華興会の人々

1905年の写真。

前列向かって右から、章士サ、陳天華、黄興。

一人おいて左端は、胡瑛に似ているようないないような。

後列向かって左から、宋教仁、劉揆一。

「民報社同仁合影」というような題で複数の本に紹介されている。

けれど、この題名には疑問がある。

同盟会結成に向けての湖南派の話し合いのとき、

劉揆一は「孫逸仙の会」と結ぶことに反対で、

彼が同盟会に入会したのは1907年1月のことだ。

つまりそのときには既に陳星台先生はこの世にない。

さらに章士サにいたっては、政治と距離を置いて学業に専念すると宣言し、

最後まで同盟会には入らなかった。

よく見れば、写真の8人のうち名まえの分かっているのは全て湖南人。

つまりは「華興会残党合影」とでもしたほうがよいのでは?

それにしても星台先生、そんなにしゃっちょこばらなくてもいいのに。

 

 

陳星台先生

陳星台先生の有名な写真。おそらく最初の留学で日本に来て、

弁髪を切った直後ではなかろうか。

 

 

楊篤生

楊篤生

 

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これも楊篤生。晩年(という歳ではないが)か?

 

 

 

楊コ鄰

楊コ鄰。

篤生とは政治的な立場を異にしたが、

連絡はずっと取り合っていた模様。

黄興さんの信が篤く、

辛亥後に秘書を務めたり湖南省で要職に就いたりしたのは、

立憲派と革命派とを結び得る位置にいたからか?

 

 

楊昌済先生

楊昌済先生。

篤生の大好きな懐中叔祖。

 

禹之謨

不敵な禹之謨

 

 

宋遯初君

留学時代の宋教仁。

かわいいので「若い頃の宋教仁」と書こうかと思ったけれど、

年とった宋教仁なんていないので、本にあったとおりにした。

「このかわいい子があのかわいい日記を書いていてしかも後の偉人という強烈なギャップがいいですよね」

とは、畏友I氏の言。全く同感。

 

 

劉道一君

劉道一君。いかにも明治時代の書生さん。

豪胆で頭も回り弁も立つ、なかなかの逸材で、

満22歳での刑死が惜しまれる。

後を追って縊死した妻も烈婦扱い。

 

 

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光緒帝さいてん

謀叛人どもと一緒に並べるな! と怒るかな。

光緒24年の戊戌政変は、外形だけ見ると

「お人形だった幼君が成人して自我を持ったために逐われた」

という左伝にありがちな型に収まってしまうが、

もちろん歴史的意義はそんな程度のものじゃない。

ともあれ、あのとき、二十八歳のさいてん君は確かに輝いていた。

一瞬の幻想だったけれど、そのときは確かに希望の星だったんだ。

それだけに、その後の若すぎる「余生」は気の毒すぎる。

おまけにあんなばっさまと心中させられるとは、あまりなこと。

追記:中国の清史編纂チームが遺体の毛髪を分析したところ、多量の高濃度ヒ素が検出され、

短期間に致死量を超えて摂取していたことが分かった。(08/11/4朝日新聞夕刊)

……やっぱり、消されてた……。享年三十八。