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伝記的なこと

 

秋懐其八

 

脱線?

 

 

秋懐 其八  韓愈

 

巻巻落地葉 随風走前軒

鳴声若有意 顛倒相追奔

空堂黄昏暮 我坐黙不言

童子自外至 吹燈当我前

問我我不応 饋我我不餐

退坐西壁下 読詩尽数編

作者非今士 相去時已千

其言有感触 使我復悽酸

顧謂汝童子 置書且安眠

丈夫属有念 事業無窮年

 

 

落ち葉がくるくると風に舞って軒端を走る。かさこそともの言いたげに、ひっくり返ったり追っかけあったりしている。

がらんとして人けのない部屋に日は暮れていき、私はひとり黙って坐していた。

子どもが入ってきて、暗い部屋に坐している私に驚き、灯を点しながら話しかけてきた。私が応えないでいると、子どもは一旦さがり、食膳と共に戻ってきて私に勧める。けれども私は箸をとろうとはしなかった。

すると子どもは西側の壁の下に坐し、詩を読みだした。しっかりとした口調で誦されるその詩は、最近のものではなく千年も前に詠まれたものだ。けれどもその言は私の心に深く触れ、苦い悲しみを思い起こさせた。

私は子どもを顧みた。「おまえ、もういいから、書を置いて寝なさい。大人には色々と考えるべきこと、なすべきことがあるのだから」と。

 

わたしにはこれは一篇の短編小説、それも良質の私小説にしか読めないので、あえて散文で訳した。

「童子」は侍僕という解釈もあるが、ここは韓愈の実の息子、当時十四歳の韓昶ということにしたい。侍僕なら物思いにふける主人の気持ちを慰めようとして詩を読んだのだろうが、息子では少し違う意味あいが出てくると思うからだ。

 

韓愈(かん・ゆ 768〜824)。字は退之(たいし)。諡(おくり名)は文公で、文のつくのは諡としては最高級のものらしい。その自称した本籍地から、韓昌黎ともいう。中唐の人。

散文の大家として知られ、駢文に反対し古文の復興に尽くす。学者としては儒教の復興を唱えて道教や仏教を痛烈に攻撃した。宋学より以前に「大学」に注目したのも韓愈である。

 

韓愈はあまり豊かではない地方官吏の子として生まれた。三歳のときに父を亡くし、母も早く亡くして、年の離れた長兄に育てられた。しかし十一歳のときにその兄も四十二歳で亡くなり、次兄も既に世を去っていたため、しっかり者の兄嫁が家政を切り盛りする下で、韓愈は人となったようだ。長兄には子がなく、次兄の子を養子にしていた。この甥と兄弟のように育ったらしい。大した領地もなかったようだから、兄嫁の苦労はひとかたではなかっただろう。その中で、韓愈は甥と二人、身を寄せ合うようにして育ったのではないか。兄嫁は二人を抱き寄せては「韓氏はあなたたち二人だけになってしまった」と嘆いていたという。

韓愈のことを、出世主義者の、俗物の、という向きは多い。息子に贈った「示児」という詩を、成り上がり者の自慢話とくさす人もある。なるほど彼にはそういう要素があるのかもしれない。が、それは彼の生い立ちを見れば無理もないといえる。他人に育てられた者、苦労して育った者が出世主義になるのは、ありがちなことだ。自分の息子相手に少しくらい自慢してもいいじゃないかと、わたしは思う。

 

さて、そうして人となった韓愈は、中央に出て立身すべく科挙に応ずる。

科挙という制度が編み出されたのは、唐より一つ前の王朝である隋のときだ。そこに至るには、君主と貴族との長い長い権力闘争の歴史がある。既に春秋時代から、貴族が君主をしのぐほどの勢力をつけて、政治の実権をも握ることが多くなっている。それに対抗すべく、君主は門地はないが有能である人材を周りに集めて登用しようとする。孔子やその弟子たちが、そういう人たちである。『春秋左氏伝』には、君主が大貴族を排斥して寵臣を登用しようとし、かえって弑殺されたり亡命させられたりする例が、いくつも見られる。

この構図は時代がかわっても続き、漢代には外戚、宦官の二大勢力と、自らの才と学問とのみを恃みとする士たちとの抗争が、熾烈を極めた。

そして考え出されたのが科挙である。以前から士を登用する制度はあったが、科挙はそれを整備して、門閥貴族であろうとも科挙を通らねば出世できぬようにすることを目指した。

もちろんはじめのうちは貴族勢力はまだまだ強かった。唐代になっても、例えば王維は十代から貴族社会でその詩才を愛されたり、李白は出世を望みながら科挙には応じずに直接宮廷詩人として用いられた。貴族勢力はまだまだ強く、科挙出身者と対立したが、科挙の重みは次第に増し、出世を望むなら科挙に通って進士となることが重要になってくる。逆にいえば進士になれば門地がなくても出世する可能性が出てくる。中小地主の子弟が科挙を通って中央官界で活躍する。20世紀初頭まで続くこの構図ができあがっていったのが、この時代だった。そういう時代に韓愈は生まれた。門地によらず科挙によって出世する、その最初期の世代のひとりといっていいだろう。

 

唐代の科挙制度は後代ほど整ってはおらず、及第するためにも、その後の任官にも、事前に有力者に自分の才能を売り込むことが必要だった。

韓愈は十九歳で上京し二十五歳で進士に及第したが、門地も後ろ盾もない身ではなかなか意を得ることはできなかった。彼は何とかしようと有力者に対して熱心に運動する。そのやり方は強引ともいえ、「一挙手一投足」の例にも見られるように、どこか妙な型破りのものだった。結局それらは奏功せず、長く不遇をかこつ。三十五歳でやっと正式な官吏になれたが、翌年には直言ゆえか遠方に流される。三十九歳で中央に呼び戻されてからも順調にはいかず、昇進と左遷とをくり返した。

 

この詩「秋懐」は、韓愈四十五歳(812年)、国士博士という国立大学の教授のような職についていたころに詠まれたらしい。この職についたのは同年二月で、前年に犯した失敗による降格だった。

 

「童子」を侍僕でなく実子ととりたいのは、韓愈に父がいなかったからだ。父を知らない彼は、息子との接し方がわからなかったに違いない。息子に対する愛情はあっても、それを表現する術を知らなかったのだろう。

十四歳の少年が、暮れかけた暗い部屋に父親がいるのを見て、声をかけ、膳を運ばせる。けれども父は返事もしなければ見向きもしない。じっと黙って考え込んだままだ。僕がいるのが見えていないのか、全く意識にないようだ。それでも僕は、自分がここにいることをお父さんに知ってほしい。僕を見てほしい。そこで、父の好きな古い詩を持ち出して、壁に依って読んでみた。あまり大きな声でなく、けれどもはっきりとした口調で。なんとか父の心に届かないかと。

 

息子が来たが相手にしないでいたら、詩を読み出した。千年前というと漢初だが、もちろん単に「ずっと昔」という意味だ。漢代の古詩か、もっと古く屈原や宋玉の『楚辞』か。曹操や曹植の建安文学、魏晋の阮籍や康では下りすぎるだろうか。意に染まぬ官職でうだうだしている身に染み入るのは、屈原か曹植か。

韓愈はひとしきり詩を聴いた後、息子を下がらせる。もういい、行って寝なさい、大人には仕事があるのだから、と。息子の姿を見、声を聞き、読まれる詩句を聴き取っても、息子の気持ちには思いを致そうとはしないままに。

 

ここでわたしは、千年よりももっと前の、ひとつの親子の姿を思い浮かべる。座敷に父親が立っていると、庭先を息子がとととと走り抜けた。父は息子を呼び止めて言う。「詩は学んだか。詩を学ばねば一人前になれないぞ」と。父である孔子はおそらく、実子の伯魚よりも弟子の顔淵をより愛していた。孔子の亡命中に教団を守っていたのは伯魚だと思われるが、孔門における伯魚の存在は決して大きくない。彼が父から教わったのは、この「過庭」の教えくらいで、特別なことはなかったようだ。

孔子も韓愈と同じく三歳で父を亡くしている。母の身分が低かったのか、後々までその墓所すら知らなかった。父の愛を知らず、その上伯魚の母を離縁していては、伯魚との接しようを知らないのもうなずける。

 

「もういいから、本を置いて寝なさい」

それは排除であり拒絶のことばだ。けれどもこの数時間で息子がかけられた唯一のことばでもある。お父さんは僕の姿が見えていたし、僕の声が聞こえていた。そして声までかけてくれた。それは拒絶のことばであっても、僕がここにいることを認めてくれてはいたのだと、少年にとっては小さな救いになったのではないか。

 

そしてさらに千年以上後の1906年。茶畑の広がる湖南の農村で、九歳の楊克念(幼名は得)が父親のために詩を読む。父は二日前に村に帰ってきた。

留学のために父が家を出たのは得が四歳のときだから、得は父を憶えていなかった。叔父に少し似ているが、もちろん叔父ではなく、たまに帰ってくる北京の伯父にもよく似ているけれど、伯父とも違う。それが父だった。

父の五年ぶりの帰宅に、みんな大騒ぎだった。先だって伯母が亡くなってから泣いてばかりだった祖母も、久しぶりに笑顔を見せてくれた。しかし父は、明日には村を発って上海に帰ってしまう。大事な仕事があるのだと。

得は父のために大昔の詩を読む。『楚辞』の「天問」だ。難しくてつっかえつっかえだが、読めない字があって止まると、父が助け舟を出してくれる。父は全部諳んじているのだ。「やっぱりお父さんはすごい」と得は思う。母がいつも言っている。お父様は偉い方だと。母だけでなく祖母も、叔父や叔母も、みながそう言う。

しかし「偉い」父は、時折手紙を寄越すだけで、全然帰ってこない。「天子様に弓を引いたので帰れないんだ」とか、「監獄に入れられているんだ」などと陰口を言う人も村にはいて、そういうとき得は何も言い返せない。「お父さんは何故帰らないの」と母に訊いても、お父様は立派な偉い方で、北京や上海で大事なお仕事をしているのだとしか言わない。

けれども父は帰ってきた。やはり監獄になど入ってはいなかった。謀叛どころか、父は天子様の大臣のお供で日本へ行っていたのだそうだ。

難しい「天問」をどうにかこうにか読み終えると、父は「もういいから、本を置いて寝なさい」と言った。そして立ち上がった得を呼び止めた。「得児、おまえ、いくつになった」

 「九歳です」と答えると、眉をしかめて、「それならもう少し読めなければいけないな。しっかり勉強しないと、一人前になれないぞ」

「はい」とだけ答えて行こうとすると、父はもう一度呼び止めて、「おまえ、韓退之は読んでいるか」と訊く。「あまり」と言って、叱られるのかと思いうつむくと、父は黙ってうなずいただけだった。

翌日、父は村を発ち、家に帰ることは二度となかった。一カ月ほど後、上海の父から『韓昌黎集』の一冊が送られてきた。紙がはさんであるところを開くと、「秋懐其八」があった。

 

楊毓麟は1901年冬に日本留学のために湖南を出て、1911年に英国で自ら命を閉じた。その間に家に帰ったのは四日だけだ。その四日間がこんな感じだったらいいな、楊毓麟がこんな人だといいなと、無根拠に想像(妄想)してみた。楊克念の年齢は八、九歳ということなので仮に九歳にしたが、今の日本でいえば小学校二年生なので少々無理があるかもしれない。もっとも、陳天華は九歳で『左伝』に通暁したとされているので、そんなに突飛でもないだろう。

なお、楊毓麟は儒者としての韓愈に対しては儒教の奴隷道徳化の元凶として手厳しいが、文章の大家としての韓愈に対してはまた別だったらしい。楊の文章には、韓愈に典拠を持つ言い回しがよく見受けられる。

 

韓愈はその後も左遷されるなどの曲折を経つつも出世を重ねた。そして中央の官吏として活躍し、五十七歳で病気退職して間もなく亡くなっている。

 

 

 

(年齢は全て「数え」です)

 

「一挙手一投足」:有力者に出した手紙「応科挙時与人書」にある語。この手紙で韓愈は自分を『荘子』にでも出てきそうな怪物に例えている。水さえ得れば天にも昇れるのだが自力ではできない。「有力者」が哀れんでくれれば、水まで運ぶのはほんの「一挙手一投足の労」で足りるのに、怪物はプライドが邪魔して頼むことができないでいる。ところがここに一人の「有力者」が現れた。気づいてほしいな、哀れんでほしいな……といった感じで、傲岸不遜ともいえる、どこが就職依頼じゃ? という不思議な手紙。

 韓愈自身は出世してから、推敲の故事の賈島をはじめ多くの若者を積極的に推薦したり後ろ盾になったりした。それが彼の推進する古文復興運動に大いに力となった。が、一方では多くの弟子を抱えたことが、そしられる一因ともなっている。

 

 

参考

清水茂『韓愈』中国詩人選集11、岩波書店、1958年。

原田憲雄『韓愈』漢詩大系11、集英社、1964年。

前野直彬『韓愈の生涯』秋山書店、1976年。

程千帆『唐代の科挙と文学』凱風社、1986年。

なお、韓愈には冗談性のパロディ文学のようなものを好むところもあったが、「秋懐」に関しては笑いの要素を見ることはできないと思う。

山崎純一「『毛頴傳』−韓愈と笑いの文学」『執着と恬淡の文学』笠間書院、1980年。

 

孔子と伯魚については、『論語』「季氏篇」。

 

 

 

2003年12月6日

 

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