卿はこの子を、「我が家の千里の駒である、いずれ史学で名を立てるであろう」と、手放しで自慢していた。 

 

しかし星台が十歳くらいの時、母親が死去。世渡りの下手な宝卿だけではどうにもならず、以後、家は衰える。このため星台は学業を放棄して、籠にこまごまとしたものを入れて行商し、生計を助けるようになった。放牛、すなわち牧童のようなことをしていたという説もある。(牛というのは農耕用の水牛だろう)

市井の人に交じって働く星台は、時間を盗んでは、人から借りた『水滸伝』『三国志演義』や『西遊記』といった通俗小説を好んで読むようになる。また、巷ではやる俗謡の類も好きで、こういった小説や俗謡をまねして自作しては、街の人たちに披露していたようだ。

 

 

こういう生活に変化が訪れるのは、星台が二十歳をこえた頃(1896、97年)のことだ。宝卿が一念発起したのか、県城の資江書院に入ったのだ。このため星台も父に従って県城に出て、相変わらず行商などで暮らしを支えていた。

あるとき、資江書院の山長(=院長)が答案を調べていたところ、奇妙な答案に行き当たった。誤字当て字だらけで、字という字がマス目いっぱいにひしめいている。なんじゃこりゃと思いながらも読み進めると、引証が豊富で、議論は精確にして適切。たいへん優れたものであった。不審に思って調べた結果、陳善の息子の作とわかった。これを機に、星台は書院にしばしば出かけては、万巻の書物に埋もれる日を送れるようになる。(このあたりの経緯には異説もあるが、よくできたこの逸話が、案外ほんとうのところに近いのではないかと、わたしは思っている)

 

さらに、その才を惜しんだ山長の紹介で星台はスポンサーを得て、ようやっと思うままに勉学に励むことができることになる。(学を修めて科挙に受かれば富貴が約束されたから、有望な若者への援助は投資として行われていた)

戊戌の変法期には新化県にも新式の学校(新化実学堂)ができたので、星台も試験を受けてこれに入学する。星台はここで新学に触れ、中国や西洋の史書を好んで読み、志を形成していったと思われる。(さらに長沙の時務学堂にも学び優等生だったともいう。だとしたら、時務学堂の教授だった楊毓麟に教わった可能性もあるか?)

 

1900年春、新たなスポンサーを得て省都長沙の名門、岳麓書院に入学する。しかしこの年、宝卿が死去。服喪のために帰郷した星台は、傷心のためか大病を患い死に瀕する。

 

仲のよい親子だったらしく、伝記に拠れば、暇を見ては父子で古今の史事を談じて深夜に及んで倦むことなく、あるいは、ふたりで山川に遊ぶなど、影が形に添うように、父は子がいなければ一日歓ばず、子は父がいなければ一日楽しまず、といった様子。人々は、天華がよく父につかえて歓ばせていると、ほめたたえたとか。

 

ようやっと生き延びた星台は勉学を続け、実学堂ではいつも首席をとったため評判になる。この頃さる知県(=県の長官。県知事)から縁談があったが、婉曲に断っている。このときに、「この国家の困難な時期に、女の深情けに縛られたくない」と言ったとか、霍去病の「匈奴が滅びぬのになんで家を為そうか」という言を引いたとされる。かくきょへいは漢代の将軍。匈奴を討って大功を立てたが、二十代で病死した)既に国事に殉ずる覚悟があったというのだ。なるほど母子家庭で苦労した宝卿の話を聞いて育った身としては、覚悟ができている以上、娶るわけにはいかなかったのだろうか。

 

★根拠は不明だが、陳星台が廩生(りんせい)だという説がある。廩生というのは、生員のうち成績優秀につき学費が給付される者。星台は98年の時点で童生(童試の受験生)だったことが、『湘報』で確認できる。つまり彼が廩生なのなら、98年以降に一連の童試に受かって生員になったことになる。(2007/04/17附記)

 

 

 

A日本留学から長沙起義まで

 

1903年、陳星台は湖南省派遣の留学生として渡日する。人数が足りなくて、比較的容易に選ばれたらしい。

『湖南官報』に拠ると、このときの湖南省派遣留日学生は50名。うち31名が官費で19名が自費。石陶鈞の回想では、最年少はわずか十二歳で最年長は楊昌済。(石は楊のことを四十近いと記しているが、それは言い過ぎで、実際は三十三歳)二十九歳の星台は年長の部類だろう。一行には私費留学の劉揆一もいた。

 

東京に着いたのは陽暦で3月27日。星台は例によってまず弘文学院に入る。(弘文学院は嘉納治五郎が設けた清国人留学生のための予備校。留学生たちはみな、ひとまずここに入った)そして、さきに来ていた黄興、楊度、楊毓麟、蔡鍔などの湖南出身の留学生たちとの交わりの中で、救国の運動に飛びこんでいく。

 

当時の日本には多くの清国人留学生がいた。日清戦争の敗北後、近代化の先輩としての日本から新知識を得ようという若者が大勢来ていた。

いわば逆遣唐使であり、ちっぽけな島国とばかり思っていたかつての朝貢国に学ばねばならない彼らの気持ちは、少なからず屈折したものだったと思われる。星台も「恥を忍んで仇敵の国に学ぶ」と記しているが、その思いは同じ仇敵(=中国を狙う帝国主義列強)の中でも欧米より日本に対してより強烈だったに相違ない。

 

こうした留学生により、文化運動や政治運動が盛んに行われていた。湘省出身の留学生たちは楊毓麟を中心として雑誌『游学訳編』を発行しており、星台もこれに関わっている。

 

同学の石陶鈞に拠れば、星台は半年経っても日本語をひと言もしゃべれなかったという。政治にばかり熱心な「不良学生」だったからだろうが、石はこれを吃音のためだとしている。彼の活動が文筆によるものだったのも、同じ理由でだと。

石は続ける。同じ机に向かい合って勉強していると、彼がこっそり泣いているのをしばしば見た。それで彼がまた驚心動魂の字句を書き得たことを知った。そこで石は、「救国にはいろいろやりかたがあるが、君は感情で、僕は理知でやるんだね」と、星台に言ったとか。

わたしに言わせればずいぶん失礼な言い方で、幼時から勉強に専心できた読書人の子弟たちの星台に対する軽い軽侮の念を感じてしまう。(石にしても決して裕福な育ちではないが、星台よりは遙かに恵まれていた)

 

 

この年、ロシアの満洲支配に抗議する拒俄義勇隊(俄=ロシア)の運動が留日学生の間に起こる。ロシアは義和団鎮圧のために出動した軍隊を段階的に撤退させることを清朝政府と約束していたが、第二次の撤退をせず、さらに新たな要求を突きつけて、満洲地方の支配を強化しようとしたのである。(このロシアの動きが日露戦争につながった)これに対して、上海や東京で抗議運動が起きる。

 東京では陸軍士官学校に留学中の藍天蔚を隊長に、留学生たちが集まって兵隊ごっこのようなことを大真面目にやっていた。劉揆一が後に息子に語っている。「行軍や射撃の訓練をしたが、体が小さくて太っていたために、ついていくのが大変だった」と。

これは清朝ではなくロシアに反対する愛国運動だった(満洲人留学生も参加している)が、清朝は愛国に名を借りた革命運動と見なし、日本政府に要請してこれを弾圧した。(日本政府にしても、首都で外国人に兵隊ごっこをされたくはなかっただろう)解散させられた学生たちは、軍国民教育会に改組して運動を続けたが、これはより革命的傾向の強いものであった。

陳星台もこの拒俄義勇隊から軍国民教育会へというコースをたどった。そしてさらに、革命団体である華興会の結成に参加することになる。(華興会は会長が黄興、副会長が劉揆一と宋教仁。湘省出身者が中心である)

 

03年5月、彼は「敬告湖南人」(つつしんで湖南人に告げる)を書き、これが投稿として『蘇報』に掲載される。革命宣伝家としてのデビューである。(『蘇報』は上海で発行されていた革命的な新聞。主筆は湖南出身の章士サ。鄒容を獄死させた筆禍事件「蘇報案」の舞台となった。なお、星台は指を噛み切って認めた血書を各方面に送ったといい、これが「敬告湖南人」だというものもあるが、別の文章らしい)

そして同年夏、革命宣伝のパンフレット『猛回頭』を著す。さらに秋には『警世鐘』を出版。これは04年に増補版が出ている。

 こうした執筆活動の一方、星台は03年末頃に帰国して、華興会の結成に加わる。というより、著作自体が華興会の宣伝活動といってよいだろう。それは華興会の理論的指導者である楊毓麟の『新湖南』で説かれた、大衆への啓蒙宣伝の実践版といえる。(華興会結成時の黄興の演説は、『新湖南』に沿ったものであった)黄興は帰国に際し『猛回頭』と鄒容の『革命軍』を計四千部持ち帰って、宣伝活動に使っている。

 

 陳天華の名を世に高らしめた『猛回頭』、『警世鐘』は、彼でなくては書けないものであった。内容的には湖南の先輩である楊毓麟の『新湖南』を継承発展させたものといえる。鄒容の『革命軍』が反専制、反満洲を強調するのに対し、こちらは反帝国主義を最重視するのを特徴とする。また、『新湖南』が文語であるのに対し、星台の二書は口語で書かれていた。『警世鐘』は演説筆記のような調子。そして『猛回頭』は弾詞の形式をとっている。弾詞とはセリフと歌とが交互になっている語り物。要するに大衆芸能だろう。歌の部分は三、三、四のリズムで、音読すると気持ちがよい。

 これらは、下層民衆と知識人層との中間的存在だった陳星台ならではの作品といえる。

 

ここに、『警世鐘』の冒頭の部分を掲げる。中国語がわからなくても、大体の感じはつかめると思う。

 

噯呀!噯呀!来了!来了! 甚麼来了?洋人来了!洋人来了!

 不好了!不好了! 大家都不好了!

 老的、少的、男的、女的、貴的、賎的、富的、貧的、做官的、読書的、做買売的、做手芸的、各項人等、従今以後、都是那洋人畜圏里的牛羊、鍋子里的魚肉、由他要殺就殺、要煮就煮、不能走動半分。

 唉!這是我們大家的死日到了。(句読点は『陳天華集』による)

 

 (日本語訳)

 あいや、あいや! 来た、来た! 何が来た? 洋人(=外国人)が来た、洋人が来た! 困った、困った、誰もがみんな困ったことだ!

 老いも若きも、男も女も、貴人も賎しい人も、金持ちも貧乏人も、役人も知識人も、商人も職人も、全ての人が今から以後、みんな洋人の檻の中の牛・羊や、鍋の中の魚・肉と同じ。殺そうが煮ようが意のままで、こちらは半歩も動けない。

 ああ! 我々みんなの死ぬ日が来たのだ。

 

 以下、「苦呀!苦呀!苦呀!」 「恨呀!恨呀!恨呀!」 「真呀!真呀!真呀!」などで始まる文章が続く。

 

 

 陳星台の二書は大いに歓迎された。その流布した量と質とについては多くの証言がある。湖広総督(湖北・湖南両省を統べる長官)張之洞の目にも触れ、仰天した張は「喪心病狂、大逆非道」の「逆書」として、厳重に取り締まるよう厳命している。

 これらの書は長江流域を中心に流布し、軍隊にも大量にもちこまれた。また、星台を敬愛する民族資本家の禹之謨は、自身の工場に星台の著書をはじめとする革命宣伝冊子をそろえて、労働者や学生たちに読ませていた。

 『猛回頭』は読まれただけでなく、実際に口演もされた。茶楼や酒館で宣読された例、演じて回っていた者が処刑され(猛回頭案)、それをきっかけに余計に評判になって流布したという例などがある。

 また、『猛回頭』冒頭の詩「大地は沈淪して幾百秋……」は、秋瑾の遺句「秋風秋雨、人を愁殺す」と同様、多くの人に歌われた。

 

 

 華興会員として陳星台は姚洪業とともに江西省方面を遊説して回った。後に『武昌革命真史』を書いた曹亜伯は、湖北への帰途に寄った江西で、府試(=科挙の予備試験)の受験生に対し『猛回頭』『警世鐘』を配布して演説し、密告されて逮捕即処刑の手配書が出されたのを知らずに、そのまま湖北へ向けて去った。その翌日に星台自身がその地を訪れたため、彼は何もできずに危うく逃げ帰ったという話がある。

 

 

 華興会は、04年秋の西太后の誕生日に集まった高官を爆弾で吹っ飛ばし、それを機に一斉蜂起するという計画を立てていた。いわゆる長沙起義である。会党(=秘密結社)と結んで蜂起し、まず湖南一省が独立を宣し、そこから各省が順次独立して清朝を崩壊させるという構想で、『新湖南』の思想に沿ったものである。後の辛亥革命も、同様の経過でなされている。

 

 しかし密告者が出るなどして事前に露見し、一同は逃亡を余儀なくされる。上海で再起を謀ろうとするが、別の暗殺事件との絡みで黄興も一旦逮捕されるなど危険が及び、一同は日本へ亡命する。このとき星台は譚嗣同に倣ったのか、「逃亡するより死を選ぶ」というようなことを言って亡命をいやがったが、友人たちの説得でしぶしぶ船に乗ったという。

 

 

B「要求救亡意見書」そして中国同盟会

 

 東京での亡命生活はぱっとしないものだった。華興会は実質上すでに存在せず、同志の中には改良派に転ずる者もあれば、章士サのように政治と距離をおいて学業に専念する者もあった。

 ひとり気を吐く宋教仁が雑誌の発行を計画し、陳星台も同人に名を連ねたが、資金も原稿も集まりが悪くて難航。そのうち(05年3月)星台が編集を降りると言い出して、宋を苛立たせている。(雑誌は『二十世紀之支那』で、1号出しただけで発禁となり、『民報』に引き継がれた。なお「支那」の語は、「清国ではなく中国」ということで、積極的な意味をもつ)

 

 そして星台は奇妙な行動に出る。05年1月、「要求救亡意見書」なる文書を作成し留学生に配布したのである。星台は自ら北京へ行って清朝にこれを突きつけ、改革を要求するのだと主張した。

これはふつう、陳天華の「奇想」とか「混迷」といわれている。

清朝は列強の意のままになる「洋人の朝廷」になりさがっており、改革も、それによる救国も清朝には不可能だということは、星台自身がその著書の中で喝破したところである。

 清朝と交渉することは、たとえそれが星台のいう如く、請願ではなく要求、主権者たる国民が管理人たる政府に対して突きつける要求であっても、革命派としては絶対に容れられるものではない。それは梁啓超らの改良派に近づくことでもあり、そもそも革命派は倒清を旨とするものであるから。

 また、この「意見書」の項目を見てみると、これが絶対に清朝に容れられるものではないことは明らかである。星台自身も、清朝に望みはもっていないと明言する。

 ではなぜ、星台はこのようなことをしようとしたのか。長沙起義の失敗で意気阻喪し、革命の志が挫けて「迷った」のか。それとも何かほかに考えがあるのか。

 宋教仁はこの件を、「意見書」を持って帰国したところで、清がそれを受けいれるはずもなく、かえって彼を捕らえて処刑するだろうということから、星台がそれをこそ狙っていたのだと説明している。彼が命をおとすことで、清朝に改革する気がないことを、よりはっきりと天下に知らしめようとしたのだと。

これは陳星台の「絶命書」を発表する時に附された跋文であり、故人に対する配慮、それ以上に運動に対する政治的な配慮があっての解釈ではないかと思われる。が、それだけでなく、星台自身もこのとき「死に場所を求める」と明言しているし、命を投げ出したがる彼の傾向からすると説得力がある。

わたしが思うに、彼にとって最大の目的は「救国」であり、革命はそのための手段にすぎなかったのではないか。何よりもまず、列強によって瓜分の危機にある中国の現状を救うこと。滅亡の瀬戸際にある中国民族を救い出すことであり、そのためなら手段を問わないところがあるのでないか。だから『警世鐘』でも、役人や「世家貴族」や新旧両党などを含め、広く呼びかけの対象にしている。

彼のいう「革命」は、華夷思想的に、あるいは排満復仇的に倒清をいうのとは違う。

革命が必要なのは、清朝が救国の邪魔だから、「洋人の朝廷」たる清朝では救国できないばかりか、かえって洋人の手先として中国を列強に売り渡すに相違ないから。だからその清朝を倒し、自覚ある国民による民主国家を建てることで中国の自強を図り、帝国主義列強に抗して生き延びる、それが陳星台の望んだことなのではないか。(それは彼が下敷きにした楊毓麟の『新湖南』の思想でもある)

 

 ともあれ彼の行動は革命派として許されることではない。また、著名な革命宣伝家である陳天華の動向は大きな影響力をもっていた。(実際に彼の名は梁啓超一派に利用された)このため、同志が再三再四訪れては説得にあたったことが、宋教仁の日記からうかがわれる。

日記に拠れば、1月30日に湖南同郷会の会合(参会者200名)を開き、「意見書」に反対する旨を全会一致で採択。(同時期、各省の同郷会でも同様の決議がなされる)翌31日、黄興が宋教仁を訪ね、翌日に星台と談判することを相談。そして2月1日、ふたりで星台を訪ねて大いに談判する。宋は星台が梁啓超と連絡をとっていることを実証して、厳しく論難した。しかし事は解決せず、しばらくして星台は、警察に呼ばれているからと言って出ていってしまう。(警察で彼は、学生の身で政治に首を突っ込むことの心得違いについて諭され、文書の配布を禁止された)この日、夕方から雪。そして翌2月2日、宋教仁は黄興から、星台の件はもう終わったと聞かされる。

 

 

 その後の数カ月間、陳星台が何を考えていたのかは不明。前述のとおり3月には『二十世紀之支那』の編集を辞している。

 

 

 次に彼が動き出すのは夏になってからのことだ。すなわち、中国同盟会の成立である。

 

 黄興と孫文との提携の動きが、いつ、誰の紹介によって始まったのかは議論のあるところだが、煩瑣になるので省く。星台に関していうには、再び宋教仁の日記に拠らねばならない。

 日記では、7月28日、程家檉から二十世紀之支那社(程家檉の自宅)に孫逸仙が来るからという知らせを受けて訪ねていくと、既に孫と宮崎滔天がいた。星台も来ていて、孫の質問に、宋が答える前に星台が答えたという。この辺りの記述に、先をこされてしまった華興会副会長の気持ちと、息せき切ったような陳星台の高揚とが読みとれるようだ。

 翌29日、黄興の許に華興会の面々が集まり、「孫逸仙の会」への対処の仕方を相談する。星台は孫の会と連絡することに積極的に賛成するが、反対する者(劉揆一)、孫の会に入りはするが華興会も残そうという者(黄興)などがあり、結局「個人自由」となった。(これだけ見ても、高校教科書的に「興中会、華興会、光復会の三団体が大同団結して中国革命同盟会になりました」という言い方には大いに難があるのがわかる)

 

 ここから先、陳星台は生き返り、堰を切ったように活動を始める。この高揚ぶりがわたしには恐ろしい。

 8月に大々的に催された孫逸仙の歓迎会のレポート(『民報』創刊号に掲載)を書き、孫を「失敗の英雄」と不思議な表現で讃える。

 次いで同盟会が正式に発足し、星台は馬君武とともに書記を受け持つ。(総理は孫文。それに次ぐ総務部長に黄興)そして、規約の起草委員となり、機関誌『民報』の撰述員となる。

 11月に出た『民報』創刊号に掲載された文章17篇中、実に7篇が星台の文章である。(ちなみに第2号は実質上、烈士陳星台追悼号になっている)その主張は力点を反帝から民主主義国家の建立に移しているようだ。

 

 

 

☆陳星台の人柄を示すエピソードを少々

 

「激情の革命宣伝家」というイメージの強い陳天華だが、平生は無口で物静かだったらしい。あばた顔を「陳麻子」(=あばたの陳)とからかわれても、怒りもしなかったとか。また、爆弾テロで死んだ呉樾(安徽省の人)はほとんど友人のいない孤独な人だったが、その数少ない親しい友(三人)のひとりとして「湖南の陳天華」が挙げられてもいる。

 その人柄をよく表す文章がある。宮崎滔天の「亡友録」だ。それに拠ると、1905年12月6日、陳星台は宮崎と会っている。その前に滔天から招かれたことへの答礼で、彼は秘蔵のさざえの殻の盃でふるまった。滔天は彼の印象を次のように記す。

 

彼とはしばしば酒を飲み交わす機会をもったが、彼の寡言と言語不通ゆえに、「乾杯々々」の一語だけで会話はないのが常だった。(普通は筆談でいくらでも会話すると思うのだが)「彼は蛮骨稜々で眼光に力あり、一見してきかぬ気の人である事が分る。」

しかし、相対していると「謙遜優美の徳が溢るゝばかりで、何時ともなく、慕はしく恋しく、而して忘れ難き感情を惹起されるのであった。」

彼は手腕や陰謀とは無縁の、「高尚優美なる心情を有せる文士的先駆者」だった。(「亡友録/陳天華君」『宮崎滔天全集』第2巻)

 

 また、革命家たちの詩の結社「南社」のメンバーだった曼昭がこんな逸話を記している。1905年、孫文、黄興と陳星台とが革命について論じ合っていたとき、星台の湖南弁を孫文が解さなかったため黄興が通訳した。星台がこれを大いに恥じて大泣きしたため、ふたりで交々なぐさめたと。

 役者の揃え方といい状況の語られ方といい、とても事実とは思えず、単なる噂話に過ぎないと思われる。けれども、こんな話がまことしやかに語られるところに、当時の知識人たちが抱いていた「陳天華」のイメージがうかがわれる。すなわち、憂愁と激情とを有する、愛すべき純情な田舎者。

同じ文章で曼昭は、同じく踏海した湖南人革命家の楊毓麟と較べて、名望は陳天華が上だが文学的には楊のほうが優れているともいう。(楊毓麟は革命を志す前は科挙エリートだった)

こういったあたり、前述の石陶鈞の言、「君は感情を以て、我は理知を以て」とも併せて、割り切れないものを感じる。

 

 

 

C踏海

 

1905年秋、日本の文部省が「清国留学生取締規則」なるものを出す。これは清朝政府の要請をうけてのものだが、留学生たちはもちろん激しく反対した。同盟罷校や、帰国しようという動きも出た。陳星台はこの動きに対して沈黙を守り、君は筆が立つのだからと勧められても、「いたずらに空言をもって人を蹶起に駆りたてることはしたくない」と、応じようとしなかった。

 しかし12月7日(前述の滔天との会見の翌日)、『朝日新聞』がこの運動を報じて、「清国人の特有性たる放縦卑劣」と愚弄する記事が載ると、星台は終日部屋で書き物をする。

 そして翌8日朝は、「起きて食事をすませ、友人の某君に二円借りて外出した。同宿者は、文章を印刷にまわしにゆくのだろうと思って気にもとめなかった。夜に入っても帰ってこないので、はじめて疑をいだいたのである。しばらくすると、留学生会館の受附がやって来て言うには、公使館から電話があって、大森の警察官からの電話によるとひとりの支那男子が海で死んでいた、姓は陳、名は天華、住所は神田の東新社とのこと。かくて君の死を知ったのである。ああ、痛ましき哉。」

 「夜もあけやらぬころ、わたしは友人某氏某氏たちと大森へしらべに行った。大森町長は、昨日六時、当地の海岸の東浜六十間ばかりのところに、ひとつの屍体を発見、すぐさま引きあげ、九時に体を検査したが、銅貨数枚と書留証のみで、ほかに何ひとつ無かった、今はもう納棺してある、と語り、われわれを案内してくれた。日本風に、うら淋しく棺のみがぽつりとおかれ、そのなかに君は居た。書留証をしらべてみると、君の名義で芝区御門前より中国留学生総会館幹事長に宛てたものであった。」この書留が「絶命書」であった。(引用は「絶命書」跋文で、筆者は宋教仁。訳は島田虔次による)

 

 「絶命書」は、「嗚呼我同胞」で始まる。「ああわが同胞、みなさんは今日の中国というものを御存知だろうか。」(訳は島田虔次による)そして、中国が半植民地状態にあることを説き、救国を訴える。

中国はまさに滅亡の危機にあり、「放縦卑劣」などとそしられるようでは、ほんとうに亡びてしまう。だから、「小生、心にこの言葉を(かな)しみ、わが同胞が一刻もこの言葉を忘れず、この四字を除き去るよう努力して、この四字の反対を為し、堅忍奉公、学にはげみ国を愛してほしい」のであり、それを諸君が忘れてしまわないように「この身を東海に投げて、諸君のために紀念とする」のだと。

 

 注目すべきは、後段で語られる彼の革命論である。

「小生は救国を前提とするものである。いやしくも救国の目的さえ達せられるならば、実践はかならずしも小生と同一である必要はないのである。

 もっとも、小生の革命に対する態度には、ひとと趣を異にする点がある。それは、小生の革命に対する態度は、必らずもっとも迂遠な手段でゆくべきで、うまく立ちまわろうという心(取巧之心)が一毫たりともあってはならぬ、とするのである。」

 つまり目的は救国であり、そのために革命をするのである。前の「要求救亡意見書」と変わっていない。

 そして星台は続けて述べる。

 「けだし、革命には功名心より発するものと責任心より発するものとがある。責任心より発するものは必らず事態が万やむをえずというに至ってのち為すもので、利害観念などはない。功名心に発するものは、自分の力が足りぬとなると、時として他人の力を借りようとさえする。内、会党を利用するにあらざれば、外、外資を恃みとするのである。」

 会党を利用しようというのは、黄興や劉揆一などをはじめ、多くの革命家がとろうとした方法である。そして「外資」となれば、孫文だろう。

星台は会党については頼みにならないとするだけだが、「外資にいたってはもっとも危険であって、フィリピンの失敗はそのよい戒めであろう」と述べている。(フィリピンのスペインからの独立運動がアメリカに頼った結果、アメリカの植民地になってしまったことをいう)

これはどう見ても孫文に対する批判だろう。長沙起義の失敗、「混迷」と、運動の沈滞の中で淀んでいた彼が見出した光明が、孫文との提携だったはずだ。実際の孫文と会って、彼は何を見たのだろうか。

 

 

 なお、もともと無理のある寄合所帯だった同盟会に最初の亀裂を入れたのは、この取締規則反対運動や星台の死に対する対応のしかただったらしい。光復会系や湖南派の人々が、帰国するしないにかかわらず大いに悲憤し慷慨したのに対し、孫文派の人々は、孫からの指示もあってこの件に対して一貫して冷淡だったようだ。(この時期は黄興も孫文も日本にいなかった)

 宋教仁の日記は、05年秋以降年末までの部分が欠落している。これは、こういった同盟会内部の微妙な問題に触れるために、宋が政治的な配慮から伏せたものとも考えられる。(一連の経過に積極的に関わっていた宋教仁は、少なからず傷ついたのだとわたしは思う。日記を再開した06年の正月、彼は酔って『猛回頭』の曲を歌い、「一時に百感が交集して」泣き伏している)

 

 

陳星台の踏海により留学界は沸騰する。(踏海=要するに海での入水自殺なのだが、下敷きになる故事があって、政治的な死に使われる語)「絶命書」は留学生会館に掲示され、大勢の留学生が押しかけた。(宋教仁に拠れば「数千百人」)そして、秋瑾はじめ二千人が一斉帰国している。

このため、彼が「取締規則」に反対して帰国を主張したとみなす向きもあるが、「絶命書」をよく読むと、むしろ慎重な行動を呼びかけているのがわかる。彼が本当は何を考えていたかではなく、人々にどう受け取られたかのほうが重要なのだとすれば、結果的に「陳天華は帰国派」ということになる。たいていの概説書には「取締規則」に対する抗議自殺とされている。

しかしわたしは、陳星台自身の身に沿って考えたい。彼が何を考えていたのか。なぜ、死を選ばねばならなかったのか。

 

 激烈な革命宣伝書を書き、「放縦卑劣」の4字に反発して投身自殺した、激情の人。

 そのイメージにわたしは抗したい。もっとも、激情自体は否定しない。指を囓って血書を認めたこともあるくらいだから、爆発性の激しい面を持っていたのも事実だろう。

 しかし、『朝日新聞』を読んで激し、激烈な遺書を書いて投身自殺……というのは、違うと思われる。前述のとおり、「絶命書」はむしろ、慎重な行動を呼びかけている。

また「投身自殺」という言い方にも問題がある。大森の海というのは海苔の養殖で有名で、海水浴場でもあったくらいで、遠浅だったはずだ。となれば、投身というよりは文字どおり「海を踏んで」沖へ向かって進んでいったわけで、激情よりも静かな強固な意志をもってのことと思われる。12月8日の天気は曇。(7日は雨。9日は曇。いずれも留学生黄尊三の日記に拠る)さぞ寒く冷たかっただろう。

 結局のところ、彼がなぜ死を選んだのかはわからない。革命宣伝家としてのデビュー作である「敬告湖南人」のときから既に、奴隷としていたずらに生き延びるよりは死を! と呼びかけているし、ことある毎に死を選びたがる傾向があったのは確かである。それがなぜなのか。それを探るには彼の生い立ちから始まって、その心理の奥深くまで入らねばならない。これはもう文学の領域になってしまうし、第一、材料がない。したがって、そこまで踏み込むことはしない。

ただこの「踏海」は、わたしにはむしろ、彼が自分の死を政治的に利用したものに思われる。後に留学生の厭世自殺を周囲の人間が遺書を偽造して抗議自殺に仕立て上げるという事件が起きるが、星台はそれを自分でやったのではないか。死ぬ機会を探していた人間が、その機をうまくとらえて利用したのではないか。そのついでに、革命家としての自らの思想の到達点を「絶命書」としてまとめ上げ、発表したのだとは言えないだろうか。

 

★星台が見つかった大森町字浜端は今のどこか。調べた結果、今は公園になっている辺りのようだ(日記2008年8月13日の項を参照のこと)。なお、彼の寓である東新訳社があった辺りも、千代田区立西神田公園になっている。(2011/09/24附記)

 

 

 12月7日、陳星台は「絶命書」のほかにもう一篇、文章を書いている。「先考宝卿府君事略」、亡父、陳宝卿の小伝である。

 同郷の親友に託されたこの文章は、兄に五十を過ぎて子がなく親戚もいないため、父の血と祀りとが絶えてしまうのを惜しんで書かれたものだ。(陳天華を天涯孤独とするものがあるが誤。「長兄今年五十余」と星台自身が記している)

 この中で星台は、人望はあるが貧しい、お人好しの村の知識人だった亡父の人となりを記す。そして、優しく人あたりがよくて誰からも好かれたが、特に子女には厚かったとして、以下のように述べる。「天華とは毎晩足を接して眠り、いつも夜更けまで語りあい、目醒めるとそのまま続きをといったふうで、人が見たら父子とは思わないほどだった。ああ、亡父は西洋の新しい学説に触れることはなかったが、博愛・平等の主義を体現した人だった。」

 

 「革命党の大文豪」、「激情の革命宣伝家」である陳天華が生涯の終わりに書いた文章は、亡父との優しい思い出だったのだ。

 

 

 

☆エピローグ

 

 翌年7月、故郷湖南の省都長沙で、陳天華と姚洪業との公葬が行われた。(姚は華興会員。取締規則事件で帰国した留学生のために上海公学を建てたが、資金面で行き詰まったことを憤り、黄浦江に身を投げた)

中心となったのは禹之謨の率いる学生自治会と、寧調元らの同盟会員。禹之謨は教育と産業とによる救国を志した民族資本家で、黄興から同盟会の湖南支部を任されていた。陳星台を敬愛し、その著書の流布に努めていたのは前述のとおり。

 官憲はもちろんこの公葬を阻止しようとしたが、にもかかわらず1万人もの学生・一般民衆が参加する一大デモ行進となった。

学生たちは喪服代わりの白い制服に身を包み、詩を書いた旗幟を掲げ、小冊子をばらまき、哀歌を高唱しながら市中を行進し、軍警も呆然と見送るしかなかったという。星台の棺(遺骨)を禹が、姚のそれを寧が護り、無事に岳麓山へ葬った。いわゆる岳麓山事件である。

 もしこの場に陳星台の霊がいあわせていたならば、彼はいかなる態度を示したことだろうか。こんなことをしてもらいたくて死んだのではないと、歯がみし地団駄踏んで、改めて自重を促したことだろうか。それとも莞爾と笑ってともに列に加わっただろうか。

 わたしには案外後者であったように思えてならない。これだけの数の同志たちが、これほどの団結を見せてくれたことが、うれしくなかったはずはない。

岳麓山事件はおそらく中国全土を揺り動かした長く苦しい革命の静かな幕開けとなったのだろうと、わたしには思われる。

 

 

 

 

 

伝記としては

羅元鯤「陳天華的少青年時期」、楊源濬「陳天華殉国記」、石陶鈞「六十年的我」、宋教仁「陳星台先生『絶命書』跋」(訳文は島田虔次『中国革命の先駆者たち』)、同「烈士陳星台小伝」などを使用。

 

ほかに

『陳天華集』(1982年版)

宋教仁「我之歴史」(邦訳として松本英紀訳『宋教仁の日記』)、島田虔次前掲書、同『辛亥革命の思想』、中村哲夫『同盟の時代』、永井算巳「陳天華の生涯」、里井彦七郎「陳天華の政治思想」、小野信爾「辛亥革命と革命宣伝」などを使用した。

 

 

(2001年、千歳村にて記す)

 

 

 

 

 

 

 

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