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立憲派について、思うこと

 

 

どうも立憲派が気になる。不審なことが多いので。

 

清末に立憲君主制を目指していた人たちは3通りある。

イ)清政府内部の進歩派高官、 ロ)郷紳層を中心とする国内の在野勢力、 ハ)康有為、梁啓超らの亡命組。

 

イ)の目的はもちろん清朝の延命で、そのために五大臣だの三大臣だのを海外に派遣して視察などさせていたが、どの程度本気だったのかは検討が必要(彼らのいわゆる籌備立憲の史料は神保町で見つけたけれど、図書館にあるからと見送ったら、すぐなくなってしまった。ちょっと後悔)。この人たちが目指したのは、皇権の強い独日型。その憲法案はほとんど明治憲法の翻案のようだが、清帝を明治天皇にしようとしたのなら、それはかつて康有為らが光緒帝を明治天皇にしようとしたのと、どこが違うのか。

 

ハ)はいわゆる保皇派。亡命したはじめのうちは、かなり「進んだ」文献も翻訳紹介していたし、ともすれば革命に傾きそうになる梁を康が諭して引き戻すようなきらいがあったようだが、梁と民報との間で派手な論戦が繰り広げられてからは、梁自身もかなり頑なになった模様。でも、紛れもない熱血優美な湘人革命家である蔡鍔は、もちろん黄興をはじめとする革命家たちと親しく交わったが、少年期には湖南時務学堂で最年少ながら優等生だった人で、梁啓超の弟子でもある。

 

そしてわたしが問題にしたいのは、ロ)の勢力。結局はこの人たちが鍵を握っていたのではないかと。この人たちに見限られたことで、清朝は崩壊したのではないかと。

彼らが望んだのは、英国型の立憲君主制ではないかと思っている。天子はいるけど帽子に過ぎない。そして実はこれは、中国の数千年来のやり方なのだ。

 

『春秋左氏伝』を読んでいるとよくわかる。よい君主とは国人たちの意をよく容れる人だ。だからできれば幼君が望ましい。その下で国人たちが実権を握る。幼君が成人して自己主張を始めた結果、国人たちに追われるという事件は、枚挙にいとまがない。暴君と呼ばれ、ひどい逸話を身にまとわされた君主の多くは、単に自分で政を執ろうとしただけだったのかもしれない。

 

興味深いのは「共和」の語。これを今の意味で使い始めたのはおそらく福沢諭吉で、いわゆる近代和製漢語の一つだ。だが、その元来の意味はというと、ことは西周末期に溯る。

紀元前9世紀、周王室の力が衰えて王が「出奔した」ために、周公と召公という大貴族が合議制で14年間に亘り政を執った。この時代を「共和」と呼ぶ。おもしろいことに、このとき王位は空位になっている。

「出奔した」というと自ら出て行ったようだが、本当は王が大貴族をさしおいて嬖臣を重用したために、国人たちが王を襲って追い出したのだ。そして「脂、(れいおう)」などという暴君用のおくり名をつけている。その後の春秋期には頻出する、内乱の典型例だ。

この周公と召公による「共和」の話は『史記』にあるのだけれど、別の文献では違う話になっている。脂、の時代に共伯和(きょうはくか=共という国を治める伯爵の和さん)という諸侯がいて、この人が人望があったために、王に代わって政を執ったというのだ。期間は『史記』と同じ14年間。いずれにせよ、王の空位時代があり、貴族たちの何らかの話し合いを基に、王以外の人間が輿望を担って政を執ったことには違いがない。

「共和」は、脂、が亡命先で死に、その太子が即位したことで終了する。脂、の出奔時に殺されるはずだった太子を、かくまって守り通したのが召公。ということは、王は召公らに頭が上がるはずがない……。

 

なお英国史では、「共和国」「共和政」(commonwealth)は、国王チャールズ1世を処刑した後の、クロムウェルの時代を指す。その後王政に戻るが、やはりうまくいかず、王を追放してその娘夫婦を王位に就けることとなる。これが名誉革命で、ここに英国の立憲君主制が確立する。英国では革命といえば名誉革命で、王を殺した清教徒革命は内乱であって革命とは呼ばないそうだが、それはともかく。

この「共和」の語を3千年近い眠りから呼び覚まして持ち出してきた人(たぶん福沢)は、commonwealthだかrepublicだかを知って、「ああ、これは共和のことだな」と思ったわけだ。王がいなくて紳士たちの話し合いで政治を執るのだから。

そして、言うまでもなく同じ教養を中国の郷紳層はもっているわけだから、彼らもやはり「共和」と言われれば、周代の「共和」を思い浮かべただろう。それなら知っていると。「共和」は異常事態ではあるが、でもそれは非常時にはあり得る形態だと。

清末にはフランス大革命、アメリカ独立革命と並んで、一連の英国革命も盛んに紹介された。その中で、「暴君を除いて紳士が政を執ったコモンウェルスは、全く周代の共和そのものだ」とか、「暴君を国外に追い出して、その娘夫婦を王位に就けた英国名誉革命は、周代の共和と似ていなくもない」と、思った人もあったかもしれない。

 

天子はいるが帽子に過ぎない。「共和」も『左伝』も封建時代のことだが、秦漢以降の中央集権国家になってからも、ことは変わらない。

 

古代の中国には、君主と貴族たちとの主導権争いの歴史がある。次第に勢力を増す貴族層に対抗するため、君主は自分の手足となるべき士を重用しようとする。士は最下層の貴族で、必ずしも世襲ではない。門地によらず己が才だけを恃みにするので、当時は外嬖などと呼ばれて、悪い奴扱いもされた。この人たちが官僚となっていく。孔子やその弟子たちは、その元祖だ。

「貴族」対「君主+官僚」というこの構図は、秦漢以降も続く。隋に始まる科挙は、貴族に対抗するために編み出された官僚登用制度だ。これにより、少なくとも建前上は、門地によらず本人の才のみを基準に、官僚が選ばれることになる。科挙の試験内容が儒学になったのは、理の当然かもしれない。

唐代も半ばになって科挙制度が整い、官僚制が確立する。これで天子が自分で政治を執れるかと思うと、そうでもない。今度は官僚が強くなって、やはり天子は何もしなくてよくなってくる。というより、何もしないほうが具合がよいので、聖上はハンコだけ捺していればよく、あとは官僚どもがよきに計らいます。

もともと徳治主義の儒教にはそういうところがある。聖人が制定した礼楽の制度に則って、王は北極星の如く中心にでんと座って徳を輝かせ、その周りで百官や農工商がそれぞれの分を守って自分の仕事をしていれば、世はなべてこともなく、平和に順調に回っていく、という思想がある。

中国の歴代王朝は皇帝が強大な専制を布いたとされる。清朝は特に皇権が強いことで知られる。しかし、実際に動くのは官僚だ。その数は広大な国土と人口とに比して少なく、しかもほとんどが官僚を治める官で、民を治める官は知県(県知事)のみ。地方は実質上、郷紳に委ねられていた。となると、「強大な皇権」とは何だろう。

また、光緒帝も宣統帝も幼君だ。戊戌の政変は、『左伝』によくある幼君が成人して親政を始めたために追放された、という型に収まってしまう。そう言い切ってしまうとちょっと悲しいけれど。

 

要は、天子を帽子にして、その下で自分たち郷紳層が好きにやると。英国式の立憲君主制を、彼らがそう理解したとしても、不思議はない。

貴族による合議制と近代の立憲君主制とを、直になぞらえるのが妥当かどうかは疑問だが、歴史的にはそういう発想があるようだ。

 

 

さて、清末の立憲派でわたしがいちばん気になるのは、革命派との距離だ。彼らは、政府の忌諱に触れて海外に逃亡した康梁派には、反感をもっていたという。ならば、朝廷を倒そうとする革命派は、康梁以上にとんでもない、言語道断な不逞の輩のはず。で、実際そう思っていた人も多いだろう。けれどもことはそう簡単ではないような気がする。

かつて中村哲夫氏が、「華興会は武装した立憲派ではないか」という説を立てていた。それは検証せねばならないことだけれど、湖南の複数の大郷紳が不審な動きをしているのは事実だ。革命派に保護や援助を与えるような。

猫っ被りの革命家にだまくらかされた? そんな純朴な人たちだろうか。否、むしろ一途な革命家たちよりもしたたかであるはずだ。清朝が存続しようと滅びようとどっちでもいいように保険をかけていたか、あるいはより積極的な意図があってのことか。

 

とりあえず見たいのは楊度。彼は立憲派を代表する理論家だが、今読んでいる本の著者は、彼の思想は康梁と根本的に違うばかりでなく、むしろ宋遯初と非常に近いという。いずれも英国を範にとり、楊が英国そのままに、「統治しない君主」を温存するのに対し、宋は「英国は形は君主でも精神は民主だ」として君主を不要のものとする。そんなところだとか。

その評価が妥当かどうか、実際に楊度の著作を見て検証してみたい。

ミーハーとしては楊徳鄰に興味があるが、著作が読めないので仕方ない。今はこの有名な才人、ある時期は相当な人望があった楊皙子にお付き合いを願いたいと思っている。

 

 

一部改めたが概ね以上のような文章を、昨06年11月に書いた。その後、康有為の「礼運注」を読んで、その中に「君主は賢臣や能吏を登用し重用する無為の君であることが望ましい」という考え方を読み取ることができ、意を強くした。

けれども、残念ながら今は諸般の事情により、近代史に時間や労力を裂くことができない。楊度は未だ手つかずの状態で、いつ取りかかれるのか見当もつかない。

とりあえず、こんなことを考えているということだけ、まとめておいた。

 

(2007年1月28日)

 

 

 ★変法派、革命派、保皇派、立憲派、それぞれどこがどう違うのか、人的関係はどうなっているのか。革命派と国内の立憲派とはそんなに対立しているのだろうか。

そこで楊コ鄰という人物が気になっている。

彼は長沙の明徳学堂の教員として黄興と同僚で、華興会員ではないがシンパ的な位置にいた。

長沙起義の失敗で華興会が事実上なくなってからは、渡日して楊度と行動を共にしていた。つまり立憲派として活動していたのである。

となると、ばりばりの革命家で梁啓超や楊度を罵る弟の毓麟とは、仲違いしたのかと思ったが、そうでもないようで、毓麟渡英の際にはコ鄰は頭痛薬を送っているし、その後も連絡はあったようだ。

毓麟の死後、コ鄰はその遺志を継いで革命派に転じたといわれる。

民国になってからは、黄興の信任が厚く、その秘書を務めたほか、国民党湖南支部長となり、さらに湖南省の財政局長として湖南の水害被災民の救済に尽力した。

そして13年10月、袁世凱の配下により捕らえられ銃殺される。

 

つまり彼は立憲派と革命派とをつなぎうる人物であり、黄興の重用も個人的な関係だけでなく、その辺を期待してのものだったのではないか。

そのあたりどうだったのか。楊コ鄰は実際のところいかなる思想遍歴を経て、革命派・立憲派それぞれをどう見ていたのか。本人の文章を見ていないのでなんともいえないのが残念だ。

 

 

(2005年7月1日)

 

 

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