もどる

 

おわりに

 

   康有為「礼運注」を読む

 

 

はじめに

 

 康有為の「礼運注」を読み解いてみたい。

 自序によれば「礼運注」は、1884年に筆を執ったことになっている。しかし実際に出版されたのは民国成立後の1912年。その間には約三十年の歳月があり、現在残るこの「礼運注」のどこまでが84年の時点に存在していたのかは、確定しがたい。

 1898年に戊戌政変で日本に亡命して後、彼が新しい思潮に触れた可能性は否定できない。あるいはまた、20世紀に入ってから隆盛した革命派との論争を通じて、何らかの影響を受けた可能性も排することはできない。

 しかし、彼が歴史上変法運動の牽引者として活躍した事実からも、はじめから一定以上の水準の思想を有していたことは間違いないだろう。

 1888年に光緒帝へ変法を上申し、95年の公車上書(会試を受けに全国から北京に集まった挙人千余名の署名を集め、皇帝に変法を進言)を経て戊戌維新へと突き進んだ、康有為の思想の根っ子が見られないだろうかと繙いてみたところ、興味深いことが出てきた。

 以下に、あらましを述べてみたい。

 

 

   一、「礼運」と「礼運注」のなかみ

 

 「礼運」とは『礼記』の中の一節である。『礼記』は漢代の儒者が孔子の時代に仮託して、春秋期以前からの礼を体系化したもので、一見すると冠婚葬祭や衣食住のマナー集だが、注意深く読むと古代中国人の思想体系が浮かび上がってくる。「礼運」は中でも礼の運用と変化(転変)について記している。

康有為の「礼運注」は、その名のとおり「礼運」に注という形で解説を附したものである。中国では伝統的に、経書に注や解釈を加えることで、自らの思想を表現してきた。

康有為は「礼運」をどのように読んだのか。あらましを以下に紹介してみる。

 

 まず、世界は進化するということ。「礼運」は孔子が弟子の子游に対して説くという形をとっている。そこで孔子は現在の世のあり方を嘆き、遠い過去にあった「大同」の世について説く。孔子が生まれたのは春秋末期という乱世であるが、太古には「大同」という理想的な世界だった。それがやや乱れて「小康」となり、今はさらに乱れて全くの乱世になっていると。つまりいわゆる下降史観である。

しかし康有為はこの箇所に注をつけて、こう述べる。「孔子は乱世に生まれたが、志は常に太平の世にあり、必ず進化して大同に至るというのが素志だった」と。つまり、下降してはいるが、そこからさらに「進化」すべきであるとする。礼は固定したものではなく変化するものだというのが「礼運」の内容だが、康有為がここで、世の中は「進化」して理想世界へ向かうものだと明言していることは、注意すべきである。当時の彼および中国がおかれていた歴史的社会的状況を考えないわけにはいかない。

 

 次いで「礼運」では、孔子の言として大同世界を描出する。そこでは「天下を公と為し、賢を選び能に与し、信を講じ睦を脩む」とある。

これを解説して康有為は、「天下国家は天下国家の人の公共同有のものであり、一人一家が私有するものではない。大衆を合わせて、賢者や能者(有能な者)を公選してその職に任じるのであり、子孫や兄弟に世襲させてはいけないというのが、君臣の公理である」という。つまり、為政者の世襲を否定してしまっている。

 「礼運」はそれに続いて、大同では私有財産がなく、誰の親も誰の子も、自分の親や子と区別なく大事にするので、身寄りのない人や障碍者も安心して暮らせ、もちろん窃盗その他の犯罪も起きるはずのない、平和な世界だと説く。

これについて康有為は、人類が不公平では教化が不均等で風俗も悪くなり、それによって人種が不良になって、莫大な害になるといい、世の人々が蓄えた財力を社会保障に使うことで、人々の不安が解消し、ひいては種の進化につながるという。また、「国」「家」「己」を私することは境界を設けることであり、これも進化を阻碍する要因であるとする。ここには社会進化論の影響が見られそうである。

 康はいう。人はみな生まれながらに天に直隷(直属)するのであり、そういう意味で平等な存在である。「天下を公と為す」の「公」とは人々を一つのものとして見た言い方で、そこには貴賤、貧富、人種、男女の別はない。人はみな公であり、人はみな平等である。それが大同の世であると。

このあたりは社会契約論の影響を思わせ、人種が出てくる点も、列強の脅威に直面した近代という時代を感じさせる。

 

 さて、時代が下って「小康」の世になると、私有財産が生じ、人はみな自分の親や子どもしか面倒を見なくなる。そこから世襲も始まるわけだが、康有為は世襲は良法でも公理でもないと断言する。

 「礼運」によると、「小康」の世では「制度」を設けて人心を秩序づけている。これによって人々の関係を調和させ和らげて、世を治めたのが、禹や湯王以下の聖人である。

これについて康有為は、「制度は立法で、人情によってこれを制し、上も下もこれを律とする」が、「厳しすぎると暴政圧制となり、性情を無理に合わせると自立自由の本を失す」とする。人が自分で恥じて行いを改めるのでなく、強制力によって正させるようにすると、人はずるく立ち回って法網を免れることにばかり長けるようになるから、自分で恥じて行いを正すようにさせるべきだというのである。これは『論語』の「これをととのえるに刑を以てすれば、民免れて恥じること無し。(中略)これをととのえるに礼をもってすれば、恥ありて且つただし」(為政篇)に基づくと思われる。すなわち儒教の根幹でもある徳治主義である。しかしここで康が「自立自由之本」ということばを用いているのは興味深い。日本の自由民権期のにおいのすることばで、ルソーの影響がないかと推察される。

 この後に康有為は気になることを述べている。孔子の嘆きに寄せて康はいう。「聖人は時代をつくることはできず、乱世に生まれても憂えるばかりで、段階を越えて太平に進むことはできない。もし未だその時に至らないのに大同を強行し、公産(財産の公有)を強行すれば、道路未通、風俗未善、人種未良なので、必ず大害になる。ゆえに、その俗に合わせて整えていくしかないから、禹、湯王以下の聖人が行った治化もその域(小康)でとどめて、大同に至ることはしなかった」と。これはすなわち、一足飛びの改革は無理だということ、現状をよく見て、漸進的に改善していかねばならないということだろうか。康有為らが推進した戊戌の変法運動は、かなり思い切った急進的なものだったといえる。この箇所は、戊戌維新が時期尚早として挫折した後、より急進的な革命派が興隆して康らと対立するようになってから、書かれたものかもしれない。

 

 この後の数段は、「礼運注」には特に見るべきものがないので省く。

 ただ、「礼運」には非常に気になる箇所がある。礼というのは聖人が定めた規範であり、そこに規定された分を守ることが重要であるということは、後述する。問題は、その分を越えるさまざまの僭上沙汰を、乱国の諸様相として縷々述べた箇所にある。すなわち、「礼は君の大柄なり」=礼は君主が国を治める重要な手段である。礼によってせずに、刑罰によって治めようとすると、人々は法網を逃れることばかり考えて、国は乱れて滅びることになる。よって、君主には徳が必要である。このため聖人は天地に参し、鬼神に並び、政を治めるのである。したがって、君は過ちなき者である。そしてまた、君は則られる(規範、手本となる)者で誰かを則る者ではなく、養われる者で養う者ではなく、仕えられる者で仕える者ではない。対して百姓(ひゃくせい=人民)は、君に則り自ら治め、君を養い自ら安んじ、君に仕えて自ら顕す(自己を発揮する)と。

 『孟子』にこんな一節がある。農本主義者が孟子を訪ね、君主が農耕しないで食っていることの非を質した。それに対し孟子はこう答えている。農民は農具や鍋釜、衣服などは鍛冶屋その他の職人から穀物と交換で得ている。耕作に忙しくてほかの物を作る暇がないからで、それによって耕作に専念することができる。天下を治めるのも、耕作の片手間にできる仕事ではない。人にはそれぞれ仕事があるので、大人の仕事(政治)もあれば小人の仕事(農工商)もある。心を労す者は人を治め、力を労す者は人に治められるのであると(滕文公上)。

 孔子にこういった分業論があるとは思わないが、少なくとも孟子のころには、こういう考え方ができていたことが分かる。

 おもしろいことに、孔子の後、孟子の前、歴史的社会的に見て中国の戦国期くらいに相当しそうなプラトンが、分業こそが正義だと説いている。大工は車を作らず、車職人は家を建てない。そうして各自が自分の仕事に専念し、お互いの仕事を侵さないことが正義であると。

 この「分を守る」というのは、古代における社会契約ではないだろうか。そう考えさせる重要な部分だと思うのだが、康有為はこの附近は錯簡が多いとして重視せず、僭上について触れているだけである。

 

 次に注目した箇所は、「礼運」が「礼の初めは飲食より始まる」として、文明の始まるころの人間の生活について述べたところである。鳥獣の肉を猟し草木の実を採るという採集生活や、もろもろの祭祀についてなのだが、康有為はこれに注をつける。どこから仕入れた知識か、世界各地の諸民族の習俗を紹介してから、康はいう。太古、石器時代より前、まだ器の製造が行われぬ頃から、既に礼はあった。今日のいわゆる未開社会にも礼はあると。つまり、中国の聖人が定めたものだけが礼ではないと、康有為はいっている。

清代、異民族たる満洲人を蛮夷とせぬために、華夷の区別は人種によるのではなく、礼の有無、すなわち中国文化に染まっているか否かだという議論があった。康のいうように、中国以外の各民族にもそれぞれその民族なりの礼があるということになると、華夷の弁はどういうことになるのか。華夷の弁はやはり人種の違いなのか、そもそも華夷の弁というものはないのか。気になるところである。

 康有為は別の幾つもの箇所でも、世界のいろいろな民族、文化に触れている。例えば、「インドのヴェーダ経やユダヤの旧約聖書を読むと、治国は神を祭る礼の中にある。おそらく旧俗はどこも同じだろう」と。つまり、礼を中国固有で唯一絶対のものとはせず、各民族にそれぞれあるものであると、相対化している。この認識が、後で重要になってくる。

 

 さて「礼運」はいう。聖人が天下を一家にし、国中を一人にしたと。

これに注して康有為はいう。太古には国が非常にたくさんに分かれていたが、禹、湯王、文王、武王、周公らの聖人が天下を統一して一つの家のようにした。「家」というのはもちろん核家族ではなく、「子弟臣妾」を含むもの、つまり使用人をも含めた大家族である。そして中国を一人の人、心腹手足のある一人の人間のようにした。つまり構成員が一様ではなく、支配者と被支配者、さらにそれぞれの役割分担があるものとして捉えている。これはまるで、社会有機体説のようである。

 

 続いて「礼運」は説く。聖人がそうしたのは意図的なものではなく、人々が生来持っている本性を考慮して、それに沿って行ったのである。人はみな喜、怒、哀、懼(おそれ)、愛、悪(憎しみ)、欲の七つの情をもって生まれている。また、お互いに信頼し合い仲よくするのは万人の利益であり、争ったり奪ったり殺したりというのは万人の災いである。だから聖人は、七つの情がほどよく表現され、人々が信頼し合い尊重しあって和睦して暮らせるようにと心を砕くのだが、このとき礼をその手段として治めるのである。

 これに対する康有為の注は重要である。なるほど人は、喜怒哀楽愛悪欲の七情を天より受けて生まれている。これは生来のものだから、物に感じてこれらの情を発するのをとめることはできない。しかし、一人で生きているのならそれでもよいが、そうではないから、一人が自由に任せれば、必ず人々の権限を侵犯することになる。だから節度を設けなければならないのである。つまり礼は人々が設けるもの。お互いがお互いを侵さぬように、行動に節度という枠を設けるものだと康はいう。先述の分業論と同じく、これも社会契約といえよう。

 康有為はさらに、人にはその名分や地位(父子、兄弟、夫婦、長幼、君臣など)によってそれぞれ適切な位置があるといい、それぞれが適切な位置で仕事をするのが人道の義であるという。それを一人、一家、一国から施せば、国と国、人と人の交わりも平等になり、『大学』にいう給驍フ道(自分の心を物指しにして人の気持ちを推し量って思いやること)も、至公(きわめて公平なこと)も可能となる。それらすべて、つまり七情を治めるのも家や国を治めるのも、礼によって行えばうまくいく。聖人は人情のしくみや本質を解明し、それに沿って礼を定めた。大同の世には礼など必要なかったのだが、世が乱れてしまったので、やむを得ず行った苦心である。しかしそれは人情に沿ったものなので、人々が無理なく守ることのできるものになっている。そう康は説く。

 

康有為は別の箇所でもいう。人の身体のうち、一身を管理するのは心である。人も物も天の産物だが、智慧文理があるのは人だけである。智慧文理があるから、人はよく物事を感じることができ、それによって進化してきた。そして、礼によってこれを節制することで、文明が開けたのである。この礼は人情に因って定められたものであるから、「道は人に遠くない」(『中庸』)のであると。

 

 また、「礼運」によれば、古の王は宗廟にも朝廷にも学校にも王宮にも専門の官人をおき、王は真ん中にいて何の心配もなく至正を守っていたという。

これに対する康有為の注は重要である。王は賢人を選んで重用して補佐させ、王自身はただ中央にいて正を守り何もしないでいれば、それで治まっている(王者但居中守正無為而治也)。立憲したら一切はみな百官が礼に基づいて行い、王は北極星のように座っていればよいのだと。王を北極星に譬えるのは『論語』「為政篇」に基づくものだが、『論語』のこの条の解釈は難しいので、ここでは措いておく。問題は、康有為の目指した立憲君主制の性格である。この条を見ると、王は政務を官僚に任せて、自身は礼そのものとして徳を輝かせていればよいことになる。そしてそれこそが、儒教本来の徳治主義のありかたである。康の立憲君主制は、そういうものだったのだろうか。

 

 また、「礼運」は、義に適った礼儀であれば、聖人が制定したものではない新しいものであっても、正式の礼として採用すべきであるとする。

これに対して康有為は、礼は時代や土地によるものであって永続するものではないとして、所変われば礼変わる、ということを世界各地の異文化の例を挙げて示す。さらに、火力から電力へ、人力から機械へと、時代による変化も例示して、変通=変化に自在に適応すること(『易経』)は義に適っているという。こだわる者は守旧で、自分こそは礼に適っていると称するが、実際は進化を阻塞する者で、聖人の義に悖る者である。礼は固定したものではなく、時に随うものなので、守に泥んではいけない。そう康有為は説く。これは、変法を正当化するもの、変法の裏づけとなるものであり、重視すべきものだといえる。

 

 

 

   二、「礼運注」から読みとれること

 

以上、「礼運」ならびに「礼運注」から、気になる箇所をかいつまんで紹介してみた。

 中でも特に気になった点は三つある。

 

 一つは、礼は古代における社会契約ではないかということ。お互いがお互いを侵さぬために、礼という形で行動に枠を設ける。それによって社会の平和を実現する。私も分を守るから、あなたも守ってくださいということで、これは一つの約束、契約である。おもしろいことにプラトンも、お互いを侵さぬことと節制とを、口を酸っぱくして説いている。

 この「分を守る」という考え方は、後代に上位者に都合のよいように使われた経緯から、奴隷道徳として評判が悪い。しかし原始儒教においては、節を求められるのは上位者である。僭上を嫌いはするが、下が上を侵すことより、上が下を侵すことを、より戒める傾向があったと思う。上に立つ者が下の者を虐げずに慈しめば、下は自然に上になつく。父の慈を前提としての、子の孝なのである。

 

 二つめは、変化ということ。「礼運」とはつまり礼の転変のことだが、康有為がこの篇に着目したのは、まさにこのためだろう。礼はいにしえの聖人が定めたものではあるが、絶対的に固定されたものではない。時や場所が変われば、それに応じて変えるべきものである。状況が変わったのに、旧い礼、旧い制度ややり方に固執するのは、頑固な守旧派で、むしろ礼を知らない者である。この考え方が、改革運動をする上で大きな力になったのは間違いない。

 

 最後にもう一つ。最も気になった点は、君権のあり方である。

 康有為が指導した戊戌の変法運動は、日本の明治維新を範にとり、光緒帝を明治天皇にしようとしたものだといわれる。そこから想像されるのは、大権をもって人々を強力に統治する、「英邁な」大王の姿だろう。

 

 しかし、『礼記』や「礼運注」に見られる王の姿は、それとはだいぶ異なっているように思える。すなわち、王は中央にあって人々の規範として徳を輝かせている存在で、具体的な細かい仕事は周りに仕える官僚たちが行う。王に望まれるのは、賢者能者を登用して重用し、彼らのいうことをよく聴くことである。これが儒教のもつ徳治主義の示す、あるべき王の姿である。

 民の声、国人の声をよく聴くことのできる者こそがよい君主であるという考え方は、『春秋左氏伝』にも共通のものである。春秋期には、多くの国で国君の力が弱まり、貴族たちが実権を握っていった。国人の意向を無視して自ら政治を執ろうとした結果、国人たちの反乱にあって追放された国君の例は、枚挙に暇がない。覇者となった斉の桓公、晋の文公は、いずれも凡庸な人物だが、管仲ら賢臣の言を聴くことができたために、成功したのである。国君に求められるのは権をふるうことではない。公宮におとなしく座っているか、近隣の君と外交儀礼を行っていればよいのである。

 

 王がそういうものであるならば、それは明治大帝というよりは、英国の君臨すれども統治しない王のあり方に、より近いように思われる。そしてそれはまた、民国初期の国制をめぐる論争(大統領制か、議院内閣制か)の中で宋教仁が主張したこと、――総統は不都合があっても交代するのは困難だが、内閣なら簡単に組み替えられるので、総統は象徴的な存在とすべきである――ともつながってくる(宋は議会に実権をもたせ、総統袁世凱を「虚君」にしようとした)

 

 ただ、周代の君は民の声を聴きはするが、民が政を執るわけではない。形式上は為政者はあくまで君であり、国人を集めて意見を聴くことはあっても、国人が政を執るわけではない。民や国人の声を集めて考慮に入れるだけで、決定権は君にある。少なくとも形式上はそうなっている。

 つまり、宋教仁らが目指した近代民主主義の議会政治とは、根本的に異なる。

 さてそれでは、19世紀末の変法期に康有為が構想した議会は、どのようなものだったのだろうか。英国式の議決機関か、民の声を集めて皇帝に伝えるための諮問機関か。

 さらにいえば、変法派は皇帝をどういう存在にしようとしていたのだろうか。大権をもった絶対的な君主か。それとも憲法によって王権に制限を加えて、議会制民主主義の国家における一つの機関にするのか。興味深いところである。

  

 

 

 

  おわりに

 

 冒頭に記したように、康有為が「礼運注」を書いたのがいつなのか、はっきりしない。序文は1884年となっているが、亡命後に書かれたとしか考えられない箇所も散見する(アメリカの黄石園=イエローストーン?博物院の見聞など)。岩波書店版の解題では、1901〜02年に作成とある。

ただ、1884年というのは興味深い年である。この年、彼は初めて北京へ出て、光緒帝へ上奏文を出している。一介の布衣の身での上奏は、当然とりあげられるべくもなく、失意のまま帰郷した彼は、以後しばらく政治を離れ学究生活に入る。

この上奏文は、列強による瓜分の危機に臨んで変法を訴えるものではあるが、康が繰り返し強調するのは、下情に通じることである。古来、聖王は下位の者の意見を聴くことに心を砕いたと強調する。それは、布衣の身から上奏する言い訳だけではないだろう。

 

とはいえ、「礼運注」の全部が84年に書かれたとは考えられない。時期が特定できないので、ここでは実際の政治上の康有為の行動とは切り離して、この「礼運注」という文章の中での康の思想をまとめてみる。

 すると、概ね以下のようになる。

 世の中は進化するということ。その目的地は大同世界であるということ。礼は絶対不変のものではなく、状況に応じて変えていかねばならないということ。つまり、変法せねばならないということ。

 そして、理想の君とは、賢者能者を重用する無為の君であること。

 

 実際の変法運動において彼が光緒帝に期待したものは、これとは違うものだっただろう。意欲に満ちた二十八歳の光緒帝が、「虚君」になることを肯うはずはないし、康としてもそんな進言ができるとは思えない。政治家としての康有為は、儒者としての康とは別のところにいたと考えるべきだろう。

また、戊戌後に興隆した革命派との対立の中で、康自身が守旧派の立場に追いやられたことも事実であろう。

 しかしながら、彼の思想は当初から「革命派」を胚胎していたといっても、過言ではないと思われる。彼の思想の中には、「革命派」につながる芽が確かに見られる。

 

 なお、現実の康有為の動きについて、それが革命派とどうつながり、どう異なるのかは、今後の課題としたい。

 

 

 

 

『康南海先生遺著彙刊』(宏業書局、1976年)

『礼記』(明治書院、新釈漢文大系、1971年)

を使用した。

なお「礼運注」は、『原典中国近代思想史 第二冊 洋務運動と変法運動』(岩波書店、1977年)に抄訳がある。

 

 

(2006年12月15日)

 

附記) 一般に「実利論」と訳されるインドの帝王学(政治の教科書のようなもの)にも、伝統的に以下のような思想が見られるようだ。

 すなわち、理想の君主とは、賢者能者を見分けて重用し、彼らのもってくる献策の良し悪しを見極めて取捨の判断を下すことができる者。

 それさえできるなら、あとは狩猟だの世継ぎづくりだのに熱中していていいのかな、とすら思える。

 考えてみれば、実際に動くのは官僚・臣下たちなのだから、彼らが理想とする君主がそういうものであるのは、何の不思議もないか。

 

(2008年6月1日)

 

 

 

 

 

 

もどる